9T82

セイコー 9T82は、セイコーエプソンが開発し、1999年に製品化したキネティッククロノグラフ用ムーブメントである。腕の動きによる自動発電機構とクオーツによる計時に、ハートカムを用いた機械式の瞬間帰零機構などを組み合わせた構造を特徴とする。[1]
開発論文では「CAL.9T」と表記され、高出力発電システム、クロノグラフ指針の駆動機構、レバー式帰零機構、電子制御システムなどを組み合わせたキネティッククロノグラフとして開発されたことが説明されている。[1]
ムーブメントは250種類、計356部品から構成され、そのうち組立部品は122点とされる。サービス用技術資料では38石を備え、外径33.0 mm、組込径30.0 mm、厚さ6.8 mmとされる。自動発電装置、通常時刻用輪列、クロノグラフ輪列、複数のカムやレバー、電子回路などを一体化した、クオーツ式腕時計としては非常に複雑な構造を持つ。[2][3]
セイコーは後年、9T82搭載モデルを「Ultimate Kinetic Chronograph cal. 9T82」として自社の時計史に位置づけている。[4]
9T82は1999年の市販化後、アークチュラ、スポーチュラ、MXシリーズなど複数のシリーズへ展開され、2008年頃まで搭載モデルが製造された。現在では9T82およびその搭載モデルは生産を終了している。
開発
キネティックは、腕の動きによって回転錘を回し、その運動エネルギーを電気エネルギーへ変換して蓄電し、クオーツムーブメントを駆動する方式である。
クロノグラフでは通常時刻表示に加え、複数のクロノグラフ指針を高速かつ連続的に駆動する必要があるため、従来のキネティックより大きな電力を必要とした。
1999年6月10日、日本時計学会誌『マイクロメカトロニクス』第43巻第2号に、赤羽秀弘・小池信宏による「KINETICクロノグラフウオッチの開発」が掲載された。同論文では、高出力発電システム、クロノグラフ指針の駆動機構、レバー式帰零機構、およびこれらを制御する電子システムについて解説されている。[1]
9T82の開発には約2年半を要し、とくに4本のクロノグラフ針をハートカムによって瞬時に帰零させる機構などの開発に多くの時間を要した。[2]
開発に関与した技術者
9T系の開発には複数の技術者が関与した。
開発論文「KINETICクロノグラフウオッチの開発」は、セイコーエプソンの赤羽秀弘と小池信宏の連名で発表されている。[1]
また、1998年9月10日を優先日とするセイコーエプソンの関連特許「計時装置」には、丸山昭彦、小池信宏、古川常章、平谷栄一が発明者として記載されている。[6]
同特許には、通常時刻用計時部とは別個の計時部、自動発電装置、二次電源、クロノグラフを機械的に帰零させる機構など、9T系と共通する技術構成が記載されている。[6]
したがって、赤羽秀弘・小池信宏は9T系の開発論文著者として、丸山昭彦・小池信宏・古川常章・平谷栄一は関連特許上の発明者として確認できる。
独立多眼式デザイン
9T82搭載モデルを外観上特徴づけるのが、セイコーが「独立多眼式」と呼ぶ文字板構成である。
外装デザインを担当したのは、当時セイコーエプソンのデザイナーであった佐藤紳二である。[7]
一般的なクロノグラフでは、中央の通常時刻表示用文字板の内部にクロノグラフ用サブダイヤルを配置する。これに対して9T82搭載モデルでは、通常時刻表示とクロノグラフ表示をそれぞれ独立した文字板として配置した。[7]
佐藤は米国および欧州で市場調査を行い、既存のスイス製高級時計の様式を模倣するのではなく、日本独自のオリジナリティやハイテク感を表現することを目指した。航空機のコックピット計器などもデザイン上の参考とされた。[7]
9T82は既存ムーブメントに合わせて外装を設計したのではなく、先に構想された独立多眼式のデザインを成立させるために専用ムーブメントの開発が進められた。[2][7]
バーゼルフェアと初代モデル
9T82を搭載したキネティッククロノグラフは、1998年のバーゼル・フェアで発表された。[2][注 1]
当時の専門誌『世界の腕時計』は、1998年に発表されたキネティッククロノグラフが大きな反響を呼び、バーゼルフェアでの発表後には時計愛好家から多数の問い合わせが寄せられたと報じている。[2]
