呂強

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呂 強(りょ きょう、生年不詳 - 184年)は、後漢の宦官。字は漢盛。本貫は河南尹成皋県。

生涯

若くして宦官として小黄門となり、2回転任して中常侍となった。霊帝のとき、宦官たちが封を受けると、呂強は都郷侯とされたが、呂強は懇(ねんご)ろに辞退して、断固として受けなかったので霊帝はこれを許した。そこで呂強は上疏して事を陳(なら)べ、

「臣(わたくし)が聞き及びますに、諸侯は上に二十八宿(しゅう)に象(かたど)り、下は王土を裂くと申します。高祖(劉邦)が重要な約束事として、功臣でなければ侯にしてはならぬと決めたのは、天の爵位を大事にして勧善懲悪を明らかにするためでした。謹んで聞くには、中常侍の曹節・王甫・張譲や侍中の許相は、いずれも列侯となったと申します。曹節たちは宦官で幸が薄く、品性と人格は卑しく、讒言と阿諛(あゆ)により主君に媚び、佞邪(ねいじゃ)の心で寵愛を求め、害毒を人に放ち、忠良な人物に嫉妬し、(秦を傾けた)趙高の(ような)禍いがありましたが、まだ車裂の罪を受けずに[1]、朝廷の明敏さを覆い隠し、私党を形成しています。しかし陛下はこれを悟らず、妄(みだ)りに封地を授け、国を聞き家を継ぐのに、小人を用いています[2]。また合わせて(恩寵が)家人にまで及び、金印や紫綬をいくつも重ね[3]、相次いで藩屏(はんぺい)となりました。国の重恩を受けながら、(『詩経』大雅 文王に)爾(なんじ)の祖先を思わずにいられようか、その徳を述べ顕せとあるのに[4]、邪悪な一味と結託し、諂(へつら)う者どもに慣れ親しんでいます。陛下はその小才に惑わされ[5]、格別の恩沢を蒙(こうむ)らせました。授けた位は(実際の能力と比べて)乖離(かいり)し、(一方で)賢才は昇進できず、俸禄泥棒が恩倖(おんこう)に与(あずか)り、栄誉ある抜擢を受けています。陰陽(の気)は離れ、作物は実らず[6]、人々が安らかでないのは、すべてこれによります。臣(わたくし)が封爵はすでに行われ、これを言上しても及ばないと知りつつも、死を冒して(天子のご意向に)逆らい、詰まらぬ忠を開陳する理由は、誠に陛下の誤りを抑え改め、これにより止めることを願えばこそなのです。」

「臣(わたくし)がまた聞き及びますに、後宮の数千余人の綵女(さいじょ)は、衣食の費用が日ごとに数百金も掛かると申します。近ごろは穀物の値が安いとはいえ、家ごとに飢えている様子が窺えます。法を考えてますと、当然(値は)高くあるべきですが、いま益々安くなっているのは、徴発が頻繁に行われ、(米を安く売ってでも調達して)県の役人に供出したためです[7]。このため、寒さで凍えようとも服を着られず、飢えたとしても食べられません。民草にはこうした苦しみがあるのに、これを憐れまず、宮女には無用な(者がいる)のに、後宮に満ちています。天下は、農業と養蚕に力を尽くしているのに、それでも(後宮を支える分を)供出することが叶いません。むかし楚の女が(寵愛を失ったことで)悲しみ愁(うれ)い、西宮で火災を引き起こしました[8]。ましてや年中(綵女を)囲っているのですから、憂愁の怨みを懐(いだ)かずにいられましょうか。そもそも天は多くの民草を生じ、君主を立てて治めさせます。君主としての道を得れば、民草は父母のようにこれを戴き、日月のようにこれを仰ぎ[9]、時に租税の徴収があっても、なお仁愛の恵みを望むものです。『周易』兌卦の彖伝(だかのたんでん)に、悦んで民草(に先立つこと)を(心がけて)使役すれば、民草は苦労を忘れ、悦んで艱難(かんなん)に当たれば、民は死を忘れるとあります[10]。皇太子は、ぜひともこの言葉を諳(そら)んじるべきです。そして南面して政務を執る際には、ぜひともこの事を履行してください[11]。」

