ジャン・ジャノン

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Caractères de l’Universitéの原母型
プロテスタントのスダン公国の地図

ジャン・ジャノン(Jean Jannon[a]、1580年4月 - 1658年12月20日)は、フランスのプロテスタントの印刷業者、書体デザイナー、パンチカッター、活字鋳造者で、スダン、パリ、カーンで活動した。書体「Caractères de l’Université」と、この書体が後にクロード・ギャラモンの作と誤認されたことで知られる。この誤認が正されたのは1920年代になってからである。出生地はジュネーヴ、またはより広くロマンド地方とされる[1]。スダンで没した。

生涯

17世紀前半のフランス政治を主導した人物、リシュリュー枢機卿

ジャノンの経歴には、断片的にしか知られていない点や、解釈が分かれる点が多い。ジュネーヴで印刷工としての修業を積んだことは、ほぼ確実とされる[2]。また、ローザンヌ、バーゼル、南ドイツ、そしてパリのエティエンヌ印刷所で印刷職人(ジャーニーマン)として働いたことも、ほぼ確実とされる[3]。パリでの雇い主は、おそらくロベール・エティエンヌ3世、すなわち印刷業を営むエティエンヌ一族の共同創始者ロベール・エティエンヌの孫であった。ロベール・エティエンヌは、カルヴァン派の信仰を理由に1550年代半ばにパリを去ったが、その息子たちは父の意に反してパリで印刷所を再開していた[4]。

1610年頃、ジャノンはフランス北東部のスダンに移った[2]。スダンはフランスにおけるプロテスタントの重要な拠点の一つであっただけでなく、フランスの勢力圏の周縁に位置する公国として、脆弱ながらも政治的自治を維持していた。ジャノンが政治的・宗教的理由、仕事の不足、あるいは個人的な対立のいずれを理由にスダンへ移ったのかは、明らかになっていない。当時の年代記作者ピエール・ド・レストワール(英語版)は日記に、ジャノンがカトリックの宣伝文書の印刷を引き受けたため、ユグノーの当局から反発を受けたと記している。レストワールによれば、ジャノンはこの件に立腹し、その際、ユグノーは、いったん権力を握ればイエズス会士よりもさらに悪くなるかもしれない、と発言したという[5]。

ジャノンの最初の妻はアンヌ・ド・カンジェ (Anne de Quingé) で、1618年に没した[6]。その2年後、夫のもとを去っていたマリー・ドマンジャン (Marie Demangin) と再婚した。マインツの改革派教会評議会の報告によれば、ドマンジャンの再婚には教会の承認が与えられた。同報告は、彼女の前夫が「姦通、重婚、放蕩」を繰り返していたことが立証されていると記している[7]。スダンでは、プロテスタントのアカデミーのために印刷業を営み始めた。ほぼ同じ頃、書体の設計・製造にも乗り出した。1615年には、初めて独自の書体一式を開発した。これにより、ドイツ、オランダ、パリから書体を買い入れる必要がなくなるという経済的な利点があった。実用上の利点もあり、当時一般的に使われていたパンチは摩耗が早く、程度の差こそあれ、修復には手間がかかったのである[3]。

1640年、ジャノンは息子アンティパスの死去を受けてその工房を引き継ぐため、パリに戻った。パリでは印刷業者、書体彫刻師として活動し、カーン生まれの印刷業者・書籍商ピエール・ド・カルドネル (Pierre de Cardonell) の共同経営者ともなった。単独で、あるいはド・カルドネルとともに、パリの工房に加えてユグノーの重要な拠点であったカーンでも印刷所を営んだ[2]。宗教的立場にもかかわらず、フランスの王立印刷所は1641年、3種類の大型活字用に、金属活字の鋳造に用いる型である母型を彼から購入した。この注文によって生まれた書体は「Caractères de l’Université」として知られ、1615年に制作を始めた「Petite Sedanaise」を発展させたものであった[2]。

王立印刷所から相応に重要な注文を受けていたにもかかわらず、1644年、ジャノンは国家による弾圧の標的となった。パリとカーンの工房は捜索を受け、備品の一部が押収された可能性もある。当局の嫌疑は、プロテスタントのジャノンが禁制の印刷物を刷ったというものであった。弾圧の背景には、フランスとスダン公国が一時的に戦争状態にあったことが関係している可能性がある。ジャノンの書体「Caractères de l’Université」は、王立印刷所の保有する書体として残った[2]。弾圧に先立つ1642年には、すでにリシュリュー枢機卿の文章がこの書体で組まれていた[8]。

