易経

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易経
著者 文王・孔子(伝)
発行日 不明(周代後期?)
ジャンル

占い、宇宙論

占い、哲学
国 周
言語 上古中国語
形態 文学作品、占い
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『易経』(えききょう、旧字体: 易經、拼音: Yìjīng)は、中国の占筮書であり後に哲学書とされた書物である。[1]

儒教の経典である経書のひとつに数えられる。単に『易』、あるいは『周易』とも呼ぶ。陰爻(⚋)と陽爻(⚊)6つから構成される六十四卦の意味を論じる経(卦爻辞ともいう)、その解説である伝(十翼)から構成される。著者・成立年代ともにはっきりとはわからないが、最も古い部分、六十四卦の意味を論じる経は西周末期から春秋初期とされる。[2]伝統的には経の著者は文王と周公旦、伝の著者は孔子であると論じられる。また、より近年の研究においては、同書の経部にあたる周易が成立したのは周代後期、そこに十翼が加わり、現在伝世する体裁が確立したのは戦国時代から漢代までのことであろうと考えられている。

『易経』は漢代より主に経学の範疇で研究され、これを易学と呼ぶ。易学は象徴体系を重んじる象数易と、テキストの道義的価値を重んじる義理易に大別され、特に唐代以降は義理易が重んじられた。同書は日本や西洋といった中国国外の地域にも影響を与えた。同書は占術書としての受容されたが、これは経書としての受容とはやや距離を取る形でのものであった。近代以降は経典としての神聖性を否定し、実証的観点を重んじる立場からの研究も進み、戦後の考古学的史料の発見もこれを後押しした。

書名

『易経』はこの書籍を経典として尊んで呼ぶ名前であり、単に『易』、あるいは『周易』とも呼ぶ[3]。「易」という語は経文中にはあらわれず[注釈 1]、十翼の繋辞伝においてはじめて登場する。ほか、同語は『春秋左氏伝』にも用例がみえる[7]。

『周易』の名前は、この書籍が周代に成立したことにちなむものであるというのが通説である[8]。「易」という語の意味について、鄭玄は「易簡(簡単明瞭である)」「変易(移り変わる)」「不易(移り変わらない)」という3つの意味を含むと論じている[9]。これは広く普及している見解であるとともに、多くの場合はこのうち「変易」の意味を重んじる。同書は英語において The Book of Changes と訳されることが多いが、これも「易」を「変易」の意味に取る解釈に由来する[10]。

「易」の字源について、『説文解字』は蜥蜴の象形であると論じるほか、秘書(緯書)に由来するものとして、「日」「月」字を組み合わせたものであるとの説も紹介している。『周易参同契』によれば、「易」を構成する日月の両字は陰陽をあらわすものである。『説文解字注』をあらわした段玉裁は、「易」字は蜥蜴(トカゲ)の象形であるとして、日月説を退ける。この理解のもとでは、蜥蜴が自らの体色を変化させることから「変化」の意味を持つようになったと論じられる[11]。また、白鳥清のように、「易」の名称は蜥蜴をトーテムとする集団が存在したことに由来するのではないかと論じる向きもある[12]。

より最近の文字学においては、『説文解字』の蜥蜴説及び緯書の日月説はいずれも誤りであると考えられている。金文においては「易」字はほとんどの場合「たまう(賜・錫)」の意味で使われることが指摘されている。陳夢家・郭沫若らは徳器銘文[注釈 2]にみえる、「たまう」の意味で用いられる「益」に比定される字()をもとに、「益(益)」は器に水を注いだ様子を示す「あふれる(溢)」を本義とする字で、「易(金: )」はこれを簡略化した字であると論じた。厳一萍は「」様字の用例が3例しかないことから同字は仮借として用いられているにすぎないと論じ、甲骨文に「易日」の語があらわれることから「晴れ」を意味する「暘」が原義であり、「陽」と通じるものであるとした[13]。謝明文は、武丁期の甲骨文においてすでに「」のような形態がみられることを指摘し、これが盤から水を注ぐ様子を示す表意字であり、のちに「益」と分化したと論じた[14]。

構成と内容

『易経』は、六十四卦の意味(卦辞)とそのそれぞれの爻の意味(爻辞)を説く経に、それを解釈する伝を加えた構成である[15]。

爻と卦

八卦の生成

易の最小単位は、陰爻(⚋)と陽爻(⚊)の2種類からなる爻である[16]。易においては、陰爻と陽爻を3本組み合わせて八卦をつくり、さらにそれを2つ組み合わせて六十四卦をつくる[16]。『易経』繋辞伝には「易に太極あり、これ両義を生ず。両義は四象を生じ、四象は八卦を生ず」とあり、朱熹の解釈に基づけば易は陰陽両義の太極を予想し、その分化によって卦をつくる[17]。『易経』説卦伝によれば、八卦は特定の事物(象)・性質(徳)に配当されているが、これらのひとつひとつについて、はっきりとした説明を提供することは困難である[18]。