「また詔書を承ったところ、(霊帝の出身である)河間王の故国で解瀆亭(かいとくてい)の館を起てよとありました[12]。陛下は龍が飛翔するように機会を得て、(解瀆亭侯という)藩国(の身)より(天子に)即位しましたが、九天という高所にあっては、(かつての侯国を)思慕する心をいつまでも持ってはなりません[13]。しかも、河間国は遠く離れ、解瀆亭は遥かに隔たっており、民草を苦しめ力を尽くさせるのは、何の便益もありません。また今は外戚の四姓(の樊氏・郭氏・陰氏・馬氏)や、高位高官にある寵臣の家、および中央の公卿で功績のない者が、挙(こぞ)って館を建てており、その数は一万以上に上ります。楼閣は隣接し、朱や青や白堊(はくあ)[14]、あるいは雕刻(ちょうこく)の飾りなどを用い、(それらは)言い尽くせません。喪葬は制度を超え、豪奢で派手な様子は礼に過剰で、競って真似をし合い、(礼の規範に)悖(もと)っていると矯正する者はいません[15]。『春秋穀梁伝』(荘公三十一年)に、財産が尽きれば怨み、力が尽きれば恨むとあります。また『巳子(しし)』に[16]、君主は杅(う)という器のように、民草は水のように。杅が四角であれば水は四角となり、杅が丸ければ水は丸くなるとあります[17]。上が下を教化することは、風が草を靡(なび)かせるようなものです。いま上には贅沢を捨て去る倹(つつま)しやかさがなく、下は欲望をほしいままにする弊害をもち、禽獣に民のうまいと思うものを食べさせ、土木(建築物)に民の絹布を着せるに至りました。むかし師曠は晉の平公に、梁や柱は繍(しゅう)を着るのに、民には粗末な衣服もありません。池に捨てられた酒はあるのに、人々には喉が渇いて死ぬ者がいます。厩舎(きゅうしゃ)の馬には餌としての穀物があるのに、民には飢餓に苦しむ様子が窺えます。近臣はあえて諌めず、遠臣は意見を述べられません、と諌めました[18]。こういうことなのです。」

「また聞き及びますに、先に議郎の蔡邕を金商門に召して下問に答えさせ、中常侍の曹節・王甫に詔書を用いて趣旨を諭させたと申します。蔡邕は、道義により国を迷わせることはせず、直言して思う存分に答え、高官にある者を批判し、宦官を非難しました。陛下は、その言葉を内密にせず明かしたため、邪悪な者たちは、大きな首を並べて、(蔡邕を讒言・中傷しようと)唇を潤して舌を拭い[19]、競って(蔡邕を)噛み砕こうと考え、匿名の投書をでっち上げました[20]。陛下は誹謗の文書を受け、蔡邕を刑罰に下し、家族は流刑に処せられ、老人と子供は流難しました。これは忠臣に背くものではないでしょうか。いま群臣は、みな蔡邕を戒めとし、上は不測の難を畏れ、下は剣客に害されることを懼(おそ)れています[21]。臣(わたくし)は、朝廷がもはや忠言を聞き入れないことを知っています。このため太尉の段熲は、世に冠たる武勇を持って辺境で功を重ね、童子のころから異民族(の平定)に務め[22]、白髪首の老人となるころに功績が成就し、(桓帝と霊帝の)二主に仕え[23]、勲功は独り擢(ぬき)んでて優れています。陛下はすでに序列をつけ、(段熲の)位は三公に昇りましたが、司隷校尉の陽球によって妄りに脅迫されたことで、やがて己の身は斃(たお)れ、妻子は遠くを流離(さすら)う羽目になりました。天下は歎(なげ)き悲しみ、功臣は失望しています。ぜひとも蔡邕を徴召して改めて任を授け、段熲の家族を戻してください。(そうすれば)忠貞の道は開き、人々の怨恨はやむでしょう」と進言した。

しかし、霊帝は呂強の忠心は知っていたが、用いられなかった。

このとき霊帝は、多くの私蔵を蓄え、天下の珍品を収集し、郡国が貢物を献上するたび、まず中署(ちゅうしょ)に移して、「導行費(どうこうひ)」と名づけた[24]。呂強はこれに上疏して、

