駒菊

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駒菊(こまぎく、生年不詳 - 1942年末頃)は、大正末期から昭和初期にかけて活動した芸妓、舞踊家。大阪南地の茶屋「河合」を母体とする舞踊団「河合ダンス」の主要な踊り手として知られる。本名は刑部静子。西洋舞踊を取り入れた演目を披露し、1929年(昭和4年)にはフランスのパリを訪れた。1932年(昭和7年)に病気療養のため舞台を退いた。没後の1943年(昭和18年)には、故人が愛用した茶道具を用いて追慕の茶会が催された[1]。

生涯

河合ダンスでの活動

駒菊は、大阪南地の茶屋「河合」を母体として1921年(大正10年)に創設された河合ダンスに所属し、同団の中心的な舞踊家として活動した。河合ダンスは、芸妓を中心とする団員がバレエ、タップダンス、アクロバティックな舞踊、ジャズ演奏などを取り入れた舞台を上演した団体である[2]。

1925年(大正14年)1月、河合ダンスは名古屋の御園座で公演を行った。1月31日付『新愛知』の劇評は、駒菊が演じた『瀕死の白鳥』に言及し、ロシアのバレエダンサー、アンナ・パヴロワの舞踊と比較している。同年11月の末広座公演では、里三、千栄子らとともに『ルシアンダンス』を演じたことが『名古屋新聞』の劇評に記録されている[1]。

1928年(昭和3年)2月、御園座での公演では『アメリカで見た日本の踊』や『クレオパトラ』などの演目に出演した。当時の『新愛知』は、駒菊の舞踊について、その身体表現や舞台上の姿を評している[1]。

パリ渡航

1929年(昭和4年)5月、駒菊は河合幸七郎夫妻とともにフランスへ渡航した。パリでは歌舞公演を観覧し、現地の娯楽文化に触れた。同年7月26日に帰国したことが、河合ダンスに関する後年の研究で紹介されている[1]。

帰国後の1930年(昭和5年)2月、河合ダンスは東京の帝国劇場や名古屋の御園座で公演を行った。名古屋での公演では、駒菊のパリ滞在を題材とする宣伝が行われた。同年11月の御園座公演では、『スケルツオ・ワルツ』『白蟻』『スパニッシュ・ダンス』『プラステイク』などに出演した。『スパニッシュ・ダンス』では独舞を披露し、当時の新聞評はその舞踊表現を評価している[1]。

1931年(昭和6年)5月の御園座公演でも、駒菊は河合ダンスの主要な踊り手として紹介された[1]。

引退

1932年(昭和7年)2月、河合ダンスは名古屋の新守座で公演を行った。2月10日付『名古屋新聞』の劇評は、駒菊の演目『夢』に触れ、舞踊のリズム表現について評している。同年10月には名古屋市公会堂で行われた慈善演芸会への出演が確認されている[1]。駒菊はその後、病気療養のため舞台を退いた。[1]。

晩年と死後

駒菊の本名は、1943年(昭和18年)3月刊行の『美術・工芸』に掲載された茶道随筆「茶道そぞろ語り」によって、刑部静子と確認される。同記事は、駒菊を「大阪名物河合ダンス盛んなりし頃のスター」と紹介している[1]。

同記事によると、1943年2月11日、駒菊の没後四十九日にあたる追慕の茶会が大阪・清水町の河合邸で催された。茶会では、故人が愛用した茶道具が用いられた。記事には、駒菊が官休庵流の茶人であったことや、河合ダンスの海外旅行に随行した際に茶道具を贈られたことも記されている[1]。

この記録から、駒菊は1942年(昭和17年)末頃に亡くなったと推定される。ただし、正確な没年月日を直接記した死亡記事は、現在のところ確認されていない。

参考文献

  • 岡鹿郎「戦前名古屋におけるジャズの普及展開(4)昭和最初期の名古屋のジャズ公演状況〜河合ダンス」『note』。
  • 芝田江梨『「河合ダンス」からみる大阪モダニズムの諸相―西洋文化受容の観点から』大阪市立大学、2009年。
  • 『新愛知』1925年1月31日、1928年2月4日、1930年および1931年の河合ダンス公演評。
  • 『名古屋新聞』1925年11月26日、1932年2月10日の河合ダンス公演評。
  • 『美術・工芸』1943年3月号、茶道随筆「茶道そぞろ語り」。

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 岡鹿郎. “戦前名古屋におけるジャズの普及展開(4)昭和最初期の名古屋のジャズ公演状況〜河合ダンス”. note. 2026年10月19日閲覧。
  2. ↑ 芝田江梨. “「河合ダンス」からみる大阪モダニズムの諸相―西洋文化受容の観点から”. 大阪市立大学. 2026年10月19日閲覧。