目夷

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公子目夷
宋
左師(中国語版)
出生 生年不詳
宋、商丘
死去 没年不詳
拼音 Gōng-zǐ Mù-yí
字 子魚
別名 子目夷(姓名)
魚目夷(氏名)
司馬子魚(通称)
主君 宋襄公
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公子 目夷(こうし ぼくい/こうし もくい[注釈 1]、生没年不詳)は、中国春秋時代の宋の政治家・幕僚。字は子魚。「公子」とは身位の名で、姓は子(し)、氏は魚(ぎょ)、諱を目夷という。男性であるため、全名は氏をもった「魚目夷」となるが、「司馬子魚」とも通称される[1]。商(殷)の帝乙(帝辛すなわち紂王の父)の十三世の孫にあたる。

父の死後、位に即いた異母弟の襄公をよく輔弼して左師(中国語版)に任ぜられた。聡明で徳望の厚く、襄公からも慕われたが、宋襄の仁を諫めて容れられず、泓水の戦いに大敗した。

生涯

紀元前7世紀の人。宋の桓公の庶長子として生まれた。

桓公が危篤となると、異母弟の茲父(茲甫[注釈 2])は「目夷は私より年長で、且つ仁をも備えております。どうか彼を世嗣にお立てください」と公に求め、公もその言に従って目夷を世嗣としたが、目夷は「果たして国を譲ること以上の仁があるでしょうか。臣はそれに及ばず、位の継承順位に順わないことにもなりしょう[注釈 3]」と言って遂に立ち去ったため、茲父が世嗣に就任した[2]。

紀元前651年、桓公が薨じて茲父が践祚する(宋の襄公)と、人望を慕われて左師(中国語版)に任ぜられた。目夷は聴政して宋をよく治めたため、その子孫は代々左師の官位を世襲したという[3]。

紀元前641年、宋の襄公が邾の文公に命じて、鄫子(中国語版)を次睢の社で(生贄として)用い、東夷を従属させようとした際[注釈 4]、目夷は

古より、六畜であっても相互に用いて祭祀に用いることはなく[注釈 5]、小さな祭事には大きな牲(いけにえ)を用いませんでした。況して、敢えて人を用いる必要がありましょうか。祭祀とは人が行うものですが、民は神に仕える主体といいます。人を生贄に用いたなら、いったい誰がその祭祀を饗(う)けるというのでしょうか。 斉の桓公は滅びかけた三国(すなわち魯・衛・邢)を存続させ、それによって諸侯を従わせましたが、義士は猶(なお)も薄徳だと言いました[注釈 6]。今、君は一会で二国の君を虐げ[注釈 7]、淫昏の鬼(邪神)を用いてまで、覇を求めんとしております。そのようにして覇を得ることは難しいでしょう。死を得て幸を為すが如しです。

と諫めた[11]。また、襄公率いる宋軍が曹を囲んだときには、

周の文王は崇侯虎が徳を乱していると聞き、これを伐(う)ちましたが、三旬ほど軍を進めても降らせることができなかったため一度退き、教えを脩(おさ)めてのち伐ちました[注釈 8]。備えは以前より変化はなかったのにもかかわらず、(文王の徳によって)崇侯虎は自ずから降ったのです。 『詩経』には、「寡妻に刑し 兄弟に至り 以て家邦(国家[13])を御(おさ)む[注釈 9]」とありますが、今、君の徳は猶も闕(か)くる所があって、それでどうして(曹の)人を伐つことなどができましょうか。今は寧ろ、姑(しばら)く内に省み、(徳の)闕くる所なくして後に動くべきです。

