王仁鎬
王 仁鎬(おう じんこう、893年 - 961年)は、五代十国時代から北宋にかけての官僚・軍人。本貫は邢州龍岡県[1]。
経歴
後唐の李嗣源が邢台に駐屯すると、仁鎬は牙校をつとめた。明宗(李嗣源)が即位すると、仁鎬は作坊副使に抜擢され、西上閤門使に累進した。清泰年間、右領軍衛将軍に転じた。後晋の天福年間、青州の楊光遠が反乱を計画すると、仁鎬は節度副使となり、その動静をうかがった。2年後、仁鎬は誣告を受け、護国軍行軍司馬に転じた。仁鎬が河中府に着任して数か月、楊光遠が反乱を起こしたと奏聞された。後漢の乾祐年間、昭義軍節度副使・天雄軍節度副使を歴任した[1]。
郭威が鄴に駐屯すると、仁鎬はその推薦を受けて副留守となった。郭威が起兵すると、仁鎬はその計画に参与した。広順元年(951年)、後周の太祖(郭威)が即位すると、仁鎬は王峻に憎まれて、唐州刺史として出され、棣州団練使に転じた[1]。広順3年(953年)、入朝して右衛大将軍となり、宣徽北院使をつとめ、枢密副使を兼ねた[2][3]。顕徳元年(954年)、永興軍節度使として出向した。世宗柴栄が即位すると、仁鎬は河中節度使に任じられた。殿中丞の上官瓚が河中府への使者をつとめて開封に帰り、河中府の民の多くが農地を隠して租税を逃れていると言上した。世宗が上官瓚を派遣して負担均等化を図らせると、民衆は重税を苦にして、他州に逃亡する者が多く出た。仁鎬が上官瓚の施策に反論したので、取りやめられた。継母が死去したため、仁鎬は官を去って喪に服した[1]。
顕徳5年(958年)、仁鎬は安国軍節度使に転じた。邢州に反乱者があったが、仁鎬が絹布を贈って説得すると、反乱者は退去して、再び反乱を起こさなかった。顕徳6年(959年)、恭帝柴宗訓が即位すると、仁鎬は山南東道節度使となった[4]。
北宋の建隆元年(960年)、仁鎬は検校太師を加えられた。建隆2年(961年)、病のため開封に召還され、道中に唐州にいたると、伝舎で死去した。享年は69[5]。
仁鎬は端正謹厳な性質で倹約につとめ、仏教を厚く信奉し、俸禄の多くは僧の食事代として寄進した。毎朝仏教経典5巻を音読し、日が暮れてから政務をみるありさまであった。従事の劉謙が仁鎬の仏教傾倒を責めると、仁鎬はへりくだって謝るばかりで、怒るようすもなかった。当時の人に長者と称された[5]。
脚注
伝記資料
- 『宋史』巻261 列伝第20
参考文献
- 『旧五代史』中華書局、1976年。ISBN 7-101-00321-4。
- 『新五代史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00322-2。
- 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。