市販初代モデルのSBXZ001は1999年2月8日に発売された。世界限定1000本で、当時のセイコー製腕時計としては高価格帯となる約20万円に設定された。[7]
セイコー公式デザイン史でも、独立多眼式のデザインが大きな話題となったことが記録されている。[7]
表示構成
9T82では、通常時刻表示とクロノグラフ表示をそれぞれ独立した軸に配置する。
6時位置に通常時刻の時・分・秒表示、4時付近に日付表示を置く。クロノグラフは9時位置に1/10秒、12時位置に秒、3時位置に分および時を表示する。[5]
公式取扱説明書では、クロノグラフは1/10秒単位で12時間6分12.2秒まで計測可能で、その後自動停止するとされる。[5]
クロノグラフ機構
9T82の特徴の一つが、クオーツによる高精度な計時と、機械式瞬間帰零機構を組み合わせていることである。
経過時間はクオーツによって計時され、クロノグラフ指針はその計時情報に基づいて駆動される。一方、リセット時には指針を電子的にゼロ位置まで送り戻すのではなく、機械式クロノグラフと同様にハートカムと復針レバーを用い、4本のクロノグラフ針を瞬時にゼロ位置へ戻す。[1][5]
1/10秒、秒、分、時の各クロノグラフ輪列にはハートカムが設けられている。[1]
この機械式瞬間帰零機構のため、クロノグラフのリセットボタンには比較的大きな操作力を必要とする。[5][7]
コラムホイールと制御機構
9T系のクロノグラフ制御には、コラムホイールを含む機械式制御機構が用いられている。[1]
作動カム、復針伝えレバー、復針中間レバー、復針制御レバーなどによって、クロノグラフのスタート、ストップ、帰零を制御する。[1]
クロノグラフ作動中にリセットボタンを操作しても帰零しない安全機構も備える。[1]
また、機械側が「スタート」「ストップ」「リセット」のいずれの状態にあるかを電子回路側でも認識する構造となっており、電源電圧が低下した場合にも機械側と電子制御側の状態が食い違わないよう設計されている。[1]
グランドセイコー9F系技術の応用
9T82には、グランドセイコーの高精度クオーツムーブメントである9F系で開発された複数の技術が応用された。
9F系で採用されたカレンダー瞬間日送り機構やバックラッシュオートアジャスト機構が9T82にも導入された。[2]
バックラッシュオートアジャスト機構は、歯車のかみ合いに生じる遊びによる指針のふらつきを抑え、クオーツによる高精度な計時を安定した指針表示に反映させるための機構である。[2]
カレンダー表示には、9F系で開発された瞬間日送り技術が応用された。[2]
さらに、通常時刻表示用ロータ部には、9F系で開発された組み合わせ軸受構造が採用された。[2]
スーパーシールドキャビン
9T82には、スーパーシールドキャビンと呼ばれる構造が採用された。
高精度なムーブメントの性能を長期間維持するため、ムーブメント内部への異物の侵入やロータ部の潤滑油切れを抑えることを目的とした構造であり、その一部には9F系で開発された組み合わせ軸受構造が応用されている。[2]
また、クロノグラフ輪列を構成する各車を安定して支持することによって、クロノグラフ指針の安定した動作にも寄与する構造とされた。[2]
1/10秒クロノグラフ
高速で作動する1/10秒クロノグラフ針は、9T開発上の大きな技術課題であった。
開発論文では、1/10秒クロノグラフ針は通常の秒針と比較して、アンバランス量が約5倍、慣性および重量が約3.5倍に達したとされる。[1]
このため、3次元設計によるバランサー形状の最適化、バランサーとハートカムの一体加工、アルミニウム系合金製歯車の採用、歯車の薄型化などが行われ、1/10秒車の慣性値は従来比約3分の1まで低減された。[1]
高出力発電システム
クロノグラフ作動中には、通常時刻用の駆動系に加えてクロノグラフ用の駆動系を連続して作動させる必要がある。
開発論文では、クロノグラフ使用時の消費エネルギーは通常時のおよそ11倍に達するとされる。[1]
このため9Tでは、整流方式の改良、機械損失・磁気損失の低減、回転錘から得られる入力エネルギーの増加などが図られた。[1]