と諫めた[16]。 紀元前639年春、襄公が鹿上で斉・楚との会盟を主宰し、楚に天下の諸侯を招集するに及んで成王はこれを許したが、目夷は

小国(宋)が盟主の地位(覇)を争うのは、のちの禍となりましょう。後で(戦争に[17])敗れるだけであれば幸いですが、宋は亡びてしまいませんか。

と、若干の皮肉を交えて襄公を諷諫した[18]。同年秋、襄公が盂(う、地名)において諸侯と会合した際、目夷は

禍いは、まさにここに在ると言えましょう。君の欲は已に甚だしく、どうしてこれに堪えることができましょうか。

と嘆いたが容れられず[19]、襄公は盂での会盟を主宰した。しかし、事は目夷が危惧していた通りに進み、襄公は会盟の最中、楚に拘束された。同年冬、未だ楚で勾留状態にある襄公の処遇を巡って諸侯が薄(はく、地名)で商議し、ついに襄公は釈放されたが、目夷は襄公に

禍いは猶も終わっていないでしょう。これでは、君を懲らすに足りません。

と直諫した[20]。 紀元前638年夏、襄公は鄭が楚と結ぶ動きを見せたとして鄭の征伐を断行した。この際、目夷は宋の将来を見通し、「所謂(いわゆる)禍とはここにあったのか」と嘆いたという[21]。なお、宋が鄭への侵攻を開始したとの旨を報された楚の成王は鄭へ援軍を派兵し、襄公はこれを自ら迎撃せんとした。これに対し、宋の大司馬固(中国語版)(姓は子、宋の荘公の孫)は、

天が商を見棄ててから、久しい時が経っております。今、君がこれをまさに興さんとしても、已(すで)に赦されることではないでしょう。

と、今は楚とは干戈を交えぬことが先決であると諫めた。しかし、襄公はかつて楚の成王との間に生じた私怨もあってこれを容れず、同年11月、泓水(おうすい、河川の名[注釈 10])のほとりに布陣して迎撃の体勢を整えた[22]。襄公率いる宋軍は楚軍が泓水を渡河する前に布陣を完成させたため、目夷は

彼(楚)は衆(おお)くて我(宋)は寡(すく)なく、(楚の軍が)未だ(泓水を)渡り終えぬ内に、これを撃たせてください。

と進言したが、襄公は「不可」とだけ言って攻撃せず、楚軍の渡河してのち目夷が再び攻撃を進言しても、襄公は「未可」とだけ言って攻撃せず、楚軍が布陣を完成させたのを見て漸く、襄公は攻撃を開始した。しかし、布陣を整えた楚の大兵に宋の寡兵は為す術もなく大敗し、襄公自身も股に傷を負って、その門官(監門[23][24][注釈 11])は殲滅させられた(泓水の戦い)[26]。 戦後、宋の国人はみな襄公を咎め、襄公は

君子は(人を)重ねて傷つけず、二毛を禽(とら)えない[注釈 12]。古の軍も、阻隘によって(無防備な敵軍を攻撃することによって)勝ちを求めていない。寡人は亡国の余(宋はかつて隆盛を極めた商の王室に連なるため)と雖も、鼓を鳴らして列を成すようなことはしないのだ[注釈 13]。

と弁明した[30]。これは、詐謀や奇襲によって勝利を得ることは仁義に反するのだと説いたものだが[30]、目夷は

君は戦を未だに知らないようです。勍敵(勁敵=強敵[31][32]、楚をいう)なる軍が隘路に在って列を成していないのは、天が我(宋)を賛(たす)けたのです。阻まれているところを鼓して攻撃するのも、また宜しいのではありませんか。(地利を活かして戦ったとしても)猶も(勝てぬのではないかと)懼れるところがあります。

且つ、その勍者(強者、前節に見える「勍敵」の語に係るとすれば、楚軍を指すものか)はみな吾の敵なのです[注釈 14]。胡耇(ここう、胡耈=老人[37][注釈 15])と雖も、捕らえられるなら捕らえるべきで、何為れぞ二毛を慮って処断を躊躇う必要がありましょうか。

