ツシェティ

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トゥシェティ
თუშეთი
歴史的地域
ダルトロ(ジョージア語版)村の全景。
ジョージアの現代の国境における歴史的なトゥシェティ地方を強調した地図。
ジョージアの現代の国境における歴史的なトゥシェティ地方を強調した地図。
18世紀前半におけるカヘティ王国の諸地域。
18世紀前半におけるカヘティ王国の諸地域。
国ジョージア (国)の旗 ジョージア
州カヘティ州
中心地オマロ(ジョージア語版)
面積
 • 計896 km2

トゥシェティ(ジョージア語: თუშეთი、ジョージア語ラテン翻字: Tusheti)またはムタトゥシェティ(ジョージア語: მთათუშეთი、ジョージア語ラテン翻字: Mtatusheti)は、ジョージアの歴史的地域である。トゥシェティは大コーカサス山脈の主稜線の北側の斜面に位置する。東はダゲスタン、西はプシャヴィ(ジョージア語版)とヘヴスレティ(ジョージア語版)、北はチェチェン、南はカヘティ(ジョージア語版)と接する。現在の行政区分では、トゥシェティの全域がカヘティ州のアフメタ地区(ジョージア語版)に属し、複数の村を含む。トゥシェティの中心はオマロ(ジョージア語版)村とされる。トゥシ人が居住し、牧羊を営んできた地域であり、20世紀には低地への移住が進んだ。トゥシェティはユネスコの世界遺産の暫定リストに記載されている[1]。

語源

テド・ウトゥルガイゼ(ジョージア語版)は、一般に用いられる名称「ムタトゥシェティ」の代わりに、古い名称「トゥシェティ」を用いることが適切であると指摘している。ウトゥルガイゼの言葉によれば、次のとおりである。

なぜなら、トゥシ人は自分たちの最古の居住地を指すために、トゥシェティのみを用いているからである。この地域は、初期の研究においても、(ムタトゥシェティではなく)トゥシェティとして記されている(ヴァフシティ・バトニシヴィリ、J. ギュルデンシュテット)。地名ムタトゥシェティは、トゥシ人が低地(カヘティ)にもトゥシェティにも居住していたことに関連して、後にトゥシ人以外の人々によって作られた。しかし、トゥシ人にとって、トゥシェティとカヘティは、トゥシ人が低地に移り住む以前と同じように地理的に異なる名称として残ったのであるから、これはこの新しい名称を正当化することはできない。[2]

地理

トゥシェティは、ジョージアの北東部に位置する。行政上はアフメタ地区(ジョージア語版)に属し、海抜1,650メートルから4,493メートルにわたる。村は標高1,900メートルから2,400メートルの間に分布している。

トゥシェティは、大コーカサス山脈の主分水嶺(主稜線)と、その北側に並ぶ側方山脈との間にある盆地に位置する。この盆地の北にはピリキティ山脈(ジョージア語版)(トゥシェティ山脈)が、西にはアムゴ峰(ジョージア語版)から続くアツンタ山脈(ジョージア語版)がある。東では、自然の境界がアカズマ=チェロスタヴィ山脈に沿って延び、アンディ・コイス川(ジョージア語版)の谷で終わる。南では、大コーカサス山脈の主分水嶺、いわゆるヴァダエティ山脈と境を接している。ピリキティ山脈の最高峰はテブロスムタ山(ジョージア語版)(4,493メートル)である。ピリキティ山脈に直交して南へ分岐する山脈には、ドヴェルツィヘタニ山脈、チェロ山脈、ツィルベヴィ山脈、ダノ山脈、ラロヴァニ山脈、サナリ山脈、アカズマ山脈がある。

主分水嶺の山頂には、シャヴィ・クルデ(ジョージア語版)(3,578メートル)、ディドグヴェルディ山(ジョージア語版)(3,334メートル)、パタラ・ボルバロ山(ジョージア語版)(3,180メートル)がある。主分水嶺からは直交する多数の支脈が分岐しており、その例として、サジンチュヴリ山脈、ナヒドゥリ山脈、アラトヴァニ山脈、オトフツカロ山脈、エンチョ山脈、ライ山脈などが挙げられる。