従来の5M系キネティックに対し、条件に応じて約3~15倍の発電量を得る高出力発電システムが開発された。[2]
ムーブメント構造
| 項目 | 仕様 |
|---|---|
| キャリバー | 9T82 / 9T82A |
| 外径 | 33.0 mm |
| 組込径 | 30.0 mm |
| 厚さ | 6.8 mm |
| 石数 | 38石 |
| 構成部品 | 250種類、計356部品 |
| 組立部品 | 122点 |
| 発電方式 | キネティック自動発電 |
| 蓄電装置 | チタン・リチウムイオン二次電池 |
| クロノグラフ | 時・分・秒・1/10秒 |
| 精度 | 常温で平均月差±15秒以内 |
| フル充電時持続時間 | 約1か月(クロノグラフを1日3時間使用した場合) |
9T82は、自動発電装置、通常時刻用輪列、クロノグラフ輪列、複数のハートカムと復針レバー、コラムホイール、電子回路、二次電源などを一つのムーブメント内に収めている。
356部品、38石という構成は、一般的なクオーツ式腕時計と比較して非常に複雑なものである。[2]
9T82は金属部品を多用した構造を持ち、地板、受け、回転錘などには装飾が施されている。また、ムーブメントの組み立てはベテランの技術者による手作業で行われた。[2]
整備上の特徴
9T82Aには、通常の裏蓋を持つケース用と、ワンピースケース用の仕様が存在する。[3]
ワンピースケース仕様では、文字板側から巻真を解除するための専用機構が設けられている。[3]
サービス用技術資料では、クロノグラフ針を取り外した場合、再組立時には取り外したクロノグラフ針を再使用せず、新しい針へ交換するよう指示されている。[3]
これは、瞬間帰零時の機械的衝撃によって再使用した針が外れる可能性があるためとされる。[3]
搭載モデルの展開
9T82搭載モデルは1999年から2008年頃まで約10年間にわたり展開され、日本向けにはSBXZ、SBVT、SBCG、SATX各系統、海外市場ではSLQ系品番が用いられた。[7][8]
確認されている基本品番には以下のものがある。
| 品番 | 年代 | 概要 |
|---|---|---|
| SBXZ001 | 1999 | 初代モデル、世界1000本限定[7] |
| SLQ001 | 1999頃 | 初代海外仕様 |
| SLQ003 | 1999頃 | 初期アークチュラ系 |
| SBVT001 | 1999 | アークチュラ[7] |
| SBXZ003 | 1999 | ブラックチタン、国内500本限定[7][2] |
| SLQ005 | 1999頃 | SBXZ003海外同系 |
| SBCG001 | 2000 | スポーチュラ[7] |
| SLQ007 | 2000頃 | 海外スポーチュラ系 |
| SLQ009 | 2000頃 | チタン仕様 |
| SLQ011 | 2000頃 | チタンケース、黄色のクロノグラフ針 |
| SATX001 | 2001 | MXシリーズ、21世紀記念モデル、500本限定 |
| SATX003 | 2001 | MXシリーズ[7] |
| SATX005 | 2002 | MXシリーズ、2002 FIFAワールドカップ公式ライセンスモデル、300本限定[7] |
| SLQ013 | 2002頃 | 赤色独立文字板 |
| SLQ015 | 2003頃 | 後期スポーチュラ系 |
| SLQ017 | 2004頃 | 後期スポーチュラ系 |
| SBCG003 | 2004 | 国産クロノグラフ40周年記念、300本限定[7] |
| SLQ019 | 2005頃 | 後期スポーチュラ系 |
| SLQ021 | 2006 | Honda Racing F1 Team、世界1500本限定[7] |
| SLQ023 | 2007 | Sportura Ultimate Kinetic Chronograph、750本限定[9] |
| SLQ025 | 2008 | Arctura Ultimate Kinetic Chronograph、500本限定[8] |