恥を明らかにしてまで戦を教えるのは、戦とは(慈悲ではなく)敵を殺すことを求めねばならないからです。たとえ負傷していても、死には至っていないというのに、どうして重ねて傷付けようとはされないのでしょうか。若し、重ねて傷付けることを愛(お)しむのであれば則ち、初めから傷付けなければ(戦闘せずに撤兵すれば)良いのです。二毛を愛しむのであれば則ち、敵に服(したが)うが如しです[注釈 16]。

三軍は利(有利=優勢[41])をもって用い、金鼓は声気(将兵の鼓舞[41])に用います。利にしてこれを用いれば、阻隘でも可(襄公が目夷の進言を拒む際に発した「不可」「未可」の語と対をなし、攻撃を許可できるの意)なのです。声を盛んにして志を致せば、儳(さん/せん=不揃いなさま[42][注釈 17]、ここでは布陣が不十分であるの意[41][43])に鼓を鳴らしても(=攻撃しても)可なのです。

として、襄公を諫めた[44]。

これより後、『春秋左氏伝』を初めとする史書に公子目夷の名は見当たらないが、襄公は泓から撤兵した際に負った戦傷が治癒せず、この翌年(紀元前637年)に薨ずる[45]。襄公を継いだ子の王臣(成公)は父が乱した楚との国交恢復に奔走し、やがて講和を結んだ[46]。また後世、「無益の情け」やそれによって辛酸を嘗めることを、かくいう襄公の故事を謗って「宋襄の仁」という[47][注釈 18]。同語は日本においてもしばしば用いられ、寺田寅彦『俳諧の本質的概論』や小松左京『日本沈没』などに使用が確認できるほか、曽先之『十八史略』に見える同様の故事を通じて、高等学校における漢文の代表的な題材としても広く親しまれている[52]。