『易経』序卦伝は同書における六十四卦の並び順(文王順(英語版))について象徴的見地から論じているが、これにはこじつけ的部分がある[19][20]。序卦伝そのものが後世の偽作とされ、易の原義とはなんの関係もないものである。[21]より一般的には、この順序は卦の上下を反転させた卦を一組とするものであり[19]、上下が対称のものについては、卦の陰陽を入れ替えたものが対となっていることが指摘される[22]。馬王堆帛書においては文王順は採用されておらず、六十四卦は上卦が何かにもとづいて整理されている。一方で、孫沛陽によれば、成立がそれ以前に遡る上海博物館蔵戦国楚竹書においては文王順が採用されている可能性が高い[23]。どの卦序が古式に近いかの問題を棚上げするとしても、文王順にはっきりとした意味が込められているかどうかは不明瞭である[24]。

各爻に振られる名称。屯(䷂)により例示

各爻は、爻の番号を示す「初、二、三、四、五、上」および陰爻を示す六、陽爻を示す九により示される[25]。『易経』彖伝・象伝によれば、卦爻の奇数番目は陽爻(剛)、偶数番目は陰爻(柔)であることが好ましく、特に中位の正、すなわち上卦・下卦の中央の爻が六二・九五となっているものが尊重される[26]。また、陽爻の下に陰爻がある(承)のは吉兆であり、その逆(乗)はよくないとされる[27]。八卦と六十四卦は以下のように整理される[28]。

☷
地
坤
☶
山
艮
☵
水
坎
☴
風
巽
☳
雷
震
☲
火
離
☱
沢
兌
☰
天
乾
上卦/下卦
䷊
地天
11. 泰
䷙
山天
26. 大畜
䷄
水天
5. 需
䷈
風天
9. 小畜
䷡
雷天
34. 大壮
䷍
火天
14. 大有
䷪
沢天
43. 夬
䷀
為天
1. 乾
☰
天
乾
䷒
地沢
19. 臨
䷨
山沢
41. 損
䷻
水沢
60. 節
䷼
風沢
61. 中孚
䷵
雷沢
54. 帰妹
䷥
火沢
38. 睽
䷹
為沢
58. 兌
䷉
天沢
10. 履
☱
沢
兌
䷣
地火
36. 明夷
䷕
山火
22. 賁
䷾
水火
63. 既済
䷤
風火
37. 家人
䷶
雷火
55. 豊
䷝
為火
30. 離
䷰
沢火
49. 革
䷌
天火
13. 同人
☲
火
離
䷗
地雷
24. 復
䷚
山雷
27. 頤
䷂
水雷
3. 屯
䷩
風雷
42. 益
䷲
為雷
51. 震
䷔
火雷
21. 噬嗑
䷐
沢雷
17. 随
䷘
天雷
25. 无妄
☳
雷
震
䷭
地風
46. 升
䷑
山風
18. 蠱
䷯
水風
48. 井
䷸
為風
57. 巽
䷟
雷風
32. 恒
䷱
火風
50. 鼎
䷛
沢風
28. 大過
䷫
天風
44. 姤
☴
風
巽
䷆
地水
7. 師
䷃
山水
4. 蒙
䷜
為水
29. 坎
䷺
風水
59. 渙
䷧
雷水
40. 解
䷿
火水
64. 未済
䷮
沢水
47. 困
䷅
天水
6. 訟
☵
水
坎
䷎
地山
15. 謙
䷳
為山
52. 艮
䷦
水山
39. 蹇
䷴
風山
53. 漸
䷽
雷山
62. 小過
䷷
火山
56. 旅
䷞
沢山
31. 咸
䷠
天山
33. 遯
☶
山
艮
䷁
為地
2. 坤
䷖
山地
23. 剥
䷇
水地
8. 比
䷓
風地
20. 観
䷏
雷地
16. 豫
䷢
火地
35. 晋
䷬
沢地
45. 萃
䷋
天地
12. 否
☷
地
坤