国内モデルのうち、SBXZ001は1999年2月8日、SBVT001は同年6月24日、SBXZ003は同年11月8日、SBCG001は2000年7月6日、SATX003は2001年6月7日、SATX005は2002年2月6日、SBCG003は2004年10月8日に発売された。[7]
第2弾モデルのSBXZ003は、チタンケースを採用した国内500本限定モデルとして1999年11月に発売され、価格30万円で販売された。限定数は完売した。[2]
SLQ021JCは2006年9月21日にHonda Racing F1 Teamとのコラボレーションモデルとして発売され、世界1500本限定とされた。[7]
同一のキャリバー・ケース番号を異なる商品品番が共有する例もあり、SBXZ001とSLQ001、SBXZ003とSLQ005、SBCG001とSLQ007、SLQ009とSLQ011などが、それぞれ同系統のケースを共有する。
技術史上の位置づけ
9T82は、セイコーのキネティック自動発電技術を基礎としながら、機械式クロノグラフのハートカムやコラムホイールによる機械制御と、グランドセイコー9F系で開発された高精度クオーツ技術を組み合わせたムーブメントである。[1][2]
9T82には、9F系で開発されたカレンダー瞬間日送り機構、バックラッシュオートアジャスト機構、組み合わせ軸受構造などが応用される一方、高出力発電システムやクロノグラフ用の機械式帰零機構など、キネティッククロノグラフを実現するための新たな技術も開発された。[2][1]
また、独立多眼式という外装デザインを実現するため、既存ムーブメントを流用するのではなく、表示構成に合わせて専用ムーブメントそのものが開発された点も特徴である。[7][2]
1998年のバーゼルフェアで発表された際には大きな反響を呼び、1999年に市販化された。その後、アークチュラ、スポーチュラ、MXシリーズなどへ展開され、2008年頃まで約10年間にわたり搭載モデルが製造された。[2][7][8]
関連項目
脚注
注釈
- ↑ 当時の専門誌『世界の腕時計』は1998年のバーゼルフェアで発表されたとしている。一方、現在のセイコー公式デザイン史では「1999年のバーゼルフェアで発表」と記載されている。
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 赤羽秀弘、小池信宏「KINETICクロノグラフウオッチの開発」『マイクロメカトロニクス』第43巻第2号、1999年6月10日、15-24頁、doi:10.20805/micromechatronics.43.2_15。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 「キネティック クロノグラフ・キャリバー9T82 開発のポイント」『世界の腕時計』第43号、2000年2月20日、58-61頁。
- 1 2 3 4 5 6 7 セイコー『9T82A Technical Guide』サービス用技術資料。
- ↑ セイコーウオッチ株式会社「Introduction of the Ultimate Kinetic Chronograph」『Our Heritage』、2026年10月19日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 セイコーウオッチ株式会社『9T82 取扱説明書』。
- 1 2 セイコーエプソン株式会社「計時装置」特開2000-147166(JP2000147166A)、優先日1998年9月10日。発明者:丸山昭彦、小池信宏、古川常章、平谷栄一。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 セイコーウオッチ株式会社「vol.7 『独立多眼式』という、新たなスタイルを世界に打ち出したキネティック クロノグラフ」『by Seiko Design』、2026年10月19日閲覧。
- 1 2 3 セイコーウオッチ株式会社「Arctura Ultimate Kinetic Chronograph」2008年公式プレス資料。
- ↑ セイコーウオッチ株式会社「Sportura Ultimate Kinetic Chronograph」BASELWORLD 2007公式プレス資料、2007年。