家庭

父祖

異母弟

孫子

脚注

注釈

  1. ↑ 名は「モクイ」と読まれることが多いが、「目」の音「モク」は呉音で、漢音は「ボク」である。
  2. ↑ 襄公の名は、『春秋左氏伝』には「茲父」とあるが、『史記』には「茲甫」とある。
  3. ↑ 長幼の順から見れば、先の茲父の発言にもあるように目夷が最年長であったが、目夷は庶子であり、嫡子の中では茲父が最年長であったためである。
  4. ↑ 睢水(中国語版)は汴水(中国語版)から分かれ、東へ流れて陳留・梁・譙・沛・彭城の諸県を経て泗水に入り、この水辺には妖しい神がいて、東夷の人々はみな社を設けてこれを祀っていた。晋の杜預は、おそらく人を殺して祭祀の供物としていたのであろうと推測している[4]。唐の孔穎達は杜預の注に対し、『春秋釈例』によれば、汴水は滎陽で黄河から分かれ、睢水は汴水から分かれ、東へ陳留・梁国・譙郡・沛国を経て、彭城県で泗水に入るもので、また杜預の「睢水受汴,東經陳留、梁、譙、沛、彭城縣入泗,此水次有妖神」という表現に対しては、「受」は水が別の水から流れ出ること、「入」は別の水へ流れ込むこと、「次」は水辺という意味であると説明する。加えて、後に「淫昏の鬼」と言っていることから、この祭祀は正規の祭祀制度には含まれないものであったため、杜預は「水辺に妖神がいる」と記したのだろうと解釈するとともに、本文に「東夷を帰属させようとした」とあるので、これは東夷が祀っていた神であり、「東夷はみな社を設けて祀っていた」と説明したのだ、と、それぞれ注釈してある。なお、劉炫は、昭公十年の「亳社で初めて人を用いた」という記事を根拠に、杜預がこの祭祀をもともと人を供物としていたものとしたことに疑問を呈したが、孔穎達は『春秋左氏伝』が「初めて人を用いた」と記している以上、それ以前の亳社では人を用いていなかったことが分かる一方、ここでは「初めて」とは記されていないため、以前から人を供物として用いる習慣があったと考えられるとし、劉炫が杜預の誤りを指摘したのは適切ではないと説明する[5]。また、孔穎達は「欲以属東夷」の箇所について、「属」は「集める」という意味であり、鄫子を殺して東夷を恐れさせ、東夷を自分のもとに集めて帰服させようとしたのだとし、斉の桓公が徳によって諸侯を帰服させ、諸侯が桓公のもとに集まったのと同じであろうとする[6]。
  5. ↑ 『爾雅』「釈畜」によれば、馬・牛・羊・豕・犬・鶏を「六畜」という。『周礼』ではこれを「六牲」と呼ぶ。飼育しているときは「畜」、祭祀などに用いるときは「牲」と呼ぶが、実際には同じものである。孔穎達は、ここで「六畜は互いに用いて祭祀に用いない」と言っているのは、昭公十一年の『春秋左氏伝』に「五牲不相為用(五牲は互いに代用して用いない)」とあるのと同じ意味であるとする。また、『周礼』「校人」には「春に馬祖を祭る」とし、後漢の鄭玄はこの「馬祖」を天駟(二十八宿の一、房宿の異称)と説明しているとする。六畜については、その祖先にあたる神について明確に記されているのは馬の場合だけであるから、杜預は「馬祖を祭ったなら馬を用いない」という一例を挙げて、この原則を説明したのであると解釈する。更に沈氏は、『春秋説』に「天苑は牛を司り、天雞・天狗・天豕もある」とする説があるので、馬祖と同じように、それぞれの家畜にも対応する神があるのだろう、と述べている[7]。
  6. ↑ 実際には衛は北狄によって滅ぼされ、魯と邢に関しては完全に滅びたという訳ではないが、孔穎達は斉桓の功績を誇大するための表現であるとしている[8]。また杜預によれば、義士が斉桓を薄徳だと言ったのは、桓公が魯の内乱に乗じて魯を奪おうとしたことや、邢・衛を救うのが遅れたことを指すのだという[9]。