トゥシェティの地形は、第四紀の垂直運動、氷河作用、河川の浸食、および機械的風化によって形成された。平坦地としては、アラザニ川の峡谷によって二つに分けられたオマロ=ディクロ平地と、ツォカルタ=クメラウルタ平地がある。このほか、トゥルシエヒ、クヴァヒディ、ツォヴァタ、アラザニ川源流部などに小さな平坦地がある。

歴史的に、トゥシェティは八つのテミ(郷)に分かれていた。すなわち、チャンチャホヴァニ(ジョージア語版)、チャグマ(ジョージア語版)、ヘツルタ、ゴメツァリ、ピリキティ(アグマ)、サムツィヘ、イヴァナウルタ、ツォヴァタ(ジョージア語版)である[3]。

気候

以下の数値は、オマロ(ジョージア語版)(標高1,880メートル[4])における、ジョージアの建築気候学の設計基準(PN 01.05-08)に基づく値である[5]。オマロの年平均気温は3.5℃である[6]。月平均気温は、1月が−9.1℃で最も低く、8月が14.8℃で最も高い[6]。7月は14.0℃である[6]。最低気温記録は−36℃、最高気温記録は31℃である[6]。月平均気温が8℃を下回る期間は239日である[6]。年間降水量は748ミリメートルであり、日降水量の最大値は100ミリメートルである[7]。積雪のある日数は121日であり、積雪の水当量は120ミリメートルである[8]。

リアナ・カルトヴェリシヴィリ(ジョージア語版)らの研究によれば、オマロでは、観測期間中の最大積雪深は1987年2月の140センチメートルであり、平均的には7月と8月に積雪がない[9]。

水資源

ピリキティ・アラザニ川(ジョージア語版)。

トゥシェティには、トゥシェティ・アラザニ川(ジョージア語版)(ゴメツァリ・アラザニ川)と、ピリキティ・アラザニ川(ジョージア語版)の二つの川がある。

トゥシェティ・アラザニ川(全長53キロメートル)は、ボルバロ山に源を発し、東へ流れる。ゴグルタ村付近でオルツカリ川(ジョージア語版)が、ハハボ(ジョージア語版)村付近でナヒドゥリ川が合流する。支流には、シャヴツカリ川、オルツカリ川、ヒソ(チャンチャホヴァニ)・アラザニ川などがある。

ピリキティ・アラザニ川は、アムゴ山(標高3,965メートル)に源を発し、トゥシェティ・アラザニ川と並行して北東へ流れる。廃村ヘゴ付近でラロヴァニ川(ジョージア語版)が合流するほか、高山帯から流れ出るハシャキ川、ハヒ川、ダノ川、クヴァヴロ川などが合流する。左岸側の支流には、トゥルシエヒ谷、チョンティオ谷、ギレヴィ谷などがある。

両河川は、ツォカルト村とシェナコ(ジョージア語版)村の周辺で合流する。国境を越えるとアンディ・コイス川(ジョージア語版)と呼ばれ、アヴァル・コイス川(ジョージア語版)と合流してスラク川(英語版)となり、カスピ海に注ぐ。トゥシェティの河川は、冬季には一部が凍結する。

トゥシェティには多数の小さな湖がある。オルツカリ川(ジョージア語版)の源流域の亜高山帯には氷河起源の湖があり、いずれも直径は20メートル以下である。シャヴィクルディ谷とヴェブ谷の源流部にも、同程度の大きさの湖がある。カロアニ谷の源流部にある氷河起源の湖は、年間を通じて凍結している。チャンチャホヴァニ山脈の北斜面には、長さ12メートルから15メートル、幅5メートルから6メートルの深い湖がある。廃村ヘゴ付近には、長さ200メートルの流水湖がある。

湿地は、高山帯の上部(雪線付近)や村の周辺にみられる。シェナコ(ジョージア語版)、オマロ(ジョージア語版)、ディクロ(ジョージア語版)、トゥルシエヒ、ハハボの各村の周辺にも湿地があり、地表近くの地下水の存在が関係している。