フランスの首都パリでの経験は善し悪しが入り交じり、むしろ不快なものが多かったため、ジャノンはスダンに戻った。そこで1658年に没するまで、印刷と活字鋳造の仕事を続けた。史料によれば、印刷所はジャノンの死後も当初は操業を続けたが、活字鋳造所は1664年に廃業した。その後、誰が鋳造所を引き継いだのか、また備品が誰の手に渡ったのかについては、諸説あるものの、確実な裏付けは得られていない。

書体と意義

書体デザイナーとしての意義

フランティシェク・シュトルムが1997年に着手したJannon Proの見本

ジャノンの代表的な書体は、1641年に王立印刷所の依頼で制作された「Caractères de l’Université」である。これは、ジャノンが約25年前に制作を始めた「Petite Sedanaise」に基づいている。両書体とも、16世紀前半のフランスの書体、とりわけ当時ローマン体の最も完成された姿と広く見なされていたクロード・ギャラモンの書体の伝統に連なる。それでもジャノンの書体は、いくつかの形態的特徴で異なっている。一部の文字はよりゆったりとした造形になっており、ストロークのコントラストはギャラモンの書体より強い。イタリック体では、文字によって傾斜角が異なる点が目を引く。

ジャノンの書体をフランス型のルネサンス・ローマン体に明確に分類することについては、一部の書体専門家や歴史家が慎重な見方を示している。様式的には17〜18世紀の移行期ローマン体との境界に位置すると考える専門家もおり、後期ルネサンス・ローマン体とも初期バロック・ローマン体とも解釈される。チェコの書体デザイナー、フランティシェク・シュトルム(英語版)は、ジャノンを17世紀前半のフランスのタイポグラフィにおける最も重要な人物の一人とみなしている[3]。シュトルムは1997年に制作を開始した「Jannon Pro」で、ジャノンの書体をデジタル書体として再解釈した[9]。さらに、20世紀前半に制作されたGaramond系書体の一部は、ジャノンの原活字に基づいている。これは書体の作者が誤認されたためであり、結果としてジャノンは、自身の書体そのものよりも、この取り違えによって専門家の間で広く知られるようになった。

Garamondの書体との混同

ジャノンの書体に基づくモノタイプ社の「Garamont」の一部

印刷業者として注目すべき経歴を持つにもかかわらず、ジャノンはおそらく、自身の書体が長年にわたって別人の作と誤認されていたことで最もよく知られている。この誤認が広まった背景には、クロード・ギャラモンの場合と同様、経歴に関する重要な事実が不明であったり、その重要性について解釈が分かれていたりすることがあった。たとえば、プロテスタントの印刷業者であったジャノンが、工房の捜索や備品の押収にとどまらず、一時的な拘禁など、さらなる弾圧を受けたかどうかは不明である。現在入手できる伝記的記述は、フランス当局との対立に全く触れないか、あるいはカトリックの異端審問所、もしくはリシュリュー枢機卿の主導による一時的な拘禁を少なくとも示唆している[2][3][8][10]。

さらに、王立印刷所が発注した書体「Caractères de l’Université」をどの程度、またどれほど長期間使用したかについても議論がある。たとえばイギリスの歴史家ジェームズ・モズリーは、この混同がどの程度広がっていたかをめぐる議論の中で、この書体はほとんど使われず、17世紀後半にはより時代に合った「Romain du roi」に取って代わられたと指摘した[11][12]。モズリーによれば、19〜20世紀に起きたジャノンの原活字とギャラモンの原活字の混同は、主として次の事情に由来する。王立印刷所(のちの国立印刷所)に保管されていたジャノンの活字が、当初は非公式に「Garamondの書体」と呼ばれ、比較的遅い時期(初出は1845年)になってクロード・ギャラモンの書体として記載されるようになったのである[13]。

ジャノンの活字が明確にGaramondの書体として紹介されたのは、1911年に複数巻の歴史叢書が印刷された際のことである。この呼称を与えたのは、当時の国立印刷所長クリスチャン・シュワルツ (Christian Schwartz) であった。これらの原型に基づいて、アメリカのATFやイギリス・アメリカ系のモノタイプなど、複数の有力な活字鋳造会社が新たなGaramond系書体を制作した。誤った帰属を明らかにしたのは、ジャーナリストのベアトリス・ウォードである。彼女は調査と書体見本の比較を通じて、国立印刷所でGaramondの書体とされていた活字が、実際にはギャラモンの時代より後に制作された、ジャン・ジャノンの「Caractères」の活字であることを突き止めた[13]。

