郭瓊
経歴
若くして勇気と力量で知られ、契丹に仕えて、蕃漢都指揮使となった。後唐の天成年間、一族を引き連れて帰順し、明宗により亳州団練使に任じられた。商州刺史に転じ、原州刺史となった。清泰元年(934年)、階州刺史に任じられたが、城塁が整備されず、後蜀の侵攻をしばしば受けたので、郭瓊は州城を険阻な地に移した。末帝李従珂の命を受けて文州を攻め、20あまりの砦を落とし、数百人を生け捕りにした[1]。
後晋の天福年間、郭瓊は警州刺史に転じたが、領内の羌や吐渾が騒動を起こしたため、朔方節度使の張希崇の推薦により部署となり、兵を率いてともにかれらを鎮圧した。連続して滑州・坊州・虢州・衛州を領知した。開運元年(944年)、北面騎軍排陣使となった。陽城の戦いで、戦功が多かった。郭瓊は沂州刺史に任じられ、荊口砦主をつとめ、東面行営都虞候を兼ねた。莫州刺史趙思を捕らえて献上し、懐州刺史に転じた。まもなく北面先鋒都監となった。契丹の太宗が華北を占領し、反乱が各地で起こると、山東が最も激しかったことから、郭瓊は太宗により再び沂州刺史に任じられ、反乱の鎮圧にあたった[2]。
後漢の乾祐年間、南唐軍が密州を攻撃してくると、郭瓊は行営都部署とされた。着任しないうちに、南唐軍は密州の包囲を解いて退却した。ときに平盧節度使の劉銖が功績をたのんで、病と称して参朝しなかった。大臣たちは劉銖を掣肘できなくなるのを恐れて、郭瓊と衛州刺史郭超に部下の兵を率いさせて青州に駐屯させた。劉銖は不安に駆られて、酒席を設けて郭瓊を召し出し、壮士を幕下に伏せて、郭瓊を殺害しようとした。郭瓊はその陰謀を知ると、従者をしりぞけ、従容として席につき、恐れる様子も見せなかったことから、劉銖はあえて伏兵に立ち上がらせなかった。郭瓊が利害を説くと、劉銖はその言に感銘を受けて、旅支度を整えた。まもなく勅命が到着すると、その日のうちに劉銖は開封へ出立した。郭瓊は潁州団練使に転じ、さらに防禦使を加えられた。朗州が荊南・南唐・南漢と結んで楚を攻撃すると、郭瓊は潁州の兵を率いて王令温と合流し、光州を攻撃した。ほどなく内乱が起こったため、光州攻略は果たせなかった。退任して開封に帰り、兵の防具とまぐさと糧食を調達するため河北に派遣された[3]。
広順3年(953年)、後周の太祖郭威が南郊で郊祀をおこなうと、郭瓊は召し出されて権知宗正卿事をつとめた[4]。世宗柴栄が北漢を征討すると、郭瓊は北面行営都監となり、絳州・蔡州・斉州防禦使を歴任した。斉州で飢饉が起こると、郭瓊は自分の俸給を割いて民衆の救済にあたった。斉州の官吏や民衆は郭瓊の善政になついて、開封の宮殿を訪れて徳政碑を建てたいと願い出て、許可された[3]。
北宋の建隆3年(962年)、郭瓊は老齢のため引退を願い出て、右領軍衛上将軍を加えられて致仕し、洛陽に帰った。乾徳2年(964年)、死去した。享年は72[3]。
家族
- 祖父:郭海(平州両冶使)
- 父:郭令奇(盧台軍使)[1]
脚注
伝記資料
- 『宋史』巻261 列伝第20
参考文献
- 『旧五代史』中華書局、1976年。ISBN 7-101-00321-4。
- 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。