  7. ↑ 杜預によれば、襄公は三月に諸侯を招集し、そこで滕子を捕らえ、六月の会盟に及んでは、そこで鄫子を捕らえたことを指すという[10]。
  8. ↑ 陸徳明曰く、(文王は崇侯虎を徳によって降したのだから)本段落における二度目の「伐つ」という表現は衍であるという[12]。
  9. ↑ 『詩経』大雅・思斉に見える詩。杜預曰く、「寡妻」とは文王の妃・太姒をいい、ここでの「刑する」とは「模範にする」の意である。すなわち、仁君として知られる周の文王の徳とその教化も、初めは妻や兄弟といった家内から始まったものだということ[14]。また、「御」の訓「おさ-める」は、陸徳明の説明による[15]。
  10. ↑ 「水」は川の意。「泓」は地名であり、「泓水」とは「泓にある水(川)」の意。
  11. ↑ いずれも門番の意で、杜預によれば、君主の出師に際してその左右を護衛した者という[25]。
  12. ↑ 杜預曰く、ここでの「二毛」とは髪が二色であること、転じて「老人」の意[27]。「禽」は「擒」に通じ、「生け捕りにする」の意[28]。
  13. ↑ 孔穎達曰く、軍法では鼓を鳴らして戦うため、そこから交戦することを「鼓」といい、敵の陣容が整っていないのに鼓を鳴らして攻撃するのは、詐謀によって勝利を求めることに該当するため、襄公はこう述べたのだとする[29]。
  14. ↑ 以下、孔穎達の言による。用兵の法として、目の前の敵については、その彊弱(=強弱、彊は強の異体字)を問わず、遺留してはならない。もし殺さず留めておけば、彊者(=強者)はまた己(宋)にとっての害となるため、「且つ、勍者は〜」と述べているのである。陳(じん[33]、陣)の上で損傷を被らず、材力(さいりょく[34]、才能と力量[35])の彊なる者は、みな吾らに相応し得る敵となる。もし彼らを殺さねば、忽ち還って来て我らを害する。胡耇といえども、捕らえたならば釈放してはならず、二毛に恩義を賜る必要もないのである[36]。
  15. ↑ 以下、孔穎達の疏による。『逸周書』諡法解によれば「保民耆艾曰胡」(保民耆艾を胡と曰ふ)とあり、ここでの「胡」とは耆艾(老人ないし尊者の意[38])をいう。『爾雅』釈詁篇によれば、「耇,壽也。」(耇とは寿(いのちなが)しなり)とあり、舎人曰く「耇は覯に通じ、血気の精華が竭(つ)きた様をいう。犬のように色が赤黒くのである。」という。また、三国時代の魏の儒者Template:孫炎曰く、「耇とは、顔面が凍った梨の如き色になることである。浮き出た垢に似た色をしていることは、老人の寿(いのちなが)しなることの徴(しるし)である。」という[39]。
  16. ↑ 孔穎達は、本節を「若し重ねて傷付けることを愛しむのであれば、本から傷付けぬに越したことはない。若し二毛への傷害を欲さぬのであれば、早々に服従するに越したことはない。然すれば何ぞ須らく戦に与るべしと言えようか。」と敷衍している[40]。
  17. ↑ 「儳」の字は「ゼン」や「ザン」とも読めるが、前者は呉音、後者は慣用音で、漢音で読むなら清音で「サン」ないし「セン」である。これについては、唐の陸徳明が「儳」の字音として「仕銜反」(「仕」の頭子音「s」+「銜」の韻「an」=「san」)と「仕減反」(「仕」の頭子音「s」+「減」の韻「en」=「sen」)の二つを挙げている。
  18. ↑ 「宋襄」は、宋の襄公のこと[48]。「宋」は国名、「襄」は茲父(諡号が襄公)の諡。後世、前漢の武帝を「漢武」[49]、三国魏の曹操を「魏武」(『魏武註孫子』など)という類である。また「仁」とは、儒教における五常(仁・義・礼・智・信)の一つで、他者に対する労りの精神をいう[50]。すなわち「宋襄の仁」とは、「宋の襄公が(楚に)かけた(不要の)憐れみ」の意[51]。