「天下の財は、陰陽より生じ[25]、陛下に帰属しないものはありません。陛下に帰属するのに、なぜ公私を分ける必要がありましょう。それなのに今、中尚方(ちゅうしょうほう)に諸郡の宝物を納め、中御府に天下の絹を積み、西園に司農の財物を仕舞い込み、中厩(ちゅうきゅう)に太僕の馬を集め、(これらが)運ばれる府庫には、『導行費』(の名目)の財物があります。徴発が広く行われ民草は困窮し、費用が掛かるのに献上品は少なく、邪な官吏は利に走り、民草はその弊害を被っています。さらに佞臣が好んで私財を献上することで、阿諛する者や姑息な人々が、こうしたやり方で昇進しています。」

「旧典によれば、選挙は三公府に委任し、三公府が選挙を行う際には、属官たちを議論に参加させ、人物の行状を諮(はか)り、その器量や能力を測り[26]、試験をして任用し、功績を挙げることを義務として求めました。もし見るべき功績がなければ、後にこれを尚書に付託したのです。尚書は、その者を弾劾して、延尉に下すことを要請し、虚実を取り調べて、(相応の)誅罰を加えます。(ところが)今は、ただ尚書に任じるか、あるいは(三公や尚書を経ないで)勅命による任用がされています。このようですと、三公は選挙の責任を免れ、尚書も罪に問われません。責任と褒賞は帰するところがなく、誰が無駄な苦労をしようとするでしょうか。そもそも言葉が過ちを露わにしても(言葉自体に)咎はなく、明鏡が(顔の)疵を露わにしても(明鏡自体に)罪はありません。もし言葉で過ちを記すことを憎めば、何も学べません。明鏡が疵を顕すことを望まねば、何も照らしません[27]。どうか陛下が詳(つまび)らかに臣(わたくし)の言を思い、過ちを記して瑕疵(かし)を顕すことを罪としませんように。」 と諌めた。

しかし、その文書は奏上されたが、省察(しょうさつ)されなかった。

184年(中平元年)、黄巾の乱が起こると、霊帝はその対処について呂強に諮問した。呂強は左右にいる強欲な悪人を誅し、党人たち(党錮を受けた士人たち)を大赦し、州刺史や二千石(の太守)の能力の有無を考慮して選定するよう求めた。霊帝はこれを聞き入れて、まず党人に対する赦令を発した。こうして中常侍たちは、それぞれ退くことを求め、各々の宗族や子弟のうち州郡にある者を呼び戻した。しかし中常侍の趙忠や夏惲らが共に呂強を陥れ、
「(呂強は)党人と共に朝廷を議論し、(昌邑王劉賀を廃し宣帝を擁立した)霍光の列伝(『漢書』巻六十八 霍光伝)を読んでいました[28]。呂強の兄弟は、至る所で強欲で汚穢(おわい)です」と告発したため
霊帝は悦(よろこ)ばず、中黄門に命じて兵を率いて呂強を召し出そうとした。呂強は、霊帝の徴召を聞いて怒り
「吾(わたし)が死ねば乱が起こるであろう。丈夫は国家に忠義を尽くすものである。なぜ獄吏(の取り調べ)に答えねばならぬのか」と言った後に自殺した。
趙忠と夏惲はさらに
「呂強は徴召を受け、まだ何を問われるのかを知らぬうちに、外野の草中で自殺しました[29]。悪事があったことは明白です。」と誣告して
呂強の一族を逮捕し、その財産を没収した。

