法頂
法頂 | |
|---|---|
| 법정 | |
| 生誕 |
朴在喆(박재철) 1932年10月8日(94歳) |
| 死没 |
2010年3月11日(77歳没) |
| 住居 | 不日庵(松広寺)、江原道平昌郡の山中の草庵、吉祥寺 |
| 国籍 |
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| 出身校 | 木浦商業学校(卒業)、全南大学校商科大学(3年修了) |
| 職業 | 僧侶、随筆家、翻訳家 |
| 活動期間 | 1950年代半ば - 2010年 |
| 団体 | 曹渓宗、社団法人「澄んで香り高く」(맑고 향기롭게) |
| 代表作 | 『無所有』『山房閑談』『オドゥマク(草庵)の手紙』 |
| 影響を受けたもの | 効峰 |
| 肩書き | 吉祥寺会主(1997年 - 2003年) |
法頂(ほうちょう、朝鮮語: 법정、ポプチョン、英語: Beopjeong、1932年10月8日 - 2010年3月11日)は、韓国の仏教僧(曹渓宗)、随筆家、翻訳家。俗名は朴在喆(박재철)。1976年に刊行した随筆集『無所有』(무소유)で広く知られ、山中での簡素な暮らしと自然を題材にした随筆を数多く残した[1][2]。
生涯・経歴
生い立ちと出家
1932年、全羅南道海南に生まれ、木浦で育った。木浦商業学校を卒業し、全南大学校商科大学の3年課程を修了した後、真理の道を求めて出家を決意したとされる[1]。朝鮮戦争(1950-1953)を経験し、同族が争う悲劇で人間の存在について11深く悩んだという[4]。
禅僧の効峰(효봉、1888年 - 1966年)を師として出家した。出家の時期は、1954年とする資料と1955年とする資料がある[1][5][6]。1956年7月に沙弥戒を受け、1959年には通度寺で慈雲律師を戒師として比丘戒を受けた。同年、海印寺の専門講院で大教科を修了している[2]。
経典翻訳と執筆活動
1960年代には通度寺で雲虚とともに『仏教辞典』の編纂に参加し、1960年代末にはソウルの奉恩寺で東国訳経院の仏教経典の翻訳事業に携わった[7]。1972年に最初の著書『霊魂の母音』(영혼의 모음)を刊行した。その後、仏教新聞の論説委員・主筆や『シアレの声』(씨알의 소리)の編集委員を務め、民主守護国民協議会や維新撤廃を求める改憲署名運動にも関わったが、人民革命党再建委員会事件に衝撃を受けて松広寺の不日庵に戻ったと伝えられる[5]。
不日庵と『無所有』
1975年10月、松広寺の裏山に不日庵(불일암)を建てて一人で暮らし始めた[2]。不日庵時代の初期の1976年4月に随筆集『無所有』を刊行し、以後も仏教の教えを込めた随筆集を相次いで出して大きな反響を得た[6]。『無所有』は刊行から34年間で約180刷を重ねる代表的なベストセラーとなった[7]。この間、松広寺修練院長、普照思想研究院長なども務めた[2]。
山中の草庵と吉祥寺
訪れる人が増えたため、不日庵での生活17年目にあたる1992年に不日庵を離れ、江原道の山中にある火田民(焼畑農民)が住んでいた草庵で一人暮らしを始めた[4]。この草庵は平昌郡の山中にあり、薪を集め畑を耕す暮らしを送った[2][8]。
1993年10月10日にはフランス初の韓国寺院であるパリ吉祥寺が開院し[9]、1994年には市民運動「澄んで香り高く生きる運動」(맑고 향기롭게)を始めた[1]。その後、ソウル城北洞の高級料亭「大苑閣」(대원각)所有者の金英韓から寄進を受け、これを吉祥寺として1997年に開院した。法頂は寺の運営から一歩引いた立場として、住職ではなく「会主」の地位にとどまった[1][4]。1997年12月の開院法会には金寿煥枢機卿が訪れ、法頂は翌年に明洞聖堂で特別講演を行うなど、宗教間の対話にも積極的であった[7]。なお、境内の観音菩薩像の制作は、カトリック信者の彫刻家・崔鍾泰に依頼された[7]。
2003年12月、吉祥寺会主の座を自ら退いた[9]。
晩年と入寂
3 - 4年前から肺癌を患い、2009年4月19日の吉祥寺での法会を最後に公の場から遠ざかった。2008年11月には吉祥寺の会報に載せた随筆をまとめた『美しい締めくくり』(아름다운 마무리)を、2009年には法話集『一期一会』(일기일회)などを刊行した[6]。
遺言と著作の絶版
入寂後の2010年3月17日、遺言執行人が2010年2月24日付の2通の遺言状を公開した。そこには、残された財産は「澄んで香り高く」に譲ること、そして自身の名で出版したすべての書物をこれ以上出版しないでほしいことが記されていた[3][10]。出版社は法的な拘束力があるわけではなかったが、遺志を尊重して販売終了に合意し、2010年末をもって販売を終えることになった。当時の著書は30種で、すでに『無所有』を含む3種が絶版状態にあった[11]。遺言が伝わると読者が書店に殺到し、法頂の著書は一時的に入手困難になった[12]。
葬儀・追悼