経

『易経』の中核となるのは、六十四卦の卦画およびその意味(卦辞)、それぞれの爻の意味(爻辞)について論じる経部である[15][29]。経部のみを指して『周易』と呼ぶこともあるが、これはかならずしも固定された用法ではない[8]。六十四卦は上下巻に分けられ、乾(䷀)から離(䷝)までを上経、咸(䷞)から未済(䷿)までを下経とする[30][31]。卦辞と爻辞のふたつが置かれる理由とその使い分けかたは不明である[32]。

一般に、爻辞は卦辞よりも難解とされている。それぞれの爻について論じられるが、乾(䷀)と坤(䷁)については追加の爻辞である用(乾の用九、坤の用六)がある[33][25]。通常卦名は爻辞と対応しているが、坤(䷁)、小畜(䷈)、大畜(䷙)、中孚(䷼)、既済(䷾)においてはそうではない。卦名は卦辞にもとづくものである可能性がある一方[34]、その逆であることも否定し得ない[35]。

伝

『易経』の伝は経部の解釈を助ける文書であり、彖伝2編・象伝2編・文言伝・繋辞伝2編・説卦伝・序卦伝・雑卦伝から構成される。のべ7種10編からなるため「十翼」とも呼称される[36]。

彖伝は卦辞について解釈する。象伝は大象と小象にわかれ、大象は卦について独自に解釈する。小象は爻辞を解釈する[37]。文章の体裁はよく類似しており、卦の象と徳、あるいは爻の剛柔(陰陽)にもとづいて解釈される[38]。文言伝は乾(䷀)と坤(䷁)に関するさらなる解釈であり[39]、彖伝・象伝と比べると儒教的色彩が強い[40]。彖伝・象伝・文言伝は経の文中に割り付けられることが多い。これがいつからの伝統であるかははっきりとはわからない。彖伝・象伝については漢の費直、後漢の鄭玄、魏の王弼(→#受容)の三説があり、また、文言伝は王弼からといわれている[41]。

繋辞伝においては易にもとづく占いの方法、成立の歴史、あるいは儒教的道徳に基づいた卦爻辞の解釈などが論じられる[40][39]。文言伝と繋辞伝においては「子曰」との表現が頻出し、これは孔子の著作に倣ったものと考えられる[42]。説卦伝においては易理と卦象、序卦伝においては経部における卦の並び順について論じられる[20]。雑卦伝においては文王順とは異なる順番で、六十四卦のそれぞれについて簡易な説明が行われる[43]。

成立と初期の受容

伝承

周の文王は、伝統的には易経の卦辞あるいは爻辞の作者とみなされてきた。

繫辞伝によれば、八卦は古代の帝王である伏羲が作ったとされる。一方、八卦を重ねて六十四卦にした人物については諸説があり、伏羲自身とする説、神農氏とする説、夏の禹とする説、周の文王とする説などが存在する。卦辞と爻辞の作者についても意見が分かれる。繫辞伝には卦爻辞が編まれたのは殷の末期、周の徳が高まったときのこととの記述があり、鄭玄らはこれをもとに卦辞・爻辞ともに周の文王の作とするものとした。一方、明夷(䷣)六五の爻辞に「箕子之明夷」と、文王死後の出来事について記されていることなどを根拠として、後漢の馬融や陸績は卦辞を文王、爻辞を周公旦の作と論じた[44]。

『史記』に「孔子晩而喜易、序彖繫象説卦文言」とあり、漢代・唐代には十翼は一貫して孔子の著作と扱われた[17]。しかし、宋の欧陽脩はさまざまな相互矛盾する論が入り乱れる十翼が孔子ひとりによって編纂されたものであるとの説には問題があると、これを疑った[45]。とはいえ、欧陽脩自身は彖伝・象伝については孔子の作と考えて問題ないとするほか、清代の考証学者には十翼を孔子の作と考えることを問題視しない者も多かった。たとえば、毛奇齢は宋代の儒者が十翼を偽作と断ずることを批判している[46]。

経の成立

『易経』経部が文王や周公旦の作であるという伝承を無視しても、『易経』経部の成立年代はやはり周代であろうと考えられている。顧頡剛は卦爻辞の記述を伝世文献・出土文献と照合し[6]、同書が殷末周初の故事を集中して引用していることを指摘した[47]。屈萬里(中国語版)は卦爻辞の表現を周代金文や『詩経』と比較し、小過(䷽)卦辞における「祖」と「妣」のような、周代特有の表現があらわれることを論じた。彼は同書に引用される故事を背景に同書は武王の代に編まれたものであると断代したが、陳夢家は彼の引用する各種表現が殷代甲骨文にあらわれないことを指摘し、同書経部はより後世に編まれたものである可能性を指摘した[48]。

