コンテンツにスキップ

西村裁定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1980年自由民主党総裁選挙

1978年 ←
1980年7月15日
→ 1980年11月

選挙制度 両議院議員総会による総裁選挙
無投票

 
候補者 鈴木善幸

選挙前総裁

空席
(西村英一副総裁による職務代行)

選出総裁

鈴木善幸

西村裁定(にしむらさいてい)は、1980年、日本の国政政党自由民主党の次期総裁に、鈴木善幸を選出するに至った経緯。最終的に鈴木新総裁の指名を宣言した西村英一党副総裁の名に由来する。

概要

[編集]

1980年6月12日、自民党内の派閥抗争の結果として急遽行われたハプニング解散、衆参同日選挙(第36回衆議院議員総選挙・第12回参議院議員通常選挙)の最中、大平正芳内閣総理大臣(兼自民党総裁)は急死。そのため自民党は、同日選挙(6月22日投開票)では大勝したに関わらず、後継の総理総裁を選ぶ必要に迫られる。

有力な候補は、党内の五大派閥からは、政策科学研究所からは領袖の中曽根康弘、番町政策研究所からは同じく領袖の河本敏夫、総裁派閥の宏池会(旧大平派)からは大平の生前から後継者と目されていた宮澤喜一が挙がった。残り二派は、まず七日会(田中角栄派)は領袖の田中が自身のスキャンダルであるロッキード事件を片付けてからの返り咲きを狙っていたため自派の候補を立てず、大平政権に続き、他派の適当な候補を押し立てて影響力を行使する算段であった。また、清和政策研究会(福田赳夫派)は、ハプニング解散で反主流派の筆頭として衆議院解散、大平の急死に追い込んだ挙句、大平体制で自民党が大勝したことから力を失い、独自の候補を立てる状況になかった。

有力三候補の内、まず宮沢は、派内の求心力にまだ欠けるところがあって総裁には不向きと見なされる。河本は、派閥の先代である三木武夫がロッキード事件以来の田中との遺恨があることから[注釈 1]、田中が河本の擁立を拒否。中曽根は、大平政権の間は反主流派にありながらハプニング解散の直前に翻して大平サイドに乗り換えた新参の立場であり、変わり身の早さを警戒されて今回の擁立は見送られる[1]。

ここで、大平の生前、その右腕として派閥の運営を支えていた鈴木善幸が、間を継ぐ人材として浮上。党内も、三角大福で8年にわたり続いた凄惨な抗争で疲弊していたことから融和的な人物を望む雰囲気が蔓延していたことから、無難な人選としてこれを歓迎。反主流派筆頭の福田も、派としての発言権を残すべく先代の岸信介元総裁を介して田中に同意を伝えたことで、無風で大勢は固まる。

1980年7月15日、衆参両院議員総会で、西村英一副総裁の指名をうけて鈴木が総裁に選出された。

その後

鈴木の総裁任期は、大平の総裁任期の残余の4か月、更に任期満了の次期総裁選(同年11月実施)にも無投票で再選し、1期2年に渡った政権を運営する。が、元々派閥の領袖として権力闘争を経た経歴はなかったため、政権運営の拙さを露呈。メディアからは「暗愚の帝王」と痛烈に批判されるに至る。また、田中派が全面的に政権を支える一方、鈴木は大平と較べて田中と対等に渡り合うことができなかったことから、この時の鈴木の無投票当選が、田中が"目白の闇将軍"と恐れられるようになる端緒となった[2]。

備考

[編集]
  • 上述のように、鈴木は前任者たちと異なり、一度も総裁選で他者と争ったことはなかったことから、後に鈴木は「カネを一銭も使わないで総裁になったのは、僕がはじめてじゃないか」と述べている[3]。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ↑ 三木内閣のときに発生したロッキード事件において、三木は検察の捜査に便宜を図る形で超法規的に介入、田中の政治生命を奪いにかかった過去があった。

出典

[編集]
  1. ↑ 倉山 2014, pp. 202–203.
  2. ↑ 倉山 2014, pp. 203–204.
  3. ↑ 升味 1988, p. 450.

参考文献

[編集]
  • 倉山満『増税と政局・暗闘50年史』イースト・プレス〈イースト新書〉、2014年10月15日。ISBN 978-4-7816-5027-2。 
  • 升味準之輔『日本政治史4 占領改革、自民党支配』東京大学出版会、1988年。ISBN 4130330446。 

外部リンク

[編集]
⌬ Phoenix Mesh CID: 未登録 IPFS未登録 📡 0ピア PQS B79