法頂は、多くの人に負担をかける葬儀を行わず、棺や死装束も用意しないよう求めていたとされる[5]。2010年4月28日に四十九日の法要を終えた後、遺骨は自ら植えた日本木蓮の木の下に安置された[5]。
文筆活動
法頂は数十冊の随筆集を刊行し、飾り気がなく読みやすい、整った清澄な文章で知られた。出版するたびにベストセラーとなり、長く読まれ続けるステディセラー作家としても評価された[2]。その随筆は、山中での瞑想や思索が季節の感覚と結びついたものであり、世の不条理を突く鋭い現実感覚と、絶対的な真理の世界を示す超越的な洞察が二つの軸をなすと紹介されている[13]。
自然随筆
法頂の随筆には、暮らしの場である山中の自然が繰り返し登場する。ここでは、その背景と特徴を、生活の場、作品、題名、思想の順に整理する。
生活の場としての自然
法頂の自然随筆は、彼自身の暮らしの場と切り離せない。1975年から約17年間を過ごした不日庵の境内には、彼が自ら植えて育てた樹木が多く、泰山木(タイサンボク)、クッコリナム(굴거리나무)、青桐、サンシュユ、ヒノキ、ツゲなどが挙げられている[5]。1992年からは江原道の山中の火田民の草庵に移り、薪を調達し畑を耕しながら暮らした[2]。
この草庵は、渓流の水音、木々を渡る風の音、軒先の風鈴、鳥の鳴き声だけが静けさを破るような場所だったと報じられている[14]。『オドゥマクの手紙』(오두막 편지、1999年)は、こうした山中の暮らしの中から生まれた作品として知られる[2]。
『無所有』にみる自然の題材
代表作『無所有』には、蘭の栽培を例に所有の煩わしさを説いた文章や、雪の重みで大木が折れる様子を描いた「雪害木」(설해목)などが収められている。ある新聞コラムは、前者を、多く持つことが誇りである一方でそれだけ多くのものに縛られることでもあるという趣旨の文章として紹介している。後者については、強風雨に耐えた大木が、静かに積もる雪に折れてしまう光景を通じて、強さや所有についての見方を見直すきっかけになったと述べている[5]。このように法頂の随筆では、蘭や樹木、雪といった身近な自然が、仏教的な思索を伝える具体的な入口になっている。 1
題名にみる自然
著作の題名にも自然や山中の情景を想起させるものが多い。例えば、『山房閑談』(산방한담)、『水音風音』(물소리 바람소리)、『鳥たちが去った森は寂しい』(새들이 떠나간 숲은 적막하다)、『山には花が咲く』(산에는 꽃이 피네)がある[6]。なお『山には花が咲く』は、随筆集ではなく法話集に分類される。
「単純に」「自然に」生きること
『オドゥマクの手紙』には、「単純に生きること」と「自分の気持ちと意志のままに自然に生きること」が自らの望みであるという趣旨の一節がある[8]。簡素な暮らしと自然のあるがままに従う生き方は、法頂の随筆に一貫する姿勢として受け止められている。
自然への回帰
法頂は晩年、手作りの竹の平床や杖、小さな椅子など、草庵で使った簡素な品と自然に還ることを望んだ[14]。遺骨が自ら植えた樹木の下に安置されたことも、こうした自然観の延長として受け止められている[5]。
海外での翻訳
法頂の随筆は海外でも翻訳されている。台湾では『無所有』が2005年に天下雑誌から出版されており[15]、中国語(簡体字)訳の『活在时间之外』『山中花开』や、日本語訳『生きとし生けるものに幸あれ』(2007年)も紹介されている[16]。
主な著作・論文
随筆集・法話集
- 『霊魂の母音』(영혼의 모음)1972年[5]
- 『無所有』(무소유)1976年4月[6]
- 『立っている人々』(서 있는 사람들)[6]
- 『言葉と沈黙』(말과 침묵)[6]
- 『山房閑談』(산방한담)[6]
- 『水音風音』(물소리 바람소리)[6]
- 『空っぽの充満』(텅 빈 충만)[6]
- 『捨てて旅立つ』(버리고 떠나기)[6]
- 『インド紀行』(인도 기행)[6]
- 『鳥たちが去った森は寂しい』(새들이 떠나간 숲은 적막하다)[6]
- 『山には花が咲く』(산에는 꽃이 피네)[6]
- 『オドゥマクの手紙』(오두막 편지)1999年[2]
- 『美しい締めくくり』(아름다운 마무리)2008年11月[6]
- 『一期一会』(일기일회)2009年6月、文学の森[6]
- 『一人はすべてを、すべては一人を』(한 사람은 모두를, 모두는 한 사람을)2009年11月、文学の森[6]
翻訳書
日本語訳
- 『生きとし生けるものに幸あれ』2007年[16]
思想・考え方
法頂の思想の中心は「無所有」である。台湾版『無所有』の紹介文によれば、それは何も要らないではなく、必要でないものを所有したり占有したりしないことを意味する[15]。法頂は、幸福は必要なものをどれだけ持っているかではなく、「不必要なものからどれだけ自由であるか」と説いたと紹介する[13]。
