一九三〇年協会
一九三〇年協会(せんきゅうひゃくさんじゅうねんきょうかい)は、1926年に結成され1930年に解消した美術団体。
歴史
[編集]小島善太郎、木下孝則、里見勝蔵、前田寛治、佐伯祐三により1926年5月に結成された[1]。名称は1830年派(バルビゾン派)にちなんで命名された[1]。
結成メンバーの5人はいずれもフランスに留学してエコール・ド・パリの雰囲気の中で修業した画家であり、結成の趣意は、既成画壇の陳腐を排し、尖鋭化するプロレタリア美術に対抗し,芸術の純粋を求めることであった[1]。会の作風は全体としてフォーヴィスムを示した[2]。
1926年5月10日から24日まで京橋区北槇町の日米信託ビルデング階上において第1回展を開催した[3]。結成者5人の滞欧作品180点(小島30点、里見40点、前田は大作及び小品40点)が陳列された[4]。
同年6月に林武、林重義、野口彌太郎、古賀春江、木下義謙が新たに会員として加入した[5]。同年9月、林重義、古賀春江が会員を辞した[6]。
1927年6月17日から30日まで上野公園内の日本美術協会会場において第2回展を開催した[6]。このとき、宮坂勝が滞欧作を陳列すると同時に会員となった[6]。第2回展から作品の一般公募を始めた[1][6]。公募で集まった作品のうち、208点が入選し、井上長三郎、靉光、葛見安次郎の3人に奨励賞が贈られた[7]。
1928年2月11日から26日まで上野公園内の日本美術協会会場において第3回展を開催した。中野和高が滞欧作19点を陳列すると同時に会員となった[7]。公募で集まった作品のうち、342点が入選し、葛見安次郎、長谷川利行、藤川栄子の3人に奨励賞が贈られた[7]。
同年3月、代々木山谷に一九三〇年協会洋画研究所を設立し、協会会員が指導を行った[7]。同年5月から7月まで月に1回研究所において講演会を開催した[8]。
同年8月に佐伯祐三がパリで客死した[9]。
同年10月に第4回講演会を京橋加賀町の国民新聞社講堂において開催し、12月には第5回講演会を開催した[10]。
1929年1月15日から29日まで東京府美術館において第4回展を開催した[11]。大野五郎と中村節也に奨励賞が贈られた[12]。
1930年1月17日から31日まで東京府美術館において第5回展を開催した[13]。開催した展覧会はこれが最後となった[2]。
他の加入者
[編集]出典:[1]
出典
[編集]- 1 2 3 4 5 6 「一九三〇年協会」『改訂新版 世界大百科事典』。コトバンクより2026年7月18日閲覧。
- 1 2 「一九三〇年協会」『日本大百科全書(ニッポニカ)』。コトバンクより2026年7月18日閲覧。
- ↑ 一九三〇年協会 1929, p. 66.
- ↑ 一九三〇年協会 1929, p. 67-68.
- ↑ 一九三〇年協会 1929, p. 68-69.
- 1 2 3 4 一九三〇年協会 1929, p. 69.
- 1 2 3 4 一九三〇年協会 1929, p. 71.
- ↑ 一九三〇年協会 1929, p. 72-73.
- ↑ 一九三〇年協会 1929, p. 73.
- 1 2 一九三〇年協会 1929, p. 74.
- ↑ 『毎日年鑑 昭和5年』大阪毎日新聞社、1929年、520頁。
- ↑ 『毎日年鑑 昭和5年』大阪毎日新聞社、1929年、519頁。
- ↑ 『毎日年鑑 昭和6年』大阪毎日新聞社、1930年、249頁。
- 『一九三〇年協会美術年鑑 第1』一九三〇年協会、1929年。