出典

  1. ↑ 杜預『春秋左氏経伝集解』:司馬子魚,公子目夷也。
  2. ↑ 『春秋左氏傳』「僖公八年」:宋公疾,大子茲父固請曰:「目夷長且仁,君其立之。」公命子魚。子魚辭曰:「能以國讓,仁孰大焉?!臣不及也!且又不順。」遂走而退。
  3. ↑ 『春秋左氏傳』「僖公八年」:宋襄公即位,以公子目夷為仁,使為左師以聽政,於是宋治。故魚氏世為左師。
  4. ↑ 杜預『春秋左氏経伝集解』:睢水受汴,東經陳留、梁、譙、沛、彭城縣入泗,此水次有妖神,東夷皆社祀之,蓋殺人而用祭。
  5. ↑ 孔穎達『春秋左伝正義』:正義曰:《釋例》曰:「汴水自熒陽受河,睢水受汴,東經陳留梁國譙郡、沛國,至彭城縣入泗。」凡水,首從水出謂之「受」,流歸他水謂之「入」。《漢書》之例為然,言汴從河出,睢從汴出也。次謂水旁也。下云「用諸淫昏之鬼」,則此祀不在祀典,故云:「此水次有妖神」,妖神而謂之社。傳言「以屬東夷」,則此是東夷之神,故言「東夷皆社祠之」。劉炫云:「案昭十年,季平子伐莒,獻俘,始用人於亳社。」彼亳社舊不用人,杜何以知此社殺人而用祭乎?今知不然者,彼傳云「始用人於亳社」,故知舊來不用。此云「使邾文公用鄫子於次睢之社」,既不言始,明知舊俗用之。劉取彼而規杜過,非也。
  6. ↑ 孔穎達『春秋左伝正義』:【疏】傳「欲以屬東夷」。○正義曰:屬,訓聚也。殺鄫子以懼東夷,使東夷聚來歸己也。齊桓以德屬諸侯,諸侯聚歸齊桓。
  7. ↑ 孔穎達『春秋左傳正義』:○正義曰:《爾雅·釋畜》馬、牛、羊、豕、犬、雞,謂之「六畜」。《周禮》謂之「六牲」。養之曰畜,用之曰牲,其實一物也。此云「六畜不相為用」,昭十一年傳曰:「五牲不相為用。」彼注不云:「馬,而以其餘當之,明其俱為祭祀,所用彼此同也。《周禮·校人》「春祭馬祖」,鄭玄云:「馬祖,天駟也。《孝經說》曰:『房為龍馬。』」六畜之言先祖者,唯此一文而已。以外牛、羊之等,其祖不知為何神也。謂若祭馬先,不用馬,略舉一隅,據有文者言之耳。沈氏云:《春秋說》天苑主牛,又有天雞、天狗、天豕。以馬祖類之,此等各有其祖。
  8. ↑ 孔穎達『春秋左傳正義』:【疏】注「三亡國,魯、衛、邢」。○正義曰:《齊語》云:「魯有夫人、慶父之亂,二君弑死,國絕無嗣,桓公使高子存之;狄人攻邢,桓公築夷儀以封之;狄人攻衛,衛人出廬於曹,桓公城楚丘以封之。」是也。衛則狄滅之矣,魯、邢不滅,而言亡者,美大齊桓之功耳。
  9. ↑ 杜預『春秋左氏經傳集解』:義士猶曰薄德。〈(【注】謂欲因亂取魯,緩救邢、衛。)〉
  10. ↑ 杜預『春秋左氏經傳集解』:公三月以會召諸侯,執滕子;六月而會盟,其月二十二日執鄫子,故云一會而虐二國之君。
  11. ↑ 『春秋左氏傳』「僖公十九年」:夏,宋公使邾文公用鄫子于次睢之社,欲以屬東夷。司馬子魚曰:「古者六畜不相為用,小事不用大牲,而況敢用人乎?祭祀以為人也。民,神之主也。用人,其誰饗之?齊桓公存三亡國以屬諸侯,義士猶曰薄德。今一會而虐二國之君,又用諸淫昏之鬼,將以求霸,不亦難乎?得死為幸。」
  12. ↑ 『春秋左伝正義』:【音義】○復,扶又反,注同;一本作「而復伐之」,「伐」,衍字也。壘,力軌反,軍壘。
  13. ↑ 白川静, 普及版 字通『「家邦」の読み・字形・画数・意味』平凡社, コトバンク。2026年10月14日閲覧。
  14. ↑ 杜預『春秋左氏経伝集解』:【注】《詩·大雅》。言文王之教,自近及遠。寡妻,嫡妻,謂大姒也。刑,法也。