李鏡池は『易経』経部の韻律構造を『詩経』のそれと比較し、同書の押韻形式は彼が最古の形式とみなす周頌よりははっきりしており、また、国風よりははっきりしていないとまとめ、周代後期をその成立時期とした[48]。エドワード・ショーネシー(英語版)は李鏡池の分析を汲み、押韻形式が素朴なものにとどまることにふれつつ、同書の定型表現に周代後期の金文にあらわれる表現と一致するものがあること、大有(䷍)の爻辞にあわられる「天子」の語が金文において穆王の代以前にみられないものであることを論じた[49]。

テキスト上の記録のほか、この時代の易に関連するとされるものとして数字卦がある。これは殷周代の甲骨文などにみえる、数字とみなされる記号列であり、張政烺(英語版)以来、その偶奇が易卦の陰陽と関連することが論じられている。多くの学者はいわゆる数字卦が易占と関連すること自体は認めるものの、それを卦画を表す記号ではなく数字とみなすべきなのか、あるいは数字であるとして陰陽で示される「卦」という単位で認識されるべきものであるかについては議論がある[50]。曹瑋は2001年出土の周代・長安西仁村陶拍に刻まれる数字卦において、既済(䷾)と未済(䷿)、師(䷆)から履(䷉)までの卦に比定されるものが文王順に並んでいると論じる。一方、李学勤はこれに否定的である[51]。董珊は2014年、杭州・晝錦堂所蔵の銅戈が周代の遺物であると論じたうえで、ここに『易経』における鼎(䷱)に比定される数字卦および、伝世する卦辞に近しいテキストを認めている[52][53]。

上海博物館蔵戦国楚竹書『周易』

1994年に入手された[51]、戦国時代中期のものとみなされる竹簡群である上海博物館蔵戦国楚竹書には『周易』が含まれる。これは卦順をふくめ、伝世する『易経』経部のテキストとよく一致しており、遅くとも戦国前期の段階で伝世本と大差ない形式が成立していたことがわかる[54]。また、この時代に存在した易は周易の系譜に連なるものだけではなかった。『周礼』には周易に加え、異なる易である連山・帰蔵に関しての記録がある(三易)。これらの名を銘する文献は後世にも現れていたが真書である可能性も乏しく、実在は疑問視されていた[55]。しかし、1993年出土の王家台秦簡は後世の『帰蔵』佚文とよく一致しており、従来の定説を一変させた[56]。ほかに、2008年に入手された清華簡『筮法』においては三爻・八卦の数字卦にもとづく占法が記されている[57]。

『春秋左氏伝』および『国語』には春秋時代のものとされる易による占いの記録が残されている。本田済のまとめるところによれば、これらの占筮がすべて的中していることは、後世の改変を想起させるものである一方、文体や筮法は漢代の影響を感じさせるものではない。また、地域に依らず同様の文体を維持しているため、まとめて挿入された可能性がある[58]。

経典化と伝の成立

孔子が易を読んだことを示す確固たる記録はない。20世紀の中国学ではほとんどが否定的で、肯定説は高田真治一人である。『論語』に易に関するとされる記述は2点ある。ひとつは述而篇の「五十以学易可以無大過矣(五十以て易を学べば、以て大過無かる可し)」という記述である。もうひとつは子路篇にみえる「不恒其徳、或承之羞」という表現であり、これは恒(䷟)の九三の爻辞と一致する[59]。前者について、銭玄同は唐の陸徳明が表す『経典釈文』を確認するかぎり魯国の論語では「易」は「亦」であり、「五十以学易可以無大過矣(五十以て学べば、また以て大過なかるべし)」が正しいと論じている[60][61]。宮崎市定はこの銭説を是認したうえで発展させ、「易は孔子の頃まだなかったことは事実と思われるが、この文そのものが易を権威づけするための後世の竄入ではないか」とも論じている。[62]ただこの銭の説には高田真治による反対意見があり、「孔子は始終学んでいた人なのに、敢えて『五十以て学べば、また以て大過なかるべし』と主張する意味が不明」としているが、宮崎の主張のように銭説を覆すまでには至らなかった。後者についても易について論じたものとは明言されておらず、単に共通の定型文を用いただけともいえる。そもそも先秦の伝世文献で易が引かれる例は少なく、ほかには『荘子』天下篇、『荀子』大略篇が知られるのみである[63]。