ウォードは1926年、調査結果を「The “Garamond” Types」と題する、注目を集めた専門論文で発表した。ジャン・ジャノンが独自の書体を設計した人物であったことを裏付ける意図があったとみられ、1927年には1621年の「Petite Sedanaise」の書体見本を公表した。国立印刷所による書体の作者の誤認をめぐる論争は、とりわけ、その後製品化されたGaramond系書体が、より確かな歴史的原型、たとえばアントウェルペンのプランタン=モレトゥス博物館のものや、20世紀初頭にフランクフルト・アム・マインで発見された「エゲノルフ=ベルナー書体見本」に基づくようになるという結果をもたらした[13]。

ジャン・ジャノンの重要性は、100年前よりも今日の専門家の間で高く評価されている。そのことは、デジタル書体としての復刻などにも表れている。現在は書体ファミリーに拡充されたフランティシェク・シュトルムのJannon Proのほかにも、ジャノンの書体デザインを基にしたフォントが市場に登場している。一例が、スイスの書体デザイナー、フランソワ・ラッポ (François Rappo) のJJannonである[14]。シュトルムとラッポによる2つのジャノン復刻版は、いずれも複数のウェイトとイタリック体を備えている。Jannon Proには、さらに大きな文字サイズ向けのディスプレイ版が含まれる。

脚注

注釈

  1. ↑ 別綴り:Iean Iannon、Joannes Jannonus、Jean Janon、Joannes Janonus

出典

  1. ↑ Devroye, Luc (n.d.). “Jean Jannon” (英語). luc.devroye.org. 2026年10月31日閲覧。
    Beinert, Wolfgang (2022年9月27日). “Jean Jannon” (ドイツ語). typolexikon.de. 2026年10月31日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 6 Beinert, Wolfgang (2022年9月27日). “Jean Jannon” (ドイツ語). typolexikon.de. 2026年10月31日閲覧。
  3. 1 2 3 4 Devroye, Luc (n.d.). “Jean Jannon” (英語). luc.devroye.org. 2026年10月31日閲覧。
  4. ↑ “Robert II (1530-1570); Paris 1556-1588” (英語). Estiennes at the Edward Worth Library (n.d.). 2026年10月31日閲覧。
    “Robert III Estienne (1560-1630), Paris 1606-30” (英語). Estiennes at the Edward Worth Library (n.d.). 2026年10月31日閲覧。
  5. ↑ Wagstaffe, Sally Anne (1990年). “Forms and methods of religious controversy in Paris: with special reference to Pierre du Moulin and his Catholic opponents” (英語). Durham University. p. 66 ff. 2026年10月31日閲覧。
  6. ↑ Revue d'Ardenne et d'Argonne, Societé d’études ardonnaises, Sedan 1901/1902, p. 102, retrieved 31 October 2026 (in French; archived full text)
  7. ↑ “Jean Jannon ses fils. Leurs ceuvres, Revue d'Ardenne et d'Argonne” (フランス語). Societé d’études ardonnaises. p. 97 ff. (1894年). 2026年10月31日閲覧。 (Internet Archive)
  8. 1 2 Mosley, James (2012年2月3日). “The types of Jean Jannon at the Imprimerie royale” (英語). Typefoundry. 2026年10月31日閲覧。
  9. ↑ “Jannon” (英語). Fonts in Use (n.d.). 2026年10月31日閲覧。
  10. ↑ “Jean Jannon” (ドイツ語). Klingspor Museum (n.d.). 2026年10月31日閲覧。
  11. ↑ Mosley, James (2012年7月29日). “Caractères de l’Université” (英語). Typefoundry. 2026年10月31日閲覧。
  12. ↑ Herrmann, Ralf (2014年9月26日). “Romain du Roi” (ドイツ語). typografie.info. 2026年10月31日閲覧。
  13. 1 2 3 Mosley, James (2011年4月1日). “Garamond or Garamont?” (ドイツ語). Typefoundry. 2026年10月31日閲覧。
  14. ↑ “JJannon” (英語). optimo.ch (n.d.). 2026年10月31日閲覧。

外部リンク