また、彼が1994年に始めた「澄んで香り高く」の運動名には、「澄んで」は個人の清浄を意味し、「香り高い」はその清浄が周囲に響く意味が込められている[1]。個人の修行と社会への働きかけを結びつけるこの姿勢は、吉祥寺を拠点とする市民運動へと発展した。
さらに法頂は、他宗教との対話にも開かれていた。吉祥寺の観音像をカトリック信者の彫刻家に任せ、開院法会に金寿煥枢機卿を迎え、翌年には明洞聖堂で講演したことは、その姿勢を示す例として報じられている[7]。
一方で、彼は出家者としての本分を保ちつつ、時代の誤りには厳しく発言し、世の悩みを訴える人々を慰めたとされる[7]。
発言
法頂の思想の理解を助けるため、キーワードごとに分類した彼自身の説明等の発言を以下に引用する。
- 自由
- 「私はただ、どこにも縛られない自由な人になりたかったのです。」
- (原文:"난 그 어디에도 매이지 않는 자유인이 되고 싶은 마음뿐이었다.")[1]
- 簡素な暮らし
- 「私の願いは、シンプルに暮らすことです。心が感じるままに、意志のままに、自然に生きていきたいのです。」
- (原文:"내 소망은 단순하게 사는 일이다. 느낌과 의지대로 자연스럽게 살고 싶다.")[8]
- 言葉の責任
- 「私の名前で出した本は、どうかもう出版しないでください。」
- (原文:"내 이름으로 출판한 모든 출판물을 더 이상 출간하지 말아 달라")[3]
関連項目
脚注
- 1 2 3 4 5 6 7 8 “'무소유' 법정스님 입적” (朝鮮語). 머니투데이 (2010年3月11日). 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 “법정 인물소개” (朝鮮語). 教保文庫. 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 3 生前に「自分の名で出版した書物をこれ以上出版しないでほしい」と遺言したことでも注目された。“괴팍한 나로 인한 상처들 강물에 흘려주오” (朝鮮語). 서울신문 (2010年3月18日). 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 3 “'버리고 또 버렸던' 법정스님의 생애” (朝鮮語). 전북일보 (2010年3月11日). 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 “[이정웅의 노거수와 사람들 법정 스님과 송광사 불일암 일본목련]” (朝鮮語). 매일신문 (2013年2月28日). 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 “'무소유' 법정스님 입적” (朝鮮語). 전북일보 (2010年3月11日). 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 “‘버리고 또 버렸던’ 법정스님의 생애” (朝鮮語). 서울신문 (2010年3月11日). 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 3 “”법정스님 산골 오두막 찾지 말아주세요”” (朝鮮語). 경향신문 (2010年3月23日). 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 “‘무소유’ 법정스님 입적” (朝鮮語). 세계일보 (2010年3月11日). 2026年10月22日閲覧。
- ↑ “법정스님 유언 “출판물 더이상 출간말라”” (朝鮮語). 서울신문 (2010年3月17日). 2026年10月22日閲覧。
- ↑ “법정 스님 유언따라 오는 31일까지만 판매” (朝鮮語). 뉴데일리 (2010年12月7日). 2026年10月22日閲覧。
- ↑ “(記事題名未確認)법정스님 유언·저서 판매 관련 기사” (朝鮮語). 세계일보 (2010年3月14日). 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 “법정 저자 소개” (朝鮮語). リディブックス. 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 “(記事題名未確認)법정스님 산골 오두막 관련 기사” (朝鮮語). 세계일보 (2010年3月13日). 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 “無所有” (中国語). 国立台湾大学図書館 仏学数位図書館 (2005年11月25日). 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 “Translated Books” (朝鮮語). 韓国文学翻訳院. 2026年10月22日閲覧。
外部リンク