前漢草創期の書写と考えられる馬王堆帛書には、各種の易伝(繋辞・二三子問・要・易之義)が付随している。これらは伝世する『易経』伝とは内容が大きく異なり、わずかに繋辞伝のみが共通する。馬王堆帛書易伝はいずれも孔子が易の経文を解説するもので、儒家による『易』の経典化は少なくとも戦国時代には行われていたものということができる[54]。また、上博楚簡『周易』について、ともに出土した文献はいずれも思想書であり、そのほとんどは儒家のものである。浅野裕一は同書についても、儒教に関連するものであるとみなす[64]。『史記』には「孔子晩而喜易、序彖繫象説卦文言」とある。また、『隋書』経籍志に、説卦伝は宣帝の代にはじめてあらわれたとある[17]。

易学

『易経』を解釈する学問を易学と呼ぶ。三浦國雄の論ずるところによれば、同書の曖昧さを含む内容はいかなる解釈も包容しうるものであり、それゆえに同書はほかの経書と比較しても注釈の量が多く、またそれぞれの時代の潮流や論者の思想を大いに反映するものとなった[65]。

漢易の成立

十翼が現在知られるような体裁で揃い、一学問としての易学がはっきりと勃興するのは前漢代のことである。7代・武帝の治世にて儒教は国教となり、これにより易学をふくむ儒典の解釈学も明確なかたちをとりはじめた[66]。漢代の易学を特に漢易と称する[65]。漢に『易経』をもたらしたのは田何(中国語版)である。『史記』仲尼列伝によれば、同書は孔子から商瞿、馯臂子弓(中国語版)、矯子庸疵、周子家豎、光子乗羽、田何と伝わった。また、『漢書』儒林伝は商瞿から矯子庸疵、馯臂子弓、周醜子家、孫虞子乗、田何の順で伝授されたとする[注釈 3][68]。

10代・宣帝の代には、施氏易・梁氏易・孟氏易について学官が設置されている。これらの学派を創始した施讎(中国語版)・孟喜(中国語版)・梁丘賀はいずれも田何の孫弟子にあたる田王孫(中国語版)から易を学んだ。このうち、施氏易・梁氏易については西晋代の永嘉の乱を経て断絶しており、詳細は不明である。また、文帝の代に博士となった韓嬰(中国語版)が創始した韓氏易なる学統も存在したようであるが、これもやはり詳細はわからない[68]。

孟喜の易については若干の逸文が残っている。『漢書』儒林伝によれば、孟喜は田王孫からひとり秘伝の「易家候陰陽災変書」を伝授されたと主張したが、これは同時代から梁丘賀により虚言であると非難されている[69]。それ以前の易学は同書が論じるように「訓詁して大義を挙ぐるのみ」であった[69]。『韓詩外伝』や『漢書』芸文志淮南道訓二篇、あるいは馬王堆漢墓易伝などを見ると、伝統的な『易経』受容は占術書というよりも君子の教訓書の側面を重視したものであったようであるが[68]、孟喜は六十四卦とその384爻を暦と紐づけ、災異を占う卦気説を創始した。経書をもとに災異を占う潮流は、董仲舒をはじめとして前漢中期に広く見られるものである[70]。焦延寿(中国語版)を介して孟氏易を学んだ京房は11代・元帝に重用され、この時代に京氏易の学官も立てられた[71]。

古文学の登場と緯書の台頭

鄭玄は今文学派的な象徴体系を利用しながら、古文学派的な訓詁を志した。

孟喜・京房の影響もあり、前漢中期から後期において易学は万物を説明する根幹の理論とみなされるようになった。12代・成帝の命により、劉向・劉歆親子は宮中の図書を『七略』にまとめたが、このうち儒教経典を収録する六芸略においては六経の筆頭に『易経』が置かれた[72]。さらに、この時代には緯書が登場する。『後漢書』によれば緯書は13代哀帝・14代平帝の時代に流行し、経書の神秘的解釈や予言(讖緯)を含んだ[73]。『易経』の緯書である『易緯』には京氏易にもとづく知見が多く含まれており、両者は密接な関係にあったものと思われる[72]。

緯書の台頭の背景には、今文学派と古文学派の対立もあった。漢代には始皇帝の焚書坑儒以前に書かれた儒典(古文)が多く再発見された。これらは当時伝わっていたテキスト(今文)との差異も少なからずあり、前漢中期頃より古文を重んじる学者が登場した[74]。易については今文と古文で大きな差異はなかったものの、費直(中国語版)が古文にもとづいて易を研究した[75]。前漢を打倒し新を設立した王莽が古文学を重んじたことが緯書の成立につながったと考えられており、その予言に革命蜂起を助けられた後漢の光武帝も緯書を擁護した[76]。こうした背景のもと、後漢においては京氏易が群を抜いて流行したが、一方で費直に端を発し、古文学に属する費氏易の伝統も続いた。後漢代中葉には官学であった今文学は停滞を見せ、党錮の禁を経て衰退していった[77]。