  15. ↑ 『春秋左伝正義』:【音義】○御如字,治也;《詩》音五嫁反,迎也。嫡,或作適,丁曆反。大姒音泰。姒音似。
  16. ↑ 『春秋左氏傳』「僖公十九年」:宋人圍曹,討不服也。子魚言於宋公曰:「文王聞崇德亂而伐之,軍三旬而不降。退脩教而復伐之,因壘而降。《詩》曰:『刑于寡妻,至于兄弟,以御于家邦。』今君德無乃猶有所闕,而以伐人,若之何?盍姑內省德乎,無闕而後動。」
  17. ↑ 杜預『春秋左氏經傳集解』:【注】謂軍敗。
  18. ↑ 『春秋左氏傳』「僖公二十一年」:二十一年春,宋人為鹿上之盟,以求諸侯於楚,楚人許之。公子目夷曰:「小國爭盟,禍也。宋其亡乎,幸而後敗。」
  19. ↑ 『春秋左氏傳』「僖公二十一年」:秋,諸侯會宋公于盂。子魚曰:「禍其在此乎?君欲已甚,其何以堪之?」
  20. ↑ 『春秋左傳正義』「僖公二十一年」:冬,會於薄以釋之。子魚曰:「禍猶未也,未足以懲君。」〈(【注】為二十二年戰泓傳。 【音義】○懲,直升反。泓,烏宏反。)〉
  21. ↑ 『春秋左傳正義』「僖公二十二年」:夏,宋公伐鄭。子魚曰:「所謂禍在此矣。」〈(【注】怒鄭至楚,故伐之為下泓戰起。)
  22. ↑ 『春秋左傳正義』「僖公二十二年」:楚人伐宋以救鄭。宋公將戰,大司馬固諫曰:「天之棄商久矣,君將興之,弗可赦也已。」〈(【注】大司馬固,莊公之孫公孫固也。言君興天所棄,必不可不如赦楚,勿與戰。)〉弗聽。冬,十一月,己巳,朔,宋公及楚人戰於泓。
  23. ↑ 白川静, 普及版 字通『「門官」の読み・字形・画数・意味』平凡社, コトバンク。2026年10月21日閲覧。
  24. ↑ 白川静, 普及版 字通『「監門」の読み・字形・画数・意味』平凡社, コトバンク。2026年10月21日閲覧。
  25. ↑ 『春秋左氏經伝集解』「僖公二十二年」:門官,守門者,師行則在君左右。殲,盡也。
  26. ↑ 『春秋左傳正義』「僖公二十二年」:宋人既成列,楚人未既濟。〈(【注】未盡渡泓水。)〉司馬曰:〈(【注】子魚也。)〉「彼眾我寡,及其未既濟也,請擊之。」 公曰:「不可。」既濟而未成列,又以告。公曰:「未可。」既陳而後擊之,宋師敗績。公傷股,門官殲焉。
  27. ↑ 杜預『春秋左氏經傳集解』:二毛,頭白有二色。
  28. ↑ 白川静, 普及版 字通『「禽」の読み・字形・画数・意味』平凡社, コトバンク。2026年10月22日閲覧。
  29. ↑ 『春秋左傳正義』「僖公二十二年」:【疏】「不鼓不成列」。○正義曰:軍法鳴鼓以戰,因謂交戰為鼓。彼不成列而鼓以擊之,是詐以求勝,故注云「恥以詐勝」。
  30. 1 2 『春秋左傳正義』「僖公二十二年」:國人皆咎公。公曰:「君子不重傷,不禽二毛。〈(【注】二毛,頭白有二色。【音義】○咎,其九反。重,直用反,下同。)〉古之為軍也,不以阻隘也。〈(【注】不因阻隘以求勝。【音義】○隘,於賣反。)〉寡人雖亡國之餘,〈(【注】宋,商紂之後。)〉不鼓不成列。」〈(【注】恥以詐勝。)
  31. ↑ 精選版 日本国語大辞典『「勁敵」の意味・読み・例文・類語』小学館, コトバンク。2026年10月22日閲覧。
  32. ↑ 白川静, 普及版 字通『「勍敵」の読み・字形・画数・意味』平凡社, コトバンク。2026年10月22日閲覧。
  33. ↑ 陸德明『經典釋文』:陳,直覲反,又如字。
  34. ↑ 「材」の字音「ザイ」は呉音で、漢音で読むなら「サイ」である。