脚注

  1. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 趙高は、鹿を指さして馬といい、さらに胡亥を殺した。(原文の)轘裂(かんれつ)とは、車によって(四肢を)裂くことである。
  2. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 『周易』(師卦の上六)に、「国を開き家を継ぐには、小人を用いてはならない」とある。
  3. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 (金・紫は)金印と紫綬のことである。重・兼は、累積することをいう。
  4. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 『詩経』大雅(文王)に、「爾(なんじ)の祖先を思わずにいられようか、その徳を述べ顕せ」とある。(『詩経』原文の)聿(いつ)は、述べるという意味である。
  5. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 (原文の)瑣(さ)は、小さいという意味である。
  6. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 鄭玄は『周礼』(地官 委人)に注を付けて、「(原文の)蔬(そ)とは、実のある草のことである」と言っている。
  7. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 県の役人の徴発が多かったため、安く穀物を売って供出したのである。
  8. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 『春秋公羊伝』(僖公二十年)に、「西宮で火災があった。なぜこれを書くのか。災を記すのである。」という。何休の注に、「このとき魯の僖公(きこう)は斉の媵(よう 側室)を嫡妻とした。(そのため)楚の女は廃されて西宮におり、憐れみを掛けられなかった。(これが)悲愁と怨恨の生じた理由である」という。
  9. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 『春秋左氏伝』(襄公 伝十四年)に、師曠が晉の悼公(とうこう)に答えて、「君主が子のように民草を養い、天のように覆い、地のように包容します。民草はその君主を奉じ、父母のように愛し、日月のように仰ぎ、神霊のように敬い、雷霆(らいてい)のように畏れます。天が民草を生じて君主を立てたのは、民草を統治させ、本性を失わせぬためです」と言っている。
  10. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 『周易』兌卦の彖伝(だかのたんでん)の文辞である。
  11. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 (原文の当国について)『周易』(説卦伝)に、「聖人は南面し、明るい方向に向かって治める」とある。杜預は『春秋左氏伝』(襄公 伝二十七年)に注を付けて、「国に当たるとは、政務を執ることである」と言っている。
  12. ↑ "起てよ"は"建てよ"の誤字ではなくママ
  13. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 『楚辞』(天問)に、「(天は)丸い拵えで九重であるというが、誰が設計して作ったのであろうか」とある。(『楚辞』の原文の)円は、天のことをいう。
  14. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 郭璞(かくはく)は『山海経』(西山経(せいざんきょう)に注を附して、「惡(あく)は土に似て白色で、音は悪である」と言っている。
  15. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 矯(きょう)は、正すという意味である。(原文の)拂(ふつ)は、戻るという意味である。昔は扶弗の反である。
  16. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 巳子(しし)は、晉の人である。名は佼(こう)といい、秦の宰相の衛鞅(しょうえい 商鞅)の客であった。衛鞅が計略を謀る際、一度たりとも巳佼(しこう)と図らなかったことはなかった。商君が刑に処せられると、誅殺の巻き添えを食うことを恐れ、逃亡して蜀に入り、二十篇の書物を作った。十九篇は道徳仁義の規範を開陳し、一篇は九州の険阻な地理や水や泉の源を述べている。
  17. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 杅(う)とは、椀の類である。音は于である。字はまた「盂(う)」に作る。
  18. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 『説苑』(正諌篇)に見える、咎犯(きゅうはん)が晉の文公(平公)を諌めた文辞である。
  19. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 『詩経』(小雅 説南山)に、「四頭の牡馬(オスウマ)を車につけて乗れば、馬の首は壮健である」という。その毛伝および鄭箋(ていせん)に、「(原文の)項は、大きいという意味である。四牡とは人が乗るものだが、今は養ったことで首が大きくなり、役に立たない。(これは)大臣が勝手放題に振るまい、王が使いこなせないことを喩えている」とある。唇を潤して舌を拭うとは、讒言や中傷をしたがっていることをいう。
  20. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 (原文の)飛条(ひじょう)とは、飛書(ひしょ:悪口を記した匿名の投書の)のことである。
  21. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 蔡邕が朔方郡に徙(うつ)されたとき、陽球が刺客を送って蔡邕の刺殺を図ったことをいう。
  22. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 (原文の)髪を垂れるとは、童子のことをいう。
  23. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 (二主とは)桓帝・霊帝のことをいう。
  24. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 中署は、禁中の署である。導は、引くという意味である。外には貢物が別に置かれる場所があり、献上品を引きいれるのである。
  25. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 万物は陰陽を受けて生ずる。
  26. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 (原文の)咨は、謀るという意味である。
  27. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 『韓非子』(観行篇)に、「昔の人は、目が自分を見るのに不十分なことから、鏡を用いて顔を見た。智恵は自分を知るのに不十分なことから、道を基準に己を正した。鏡には疵を顕した罪などなく、道には過ちを明らかにした怨みなどない。目は鏡を失えば髮(びん)や眉を正せず、身は道を失えば迷いを知れない」とある。(原文の)玭(し)は、疵(し)と同じである。
  28. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 (霍光伝を読むとは)皇帝の廃立を謀ろうとしたことをいう。
  29. ↑ 渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 呂強伝の李賢注 (原文の)外草に自ら屛(おもむ)くとは、外野の草中で自殺したことをいう。

伝記資料

  • 『後漢書』巻78 列伝第68
  • 『渡邉義浩著 後漢書列伝[七]宦者列伝第六十八 468ページからの呂強伝』