トゥシェティには、鉱泉が数多くある。「チゴの水」は塩分が多く、塩化物を含む。ヴェジの丘の麓では、2か所で鉱泉が湧き出している。ヒソ(ジョージア語版)村、シェナコ、パルスマ(ジョージア語版)、チョンティオ(ジョージア語版)の周辺ではアルカリ性の塩水が見られ、オマロ付近でも3か所で同様の塩水が湧き出している。ドチュ(ジョージア語版)村とハハボ村の周辺には、鉄分を含む泉がある。

植物相

トゥシェティには、固有種や遺存種を含む多様な植物が生育している。森林の面積は32,000ヘクタールで、主にソスノフスキーマツ(wikidata)のマツ林と、リトヴィノフカバノキ(アゼルバイジャン語版)やラッデカバノキ(ジョージア語版)のカバノキ林からなる。これらの森林には、ナナカマドなどが混生する。森林の内外には、ベリー類など、果実をつける植物が多い。

森林の型には、亜高山帯の草本植物を伴うカバノキ・マツ混交林、低木を伴うカバノキ・シナノキ混交林、コーカサスシャクナゲ(ジョージア語版)を伴うマツ林などがある。マツは標高2,650メートルまで生育する。

動物相

トゥシェティには、食肉目や偶蹄目に属する種が生息する。偶蹄目には、ニアモリ(ジョージア語版)、アルチヴィ(ジョージア語版)、ヒガシコーカサスツール、アカシカ、ノロジカなどがいる。ニアモリの分布域は、ゴメツァリとピリキティの狭く岩がちな谷と、ディクロ(ジョージア語版)の峡谷周辺に限られる。アルチヴィは、放牧や密猟などの人為的影響で個体数が減少している。アカシカの個体数は少なく、ノロジカは東部大コーカサス山脈のほぼ全域に分布する。

食肉目には、西アジアヒョウ(英語版)(ジキ)がいる。コーカサス全域でごく少数の個体が残るのみで、ピリキティ山脈の亜高山帯から高山帯、雪線付近に分布する。ヴァシロヴァニ国立自然保護区(ジョージア語版)でも確認されている。このほか、オオカミ、オオヤマネコ、クマも分布する。

鳥類には、ヒゲワシ、ハヤブサ、セッケイなどがいる。

保護地域

ディクロスムタ山(ジョージア語版)。

トゥシェティの保護地域は、国立自然保護区、国立公園、保護景観からなる。大コーカサス山脈東部のトゥシェティ盆地にあり、トビリシから280キロメートルの距離にある。トゥシェティ国立自然保護区(ジョージア語版)は1981年に設立され、面積は10,694ヘクタールである。国立公園(83,453ヘクタール)と保護景観(27,903ヘクタール)は、2003年4月22日に設立された。

保護地域には、高山草原やマツ林が広がり、テブロスムタ山(ジョージア語版)、ディクロスムタ山(ジョージア語版)、大ボルバロ山(ジョージア語版)などの山がある。

歴史

トゥシェティにある中世の戦闘塔。

トゥシェティで発見された考古資料は、この地域に古代から人が居住していたことを示している。後期青銅器時代および前期鉄器時代の動物形の像や記号は、トゥシェティにおける牧羊や大型家畜の飼育の歴史を考察する手がかりとなっている。

ジョージアの歴史史料には、トゥシェティに関する記録が少ない。その一つは、4世紀にジョージアでキリスト教が国教とされたことと、これに関連するプホヴィ人(ジョージア語版)のトゥシェティへの強制移住に関するものである。4世紀前半、トゥシェティはキリスト教化に抵抗する山岳民の避難先であった。5世紀以降、トゥシェティはイベリア王国の一部となった。8世紀には、トゥシェティはフンザフ共同体とともに、一つの行政区画であるツケティ公領に属していた。この時期にトゥシェティでキリスト教が広まったと考えられ、イングーシとダゲスタンに残る9世紀のキリスト教遺跡も、そのことを示している。8世紀から9世紀にかけてカヘティ公国(ジョージア語版)に含まれていた時期には、パンキシ公領(ジョージア語版)に属し、その後、統一ジョージア王国に含まれていた時期には、カヘティ公領(ジョージア語版)に属した。