鄭玄は費氏易によりながらも、今文学派のような天文学に基づく体系を取り入れ、各種の象徴体系を駆使しながら『易経』から体系性を見出そうとした[78]。その後、荀爽や呉の虞翻なども卦爻にさまざまな操作を施し、卦と経文の関係を合理化しようとした[65]。虞翻は鄭玄・荀爽などの理論を継承しながら[79]、きわめて多くの技法を用いて訓詁を試みたものの、各種多様な手法が乱雑に適用されたため、こじつけの面も強く出てしまうものとなった[71]。

義理易の登場と発展

王弼は象数易のようなテキスト操作を否定し、義理易を提唱した。

魏の王弼は鄭玄のような訓詁的手法に疑問を呈し[80]、『易経』外部の象徴体系に頼ることなく、十翼をもとにテキスト全体の意味を読み取ろうとする義理易を提唱した[81]。義理易に対して、それ以前の漢代の易学を象数易と呼ぶ[65]。魏においては義理易が流行した一方、それ以外の地域においては虞翻に代表される象数易の伝統も色濃く残り、こうした地域差を乗り越え義理易が全国的に広がるのは西晋末期の戦乱により北方の知識人が江南に移り住んで以降である[82]。南北朝時代には、南朝地域の易学ではおおむね王弼の易解釈が老荘思想や仏教思想とともに取り入れられ、北朝地域の易学では鄭玄の易解釈が盛んであった。北朝末期には侯景の乱などを背景に南朝の学者が北朝に逃げ込み、南北の易学の融合が進んだ[83]。

隋による南北統一ののちは南朝の学統が支配的となり、王弼の易学が重視された。唐代の『五経正義』編纂に至って孔穎達は王弼の易解釈を中心に注釈をつけ、それ以後の中国においては王弼の義理易が支配的となった。これにより象数易は急速に衰微し、漢代象数易についてわかる文献のうち伝世しているものは、唐の李鼎祚が編纂した『周易集解』に収録されているものに限られる[84]。

宋代以降の易学

朱熹の『易経』解釈は、元代・明代においても強い影響力を保った。

その後、宋代においても易学は王弼の注釈にもとづく義理易を中心に発展していった[85]。宋代には多くの『易経』注釈が執筆され、これらは原義に忠実であるよりも、学者自身の哲学が反映されるものであった[78]。この時代に編まれた易注としては程頤の『易程伝』が代表的なものとして挙げられ、義理易をベースとして、彼自身の哲学にもとづいて同書が解釈されている[65]。王弼の易学が老荘思想の影響が強いものであったのに対して、程頤は儒教的道徳観にならって義理易を再編した[86]。一方で、この時代には邵雍によって象数易の復権も企図された。南宋の朱熹は、『易経』は卜筮の書にほかならないと論じ、『周易本義』において象数・義理以前の易のありかたに立ち返ろうとした[65]。

元・明代には易学を含む経学にはあまり発展はないとされ[87]、易学については基本的には程頤・朱熹の解釈が踏襲された[88]。この時代の易学は後世においてはあまり評価されていないものの、明の来知徳が易注で知られている[65][87]。清代には考証学が興り、胡渭・恵棟・焦循といった学者が漢易の復興を企図した[65]。とはいえ、本田済の評するように、これは漢代の易説の復興以上のものを企図したものではなく、これに対する批判的姿勢がみられるものでもなかった[89]。

近現代における易研究

経書を研究する学問であるところの経学は前近代の中国において支配的学問であったが、清末になると科挙の廃止により儒教と国家の距離が離れた。中華民国の成立後に行われた教育制度の改革を通して、経学は文科の一科目におさまることとなった[90]。曹元弼(中国語版)のような一部の学者は清代以来の伝統的な経学を継承したが、その影響力は限定的なものであった[91]。1920年代には顧頡剛ら疑古派(古史弁派)により、『易経』を聖典とする観点から距離を置く立場からの研究が進んだ。こうした潮流を継承する形で、高亨(中国語版)のような研究者はあくまで周代思想を研究する材料として『易経』を扱った[92]。

戦後には、1973年の馬王堆帛書出土をはじめとする考古学的発見があったものの、文化大革命の古典排撃の影響もあり、1978年の改革開放以前まで中華人民共和国における『易経』研究は台湾・香港などと比較して比較的低調であった。1980年代以降には中華人民共和国においても『易経』が学術的・社会的注目を集めた[93]。