  35. ↑ 白川静, 普及版 字通『「材力」の読み・字形・画数・意味』平凡社, コトバンク。2026年10月23日閲覧。
  36. ↑ 『春秋左傳正義』「僖公二十二年」:【疏】「且今」至「吾敵也」。○正義曰:用兵之法,前敵無問彊弱,不可遺留,且復若留,彊者還為己害,故曰「且今之」。陳上不被損傷,材力彊者,皆能與吾相敵,若其不殺,還來害我,是以雖及胡耇,獲則取之,何有恩義於二毛之人。
  37. ↑ “< 胡耈: ㄏㄨˊ ㄍㄡˇ >辭典檢視 - 教育部重編國語辭典” (中国語). 重編国語辞典修訂本. 中華民国教育部国語推行委員会. 2026年10月22日閲覧。
  38. ↑ 精選版 日本国語大辞典『「耆艾」の意味・読み・例文・類語』小学館, コトバンク。2026年10月23日閲覧。
  39. ↑ 『春秋左傳正義』「僖公二十二年」:【疏】「雖及胡耇」。○正義曰:《諡法》「保民耆艾曰胡」。胡是老之稱也。《釋詁》云:「耇,壽也。」舍人曰:「耇,覯也。血氣精華覯竭,言色赤黑如狗矣。」孫炎曰:「耇,面如凍梨色,似浮垢老人壽徵也。」
  40. ↑ 『春秋左傳正義』「僖公二十二年」:【疏】「若愛」至「服焉」。○正義曰:如,猶不如,古人之語然,猶似敢即不敢。若愛彼重傷,則不如本勿傷之。若愛其二毛,不欲傷害,則不如早服從之,何須與戰?
  41. 1 2 3 白川静, 普及版 字通『「声気」の読み・字形・画数・意味』平凡社, コトバンク。2026年10月22日閲覧。
  42. ↑ “儳 | 漢字一字”. 漢字ペディア. 日本漢字能力検定協会. 2026年10月22日閲覧。
  43. ↑ 杜預『春秋左氏經傳集解』:儳,岩,未整陳。
  44. ↑ 『春秋左氏傳』「僖公二十二年」:子魚曰:「君未知戰。勍敵之人,隘而不列,天贊我也。阻而鼓之,不亦可乎?猶有懼焉。且今之勍者,皆吾敵也。雖及胡耇,獲則取之,何有於二毛?明恥教戰,求殺敵也。傷未及死,如何勿重?若愛重傷,則如勿傷。愛其二毛,則如服焉。三軍以利用也,金鼓以聲氣也。利而用之,阻隘可也。聲盛致志,鼓儳可也。」
  45. ↑ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『「襄公」の意味・わかりやすい解説』ブリタニカ・ジャパン, コトバンク。2026年10月22日閲覧。
  46. ↑ 『春秋左氏傳』「僖公二十四年」:宋及楚平,宋成公如楚。還,入於鄭。鄭伯將享之,問禮於皇武子。對曰:「宋,先代之後也,於周為客。天子有事,膰焉。有喪,拜焉。豐厚可也。」鄭伯從之。享宋公有加,禮也。
  47. ↑ デジタル大辞泉『「宋襄の仁」の意味・読み・例文・類語』小学館, コトバンク。2026年10月22日閲覧。
  48. ↑ デジタル大辞泉『「宋襄」の意味・読み・例文・類語』小学館, コトバンク。2026年10月22日閲覧。
  49. ↑ デジタル大辞泉『「漢武」の意味・読み・例文・類語』小学館, コトバンク。2026年10月22日閲覧。
  50. ↑ スーパー大辞林『ごじょう【五常】』三省堂。2026年10月22日閲覧。
  51. ↑ 田所義行, 日本大百科全書(ニッポニカ)『「宋襄の仁」の意味・わかりやすい解説』小学館, コトバンク。2026年10月22日閲覧。
  52. ↑ “宋襄之仁【十八史略】|329 新編古典B - 東書Eネット”. 東書Eネット. 東京書籍. 2026年10月22日閲覧。

参考文献