内藤忠次

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内藤忠次
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 正保2年(1645年)
死没 宝永元年5月25日(1704年6月26日)
官位 従五位下・志摩守
藩 志摩鳥羽藩世嗣
氏族 内藤氏
父母 内藤忠政、板倉重宗娘
兄弟 忠次、波知、忠勝、忠知、安部信友正室、戸田氏西正室、菅沼定賞正室、
齢松院白峯寒月
妻 板倉重郷養女
子 板倉重常養女
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内藤 忠次(ないとう ただつぐ)は、江戸時代前期の志摩国鳥羽藩の世嗣。官位は従五位下・志摩守。

略歴

鳥羽藩2代藩主・内藤忠政の長男として誕生。母は板倉重宗の娘。正室は板倉重郷の養女(形原松平典信の娘)。娘は板倉重常の養女(酒井忠親室)。

鳥羽藩嫡子として生まれ、明暦2年(1656年)に徳川家綱に御目見し、万治2年(1659年)に叙任された。しかし、寛文11年(1671年)に病気により廃嫡され、代わって弟・忠勝が嫡子となった。忠勝は寛文13年(1673年)に家督を継いだが、延宝8年(1680年)に永井尚長を刺殺した咎で切腹し、内藤家は絶家となった。忠次はその後の宝永元年(1704年)、60歳で死去した。