中国国外への影響

日本

儒教は5世紀に日本に伝来し、中臣鎌足は旻から『易経』の講義を受けている。大化改新後、大学寮においては他の経書とともに『易経』の講義も行われ、ここでは鄭玄・王弼の注釈が用いられた。鄭玄・王弼にもとづく易学は平安期を通して行われたが、鎌倉期にはこれに加えて程頤・朱熹の易注も伝来し、禅僧はこれらをよく講究した。室町期には足利学校が国内における易学研究の中心となり、占筮に長けた出身者が多く諸国の大名に召し抱えられた。江戸期には藤原惺窩・林羅山といった儒者により易注が書かれたほか、新井白蛾、真勢中州などが易者として知られた[94]。近代には中国における疑古派同様、日本でも内藤湖南、武内義雄、津田左右吉などが実証主義的立場から『易経』を論じた[95]。

西洋

ゴットフリート・ライプニッツは二進法にもとづく記号体系として『易経』を評価した。

『易経』は数十回にわたり、西洋の各種言語に翻訳されている。西洋語への最初の完全な翻訳は、1730年代にフランスのイエズス会宣教師である、ジャン・バティスト・レジスらによって行われたラテン語訳で、1830年代にドイツで出版された[96][97]。19世紀にはトーマス・マクラッチー(Thomas McClatchie)とジェームズ・レッグによって英訳がなされたほか、同時期にはポール=ルイ=フェリックス・フィラストル(英語版)とシャルル・ド・アルレ(英語版)によりフランス語にも翻訳がなされた[98]。歴史的に、西洋語における最も影響力のある翻訳は、リヒャルト・ヴィルヘルム(英語版)による1923年のドイツ語訳であり、これは1950年にケイリー・ベインズ(英語版)によって英語に重訳された[99] 。

ゴットフリート・ライプニッツは、中国イエズス会(英語版)と書簡を交わしており、1703年に『易経』に関する初のヨーロッパ人による注釈書を著した。彼は、唯一神の介入なくして、陰(0)が陽(1)となることはあり得ないことから、それが二進法と有神論の普遍性を証明していると主張した[100]。これはゲオルク・ヘーゲルによって批判された。彼は、二進法と漢字は、西洋のアルファベットほどの明晰さで話し言葉を表現することはできない「空虚な形式」であると宣言した[101]。彼らは卦と漢字を外来のひとつの概念として混同しつつ、普遍性やコミュニケーションの本質といった西洋哲学的な問いについての議論を巻き起こした。20世紀には、ジャック・デリダはヘーゲルの主張をロゴス中心主義的であると指摘したが、中国語は哲学的な思想を表現できないというヘーゲルの前提は疑問なく受け入れた[102]。

心理学者カール・グスタフ・ユングは、『易経』の象徴が持つ普遍的な性質に関心を示し、ヴィルヘルム訳『易経』にもとづきながら元型とシンクロニシティの理論を論じた[103]。 ユングは、「最も偏見のある目から見ても、この書物が、自身の性格、態度、動機を注意深く考察するよう促す長い戒めであることは明らかである」と論じている[104]。

易経と占術

易者(1914年、日本)

『易経』は儒教の経書であるとともに占術書でもある[105]。繋辞伝には蓍50本を用いる占いの方法についてきわめて簡略的な記述があるが[106]、現在の占法は周代そのままのものではない[107]。易占の最も一般的な形式は、『春秋左氏伝』『国語』および繋辞伝、後世の『淮南子』や『論衡』に記述された方法を再構したものである[108]。その一般的手順は以下のとおりである[105][109]。

  1. 50本の蓍から1本を取り除く
  2. 49本の蓍を両手に分け、1本を抜き出して小指の指間にかける
  3. それぞれの手に握った蓍を4本ずつ、残るものが4以内になるまで数え、余った蓍を薬指の指間にかける(余らない場合は4本を残す)
  4. 残りの蓍を用いて2. から 3. の操作を再び繰り返し、余った蓍を中指の指間にかける
  5. 残りの蓍を用いて2. から 3. の操作を再び繰り返し、余った蓍を人差し指の指間にかける