15世紀にジョージアが複数の王国と公国に分裂すると、トゥシェティはカヘティ王国に編入され、モウラヴィ(ジョージア語版)(地方統治官)が治めるトゥシェティ・モウラヴィ領となった。宗教行政上はアラヴェルディ主教区(ジョージア語版)に属していた。16世紀には、カヘティ王レヴァン(ジョージア語版)がトゥシ人の権利を安堵したことが、史料に記されている。この記録は、トゥシェティの牧羊と、トゥシ人によるカヘティの冬季放牧地の利用について伝える最初の史料でもある。

17世紀後半、トゥシェティは、王エレクレ1世(ジョージア語版)を支える勢力となった。1660年のバフトリオニの戦い(ジョージア語版)には、トゥシ人も参加し、タタール人の侵略者と戦った。この戦いを背景に、トゥシ人の指導者ゼズヴァ・ガプリンダウリ(ジョージア語版)の勇敢さと、アルヴァニ平原がトゥシ人に与えられたことを伝える伝説が生まれた。トゥシ人がアルヴァニ平原の牧草地を利用する権利は、後にカヘティ王テイムラズ2世とエレクレ1世が発給した文書によって認められた。エクヴティメ・タカイシヴィリ(ジョージア語版)が発見した石刻の証書から、17世紀のトゥシ人が多数の羊を飼育し、その冬季放牧地としてシラキ(ジョージア語版)を利用していたことが分かる。シラキの冬季放牧地は、現在もトゥシ人に利用されている。

18世紀の歴史家ヴァフシティ・バグラティオニは、著書『ジョージア地理誌』(ジョージア語: საქართველოს გეოგრაფია)の中で、トゥシ人とディドニ人(ロシア語版)は、レコス(ジョージア語版)の一部であったとしても、のちにジョージアの王たちに征服されたと記している[10]。

さて、トゥシ人とディドニ人(ロシア語版)は、レコス(ジョージア語版)の分け前であるとしても、後にカルトヴェリの王たちに征服された。[10]

ヴァフシティは、トゥシェティを、ロポティ(ジョージア語版)、トルガ、パンキシの東にあり、大コーカサス山脈の北側に位置する、二つの谷からなる地域と記した。パルスマニ・トゥシェティの集落は36であるという[11]。カヘティのトゥシ人は、夏には山の牧草地を使い、冬には低地へ降りるため、カヘティ人にいっそう従属していたと記している。これに対し、パルスマニの人々は、カヘティの領主に臣従しなかったという[11]。宗教と言語はカルトヴェリ(ジョージア)のものであるが、パルスマニの谷の人々は、キスト人のように混ざっているという[11]。

さて、トゥシェティは、ロポティ(ジョージア語版)、トルガ、パンキシの東、カフカス山の北の側の内にあり、二つの谷から成り、北西の中ほどから東と南の間にかけて位置し、その間を自らの川が流れ、ソナ川に合流し、その川はチャチャンを通り、ボラガンでテルギ川に合流する。さて、パンキシの丘に向かい合うカフカス山の向こうにツォヴァがあり、ツォヴァの下にゴメツァリ(ジョージア語版)が、その下にチャグマ(ジョージア語版)がある。そして、チャグマから、トルガとロポティの谷(ジョージア語版)へ道が越えていく。そして、これらの集落はより優れたものであり、ほかの集落は37ある。この北にパルスマニ・トゥシェティの谷があり、それらの間にカフカス山そのものがある。そして、パルスマニ・トゥシェティには集落が36あり、東と北の中ほどに位置する、キスト=グリグヴ(英語版)から来るカフカス山が、パルスマニと、ツォヴァ=ゴメツァリ=チャグマルトの谷々とを分けている。そして、両トゥシェティを画するのは、東ではカフカス山の、ハヴァルと、チャチャンと、これとの間にあるもの、南ではカフカス山の、これとディドエティ(ジョージア語版)との間にあるもの、北ではカフカス山の、これとグリグヴ=キストとの間にあるものである。しかし、この国は、あらゆる点において、我々がオセティを記述したのと同様であり、堅固さ、収穫、家畜、多産、手工においてそうである。しかし、カヘティ(ジョージア語版)のトゥシ人は羊の多数を保つが、それは、夏には自分たちの山々の内に牧草地があり、冬には降りてガグマ=ムハル(ジョージア語版)の内に入るからであり、これによってカヘティ人にいっそう従うのである。

さて、パルスマニはいっそう貧しいが、これらの者によって彼らもまたカヘティから養われるのであって、それは、彼らが連れて来て商うからである。しかし、彼らはカヘティの領主たちに臣従せず、一方、これらの者は従順な者、従軍する者、貢納する者であり、そして、戦いに臨む者、勇敢な者、強い者、騎馬に優れた者であり、また、無作法な者、愚鈍な者である。なぜなら、女が産むとき、誰も近づかず、かえって遠くへ一人で送り出し、出産ののち四十日で、産まれた者とともに連れ戻すからである。さて、もし男たちの中に心が女である者がいて、戦いの内に逃げるならば、この者には犬たちとともに犬の鉢の内で食べさせ、もはや男たちとともには食べさせない。

さて、宗教と言語においては、カルトゥリである。今はアラヴェルディ(ジョージア語版)の者が牧する。ハルチャシニを奪い取った者である。小さな聖堂があり、古くから建てられ、司祭たちがいるが、真理を知らない者が大半であり、それは、彼らが大きく高い岩を持ち、預言者エリヤの日に行ってその岩に羊と牛を捧げ、その岩を拝み、その岩から聞こえるものを何よりも信じるからである。さて、キスト人とグリグヴ人の側にいる者たちは、彼らの言語をいっそうよく知っている。ただし、パルスマニの谷の者たちは、信仰と言語においてキスト人のように混じり合っている。彼らの間には淫行あるいは姦通がなく、もし誰かが力ずくでその者と交われば、その女は自ら命を絶ち、その男は共同体が殺し、知る者は他の国へ逃れない。[11]

19世紀初頭から、トゥシ人がカヘティのアルヴァニ平原に定住し始めた。

1931年の夏、セルギ・マカラティア(ジョージア語版)の指揮のもと、ジョージア地理学協会(ジョージア語版)の登山部門がトゥシェティへ遠征した[12]。この調査団は現地に2か月間滞在し、予定していた調査を実施した[12]。マカラティアの著書『トゥシェティ』の刊行後、G・ボチョリゼ(ジョージア語版)、テド・ウトゥルガイゼ(ジョージア語版)ら多くの研究者が、トゥシェティの民族誌、歴史、考古学、地理、方言などを調査した。ボチョリゼは、1935年の夏にも調査を行っている。

人口統計

トゥシ人の戦士(テオドール・ホルシェルト画、1896年刊)。

トゥシェティの世帯数については、19世紀のカメラル調査(ロシア語版)や20世紀の記録が残されている。記録上の世帯数は、1801年に1,019戸、1860年に786戸、1931年に379戸、1963年に110戸、1975年に70戸であった[13]。この推移は、トゥシェティの世帯数が長期的に減少したことを示している。トゥシ人の低地への移住は18世紀に始まり、19世紀後半から20世紀前半にかけて進んだ。移住の背景には、氏族・共同体制度の変化と国家制度の定着、自給自足経済の衰退と商品・貨幣経済の発展、厳しい気候・地理的条件、生活に利用できる土地の制約などがあった[14]。

さらに1950年代には、ソビエト政権がトゥシェティの伝統的な生活様式を変え、住民の低地への強制移住を進めた。ダルトロ(ジョージア語版)村の都市計画資料によると、1959年にソビエト政権が政治的な理由からトゥシェティのコルホーズ(集団農場)を廃止し、住民を低地へ移住させた[15][14]。

20世紀後半には、トゥシ人の生活様式や居住形態が大きく変化した。主な居住地はトゥシェティから低地の村々へと移り、上アルヴァニ(ジョージア語版)、下アルヴァニ(ジョージア語版)、ラリスクリ(ジョージア語版)などが主要な居住地となった。一方、トゥシェティは夏季、シラキ(ジョージア語版)やエルダリは冬季の放牧地として利用されている。2022年に承認された保護地域管理計画によると、冬季にトゥシェティに残る住民は約38人である[16]。

伝統と文化

トゥシェティでは、歴史的に移牧を伴う牧羊を中心に、畜産や農耕も営まれてきた。1950年代までは、牧羊に加えて牛の飼育や農耕も行われていたが、その後、農耕はほぼ行われなくなった[15][16]。

移牧を伴う牧羊は、トゥシ人の伝統的な生業である。トゥシェティに由来する在来品種には、トゥシェティ羊(ジョージア語版)、トゥシェティ馬(ジョージア語版)、そしてジョージアの牧羊犬(コーカシアン・シェパード・ドッグ)がある。トゥシェティ羊は季節移牧に適応し、夏季と冬季の放牧地の間を500キロメートルから600キロメートル移動する。トゥシェティ馬は小型で、狭く険しい山道での騎乗や荷物の運搬に適している[15]。羊乳チーズの製法は、牧羊に従事する人々の間で代々受け継がれてきた。トゥシェティの羊乳チーズは「グディス・チーズ(ジョージア語版)」(トゥシュリ・グダ)として知られる。これは、家畜の皮で作った袋「グダ」の中で熟成させるチーズであり、熟成期間は少なくとも60日とされる[17]。トゥシュリ・グダは、英国の保護地理的表示制度において、2020年12月31日に登録されている[18]。

伝統的には、男性が主に羊の放牧や世話を担い、女性は羊毛から敷物、靴下、袋などの工芸品を製作してきた。羊毛や天然染料を用いた伝統工芸品は、地元住民や外国人観光客の間で人気がある[15]。

また農耕も伝統的な生業の一つであり、集落周辺の亜高山帯では、標高の低い場所でオオムギ、高い場所でライムギが栽培されていた。20世紀半ば以降、トゥシェティでは農耕がほぼ行われなくなった[15]。

音楽

トゥシェティの伝承歌には古い歌と新しい歌があり、古い歌は単旋律、新しい歌は主に多声で歌われる。低音の持続音を伴う多声歌唱も見られ、男性の歌唱では独唱や斉唱が行われる。代表的な伝承歌には「ラシャリの歌」「ゼズヴァ・ガプリンダウリ」「ダラ」などがある。伝統楽器にはサラモリ(ジョージア語版)、パンデュリ(ジョージア語版)、ガルモニ(アコーディオン)がある[19]。

建築

トゥシェティでは、自然の地形を利用した城塞集落が築かれてきた。こうした集落には、旧ディクロ、ヘゴ、ツァロ(ジョージア語版)、インドゥルタ(ジョージア語版)などがある。トゥシェティの各地には、防御や敵の接近を知らせる合図に用いられた城塞塔が残っている。塔には、片流れ屋根や切妻屋根を持つもの、ピラミッド形の屋根を持つものなどがある。村々や谷は、火を使って敵の出現や戦闘準備を知らせる信号網で結ばれていた[15]。

トゥシェティには、住居と防御施設を兼ねた城塞住宅が残る。こうした伝統建築は、独自の形態や材料、立地を持つ建築遺産として、ユネスコの世界遺産暫定一覧に記載されている[1]。

トゥシェティには、シェナコ(ジョージア語版)村のニシュタコ丘にある古代集落跡や、オマロの青銅器時代・鉄器時代の墓地などの考古遺跡が残る。歴史的な城塞集落には、旧ディクロ(ジョージア語版)、ヘゴ、ツァロ(ジョージア語版)、インドゥルタ(ジョージア語版)のほか、チョンティオ(ジョージア語版)、ダキウルタ(ジョージア語版)、ナクドゥルタなどがある[15]。

言語

トゥシ方言(ジョージア語版)はジョージア語の方言の一つで、東ジョージアの山岳方言群に属する。19世紀後半から20世紀前半にかけてトゥシ人の多くが低地へ移住したことに伴い、現在は主に上アルヴァニ(ジョージア語版)、下アルヴァニ(ジョージア語版)、ラリスクリ(ジョージア語版)で話されている[20]。

脚注

出典

参考文献

外部リンク