中国においては易のほかにも風角(風の音律による占い)、鳥鳴(鳥の声による占い)、星算(星占い)などさまざまな雑占があり、漢代においては知識人もこれを併用した。天人相関説が盛んであった漢代には経学と占術は融合的なものであったが、後漢末期から魏晋代には両者は分離し、王弼のように同書の呪術的性質を積極的に無視する論者も現れた。その後、中国の知識人は楽しむ対象であるところの「芸」として易占を受容した[110]。朱熹は易の占術書としての性質を重んじたが、「而して見る所はなはだ卑しき者は、又これに泥んで通ぜず。故に易は読み難き書なりと曰う」と、見識のない者が易に拘泥することも批判している[111]。

金谷治はその後の中国の知識人が雑占を迷信と切り捨てつつも占術としての易を重んじた理由として、儒教の権威のほか、この占法がもつ数理的性質が「その本質としての神秘的呪術性を忘れさせ、あたかも合理的体系にもとづくものであるかのような錯覚を起こさせる」こともあるのではないかと論じている[112]。

易の伝本について

古くは三易(連山易・帰蔵易・周易)が存在したとされ、「連山」「帰蔵」を鄭玄はそれぞれ夏代・殷代の易と解している。「連山」「帰蔵」は後世に伝わっていない。ただし、王家台秦墓で発見された竹簡が「帰蔵」である可能性がある[113]。王家台秦簡の記事も参考のこと。周易は主な伝本が4つある。十三経注疏本・帛書本・上海簡本・阜陽本の4つである。

  • 最もよく使われるのは清の阮元が校訂した十三経注疏本である。これは後漢末以来の石経の系統を伝えるもので、唐代の開成石経を更に校訂したものである。現在日本の易経の訳本では、岩波文庫版と徳間文庫版が十三経注疏本に依っている。なお、この系統の異本『周易折中』本に依っているのが朝日新聞社『中国古典選』版である。
  • 馬王堆漢墓帛書本は、『六十四卦』と『易伝』六篇(繆和篇・衷篇・二三子問篇・昭力篇・要篇・繫辭篇)から成る。通行本と大きく異なる点として、六十四卦の順番と十翼の有無が挙げられる。馬王堆帛書の記事も参考のこと。これによった訳本は東方書店のものがあり、馬王堆漢墓帛書本や通行本だけでなく、上海博本・阜陽本など近年の他の出土資料の研究成果も踏まえた上で訳出されている。
  • 1994年、香港の骨董市で発見された竹簡本は炭素年代測定で戦国時代のものだと分かっており、現存最古のものであるが、経の本文が部分的にしか残っていない。後にこの竹簡は上海博物館が購入したために「上博楚簡」「上海簡」と呼ばれる。郭店一号墓から盗掘されたものらしい[114]。なお、上海博楚簡『周易』には六十四卦があるのみで、「易伝」はない[115]。
  • 阜陽漢簡『周易』。通行本には存在しない「卜辞」が付いている(元勇準『『周易』の儒教経典化研究 : 出土資料『周易』を中心に』)。

なお、清華簡の『別卦』も参考のこと。

脚注

注釈

  1. ↑ 「易」字自体は大壮の六大に「羊を易に喪う」、旅の上九にて「牛を易に喪う」とあらわれるが、これは「境界(境埸)」の意味と理解される[4][5]。顧頡剛はこれを、殷の祖先である王亥が有易(有扈)にて家も家族も失った故事にもとづくものと推測している[6]。
  2. ↑ 「徳器」は周代に「徳」なる人物がつくった青銅器のこと[13]。
  3. ↑ 鈴木由次郎の論じるように、漢代にこのような伝承があったこと自体は認められるとしても、このような系譜をまったく事実と考えることも難しい[67]。

出典

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  8. 1 2 藤田 2026, p. 5.
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  14. ↑ 谢明文「甲骨文旧释“益”之字新释——兼“易”字新探」『中国国家博物馆馆刊』第12号、中国国家博物馆、2019年、7-21頁。
  15. 1 2 「易経」『百科事典マイペディア』。コトバンクより2026年6月22日閲覧。
  16. 1 2 藤田 2026, p. 3.
  17. 1 2 3 高田 & 後藤 1969a, p. 22.
  18. ↑ 金谷 2003, pp. 33–34.
  19. 1 2 金谷 2003, p. 40.
  20. 1 2 宇野 & 平岡 1974, p. 21.
  21. ↑ 本田済『易』朝日新聞社中国古典選によれば、既に明代の王夫之が序卦伝が偽作と断定していた。
  22. ↑ Smith (2008), p. 37.
  23. ↑ Shaughnessy (2014), pp. 52–53.
  24. ↑ Rutt (1996), pp. 114–118.
  25. 1 2 金谷 2003, p. 51.
  26. ↑ 金谷 2003, pp. 60–61.
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参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク