神道
| 神道 | |
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| 国・地域 |
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| 信者数 | 8337万1429人[1] |
| 成立年 | 諸説あり |
| 創始者 | なし[注 1] |
| 信仰対象 | 神・仏など |
| 母体 | 律令祭祀制・自然信仰(磐座祭祀・聖水信仰)[2]・祖神祭祀[2]、顕密仏教[3][4]など |
| 宗派 | 下記神道諸派参照 |
| 主な指導者 | 神職 |
| 聖地 | 神社などの祭祀施設・山、岩、川などの自然物など |
神道(しんとう、しんどう[5])は、現代の日本では主に「日本の伝統的な神祭り」の総称である[6]。「日本固有の民族宗教」の総称であり、日本で太古から連綿と続くもので、よって天皇と密接な関係を持つものと考える人も多いが[7][8]、こうした一般的な理解は学術的に否定されつつある[9][10][11][12]。現代的な意味での「神道」の定義は一様でなく、また歴史的に見ても「神道」の意味は一様でない[13]。
神道がいつからあると言えるかの見解は多様であるが、学術的には主に、早くて7世紀後半・8世紀 天武天皇・持統天皇朝の律令祭祀制において、遅くても、15世紀に教義が整備・体系化され仏教から自立し成立したと考えられている[14][15]。
※ 本項では便宜的に神祇または神祇信仰、カミ信仰、神信仰と神道の使い分けは行わず、律令祭祀制以降の日本の神信仰(カミ信仰、神祇信仰)を神道と呼ぶ[注 2]。
概要
[編集]神道は、宗教学では大きく自然宗教もしくは民族宗教に分類される[10]。日本の土着宗教の信仰と実践とも定義されている[16][17]。
- 神道の意味を巡るせめぎ合い
現代日本では、日本の民族信仰や[18][19][20]、仏教や儒教といった日本人の信仰や思想に大きな影響を与えた外来の宗教・思想に対して、それらが伝わる前から日本にあった日本土着の神観念に基づく宗教的実践・宗教的態度をあらわす言葉として用いられる[7][8][5]。神道の語に、宗教としての神道を支える生活習慣や習俗、道徳、倫理まで含めることもある[7][8][5]。起源は定かではないが日本の長い歴史の中で次第に培われてきた信仰であり、日本人の生活文化の全般に浸透している生活態度や理念であると説明される[10]。『宗教学辞典』(1973年、東京大学出版社)では、神道学者の河野省三が戦前に「神道とは神の道である。神の道とは日本民族祖先以来の生活原理である」(『神道の研究』1930年)とし、「神道とは日本民族の伝統的信念及び情操」(『国民道徳本義』、1932年)と述べたことが取り上げられている[10]。現代の事典や辞書でも「日本固有の民族宗教」ともされる[7][8]。また民俗学者の柳田國男は、太古の昔から国家神道とは異なる民間信仰としての神道が存在するとし、それは氏神信仰を基礎とした「日本固有」の民俗宗教であると主張した[21]。どちらの論も、神道とは、起源は定かでないが古代から現代まで連綿として続く宗教であり、よって天皇と密接な関係をもつものと推察され、日本固有の宗教的伝統であり、土着の信仰形態であるというものである[10]。これが現代日本の一般的な神道観となっており、広く受容され常識となってきた[10][注 3]。現代では、神社本庁のような権威ある団体をはじめ、様々な百科事典や、インターネットのブログや記事で、神道は「日本固有の宗教」と定義されており、この定義がこれほど広く浸透していることは、見る者にその主張が正当なものであると感じさせる[22]。
こうした神道理解は、戦前、遡ると近世(江戸時代)の国学で繰り返し説かれ続けてきたものと同様だが、今日では学術的に否定される傾向にあり[10][11]、今日の学会では「日本の古来から続く漫然としたものの考え方や宗教が、天皇制と共に連綿と終始一貫して、現在まで日本の国を形作る原動力となっているという幻想によるもの」という理解が共通認識となっている[12]。一般的に見られる神道理解は実際の歴史とは齟齬があることが明らかになっており、神道は太古の昔から変わらず連綿と続いてきたのではなく、歴史的に形成されたものと理解され、最近では形成の歴史的な変遷を段階的に辿る歴史研究の成果が数多く提示されている[10][11]。神道研究者の井上寛司は、「日本歴史上の最大のドグマ」とされる「原始・古代から現代にいたるまで連綿と続く、天皇の存在と密接・不可分のかかわりを持つ、日本に固有の土着的(民族的)宗教」という神道理解・主張は、事実との整合性の問題としても、歴史理論としても多くの問題があり、成立しえないことを指摘している[23]。日本の民族宗教という見方についても、「民族」も「民族宗教」も明確な輪郭を持つ概念ではなく、学術的に疑念が示されている[15][24]。しかし、こうした超歴史的な神道観は力を持ち続けており、学者にも影響がみられる[25]。「自然発生的な日本固有の民族宗教」とする神道観は、戦後、国家神道解体後に急速に広まり社会通念化したものであるが、柳田國男がナショナリズム的信念から唱えた「神道」=「固有信仰」論がベースにあると考えられている[26]。日本列島における神道以前の神(神祇)に対する信仰自体は、日本列島に人間が暮らし始め祈りを始めた時まで遡り得るであろうが、時間が経過し異文化を摂取する中で変化したと考えるのが妥当である[27][注 4]。なお各時代を通して、「日本固有」と意識される・自覚される信仰、そう信じられている信仰があったことは事実である[28]。現代の日本人も、神社信仰を伝統と考えて実践している[29]。
「神道」という概念は非常につかみどころがなく、漠然としており、神道がいつからあると言えるかの見解も定まっておらず、創始者もおらず、「神道」と称されるものの歴史的見解を辿ってみても一貫した姿は把握できない[30][31][32][注 5]。過去の神道史をどう描くかが混乱しているだけでなく、近代社会において「神道」とは何を指すのかもよくわかっていない[31]。現代の神の観念や行事の在り方も、地域によってかなり異なる[30][31]。「神道」という概念はかなり曖昧で錯綜しており、統一した見解があるとは言い難く、「神道は日本の基盤信仰である」とも、「神道の中核にあるものは変わらない」とも断言し難い[35]。
なお、現代の神社神道の主要教団である民間の宗教法人・神社本庁は、神が宿るとされた自然物(山や岩など)に対する祭祀の祭りの場所に建てられた建物が神社であり、こうした神々への信仰が日本の各地で発生し神社が建てられたという見解を示しており、また神社の誕生が古墳時代のヤマト王権(大和朝廷とも。律令国家成立以前の連合勢力)による国土統一より前であるかのように述べている[19]。
学術的に見て「神道」とは祭祀体系を伴うものであり、縄文時代、弥生時代、古墳時代といった祭祀体系成立以前は「神道」の成立には至っていないとする見解が主流である[36]。神道が弥生時代に成立したとする一般書も多いが、農業従事者がまだ多く農村文化を懐かしく思う人の多かった戦後の時代によく見られた神道観で、稲作文化こそ日本文化のベースであり、神道をその代表とみなすものである[37]。こうした見解は、「皇室の祭祀、及びそれと一体の伊勢神宮こそが神道の本来の姿」だという考えに通じるものであり、神社本庁関係者の多くは、いわゆる「記紀神話」(『古事記』『日本書紀』の神代巻)、伊勢神宮、皇室祭祀が整備された時点で神道は確かに存在しており、その源流を弥生時代の稲作祭祀とみなしている[37]。また、評論家の梅原猛が1970年代から1980年代に盛んに説いた独自の縄文・弥生論が広く普及したこともあり、縄文的なものを日本文化の基底とみなす考え方が一種のイデオロギーとして一般化しているが、その方法論やイデオロギー性、根拠に欠け想像たくましいことに対して批判が多い[38][注 6]。
- 特徴
神道研究者の岡田荘司は「神道とは何かと問われれば、その具体的な姿は神社の中に備わっているといえよう。」「神道の信仰を最も具体的に表示した場が神社である。」と述べている[42][43]。
また、神社で祀られる神の名前は明らかでなかったり、容易に変更され、また現代の多くの日本人が神社の祭神名を知らずに拝んでいるように、神道における神のイメージ(神観念)は希薄である[44]。
神道を一つの宗教とみなすなら、仏教やキリスト教、イスラム教や儒教のように、創始者の教えを基本教典として創られた宗教ではない[35]。神道は仏教や儒教などの外来の宗教思想・実践形態に接しながら様々に形成されたものである[35][注 7]。自然物の全てに霊力を認めるというアニミズム(精霊信仰)と混同されることも多いが、日本の神道では山や岩、木などの自然物を神として拝むのではなく、神が降りてくる目印(依り代)としており、アニミズムとは微妙に異なると考えられている[44]。
- 重要な要素
岡田荘司によると、神道の歴史を古代から現代まで俯瞰すると、次の5つの重要な要素がある。古代の律令祭祀の段階で、氏族社会の「①地域・氏族祭祀(神社祭祀)」と、「②国家・天皇祭祀」(皇室祭祀)と言う祭祀権の二重構造があった[46]。平安・中世以降の重要な要素としては、③神仏関係(神仏習合・神仏隔離)、④人霊祭祀(御霊信仰)、⑤古典の継承・受容・再解釈(社家・神職の学問、国学)があり、⑤が皇典講究所、國學院大學(國學院神道)につながっている[46]。地域の祭祀は地域で行い、国家的な祭祀は天皇祭祀として行うという二重構造は、明治時代になるまでは堅持されていた[46]。
- 源流
太古の日本では他の地域と同様に自然崇拝が起こり、更にアニミズムやそれに基づくシャーマニズムへと展開したと考えられる[45]。日本史研究者の岡田精司は、仏教伝来前後の在来の信仰形態を、①大王の挙行する国家的祭祀(後の天皇祭祀につながる)、②地方首長層のもの、③一般的な村落レベルの祭祀、の3つに区分している[47]。
天皇祭祀(新嘗祭・大嘗祭)と神社祭祀は源流が異なると考えられており、天皇祭祀の新嘗祭・大嘗祭は、大王・豪族の居館内神殿における祖神祭祀の系統(内廷の祭祀)、神社祭祀は自然の中で行われる磐座(いわくら)祭祀や聖水信仰の系統(外廷の祭祀)と想定されており、後者は7世紀後半以後の律令国家の律令祭祀において、国家による全国の官社への班幣祭祀へと展開した[2][48]。
- 神社
神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社である[49]。神社とは常設の神殿を持つ宗教施設・祭祀施設であり、常時そこに神(祭神)が鎮座し、これを信仰の対象とし諸々の祭礼・儀礼を執行するものである[50][注 8]。井上寛司は、常設の神殿を持つ神社とは「7世紀後半の律令制の成立にともなって、中央政府の命にもとづいて全国的な規模で創出された、官社と呼ばれる常設神殿を持った新たな宗教施設」であると述べ、神社の成立を天武天皇朝以前に遡ることはできないこと、在地社会で仮設の神殿から常設の神殿に自然に移行したわけではないことを指摘している[51][52][53]。神社は律令期以降に続々と創建されたと推定されている[43]。岡田荘司は「神社と神道を奉じた地域社会の営み」が日本国家の形成に影響を与え、日本の歴史に大きな影響を与えてきたと述べている[54]。
- 神主
現代では一般的に「神社に奉仕する神職の長」を「神主」というが、その形態はさまざまで、世襲の専門神主、世襲だが専門神主ではない者、専門神主であっても専従神主でない者、氏子の輪番制など様々である[55]。歴史的に見ても「神主」の意味も神職制度も一様ではない[55]。古代の「神主」は必ずしも神社常駐の神主を指しておらず、「祭(神事)の場において神に奉仕する主人」という「祭神主」を一般的に指していたと考えられる[55]。神主は氏族の代表として氏族内で選定され、国家に任命され祭りを行うものであり、貞観10年(868年)に国家が把握する「氏(氏社)」の神主を国司の管理下に置いて専任神主とし、祈祷と神社の管理(修理)に当たらせる制度が全国に適用された[56]。古代の神社に一般参詣者はおらず、伊勢神宮のような一部の例外を除いて祭の時以外はほとんど機能していなかったため、氏社の専任神主設置以降も、祭毎に派遣される「祭神主」しかいない神社、神主という役職自体がない神社もあり、古代には宗教家としての神職はあまり必要とされていなかったと考えられる[56]。
中世以降の神主は、宗教施設である神社に常駐して経営と神事奉仕に当たる宗教家としての神職であり、古代の神主と中世の神主は大きく異なる存在だった[56]。神社に常駐する神社神主が目立つようになるのは摂関期以降であり、中世に神道が神社を中核とする神社信仰に変化していく中で、有力神社は神社神主を頂点に神社組織を整備し、神職団を形成し、寄進された荘園を管理するなどして宗教組織としての勢力を拡大していった[57]。中世に天台宗・真言宗の高僧たちの教学研究から初期の神道思想が生まれると、こうした神社の神職たちがそれを吸収して神道思想を形成していった[57][58]。
- 教義
神道は特に教えの面で、仏教や儒教などと比べて体系性が乏しい[4]。教説はかなり不明瞭で、中世に神道説が作られ、「神道は清浄を以て先と為す」「正直を以て清浄と為す」[注 9]などといった思想的な枠組みが設定されたが、宗教の教義というにはかなり漠然としており、三橋正は「宗教の教義というには程遠い」と評している[44]。神道では不文律的に、明るさ、清らかさ、正しさ、素直さ、といったものが良しとされるが、井上順孝はこれを、生活における道徳や倫理に当たるものとしている[59]。こうした教義の曖昧さや神のイメージの希薄さ、起源の不明瞭さといった性格は、自然崇拝の系譜を引くためと考えられている[44]。
- 仏教との関係
古代の律令政府は、宗教政策として仏教(仏法[注 10])と神道(神祇祭祀)の2つを重視する方針を取り、以降日本の宗教は仏教と神道の2つが中心となり、神道は仏教を容認しながら、仏教と対置することで変質し発展していった[61][62]。宗教民俗学者・修験道研究者の宮家準は、公伝仏教と区別された神道/神祇信仰、いわば当初の神道は、在来の自然信仰と道教、儒教、仏教といった外来思想が習合して成立したものとしている[45]。
日本では仏教優位の形で神仏習合が展開していったが、同時に宮中祭祀や伊勢神宮では神仏隔離(神仏の棲み分け)もみられ、両者は部分的に合一しながらも、それぞれ独自性を保とうという相反する力が働いて緊張関係が維持され、完全に融合して一つの新しい宗教になることはなかった[63][64][61]。明治時代には神仏分離が行われ、神道と仏教は分離したと考えられているが[65][要ページ番号]、仏教学者の末木文美士は、仏教と神道が無関係になったのではなく、分離しつつも相互に相手を必要とするような新たな神仏補完の関係を生んだと述べている[63]。また末木は、歴史的に見て「復古神道から国家神道の流れに見られるような純粋神道はもともとありえないもの」と述べている[64]。神道は地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教は主に人々の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する[66]。
国家公認の仏教は神道と習合することで地域に定着し、神道も仏教をとり入れて施設(神社)や教義を整えていき、また神道、道教(陰陽説)、古来の山岳信仰、仏教が習合した修験道が成立した[45]。 神道を含むこれら日本の諸宗教では、霊地の寺社に属しながらも各地を遊行する民間宗教者が普及を担い、彼らは民衆の生活に即する形で教えを説き、独自の儀礼を行って人々の期待に応えることで地域に広めた[45]。
- 道教との関係
神道側は、教義的・組織的な仏教をはっきり異質なものとみなしていた一方、同じ外来宗教でも道教は非常に親近感を持って取り入れており、道教は神道そのものの基盤となっている[62]。古代の朝廷は道教について、道教的信仰は取り入れたが宗教教団としては受容しなかった[61]。
- 成立期論
神道について論じる場合、論者が宗教というものの実践(プラクティス)と教説(ビリーフ)をどう評価しているか、教説・思想体系をどの程度重視しているか、不可欠であると考えているかによって、いつの時点の何をもって成立したと判断するかが違ってくる[67]。宗教研究者の島薗進は、「儀礼(祭祀)に主要な統合のよりどころがある」ことが神道の特徴としてあげられるとし、教説を不可欠なものとはせず、「祭祀がある種の体系性をもったときに神道が成立したと考えるのはごく自然なこと」であると述べている[67]。一方、「ある種の体系的教説を備えた集団が『宗教』とよぶに値する」という前提に立ち、体系的な祭祀があっても体系的な教説をもつより前の神祇祭祀は神道とは呼べないという見方もある[67]。神道の成立期の定説はないが、主要な学説(2021年時点)が4つある[注 11]。4つの説には800年の隔たりがあり、それは神道の把握の違いに起因するため、この主要4説について述べる[14]。4つの成立期論とその神道認識は次の通りである。

- 律令国家体制を確立させた天武天皇・持統天皇の時代に太政官・神祇官の二官体制のもとで律令官社制度が完成し、「神祇令」が制定され、国家的祭祀体系とその体系が整備・確立されたことをもって「神道」の成立とする説[69][70]。大嘗祭・伊勢神宮の式年遷宮もこの時代に開始されており、『日本書紀』にも「神道」という用語が見られる(ただしこれ以降、「神道」の語は中世(第3説の時期)までほぼ使われていない[13])。
- 第2説:「8・9世紀、平安時代初期成立説。提唱者は高取正男。」
- 奈良時代から平安時代初期の「神仏隔離(神仏の棲み分け)」に着目した歴史学者の高取正男が唱えた説[69][70][71]。平安前期には仏教が日本社会に定着しており、神仏習合思想の形成期であるが、朝廷では天皇が関わる朝廷の神事において仏教(仏法)を避けるべきことが定められ、神仏隔離が確立した[72]。なお、天皇の仏教への信仰が深まる中、天皇制のもとで仏教と神道の併存・棲み分けを図り、神祭りで確かに神の加護を得るための制度であり、廃仏思想ではない[73]。高取は、朝廷における禁忌意識・神仏隔離の成立に着目して「神道」の自覚過程を提示し、地域社会に根ざした「神道」の台頭に着目した[69]。この時代は平安祭祀制の確立期で、律令祭祀制からの転換が見られる[69]。神木信仰と関係があるとされる一本造による仏像彫刻が隆盛したが、この技法で神像も製作されるようになる等、この時代に思想・制度・儀式・美術など広範にその後の神仏関係の基盤が形成されている[71]。
- 中世史の研究者黒田俊雄が唱えた「顕密体制」の成立期を「神道」の成立期とする説で、この時期は神道思想の形成期に当たる[3]。平安時代中期以降、院政期に朝廷で二十二社奉幣の制度が固まり、その後諸国一宮制が成立、中世的天皇神話や神国意識が地域社会へ広まっていった時期に「神道」が成立したとみなす[3]。院政期以降、神の世界が様々に言語化され語られるようになり、注釈・秘説が多く展開し、こうして形成された中世の神道説が広まる中で「神道」という用語が多用されるようになった[3]。

- 「顕密体制」が解体されていく中で顕密仏教の一部であった神祇が自立し、15世紀に吉田兼倶が吉田神道を作った[3][4]。「神道」という宗教は近代以前には存在せず、仏教の一部門・ 一宗派として捉えるべきとみなし[15]、「顕密体制」の終焉と共に初めて「神道」が成立したとする説であり、高度な教義体系を具えた「宗教」としての確立をもって「神道」の成立としている[3][15][注 12]。
岡田荘司は『日本神道史』(2021年)で、「神社の信仰体系は、古代以来の神社と祭祀とに備わって」おり、「第一説の古代律令神祇体系の中に、神道的要素を抽出することは可能」として、成立期の基本を律令祭祀制に置き、本書で神社と祭祀に焦点を置いて日本神道史を展開している[74]。岡田荘司は第1説について、「大方の了解を得られる得られる妥当性な学説と考える」と述べ支持を示している[69]。井上順孝やネリー・ナウマンもこの時期に神道の原型が成立したとしており、同様の立場の論者は多い[67]。ただし、律令国家制度のもとで神道祭祀(神祇祭祀)において強固な宗教統制・支配が進められたわけではなく、律令祭祀制は「制度としての実態は十分機能していなかった」と考えられている[69][注 13]。島薗進は、「神社神道」と「皇室神道/宮廷神道」の成立を区別し、天皇家の祖神・朝廷と関わりが深い神祇を国家的祭祀システムに組み込もうとするこの試みは実効性に乏しく、したがって「この時点で『神社神道』が成立したとは言えないだろう。」と評し、とはいえ「『伊勢神宮と天皇の祭祀の職掌をもつ家筋の人々が司る祭祀のシステムを『皇室神道』『宮廷神道』とは言えるだろう。」としている[26]。井上寛司は、7世紀頃(第1説)の時点の日本で「『惟神の道』と呼べるような体系的な儀礼や教義が整っていたとは考えがたく、これを一個の体系性をもった自律的な宗教と考えることはできない」と述べている[75]。
第1説を支持する場合も、第2 - 4説は神道史上の転換点といえる。神道思想を重視する立場からは第3説以降が有力な説である[74]。第3説・第4説は「神道」の語義解釈を重視して意味を限定し、「神道」の成立を以前の説よりも遅らせており、これは近年の神道研究の傾向である[74][76]。
日本史学では1970年代以降、黒田俊雄の研究成果を受けて、「少なくとも平安時代から中世のある時期までは、全国の神社が神道とよべるだけの自立性をもったり、共通の基盤をもつようなことはなかった」という見方が有力となっている[23]。今日の日本の神仏関係の研究において黒田の業績は重要で避けて通れないものと評価されていており、彼の第4説は中世宗教史の研究者をはじめ広く受け入れられている[15]。日本古代史・日本仏教史研究者の吉田一彦は「日本宗教史(全6巻)」(2020年)シリーズ巻頭の総論で、「〈日本古来の神道〉といった言い方があるが、しかし実際には日本の神信仰がその多様性を一つの形にまとめて一定の体系性を形成していくのは平安時代のことと見るべき」として第1説に疑念を示し、さらに「この宗教を『神道』なる語を持って呼ぶのがふさわしくのなるのは室町時代以降のこととすべき」と述べ、吉田神道の成立を神道成立の画期として第4説を支持し、吉田神道が戦国時代、江戸時代を通じて日本の神道界の中心勢力であったことを指摘している[77]。第4説は欧米の研究者にも広く知られており、本説の影響で、神道は「古代から一貫してあった独立した宗教」ではないと考える外国人研究者は少なくない[4]。津田左右吉や黒田俊雄の研究を受けて、古代の宗教概念に「神道」の語を使うことを避けて「神祇信仰」「神祇祭祀」「神祇制度」等と言い換える研究者もいる[12][注 14]。日本宗教史研究者の三橋正は、神道の成立を中世にまで遅らせる見解を極端であると評し、「研究の細分化と片偏の結果」であるとみている[71]。
神道が独立性を持つのは近世の江戸時代という考えや、近代の明治時代という考えもある[4][注 15]。現代の神道が形成された時期について、最も遅い時期とみるのが近代(明治時代)説である[4]。
- 信者とその特徴
同じ教祖を敬い共通の自己定義(アイデンティティ)を分かち合う自覚的な信徒が多い創唱宗教(開祖がいる宗教)に対して、神道やヒンドゥー教、道教等は自覚的でない信徒が多く、自己定義の機能も限定的であり、信徒が分かち合うものも明確化しにくい[79]。また当事者は、「神道」等と呼ばれることに違和感を覚えることもあり、特定の宗教としての定義や輪郭は曖昧化しがちである[80][注 16]。現在の日本各地に見られる諸宗教の融解や習合、併存は、神道や仏教が互いに取り入れ合い、影響し合い、習合・併存していた長期にわたる営みの所産であり、現代日本の宗教の受けとめ手側である一般の人々は、安産祈願は神社、結婚式はキリスト教の教会、葬儀は仏教寺院というように、様々な宗教を自身の生活感覚に合わせて適宜とり入れ使い分け、複数の宗教を習合さたり併存させて受容している[45]。
『宗教年鑑』(文化庁)には、日本国内で約8万5,000の神社が登録され、約8,400万人の支持者がいると記載されているが[81]、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて氏子とみなす例、初詣の参拝者も信徒数に含める例、御守りや御札などの呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無宗教を自称するという多くの調査結果とは矛盾する[82]。
「神道」という語
[編集]由来・語義
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日本における「神道」の初出は720年(養老4年)成立の『日本書紀』であり、当時の中国で使われていた成語からの借用である[13]。『日本書紀』用明天皇紀に「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」とある[84]。
「神道」は中国で古くから使われた言葉で、「自然の理法」「霊妙なる理法」を意味し、これが道教や仏教の教典に取り入れられ、道教・仏教が自らの教えを「神道」と呼ぶ例もみられた[13]。また、より一般的には神祇・神霊(神々)や、その祭祀・呪法を意味した[13][85]。「神道」の語は中国の『易経』や『晋書』の中にみえる[86]。
『日本書紀』でどのような意味で使われたかは諸説あり、中国の「神道」すなわち道教などの影響を受けた信仰だったことを示すとする説や、単に神祭りや神祇(神)を意味する普通名詞として用いたとする説、日本固有の神祇信仰を外来の仏教(仏法)と対比するために用いたとする見方もある[87]。神道学者の三橋健は、『日本書紀』の用法は、中国における外来の宗教・思想である仏教に対し、伝統的な在来信仰である道教もしくは広義の道教的信仰を指す用法に準じたものとしている[88]。なお、古代の日本では、「神道」が道教を指す場合もあった[89]。
同時代の「神道」の用例はごくわずかだが(平安中期まで十数例のみ確認)、そのほぼ全てが「神の権威、力や働き、または神そのもの」という意味で使われており、日本固有の神祇信仰を意味する用例はない[90]。よって、日本の神信仰やそれにまつわる言説の総体」を「神道」と呼ぶことは、解釈が分かれる『日本書紀』での使用の可能性を除き、古代には存在しなかったと考えるのが妥当である[90]。日本の神信仰やそれにまつわる言説・教説を「神道」と呼ぶことは、中世もしくは近世に起こったと考えられている[90]。
中世になって「神道」という言葉における「神」が天皇神話上の神々を指すようになり、天皇神話に対する思想的解釈・「神道」教説もまた「神道」と呼ばれるようになった[91][85]。
神道理解に関する諸問題
[編集]- 戦後の神道観と天皇中心の超歴史的日本史理解
現代日本で広く見られる「自然発生的な日本固有の民族宗教」とする神道観は、戦後の国家神道解体後に「あらゆる分野や階層の人々からあたかも疑う余地の全くない真理」であるかのように広く受容され、社会通念として定着した[26]。井上寛司によると、こうした神道観の普及には、民俗学者の柳田國男が国家神道批判を通じて提示した「固有信仰」論の存在が大きい[26]。
柳田固有信仰論とは、柳田國男が内務省による神社神道の統制(国家神道)に反対して提示した、「国家管理以前の地域の神祇祭祀こそ『民族』『固有』のものであり、だからこそ皇室神道と共通の基盤をもつものだと考え、儒教や仏教の影響を極力排除した神道観」であり、彼の「日本民俗が古代から一貫して『固有信仰』を保持してきたというナショナリズムに裏打ちされた強い信念」に基づいている[26]。彼は、日本の民俗文化から儒教・仏教といった大陸伝来の宗教・思想、特に仏教という覆いをはぎ取ることで「仏教以前」の日本人固有の宗教を究明できると信じ(つまり、日本の民俗文化において仏教等の外来思想は外被に過ぎず、取り除けるものであり、日本化・土着化していないと考えている)、このためだけに「重出立証法」を考案し、自身の研究を「新国学」と呼んだ[92]。柳田固有信仰論は、折口信夫ら柳田民俗学系統の多くの人々に受け継がれた[26]。柳田固有信仰論には1960年代から非常に多くの批判がなされたが、「神道」概念問題の明確な提起には至らず、黒田俊雄によって「『神社神道』が古代以来、連綿として続いてきて近代にいたったというのは史実に合致しない」という論点が明確にされた[93]。
井上寛司は、神道が日本史が始まる古代から存在するという「天皇を中心とした超歴史的な日本歴史の捉え方」が、新たなナショナリズムによる「新自由主義史観」と結び付いていると述べ、「日本歴史上最大のドグマ」とされる「原始・古代から現代にいたるまで連綿と続く、天皇の存在と密接・不可分のかかわりを持つ、日本に固有の土着的(民族的)宗教」という神道理解が、これを根底で支えていることを指摘している[25]。
- 神道固有信仰論における日本主義
日本における「日本文化論」には、「日本的なもの」を「日本的なもの」であると説明し「日本的なもの」であるために特別視するという、科学とも学術ともいえない日本主義的側面があり[注 17]、それは神道固有信仰論にも見られる[94]。日本文化論批判の代表的論客として梅原猛・石母田正がいるが、両者は神道について「歴史の基底を探っていくと、結局、一種の『日本的な』基底信仰がある」としており、歴史学者の保立道久は、「日本的なものを日本的なもので説明する」という、彼ら自身が批判した日本文化論と同様の日本主義的な説明に陥っていると評している[95]。保立道久は、この問題を最も強く意識した歴史家は黒田俊雄であろうと述べ、彼は農民の共同体的祭祀に見られる素朴な信仰を固有信仰的なものとしたが、習俗に過ぎず宗教史の範疇にないとして扱うことを避けたと述べ、「神道」を日本の「固有信仰」「基層信仰」として論じることの困難を指摘している[96]。
そもそも、日本列島は旧石器時代から大陸や南方諸島と密接な関係があり、朝鮮半島とも一貫して頻繁に文物の行き来があったことが確認されている[97]。紀元前後からは、中国皇帝を中心とする冊封体制に組み込まれている[97]。かつてマルクス主義歴史学の全盛期には、日本列島の社会がその時にどの発展段階に当たるかが議論の中心であり、一国単位で完結させて歴史を考えるやり方であったが、多くの研究による地道な事実の発掘と無理のある「一国史」への反省から、1980年代ごろからは日本列島を東アジア世界の中で位置づけようとする方法が主流となっている[97]。
日本古代史・日本仏教史研究者の吉田一彦は、「『固有』というと、太古の昔からこの日本列島で自生的に発生し、継続、存在してきた文化要素という意味合いが色濃い。しかしながら、人間が移動し、文化が交流して世界各地の宗教が形成されてきたという実態からみると、『固有』という概念は幻想にすぎないように思われる。」と述べ、日本固有とイメージされるものでも、詳細に研究するとある段階で他からもたらされたと判明するものが少なくないことを指摘し、日本宗教史を考えるうえで重要な視座として、どこで生まれたにせよその地に定着し根を下ろしたという意味での「土着」を挙げている[98]。東アジア環境文化史研究者の北條勝貴は、そもそも「神道」の側に「『固有信仰』、『基層信仰』を自明化すること自体がナンセンス」であると述べ、 日本における「神道」現象は東アジアにおける「儒教・仏教・道教の複雑な絡み合い」の一種であり、「『固有信仰』の問題」ではないとしている[96]。
宗教人類学者のケイトリン・ウゴレッツは、日本では神道が「日本固有の宗教」であるという定義が広くなされ自明化しているが、「『固有性』という概念は本質的に、『内部の者』と『外部の者』との間に境界線を引くために構築されたアイデンティティに他ならない」のであり、こうした固有性に関する言説は、誰がそのコミュニティの構成員で、どのように参与しうるかを規定する際に強力に働くものであり、政治的に有用な言説として使われてきたと述べている[22]。神道は様々な利益団体によって、民族的、地理的、概念的、権威的な面で「日本的」なものとして語られてきたが、ウゴレッツはこうした語りが、神道に多様な主体が関わっていること、そして神道の意味を巡るせめぎ合いという現実を覆い隠してしまっていることを指摘し、本質主義的な主張があまりに広く流布し当然のように見えてしまっているが、政略的に都合よく構築された本質主義的な主張の起源や歴史性について、厳しく検証する必要があると述べている[22]。
- 神道「日本の民族宗教」論
歴史学者の津田左右吉は「神道」の語には本来「日本の民族的宗教」という意味は含まれていなかったとしたが、『日本書紀』における「神道」の用例について、仏教と対置される民族的信仰としての神道を意味する事例と解釈しており(1937-1939年の論文)、これは通説的理解として強い力を持っている[15][99][75]。
仏教学者の末木文美士は、神道を素朴に「日本古来の民族宗教」とする発言には、「神道に『日本民族』の一体性と優秀性をみようとする、いわば神道ナショナリズムともいうべき主張と密接にかかわっており、一見学術性を装いながら、強いイデオロギー性をもっている。」と述べ、それを批判した人物として黒田俊雄を挙げ、「多くの人は民族宗教という規定から、日本人にとって不可避な、選択の余地のない、深層に潜む強制力ないし価値という意味合いを受け取って」いるという彼の発言を紹介し、的確であると評している[100]。
黒田俊雄は、「神道」の語には本来「日本の民族的宗教」という意味は含まれていないという津田の解釈を踏襲し研究を行ったが、『日本書紀』における「神道」の用例についての解釈は否定しており、黒田に学んだ井上寛司も、津田の論は『日本書紀』の用例1点の解釈のみに拠って立つもので、しかもその解釈は唯一の史料解釈であるとはいえないことを指摘し、理論的・実証的根拠がないと否定している[101]。黒田俊雄は、「しかしこういう習俗は、(島薗注:その地域の神様をお祭りしている、一年の一度のお祭りがあるとか、祠があるとか)世界の各地の諸民族に類例をいくらでも見出すことができるもので、神々の固有名詞とか祭具の素材や形態の風土的特色などを別にすれば、果たして民族的と呼ぶに値するかどうか、疑わしいといわなければならない。」(1990年)と述べており、島薗進はこうした見解について、「『民族』という言葉が使いにくくなっていく過程」と関係していることを指摘している[102]。「日本民族」がいつからあるのか、東北地方のどこまでが「日本民族」でどこが「蝦夷」だったのか、ユダヤ教、ヒンドゥー教、道教、神道などをくくって「民族宗教」とする概念は有効なのか等、容易に説明し難い[102]。
日本近代宗教の研究者村上重良は『国家神道』(1970年)で神道史研究に大きな影響を与えたが、この中で宗教を「創唱宗教」と「民族宗教」に大別し、「神道の基体(ベース)は神社神道として存在してきた民族宗教である」とし、特定のパターンを持った神社神道が古来より日本社会の基層に一貫して存在し続けていたと主張した[24]。村上は宗教進化論的なフレームを用いて、創唱宗教は「体系的なイデオロギーを持ち、個人の内面を支えることができる」が、民族宗教は未発達で近代性にそぐわないとしているが、「民族宗教」という語の使い方がかなりおおざっぱで、特徴づけも図式的である[24]。また、古来より明確な輪郭を持つ「民族」が実在し、その民族の輪郭に対応した、明確な輪郭のある民族宗教が実在するという印象を与える語り口であり、島薗進は「民族宗教が実体的に特定できる輪郭を持つかのように述べていることも誤解を招く」と述べている[24]。
- 宗教ではなく日本人の伝統的習俗という解釈
末木文美士は、しばしば言われる「神道は特定の宗教ではなく、日本人としての伝統的な習俗である」という解釈について、神道を「日本人すべてに当てはまる不可避的なもの」とみる見方に通じるもので、その意味では神道を日本の民族宗教とする解釈と同様の問題があるとし、神道を非宗教と規定することで全国民に強制した戦前の国家神道の理屈と同じであることを指摘している[100]。
神道における神 / カミ
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日本列島に居住した人々は、最初期から何らかの神信仰を持っていたと思われ、それはおそらく東アジア全般に展開した神信仰と共通性の高い、その一地域的形態であったであろうが、実態は未解明の部分が多い[103]。時間をかけて次第に地域的な特性が形成されていったと考えられる[103][注 18]。
各地の地域の神(土地神)や、山の神、川の神(自然神)が祀られ[注 19]、神に対する祈願は漢語的な表現を織り交ぜて日本語で申し上げられた[103]。
中臣氏の祖アメノコヤネ、忌部氏の祖フトダマ、大伴氏の祖アメノオシヒ等、有力な豪族は自身の先祖とする神(祖先神)を祀ったが、こうした信仰は政治的な色が強い[103]。歴史神話学研究においては、ヤマト王権の神話がタカミムスヒ・カムムスヒの神話であることが通説となっている[106]。この二神を祖神とする氏族は非常に多く、広く信仰されていたことが分かる[107]。
7世紀末-8世紀初頭の律令国家形成期に、アマテラスが天孫に司令を下す司令神[注 20]、すなわち皇祖神として祭られるようになったという説が有力である[108][注 21]。なお、タカミムスヒが本来の皇祖神であり、アマテラスが皇祖神として祭られる前はタカミムスヒがその位置にあったとする研究が多い[108]。
司令神・皇祖神が変化した理由や契機については諸説あるが、律令国家形成の過程で、天武天皇の意図で変更されたという見方が有力である[108][注 22]。朝廷は伊勢神宮を創建して皇祖神としてアマテラスを祀り[103]、古来、一般にアマテラスが皇祖神とされている[108]。アマテラスは祟る神であったことが記録されており、伊勢神宮の神官らのアマテラス祭祀に過失があると、アマテラスが子孫である天皇の身体に祟り、天皇が病気になると考えられていた[110][111][注 23]。思想史研究の成果によれば、「タタル」とは「神意が表れる」ということであり、「神の本質」は「祟ること」である[113]。
なお、「記紀神話」に登場する神々を分析して日本の神の性格を論じたり、「記紀神話」の内容を祭祀規定と考える見解も根強く見られるが、三橋正によると「記紀神話」に書かれた神々と日本の神々の関係はそれほど密接ではない[44]。
古代の神は「固有の」「土着の」と形容されてきたが、1990年代以降に活性化した『古事記』『日本書紀』研究と連動する形で、こうした既存の概念の使用を根本から否定するような研究が次々に発表されている[114][注 24]。
『古事記』『日本書紀』を「日本の神話」と単純に捉えて良いかには疑問がある[注 25]。津田左右吉は「記紀神話」について、その神話・神々は、一部民間説話を含むとはいえ、大部分は天皇家による統治の権威化のために創作・構成されたもので、編纂者たちが作り出したものと論じたが[注 26]、「記紀神話」を「政治的に創作された創作神話」とする説は、その後の検証を経て確固たる説となっている[109][注 27]。
自然崇拝の系譜を引く神道の神のイメージ(神観念)は希薄である[44]。元来、神の姿は、浮遊する霊力で、物に寄り付いたり去っていったりする「魂」と想起されており、非人格的なものであるとされた[120](そのような性質から、神の分霊を無限に行うことができるとされる)が、仏教の影響で神像などが製作されるようになり、次第に神は可視的なものと考えられるようになった[121]。古代において「目に見えない根元的・超越的存在」がこの世に浮遊しながら人間と共存し、なにかに憑依することで霊験ある存在に化すと広く信じられていた[122][123]。古代には、天神地祇(神)、仏像、聖人は一律に霊験のあるカミとして受容されていた[124]。
神道における神は、理念的・抽象的存在ではなく、具体的な現象において観念されるため、自然現象が恵みとともに災害をもたらすのと同様に、神も荒魂・和魂の両面を持ち、人間にとって善悪双方をもたらすものと考えられている[120]。神は、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っている[105][要ページ番号]。このように神は自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へ、恐ろしい神から貴い神へ、進化発展があったととらえることもできる[125]。なお、現代では神と仏という分類が常識になっているが、この区分は時代を遡れば全く通用しないことが指摘されている[126][注 28]。

國學院大學日本文化研究所編『神道事典』(1999年)では、神道の神は、自然神と文化神の2種類に大きく分類されている[121]。前者には、太陽神や月神、風神、雷神、山神、海神などの天体や地形、気象を神格した神のほか、蛇などの動物神も含む[121]。また、文化神は、屋敷神、氏神、産土神などの社会集団を守る神や、疫病神、田の神、漁労神、軍神、竈神など、人間生活における特定の場面や職能を守護する神に分けている[121]。生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる(人神)[105][要ページ番号]。神道には、人間も死後神になるという考え方があり、神話に描かれる一族の先祖(祖霊信仰)や社会的に突出した人物、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な死を遂げ死後怨霊として祟りをなした人物(御霊信仰)なども「神」として神社に祭られ、多くの人々の崇敬を集めることがある[105][要ページ番号][127]。御霊信仰は疫病神との関係が非常に深い信仰で、政治的に抹殺され非業の最後を遂げた人の霊(「冤魂(えんこん)」や「厲(れい)」)と天変地異等の自然現象との間に因果関係を見出し、そうした霊が個人または社会に祟り疫病や天災をもたらすと考え、それを防ぐ為に祭礼・呪法等を行うという信仰である[128][129][130][131]。御霊(怨霊)の観念は奈良時代から平安初期に広まり朝廷周辺の人々を恐怖に陥れ、疫病、悪霊、凶を「穢れ」として祓う呪術を持つ陰陽師が御霊を祓うようになった[130][131]。御霊信仰は祖霊信仰と共に、現在まで日本人の信仰の基礎をなすものといわれている[130]。疫病(伝染病)は海外からやって来るため、海外から渡来した疫病の神を祀ることで防疫・除疫に繋がるとされていた[132]。

様々な外国の神信仰が日本に伝えられており、出土品から7世紀前半には中国の民間信仰や道教などで説かれた「鬼神」の信仰が日本に伝えられていた[129]。やがて、鬼神(鬼魅)を路上で饗応し都への進入を防ぐ陰陽道的な祭祀である道饗祭(みちのあえのまつり)、これが転じた疫神祭(四角四界祭)や鬼気祭、牛を殺して鬼神を祭る漢神(からかみ)信仰の殺牛祭神等が行われた[129][133][注 29]。蘇民将来や牛頭天王に対する信仰もあり、御霊を慰撫する仏教の法会である御霊会も行われたが、これらは疫病封じの祈願を主な目的とするものである[129]。日本では無論、道教的・陰陽道的な信仰だけでなく、様々な神信仰が仏教と複合・融合しており、このように日本の神信仰は、多様な信仰を取り込んで時代を経て累層化している[136]。
京都の祇園社(現八坂神社)には牛頭天王[注 30]、八王子、蛇毒気神、大将軍といった陰陽道に関わる暦神が祀られ、恐ろしい行疫神として信仰を集めたが、こうした祇園社の神々や、新羅明神、赤山明神、摩多羅神、宇賀神といった由来が定かでなく習合・変容を繰り返した異貌の神々は、日本宗教思想史研究者の山本ひろ子によって異神[注 31]と呼ばれている[142][143]。異神とは中世に表出した日本の尊格群で、「記紀神話」に登場せず、また本地垂迹の関係で定位される在地神とも異なるが、神話・仏教の絡み合いと関わる神々である[144]。原克昭は、吉田神道を創り「神道」の独自性を主張した吉田兼倶の所説は彼の独創ではなく、「当時すでに流布浸透していた『異神』を再編成した『神話』理解」とみなしている[145]。異神の系譜は、概ね「護法神・渡来神・伽藍神・習合神・民間神」などに整理されているが、明確に分類できるわけではなく、時代ごとの変遷もみられる[145]。異神は寺社の縁起伝承などに組み込まれて既存の信仰形態を揺るがし、神仏関係や本地垂迹説に刺激を与えていた[145]。
なお、牛頭天王は神とも仏とも分類し難い尊格であるが、明治維新の神仏分離(神仏判然令)で仏菩薩に近い存在として明治政府に名指しで排斥され、牛頭天王とスサノヲの習合は否定され、牛頭天王信仰の祇園社(現八坂神社)と全国各地の祇園社系神社の祭神はスサノヲに変更されている[146][147][注 32]。明治初期の神仏分離では、明治政府の命令により多くの神社で祭神の変更、祭神の合祀化が進められ、祇園社の牛頭天王や日吉社(現日吉大社)の十禅師のように長い信仰の歴史を持つが消された神もいる[146][148][149]。政府は明治中後期や太平洋戦争後にも神社合祀政策を行い、単一の神体(あるいは一族神)として信仰されてきた祭神も合祀されたため、神社の祭神名の検証は困難な場合が多い[149]。
1881年の神道事務局祭神論争では、明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利し、アマテラスが最高の神格を得たが[150]、敗北した出雲派的なものがいまだに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い[105][要ページ番号]。
神道は「万物に神霊が宿るという汎神論的なアニミズム」とも認識されており[151]、八百万の神々を信仰対象とする神道は、すべてのものが精神的な性質(人格があるか、擬人化された霊魂等)を持つと信じるアニミズムの特徴を保持してきたとも考えられている[152][153]。三橋正は、日本の神道(神祇信仰)はアニミズムとは微妙に異なるとし、日本では山や岩、木などの自然物を神として拝むのではなく、神が降りてくる目印(依り代)とすることに違いが表れているとしている[44]。
一般的に多神教と考えられているが、必ずしも多神教とは言い難い面もあり、中世の吉田神道の創始者の吉田兼倶は「虚無大元尊神(こむだいげんそんじん)」という唯一神、創造神を祀り、近世の国学者本居宣長は、『古事記』の注釈書『古事記伝』で、原文を超えて「産霊日神(むすびのかみ)」という創造神的神格を見出して「近世神話」を創造した[151]。また民俗学者・国文学者の折口信夫は戦後に、神道宗教化の議論を通して[注 33]、タカミムスヒ・カムムスヒを祖先神から切り離して超越神・創造神として解釈しようとし、また神道は宗教的な罪の観念が乏しく明るく清らかなものばかりを見て道徳観・倫理観を育む力に乏しいと考えて、それを補うものとして、祟る神・罰する神であり、人間の根源的な生の外に「既存」として超越する究極の神格、「既存者」を見出していった[151][155][注 34]。こうした事例は異端的または特殊なレアケースに思われるかもしれないが、事実として存在し、かなり大きな影響力を持っていた[151]。
古代における「目に見えない根元的・超越的存在」すなわちカミは他界の絶対者ではなく、現世内部で出没を繰り返すものだったが、10世紀以降はこの世とは隔絶した彼岸世界の観念が発達していき、12世紀の院政期には、彼岸(浄土)と此岸という二つの世界から成る中世的世界観が成熟し、カミは彼岸と此岸に再配置され、天神地祇(神)、仏像、聖人などは、彼岸の世界の救世主である仏の垂迹(すいじゃく)と位置付けられ、遠くにあり目に見えない仏と現世の人間の仲介者の役割を担った[124][注 35]。中世における垂迹である神仏は、由緒を持つ特定の化現の場と深く結びついた存在であり、垂迹の所在地すなわち霊場・聖地は「この世の浄土」であると共に、彼岸の浄土への入り口であり、人々は死後の救済を求めて霊場を訪れ祈りを捧げた[158]。顕密仏教(顕密体制)とは、末法の衆生を救うにふさわしい存在として垂迹である神仏を強調し、垂迹を経由した救いの教えを徹底し、人々を垂迹の霊地である寺社に向かわせようという信仰である[159]。なお、こうした聖地は女人禁制の制約など、万人に解放されていたわけではなく、垂迹を媒介する顕密仏教の教えは、世俗的な差別が救済の差別に反映されるといった問題を孕んでいた[160][注 36]。
中世前期には圧倒的なリアリティを持っていた他界の観念は、中世後期から近世には衰退して、客観的実体として彼岸と此岸があるという二重構造のコスモロジーは解体していき、現世中心の一元的な世界観となり、本地のイメージは退化した[162]。一見近世のコスモロジーは古代人のそれと似て感じられるが、古代人の一元的な世界観が人間だけでなくカミや死者、動物や植物などの多様な存在で構成され、人間よりむしろカミや死者が中心にあったに対し、近世のコスモロジーは圧倒的に人間中心であり、神仏は脇役となり、堂舎に祭られた神仏はもはや彼岸の根源神を背負わない、それ自体が霊験あらたかなカミとみなされた[163]。カミへの願いは世俗社会での現世利益の祈願が大きなウェイトを占めるようになり、現代の専門病院のように祈願内容に応じた神仏の役割分担が進み、膨大な数の小さな神々が、目に見えるまたは実感できる形でこの世に棲むという世界観となった[164][注 37]。中世にはこの世に留まる死者は救済されていな不幸な存在で、救済された死者は手の届かない彼岸に旅立ち、容易にこの世に帰ってくることはないと考えられていたが、近世には死者は墓碑や位牌を依り代に現世に留まり、また生者の招きに応じてお盆など折々に自宅に帰る習わしとなった[166]。こうして他界の仏と現世の神仏を媒介するという垂直の関係の論理であった本地垂迹は、この世にある等質な存在としての神と仏をつなぐという水平の関係の論理に変化した[162]。
「日本の神」、「日本神話」というと、「記紀神話」に代表されるような、八百万の神々が登場する「古代神話」を思い起こす人も多いが、思想史研究者の原克昭によると、こうした「神話」認識は近代に作られたものであり、「記紀神話」に描かれた神話世界を「近代的合理主義のもとに『古代神話』として一本化して再創造し定着化させた近代の思想的産物』である[167]。古代から近現代まで連綿と「記紀神話」が正統視されていたのではなく、「神話」は時代ごとの思想・風潮を投影させ、「記紀神話」の記述を逸脱して多岐に渡る再解釈がなされ、変容し続け、神々の意匠さえも変貌してきた[168]。特に神道思想の形成期に当たる中世は「神話」の変容と再解釈が盛んな時代で、中世神道文献をはじめ、「記紀神話」や中臣祓に対する註釈文献、寺社縁起・本地物語・歌学書・説話・唱導など様々な文芸場面に見られる(これらは「中世日本紀」と呼ばれ研究されている。)[168]。こうした「記紀神話」からの逸脱を含む多様な解釈と神々の変貌には、仏教の影響が大きくある[168]。「神仏習合」「本地垂迹」も日本独自のものと思われがちだが、その発想・思考方法が大陸由来であるとする説が提起され、東アジア全体を視座とする神仏習合再考が進んでいる[144]。
自然崇拝の要素と自然物の神の依り代
[編集]神が降臨するとされる山は神体山・神奈備山(神名備山・神南備山)と呼ばれ各地にあり、富士山のように容易に人を寄せ付けない高山大嶽(浅間型)もあるが、集落の近くにある小山(神奈備山型)が親しまれ崇敬されてきた[44]。神奈備山型の神体山には古社が鎮座することが多く、浅間型の神体山では、駿河や甲斐の浅間神社のように遠くから遥拝する場所に神社が建てられた[44]。神体山は独立の山が普通だが、二峰の山、三峰の山もあり、その場合はそれぞれの峰ごとに神が祀られている[44]。これらの山には山頂や中腹に岩場があり、その周辺から祭祀遺跡が見つかることがある[169]。春日大社の三笠山など、有名大社の神が最初は神体山に降り立ったという伝承は非常に多く、祭祀遺跡から神社建築前の祭祀の様子をうかがうことができる[169]。人里離れた山々の神秘的な岩場は仏教の僧侶の修行の地となり、それにより仏教の聖地となったと考えられ、仏教の聖地としても展開した[170]。
神が巨石に降臨するという考えも多く見られる。天皇家発祥の地とも考えられる奈良県の三輪山は大神(おおみわ)神社の神体山だが、山麓に遍在する斑レイ岩の巨石の多くは磐座(いわくら)とみなされている[169]。玄海灘沖の沖ノ島には、ヤマト王権が海外交渉に関する回路の安全を祈ったと考えられる祭祀遺跡があるが、それも磐座を中心に展開している。発掘により4世紀後半から10世紀初頭まで形式を変えながら祭祀が行われ、遣唐使の廃止に伴い終了したと考えられている[171]。奈良時代まで、1つの祭場で行う祭祀は1回のみで終了後の片づけはなく、神を招く儀は丁重に行われたが送り返す儀は簡単なものか、またはなかったことが分かり、原初的な神の不明瞭さを示している[172]。沖ノ島の祭祀の最終段階では、同一の祭場で複数の祭祀が継続的に行われるようになり、岩を拝むように祭場を設定し、鏡や武具、金属製雛形、人形(ひとがた)・馬形・船形の滑石製の形代(かたしろ)等を並べ、酒や食物を捧げて神を祀っていたと思われ、大量に出土した土器は「延喜式」で規定された祭具と重なり、律令祭祀との関係が考えられる[172]。こうした祭場・祭儀の1か所への定着は、神社祭祀への転換の過程と見られている[172]。かつて祭祀の場であった磐座は、神社に発展したり、なんらかの伝承と共に現在まで信仰の対象となっているものが多い[173]。霊山の磐座を基に形成された仏教の霊場もみられ、平安貴族はこうした観音霊場に盛んに参詣していた[170]。神体山として崇敬された山と、その中核をなす巨石への信仰は、仏教と融合しながら継承された[170]。
樹木も、神もしくは神の依り代として崇められており、天長4年(827年)に東寺の塔木に使うために稲荷の神木を伐ったところ淳和天皇に祟ったなど、木が霊力を示したとされている[170]。老樹・巨木を神木として、注連縄をかけた風景は現代でも全国でみられる[174]。木を神聖視する思想は仏像の造立にも反映され、奈良時代末から平安時代前期には一本の木材から像の主要部分を彫り出す一木造の仏像が隆盛した[174]。元々日本で神の像は作られなかったが、同時代に一木造で神像が作られるようになり、これは神木を用いたためと推定される[174]。
こうした自然崇拝的な要素は、人々が特に神社の祭神名を意識しないといった神観念の曖昧さ、一回ごとに神を招いて行う祭りの重要性、祭神の移動(神社の勧請)、神道と仏教との融合などに現れており、こうした要素は現代にも継承されている[174]。ある意味で日本の神道(神祇信仰)の根幹とも言えるが、性質の一面に過ぎないと言え、自然崇拝的な要素のみで神道を語ることは無論できない[175]。神社の神を信仰する宗教という視点で神道をとらえるなら、自然崇拝の要素のみの段階では神道は成立していない[176]。
分類
[編集]神道はかなり漠然としたものであるため、細かく分類して歴史的展開や社会における機能を考える方法があり、神道の姿を整理する助けになるが、どう区分するかには難しさがある[30]。1994年に刊行された國學院大學日本文化研究所編『神道事典』は、戦後の研究では最も体系的かつ包括的な神道事典であるが、この事典に「○○神道」として掲載されているものは「伊勢神道、忌部(いんべ)神道、烏伝(うでん)神道、雲伝神道、正親町(おおぎまち)神道、家伝神道、橘家(きっけ)神道、国家神道、御流神道、山王神道、儒家神道、垂加神道、太子流神道、対馬神道、土御門神道、伯家神道、仏家神道、復古神道、法華神道、物部神道、吉川神道、吉田神道、理当心地(りとうしんち)神道、琉球神道、両部神道、霊宗神道」である(五十音順)[177]。なお、これには一部の専門家しか知らないような神道説や、現存しない神道説、現在の神道の展開とは関わりの薄いものも含まれている[177]。
特定の思想や実践を共有する人々の集合体がイメージしやすく、ある程度の輪郭を持った、垂加神道、復古神道や、数で数えられるような実体を伴う教派神道は、何を意味するか比較的明確で混乱は少ない[31]。神社神道や国家神道は、神道の輪郭不明瞭な側面に関わる語と言え、これらをどう考えるかには議論があり明確でない[31]。
- 皇室神道 (皇室祭祀、宮中祭祀)
皇室神道は宮中における祭祀を総称した呼称であり、宮中祭祀のこと[178]。島薗進は、「伊勢神宮と天皇の祭祀の職掌をもつ家筋の人々が司る祭祀のシステム」「古代朝廷を中心に行われた神祇祭祀のシステム化」を皇室神道とよんでいる[179]。明治時代以降に宮中三殿で行われた祭祀も皇室神道に含むとされる[178]。なお、天皇は神道の「教主」ではなく、カトリックにおけるローマ教皇のような存在と考えることはできない[180]。なお、皇室の祭祀が神道中心のものになったのは近代以降であり、皇室の祭祀は神道に限られたものではなかった[181]。
全国の神々は地元の祭祀が最優先であり、本来天皇が直接祭ることはできず、天皇が直接祭ることができるのは皇祖神アマテラスだけであった[46][注 38]。地域・氏族によるそれ以外の神々の祭祀権は残り続け、天皇は間接的に関与するのみだった[182]。この祭祀権の二重性構造の原初は『日本書紀』の「崇神記」に示されており、疫病が蔓延し、天皇が住まう宮中にアマテラスを祀る「同床共殿」が否定され、天皇が神に許しを請う祈願を行うと、大物主が我が子大田田根子による祭祀を求める神意を示し、それに従うことで疫病が終焉するというエピソードがある[182]。天皇祭祀権の限界と、地域祭祀権と天皇祭祀権の二重構造が示されており、これが律令祭祀の起源となっている[182]。
律令祭祀は律令制度のもとで国家的な祭祀として整えられたものであり、律令制度の国家の中心にいたのが天皇であるなら、律令祭祀の中心が天皇であるのは当然であると言えるが[178]、神祇令で定められた祭祀は神祇官という機構を通して行われるものであり、天皇は直接参加しない[183]。岡田莊司によると、諸国で行われた国司祭祀は天皇祭祀権の一部委託を受けた代行行為であり、鎌倉幕府における将軍祭祀(鎌倉殿祭祀)、江戸幕府における将軍祭祀も同様である[184]。
天皇祭祀は、広瀬竜田祭(広瀬大忌祭と龍田風神祭)や大嘗祭(新嘗祭)など7世紀後半の天武天皇・持統天皇の時代に整備されたと考えられる[185]。その祭祀は、毎年の祈年祭と天皇即位時に神祇官が全国の官社(神社)に幣帛(みてぐら)を配布し(班幣)、11月の新嘗祭や6月・12月の月次祭で神祇官が畿内の天皇と大和政権を支える神々を祭る官社に班幣するという班幣祭祀である[185]。ただし、神祇令に規定はないが、新嘗祭と月次祭(つきなみのまつり)の前後には、天皇自身の祭祀儀礼が行われおり、月次祭の前には天皇が身を清める期間があり、、神祇官が天皇の身体に祟る神を占う御体御占(おほみまのみうら)が行われ、月次祭の翌日には、天皇がアマテラスを勧請し神酒や御饌(みけ)を神に供え自身も食する「神今食(じんこんじき)」を行っていた[186]。
代表的な宮中祭祀としては、天皇即位後に行われる大嘗祭(天皇即位後初の新嘗祭)等がある[178]。『貞観儀式』『儀式』などの規定によって、大嘗祭の期間は中央及び五畿の官吏が仏事を行うことが禁じられ、中祀および内裏の斎戒を伴う小祀には、僧尼の代理への参内を禁じ、内裏の仏事が禁じられたほか、平安時代中期以降には、新嘗祭、月次祭、神嘗祭などの天皇自らが斎戒を行う祭においては、斎戒の期間中、内裏の仏事をやめ、官人も仏法を避けるなど(神仏隔離)、神道儀礼と仏教儀礼は、朝廷においては明確に区分されていた[187]。
平安時代以降は、天皇が名神大社に対して勅使を派遣して奉幣と宣命の奏上を行わせる名神大社奉幣が盛んになり、次第に二十二社への奉幣と展開した[188]。平安時代の中期以降は、律令制度の弛緩に伴う神祇官の衰退により、天皇の親祭が高まり、年始の元旦四方拝や天皇が内裏で毎朝、「石灰壇」と呼ばれる台で伊勢神宮を遥拝する毎朝の御拝や、即位に際して特定神社へ神宝を送る一代一度の大神宝使の制度が始められたほか、神社の行宮まで天皇が赴く行幸も始められた[189]。宮中祭祀を含む朝儀の多くは、応仁の乱(1467年 - 1477年)で公家の多くが京を離れことで大部分が断絶し[190]、弱体化した朝廷は長く困窮状態で宮中祭祀の復興や芸能の伝承も困難であった[191]。一部は(機能・役割を同じくするかはともかく)後世に復興したがその中絶期間は長く、大嘗祭は約220年[192]、大祓は約400年行われていない[193]。
現在の宮中祭祀は明治政府が整備したものがベースである。明治政府は、国の根幹の精神の基礎に「古代よりの神祇信仰」を据えることを決めて神道国家主義体制を取り、その一環として皇室の古儀(古い儀式)を復興した[194][195]。2月の祈年祭、6月・12月の大祓、11月の新嘗祭、紀元節祭(神武天皇祭)、天長節祭、伊勢両宮遥拝式、元始祭、孝明天皇祭、春秋二季皇霊祭などを定めたが、そのうち紀元節祭・天長節祭は完全に新しく作られた祭典であった[196]。一方、江戸時代に行われた人日・上巳・端午・七夕・重陽の五節供を廃止している[196]。祭祀の方法は、遠くの神を遥かに拝み祭る(遥拝)であったものを、明治時代の初めに、神籬を設けて神を迎え祭祀を行うという新しい方法を採用し(大嘗祭および古代の祭祀は遥拝のまま)、天皇が地方の神々を直接祭らないという古代から堅持されてきた祭祀権の二重構造をやめて祭祀権を完全に天皇のもとに一元化し、天皇が直接祭祀を行う親祭の対象に全国の神々を加え、宮中三殿の神殿に古代から神祇官が祀ってきた八神殿の神々と共に全国の神々を新たに祀るなど、明治政府のもとで宮中祭祀には新しい発想・新しい要素が追加され変化している[46][184]。現代の宮中祭祀としては、新年の四方拝や歳旦祭、五穀豊穣や国家・国民の安寧を祈る新嘗祭などが行われる[197]。
宮中祭祀は地方の神社で神職が行う神社祭祀との共通点が少なくなく、かなり似通っており、一般的に神社神道も宮中祭祀も「神道」とされている[180]。しかし、現代の日本は政教分離であり、「神道」は特定の宗教を指すため、天皇の存在と神道を結びつけることはできず、天皇が神道の立場に立つとはされていない[180]。大嘗祭は国事行事でなく「皇室の行事」とされており、天皇の宮中祭祀を管轄する宮内庁が宮中祭祀を「神道祭祀」と称することもない[180]。一方、神社本庁は、天皇が行う宮中祭祀は「神道」であるとしている[19]。



大嘗祭は新天皇の即位後、五穀豊穣と国民安寧を祈る神道祭祀である。
- 神社神道
神社神道とは、神社を中心に、氏子・崇敬者などによる組織によって行われる祭祀儀礼をその中心とする信仰形態である[199]。神社は中世においては、各神社が担った政治的・社会的・宗教的機能の違い、どういったレベルの世俗秩序の鎮守神であったかによって、大きく以下の3つに分類される[200]。
現代の神社神道で重要と考えられる諸要素のうち、罪穢れを除去する水浴である禊、神の移動を行うご神幸(神輿渡御)は律令祭祀には見られず、鳥居や注連縄も律令祭祀で規定されたものではなく、地方の神祇祭祀で特徴的に見られるものである[201]。現代の神社祭祀は明治政府が整備し統一したもので、律令祭祀や「記紀神話」に由来する要素だけで形成されているわけではないが、現代神道の関係者の多くは、古代の国家祭祀や「記紀神話」に遡って説明している[201]。
- 仏家神道
中世の神道思想の形成は仏教の僧侶が担ったが、これは仏家神道と総称される[35]。
- 儒家神道
近世の神道思想には儒学の影響が大きく、これが儒家神道と総称される[35]。
- 国家神道
国家神道とは、明治政府が神道を神社神道と教派神道に分け、教派神道を仏教やキリスト教と同じく「宗教」とし、神社神道を「非宗教」として宗教のカテゴリーから除外し国家が直接管理した宗教制度である[202]。1971年(明治4年)に、明治政府は「神社はすべて国家の宗祀(そうし)」であると宣言、官庁の制度としては1900年に確立した[202][203]。第二次世界大戦敗戦後、GHQの「神道指令」で解体された[203][注 39]。神道は事実上、国家宗教に近い機能を持っていた[205][203]。(国家神道#語誌を参照)
- 教派神道
歴史
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前史
[編集]現在の神道・神社に直接繋がる祭祀遺跡が出土するのは、農耕文化の成立に伴って自然信仰が生じた弥生時代で、この時代には、荒神谷遺跡などに代表される青銅器祭祀、池上曽根遺跡のような後の神社建築と共通する独立棟持柱を持つ建物、鹿などの骨を焼いて占う卜骨や太占、副葬品としての鏡・剣・玉の出土など、神社祭祀や記紀の神道信仰と明らかに連続性を持つ要素が見られるようになる[206]。
ヤマト王権が成立する古墳時代には、最初期の神社と考えられる宗像大社や大神神社で、古墳副葬品と共通する副葬品が出土することから、ヤマト王権による国家祭祀が行われたと推定されており、この時期に神道の直接の原型が形成されたとも考えられる[207]。
日本の神信仰では長く神社の社殿に当たる建物なしに神を祀っており、初期的な社殿が作られ始めたのは6世紀以降である[208]。
律令時代
[編集]飛鳥時代には、7世紀末に持統天皇(645年 - 702年)、またはその一代前の天武天皇(? - 686年)の途中から、新しい政治制度である天皇制度が開始され、これは歴史的な画期となった[209][注 40]。国家の歴史書として『日本書紀』が作成され、天皇家が天上の神でその中心神であるアマテラスの子孫であるという過去を記定し[注 41]、またアマテラスの勅として「葦原千五百秋之瑞穂国[注 42]は私の子孫こそが王として統治すべき地である」という宣言を記述して未来を規定した[210]。森博達の『日本書紀』のテキスト分析によると、『日本書紀』における皇祖神としてのアマテラスは、持統天皇の孫の文武天皇朝以降に成立したものである[213]。また、天上の神の世界を指す「高天原」という用語の定着は持統天皇朝が画期となっている[213]。
朝廷は宗教政策として仏教(仏法)と神道(神祇祭祀)の2つを重視する方針を取り、儒教は一部を受容して国として重視はせず[注 43]、道教は道教的信仰は取り入れたが宗教教団としては受容しなかった[61]。これ以降、日本の宗教は仏教と神道の2つが中心となったが、日本は仏教が神道を包括する傾向が強く、仏教優位の形で神仏融合が展開していった[61]。
朝廷は律令を整備し、それ伴い神祇令に基づいた祭祀制度の体系化を行った[214]。朝廷の命により、全国的な規模で官社と呼ばれる常設神殿を持った新たな宗教施設、すなわち神社が創出された[51][52]。在地社会で仮設の神殿から常設の神殿に自然に移行したわけではなく、神社の成立を天武天皇朝以前に遡ることはできない[51][52][53]。神社の常設の社殿は、律令期の7世紀末から8世紀初頭になってようやく広まり始め、以降神社が続々と創建されたと推定されている[43][208]。伊勢神宮は、7世紀末の持統天皇または文武天皇の時代に、政治制度としての天皇制度の成立にともなって皇祖神としてのアマテラスを祀る神社として成立したと考えられている[213]。
朝廷は神祇官が全国の神社に幣帛を頒布する班幣制度を確立し、全国の神社への社格区分や神階・神位の授与など、全国の神社を包括する国家的な律令祭祀制度を整備した[214]。ただし、伊勢神宮と天皇の祭祀を行う家系の人々が司る祭祀のシステムは確立したが、天皇家の祖神・朝廷と関わりの深い神を国家的祭祀システムに組み込もうとする律令祭祀制は実効性に乏しく、「制度としての実態は十分機能していなかった」と考えられている[69][26]。
古代の神主は、氏族の代表として氏族内で選定され、国家に任命され祭りを行うものであり、延暦17年(798年)に一任終身が任期6年に改められ、貞観10年(868年)には、国家が把握する「氏(氏社)」の神主を国司の管理下に置き(兼任不可)、祈祷と神社の管理(修理)に当たらせる制度が全国に適用された[56]。なお、この制度は全ての神社の神主に適応されたわけではなく、これ以降も、祭毎に派遣される「祭神主」しかいない神社、神主という役職自体がない神社もあるなど、各神社の神職組織は、歴史的・地理的要因、特に朝廷との関わりに左右され、一律なものではなかった[56]。
明治時代
[編集]明治30年代(20世紀初)には宗教学が本格的に導入され[215]、学問上で「神道」の語が確立した[216][要ページ番号]。
教義
[編集]神道には特定の創唱者がおらず、(神道と呼ばれる全体で言うと)教理あるいは教えはさほど体系だったものではない[59]。東アジアの端に存在する島国日本には、各時代に様々な宗教が伝わり、在来の神信仰や先に伝来していた諸宗教と重なり合い、組み合わさり、また混ざり合っていった[217]。神道を含む日本の宗教は、これら様々な宗教がモザイク状に複雑に組み合わさるようにして形成されており、また仏教(仏法)、儒教や中国の民間信仰、道教の霊魂観や冥界観を受容・吸収して日本の霊魂観や冥界観を作っていった[217]。
神道には明確な教義がないものの、『古事記』や『日本書紀』などには神道の基本的な観念をうかがうことのできる記述があり[218]、常世、黄泉などの他界観や、荒魂・和魂、祖霊などの霊魂観、むすひ、惟神(かんながら)、浄明正直などの倫理観、禊祓により罪穢れを払う清浄観などが、神道の基本的な観念と考えられる[218][誰?]。
『古事記』は神道の聖典とされることがあり、その神話世界は神道のイメージに近いように思われるが、『古事記』は神道の聖典ではない[219]。『古事記』には「神道」の語は登場せず、『古事記』は後の時代に神道の聖典と認識されるようになった[219]。「記紀神話」は戦前の国家神道のもとで神道の理想的な聖典とみなされるようになったが、これに歴史的な根拠はない[220]。
『古事記』『日本書紀』は様々に解釈されて、その時代その時代で新しい神話が創造されていった[221]。例えば、神野志隆光によると、近世の国学者本居宣長の『古事記伝』は、『古事記』と『日本書紀』を合成して新しい物語を創造したものといえる[222]。また、近代日本では『日本書紀』の天孫降臨神話が大嘗祭の由来と解釈されたが、『日本書紀』には大嘗祭に関する記述はなく、この解釈の元ネタは江戸時代中期の国学者平田篤胤の可能性が高い[221][注 44]。
中世には、このような『古事記』や『日本書紀』に見られる基本観念を体系的に追求し、神道の教学化を図る動きが見られた[218]。その最初期の動きは、両部神道や山王神道など、仏教の僧侶たちが仏教の教理に基づいた神道解釈を試みた仏家神道であった[223]。それらの仏家神道説に影響を受けつつ、それに対抗する形で、神宮神官らにより社家の立場からの神道説である伊勢神道が形成された[224]。伊勢神道の教説は、それまでの神道祭祀における観念を、外来宗教の語彙も活用しつつ論理化したものと捉えられ[225]、これまで神道祭祀において重んじられてきた祓や禊などの身体的清浄を心の問題として解釈し[226]、「正直」「清浄」を神道の徳目とした[227]。中世後期には、それまでの中世神道の展開を集大成し、仏教から独立した教義・経典・儀礼を持つ神道説である吉田神道が形成された[228]。吉田神道の教説は、この世の中の現象の全てに神が内在するという汎神論であった[229]。
近世に入ると、儒教の隆盛に伴い、理当心地神道、吉川神道などの儒家神道が盛んになり、神仏習合が強く批判され、儒教の徳目と神道の一致が説かれた[230]。儒家神道を集大成したのが垂加神道で、垂加神道説では神と人が「天人唯一之道」という合一状態にあるとし、神道とは人が神に従って生きることであり、人は神に一心不乱の祈祷を行うことで冥加を得なければならないが、それには人が「正直」でなければならず、その「正直」の実現には「敬(つつしみ)」が第一だとする教説が説かれた[231]。また、幕末には後期水戸学による神道説も唱えられ、国学と儒教を結びつけることで国体論を説き、尊皇論を唱え、幕末の志士たちの思想に影響を与えた[232]。
近代には神道事務局祭神論争という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したため、大日本帝国憲法によって信教の自由が認められた[233]。もっとも、それには欧米列強に対して日本が近代国家であることを明らかにしなければならないという事情もあった[234]。このような経緯から、近代には神社非宗教論が説かれ、神社神道の神職らが宗教的な教義を説くことは政府により禁じられたが、他方で在野の神道家らによる神道教理が説かれるようになり、国家から公認を受けた教派神道13派が独自の神道の教えを説いて活動し、勢力を広げた[235]。
神道の研究
[編集]「神道学」と「神道研究」、「神道学者」と「神道研究者」が同じものであるか、違うものなのかは研究者の間でも意見が分かれており、安蘇谷正彦は異なるとする立場から、神道の科学的研究である「神道研究」と、研究者自身が神々を信仰し、その立場から神道信仰の言語化・理論家・体系化、すなわち神道神学の形成を目指す「神道学」に分け、古代から近代の国学までの神道研究者の大部分は意識的または無意識的な神信仰を有していたといて、近代までに行われた神道の研究は「神道学」で「神道研究」ではないとしている[236]。「神道学」と称される学問は国学に系譜を引いており、その影響下において、神道史研究も特殊な分野として扱われてきた[237]。神道の科学的研究である「神道研究」としては、神道の「宗教学的研究」、「歴史学的研究」、「民俗学的研究」、「考古学的研究」、「神話学的研究」、「日本思想史学的研究」などがあるとしている[238]。各研究分野の創唱者や先駆的研究者をみると、強弱はあれど時代の風潮として、敬神の念、天皇への忠誠心、愛国心などを持っていたため、戦前の「神道研究者」と「神道学者」は理念的に近く、よって視点に大きな違いはなかったが、戦後には乖離が生じており、安蘇谷正彦は両者を区別すべきと指摘している[239]。
鎌倉時代には伊勢神宮の神官による神道研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[105][要ページ番号]。本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い(古事記伝)、国学の主流を形成していった[240]。
神道の歴史学的研究の先駆者は宮地直一であり、近代史学の精密な文献実証的研究を方法を用いて神社史を研究した[241]。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している[242]。
古代の神道に関する研究は長い歴史と蓄積があるが、三橋正によると、「学問的な立場による違いが大きく、様々な学説が未整理のままである」[237]。諸分野の中で民俗学が果たした役割は大きいが、日本における創始者といえる柳田國男が「新国学」と称して体系化を試みたように、国学の影響が強く、神道を太古から一貫して続く純粋なものとみる先入観がぬぐい切れておらず、よってその研究成果を神道研究に取り入れることには慎重さが求められる[237]。
日本の戦後の歴史学は唯物史観・マルクス主義的な歴史観の影響を受けており、国粋的な皇国史観への反動・仏教を排除する歴史観もあり、神道を「神祇イデオロギー」と称して「古代国家による民衆支配の原理」とみなした[237]。三橋正は、こうした見方は十分な客観性があるとは言い難く、また宗教を政治の道具とする見方が信仰の意義を見失わせており、宗教史の研究として弊害があると指摘している[237]。国学に連なる研究は右翼的、唯物史観に基づく研究は左翼的と位置付けられたことで、両者の間では十分な議論が行われず、神道研究は閉鎖的であった[237]。
現代の神道
[編集]
神道に属する神々を祭神とする社を神社(じんじゃ)といい、現代の全国の神社の大部分は神社本庁が統括している[243]。なお、神社本庁は「庁」と称しているが、行政機関ではなく民間の宗教法人のひとつであり、神道系包括団体である[244]。
「祭政一致」という観念
[編集]「祭政一致」とは、神々を祭る祭事と人間を統治する政治(政事)とが一致するという「観念」である[245]。宗教学者の柳川啓一は、「祭政一致」を職業聖職者が直接統治を行う神権政治とは異なるものとして定義した[246]。「祭政一致」という用語が広く使われるようになったのは、幕末から明治初年である[245]。維新勢力・討幕派が掲げた、倒幕を正当化する旗印としての理想であり、近代日本国家の中心概念である[247]。島薗進によると、「祭政一致」とは「天皇崇敬と『皇室祭祀』を国の精神的支柱としてキリスト教に対抗し富国強兵を図る」というものであった[248]。「記紀神話」には、初代天皇の神武天皇(架空の天皇)が大和橿原の地で即位したのちに鳥見山の祭壇で祭祀を行ったとの記述がある[249]。
討幕派は徳川幕府に対するクーデター勢力であるが、薩摩藩・長州藩と一部の公卿が政権を簒奪しようとするものとして正統性を疑われており、それ対する盾として「天皇の神権的絶対性」を必要とした[250]。幕末には、「記紀神話」に記された神武天皇の時代という(実在しない)遠い昔を理想化する動きが起こり、神武天皇が樹立した「始原の政治=祭政一致」に帰ろうとする思想が急速に力を持ったが、討幕派はこれを掲げ、徳川幕府の統治を崩壊させる行為の正当化を図った[250]。元々尊王攘夷派の間では討幕と天皇親政の象徴だった14世紀の「建武の中興」の時代への復古が唱えられていたが、このスローガンではさらに前の鎌倉幕府や、天皇が実権を失った古代摂関制の時代を否定できないので、神武天皇が人間で最初の天皇になったという神話と伝承の時代への回帰の思想が採用された[247]。こうした政治的文脈の中で、武士の政権以前の政治体制の復活として、討幕派は1867年(慶応3年)にクーデターを実行して王政復古を宣言し、「諸事、神武創業之始」に原づくのスローガンを掲げ、徳川幕府の廃止・摂関制の廃絶を実行した[250]。政治社会学・民俗学研究者の岡本雅享は、これが「日本民族」創造の起点になったとしている[250]。明治維新後の新政府は「太政官布達」で祭政一致し、神祇官を再興すると布告した[251]。
国家神道は、宗教と政治が一体であった古代の「祭政一致」の先例に基づくものとして創始され[252]、神道の特徴の一つに祭政一致があるとする意見もある[253][注 45]。「祭政一致」は主として、古代天皇制の文脈において言及されてきた[245]。
原始・未開社会では「政治的主権者としての共同体の首長」の機能は、「宗教的祭祀者としての機能」と未分化であり、時代を遡るほどその傾向が強いとされるが、古代天皇制国家の形成期にも同様と見られてる[245]。山上伊豆母は、日本でも巫の告げる神託が政治的な権威をもったヤマト王権の統治体制に遡ることができるとしている[256]。服属した諸部族の首長の祭祀権・各氏の祖神とその神話・血縁的な系譜関係を天皇家の神話・系譜に統合し取り込むことで、政治的統合を遂げ、軍事的統合を補強するといったことが行われた[245]。自然現象も狩猟・農耕の収穫もすべてが神意であり、よって「生活が豊かに、社会が平和になるためには神に祈る必要があり、これが政治である」とする思想は、古代天皇制国家統一の支柱であり、律令制において神祇官を太政官に並べて設置したことにも現れている[257]。なお、大王から天皇への変化の過程で宗教と政治の機能は分離していき、天皇の親政も、天皇の母方の親族が政治の実権を握る摂関政治の開始で終了している[245][258]。天皇を擁する朝廷は武家政治(幕府政治)の発展で統治権を失ったが、祭祀は行い続け、これが後に〈万世一系〉の天皇制の正統性の支えとなった[245]
神を祀ることを政治の根本とみなし天皇を特別視する思想は、中世の神道思想、江戸時代の国学へと引き継がれ、明治維新以降は、神道国家観によって天皇の「まつりごと(祭祀と政治)」を強調する傾向が生じ、特に昭和に入って以降は天皇を「現人神」として天皇の親政を主張する右翼運動が高まった[257]。
神霊の憑依
[編集]昭和後期の民俗学研究者佐々木宏幹[注 46]は神代紀の天鈿女命、崇神紀の倭迹迹日百襲姫命、仲哀紀の神功皇后などは突然神がかりして神の意志を伝えたりしており、神霊の憑依の例として挙げられている[261][262]。
山上伊豆母は、4世紀の三輪王朝、5世紀の河内王朝、そして崇仏派の蘇我氏による大化の改新によって律令制国家となる以前の大和朝廷は、三輪氏や多氏といった巫を司る一族と政を司る大王の共同統治が行われてきたと主張している[256]。
小口偉一は、日本の宗教信仰の基底にシャーマニズム的傾向があるとし、神道系新宗教の集団の形成や基盤も同様であるとした[262]。神道系新宗教の教祖らの中には召命型シャーマンの系統に分類されるものがいると考えられている[262]。
信仰
[編集]神社信仰の性格は、大きく分類すると氏神型信仰と勧請型信仰(崇敬祈願型信仰)の2つに分けられる[263]。古代における信仰は、前者の、地域ごとに氏神・産土神を祀る閉鎖的な共同体祭祀が中心であったが、中世に入ると、霊威のある神々が地域を越えて各地に勧請され、個人の祈願が行われる勧請型の信仰が増加した[263]。中世期の律令制の崩壊と荘園制の成立に伴い、特定神社を国家が支える古代的な律令祭祀制度が崩壊し、荘園領主たちが有力神社を本所として荘園を寄進するようになった結果、その寄進された社領にその分霊社が勧請されるようになったことや、各神社が御師をして地方まで信仰を広げる活動をはじめたことなどが、中世期に入って神社信仰が拡散する要因となった[263]。また、中世期の惣村では、村民たちは日常の農耕生活の中で神社に寄り合い、村民の中から一年交代で年番神主が選ばれていたり、オトナ・年寄と呼ばれる古老が取り仕切り若者衆が神事の奉仕に当たる神事運営のための祭りの編成組織である宮座が結成されるなどしたほか、村の取り決めに際しては起請文を記して神に誓約し、一揆の時には一味神水が行われるなど、神社は、民衆の精神的拠り所となっていった[264]。
近世期に入ると、治安や交通の改善によって人々の神社参詣がさらに活性化し、一層庶民の間での神社信仰が広がった。各村では講が結成され、毎年わずかなお金を積み立て、その共同出資をもとに籤で選ばれた代表者が神社に参詣し、講員全員分のお札などを受け取って帰る代参講が流行し、各講は御師や先達と師檀関係を結び、御師は講員の祈祷や参詣における宿泊の便を図った[265]。このようなことから、数百万人が短期間で伊勢神宮に参拝したと記録されるお蔭参りをはじめ、近世期には多数の人々が神社に参詣した。他方で、近世期の神社参詣は、近世社会における輸送組織の発達や道中での宿屋・遊楽施設の充実などにより、道中において様々な名所を見物したり、遊興を行うといった、観光・娯楽的な要素も多く持つものであった[266]。このような観光と寺社参詣の結びつきは、近代を経て現代でも受け継がれており、観光における神社の存在感は大きなものとなっている[267]。この他、現在における神社への信仰は、初詣、お宮参り、七五三、結婚式など、個人や家族の年中行事や人生儀礼において現れている[268]。
以下では、特に全国的に広がった神社信仰について概覧する。
現代の参拝の方法
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- 簡易な参拝
神殿の前では、まず神への供物として賽銭を奉納する[272]。賽銭は神仏に捧げる供物の一種であり、古くは米を神にくるんで供えていたが、次第に金銭が供えられるようになった[272]。神社本庁は、賽銭には祓いの意味があるともいわれると述べている[273]。次に鈴鐘を鳴らしてお参りをする[272]。鈴には魔除けの霊力があるとされ、罪や穢れを祓い清めることができるとも、神を招く力があるともされる[272]。
鈴鐘を鳴らした後に拝礼を行う。神前での参拝の基本的な作法は、現在は「二拝二拍手一拝」の立礼が標準的であるが[272]、異なる神社もあり、伊勢神宮は八度拝八開手、出雲神社では二拝四拍手一拝である[272]。
正式参拝や祈祷などで玉串を捧げる場合は、上記の深揖と再拝の間で、玉串に祈念を込めて根本を神前に向けるように供える[274]。
神道諸派
[編集]神道を題材とした作品
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 吉田神道成立をもって神道成立とする場合は吉田兼倶
- ↑ なお、神道と神祇、神祇信仰、神祇祭祀といった言葉は、必ずしも置換可能、併置可能だと考えられているわけではない[12]。
- ↑ 井上寛司は神職で神道学者の安蘇谷正彦による神道入門書『神道とはなにか』(1994年)を取り上げて論旨を紹介し、概ね現代の神道をテーマにした一般書の主張は共通していると述べている[11]。
- ↑ 日本宗教史研究者の三橋正は、「たとえ同じ神を対象とする儀礼が継承されていたとしても、同質の信仰が維持されていたとは考えられない。時代の変化と共に神観念や社会的な役割が変化することは当然で、神の名前や性格が変わるというだけでなく、祭祀や神社そのものが停滞・再興したという事例は非常に多い。また『神祇』という語が中国から来ているように、『固有』とされる信仰が真に固有かを慎重に吟味する必要がある。」と述べている[27]。
- ↑ 宗教研究者の井上順孝は、「『これが神道である」というような固有の姿を描き出すことが困難である。これまでの研究によっておおよその輪郭が描きうる程度である。」と述べ、時代によってありようが大きく異なる事、フィールドワークをしても地域によって神の観念や行事の在り方もかなり異なることを指摘している[33]。宗教研究者の島薗進は、「古くから『神道』という言葉もあることにはあるが、宗教組織としての自覚を持つ神道があったかとなると不明確だ。『神道』という語の使用例を検討しても、独立の宗教という意味で使われている例は多くない」と指摘している[34]。
- ↑ 梅原猛の縄文論は、縄文の思想を「人間を含めてすべての生き物を本来同じものと捉える循環的な世界観」と考えて、西洋の人間中心的な進歩の思想と対置させるものだが、その方法論やイデオロギー性について考古学・歴史学の立場から多くの批判があり、また梅原に限らず、この種の縄文論の主張において「縄文的思想」とされるものの内容は、後の時代に形成された可能性のあるものとの区別が曖昧で、近現代のアイヌの習俗から想像したものがかなり多い[39]。考古学研究者の松本直子は、梅原猛による縄文の思想の復元は近現代のアイヌの習俗からの類推がかなり多く、また世界各地の狩猟採取社会について文化人類学で明らかにされたこととも共通しており、縄文時代の独自性を示す「縄文の思想」と言い難いことを指摘している[39]。梅原はアイヌの熊祭りを自身の縄文論の重要な論拠として取り上げているが、熊祭りは時代によって性格や内容が変化しており、また縄文時代に行われたとは考えられていない[40]。松本直子は梅原猛の類推に対し、「民俗例は、過去の習俗や思想を考える際に重要な示唆を与えてくれるものではあるが、時間的ギャップを勘案しない直接的な類推は危険である。」と苦言を呈している[40]。なお、「平和で平等主義的であるが呪術やタブーに支配された縄文社会と、権力志向で合理的な弥生社会」という構図は、マルクス主義的な歴史理解に基づいており、日本で戦前・戦後の皇国史観への反省・反発から戦後マルクス主義的な枠組みが中心となり、歴史像の構築にマルクス主義的な理論が積極的に用いられたことからきている[41]。
- ↑ 宮家準は、古墳時代に公伝した仏教(国家レベルで伝わった仏教)と区別され「神道」と称されたのは、「古来の自然宗教と渡来人などに持ちこまれた道教、儒教、仏教などを習合した自然宗教」であると述べ、神道は当初から外来宗教との習合宗教であったとみなしている[45]。
- ↑ 井上寛司は、神社成立までには長い前史があるが、神社とそれ以前の祭祀施設(ヤシロ・ミヤ・モリ・ホコラなどと称された)は別物であり、これらを不用意に混同したことが神社の理解に混乱を招いていることを指摘している[50]。
- ↑ 『類聚神祇本源』「神道玄義篇」[44]
- ↑ 当時の「仏法」は、哲学、信仰という内面的・思想的要素や、修行(行)だけでなく、建築、彫刻、絵画、仏具、技術、儀礼、音楽、聖職者、外護者、技術者、宗教団体といった文物・人間・集団を含有する宗教世界全体を指しており、今日でいう「仏教」とは意味が異なる[60]。日本は文明として「仏法」を受容したが、仏法伝来・隆盛の歴史的意義は大きく、その後の日本宗教史に決定的な影響を与えることになった[60]。
- ↑ 2010年に出版された岡田荘司編著の『日本神道史』は歴史学上の成果が多く取り込まれ、「日本の神道史のスタンダード」と捉えられている(2022年時点)[68]。2021年に小林宣彦が編集に加わり増補版が出ている[68]。
- ↑ 神道・神仏習合の研究者の佐藤真人や岡田荘司は、神道を「内容空疎な儀礼の体系」と評価し「神道なる言葉でいわれる独立の宗教は現実には存在しない」とみなす黒田俊雄の論に、近代的な宗教観からの「神道」理解が見られることを指摘し、佐藤真人は「高度な教義体系を具えてこそ真の宗教たりえるという十九世紀的宗教観が透けて見える」と評している[3][15]。
- ↑ 律令国家制度が神道祭祀(神祇祭祀)において強固な宗教統制・支配を行ったという説は戦後の歴史学で盛り上がりを見せたが、現在の研究では疑問視されており、律令祭祀制は「制度としての実態は十分機能していなかった」とする見方が有力である[69]。
- ↑ 吉原浩人は「神祇」の意味について、古代から唐代までの文献と仏典の用例を精査し、中国では「下級神」の意味で使われていたことは明らかであると述べ、『古事記』『日本書紀』では必ずしもその意味で使われおらず、意味が日本的に変化していると述べている[78]。
- ↑ 井上順孝はこうした見方について、「古代には国(朝廷)が各地に神をまつった神祇制度ができたけれども、仏教が伝来して以来神仏習合は長く続いた。神道はとりわけ教えの面では仏教や儒教などと比べて体系性が乏しいので、そうした見方が生まれてくる余地がある。」と述べている[4]。
- ↑ そのため、「神道」「ヒンドゥー教」といった明確な定義や輪郭付けが難しい宗教の語の意味するところの明確化は、観念や実践で範囲を定めるというアプローチになる[79]。こうした語を学術用語として用いることに否定的な人もいる[79]。一方、日常用語として常用化され、相互理解に欠かせない語でもあり、こうした文化的アイデンティティに関わる語を使わずに異文化コミュニケーション、相互理解を行うことはむずかしく、学術研究や討議において欠かせない語である[80]。島薗進は、「神道」はまさしくそのような難しさのある語であり、特に「神社神道」や「国家神道」と呼ばれる側面でその傾向が強く、語の使い方が異なることで歴史の捉え方も大きく異なってくるが、語の使い方が混乱していることを指摘している[80]。
- ↑ 哲学者の戸坂潤は『日本イデオロギー論』(1936年)で、「具体的な現実物が、それぞれ自分の特殊性ないし独自性を持っていることは当たり前である。日本という国家・民族・人類(?)が経済上・政治上・文化上・世界の他の諸国家・諸族・諸人種に対して、又世界の総体に対して、特殊性ないし独自性を持っていることは、当たり前である。(中略)自分の動機を識別することなしに単純に、日本的なものに特殊な力点を置くということが、保守的でも反動的でもなく却ってザハリッヒ(客観的)で忠実な研究態度又は認識態度だ、ということにならぬ。『日本的なるもの』が、他のものの説明原理として担ぎ上げられる場合と、それが他の諸原理によって説明されるべき具体的課題として提出される場合とでは、条件は全く相反しているのである。」と述べて、こうした日本主義に陥っている具体例として、和辻哲郎、西田幾多郎、紀平正美などを挙げている[94]。
- ↑ 日本の神信仰はアイヌの信仰にも共通点があり、アイヌ語の「カムイ」と「神(かみ)」という語の関係も深いと考えられている[104][要ページ番号]。
- ↑ いわゆる「八百万の神々」[105][要ページ番号]。
- ↑ 天孫降臨神話で天孫に天降りを命じる司令神は、『古事記』ではアマテラス・タカミムスビの二神であるが、『日本書紀』九段の5種類の伝では少しずつ異なり、タカミムスビ単独とする伝(本書、異伝の一書の四、一書の六)、アマテラス単独とする伝(異伝の一書の一)、アマテラス・タカミムスビの二神とする伝(異伝の一書の二)がある[108]。内容から、アマテラス系の伝はタカミムスヒ系の伝よりも後に出来たと考えられ、司令神はタカミムスヒからアマテラスへと変更されたと考えられる[108]。
- ↑ 黛弘道によると、アマテラスは女帝である持統天皇、ニニギは彼女の孫の軽皇子(後の文武天皇)がモデルであり、天孫降臨神話は持統天皇が孫軽皇子を即位させようという政治状況下で創られたもので、その背後には軽皇子の妻藤原宮子の父で持統天皇の政治的盟友である藤原不比等の存在がある[109]。さらに文武天皇が早世し、その子で、女帝である元明天皇の孫の首皇子(のちの聖武天皇)を即位させようという政治状況が生まれたため、アマテラスと孫のニニギの天孫降臨神話は、この2つの政治動向を二重に写して造形された[109]。
- ↑ 國學院大學の神名データベースでは、その意図として、「高御産巣日神を天皇家と共通の祖神としていた伴造氏族たちとの系譜的関係を断ち切って、天皇の地位の尊厳を明確にするために、天皇家独自の守護神であった大日孁貴(天照大御神)に皇祖神を変更したとする説や、天皇家や特定の氏族だけが祖神としていた高御産巣日神ではなく、古来、土着の太陽神として地方の豪族間で共有されていた天照大御神を中心に据えることで、新しい国家建設における統一の象徴としたとする説などがある。天照大御神が皇祖神の地位に上がった時期について、『日本書紀』の成立過程の分析によって、文武朝以降のこととする説がある。」と紹介している[108]。
- ↑ 「アマテラスの祟り」の記録はアマテラスの神威の証として残されたと考えられる[110]。全国のどの神が天皇に祟っているかを神祇官が亀の甲羅を用いて占う御体御占(おほみまのみうら)は当然秘儀であり、古代の史料はほとんどないが、中世南北朝期に卜部氏が書いた『宮主秘伝口伝』により詳細が判明している[112]。
- ↑ 『古事記』『日本書紀』は研究は戦後停滞していたが、日本古代文学研究者の神野志隆光の主導で1990年代に盛り上がりを見せた。神野は両書を別のコスモロジー(宇宙観・世界観)を持つ作品として読み、それぞれの内容に編纂時の思想を読み取るべきとし、水林彪は共通のスタンスに立ったが内容の見方は異なっており、神野・水林の研究・論争を通して、両書の内容の背景にある国家構想や神道祭祀との関わりを視野に入れた広い視野での議論が展開され、両書は再び律令期の思想研究の重要テキストとして重視されるようになった[114]。こうした神話再考の潮流と連動し、古代の神を形容する際に用いられてきた「固有の」「土着の」といった既存の概念の使用を根本から否定するような研究が次々に発表された[114]。
- ↑ 神野志隆光は、「天皇の正当性の神話」を古代日本の神話として一般化することは無理があると述べており、神話があって『古事記』『日本書紀』が成ったのではなく、『古事記』『日本書紀』が神話を成り立たせていると捉えている[115][116][117]。
- ↑ 津田左右吉は、『古事記』『日本書紀』の神話について、あくまで皇室の由来を説くものとしてあり、それは「皇室の御先祖としての日の神を中心として語られ、日の神及びその御子が神代に於ける国家の統治者とせられ、神代にはたらいてゐるものはそれとその従属者とにかぎられてゐる」のであり、「現実の天皇の神性」に基づいて創られたものとした[118]。
- ↑ 「記紀神話」以前に皇室の由来とは関わりのない神話があったと考えて、それを見出そうとする研究も様々に行われたが、神野志隆光はそうした研究で「記紀神話」のテキストから「抽出」した、「記紀神話」のもとにあったとする「神話」について、切り出して取り出したものが異なるタイプの神話であるという認定をどう証立てるのか、「論理的に不可能な議論というほかない。むしろ、皇室の由来というなかで見る、津田のとどまりかたが正当である。」「津田をこえて原始の伝承にさかのぼろうとするのは、歯止めのない成立論というほかない。」と評している[115]。なお、2012年時点でも津田の説は通説的な位置にあり、最新(2010年)の概説書にも津田説によるものが見られるが、津田の「記紀神話」論全体が有効なわけではない[119]。
- ↑ 「神と仏をめぐるこうした議論は、いったんすべて白紙に戻すべきである。なぜなら、現代日本人の常識となっている神仏の区分も、時代を遡ればまったく通用しなくなってしまうからである。……仏教伝来以前の神と古代の神と中世の神が、それぞれまったく別のものであることを再認識する必要がある。それをすべて「神」や「神道」という言葉で表現するから、誤解が生じることになる。……そうした限界を自覚した上で、一歩先に進むことである。それは狭義の「神」と「仏」を思想史上・文化史上に客観的に位置づけていくための座標軸の探求である。さまざまなカミの混在する宗教世界をトータルに把握する視座と、それを日本を超えたより広いコンテクストのなかで読み解いていこうとする新しい方法の模索である。[126]」佐藤弘夫「「神」と「仏」の重層性?」(苅部直・片岡龍編『日本思想史ハンドブック』所収、新書館、2008 年
- ↑ 漢神を祭る殺牛祭神(郊天祭祀)は、渡来人が大陸から持ち込んだ古い祭祀と考えられるが、日本にも広まり全国的に行われた[134]。桓武天皇が791年(延暦10年)に殺牛祭神の禁止令を出している(仏教の影響による、または牛の犠牲祭祀を中国同様に天子の特権としてみなし天皇の主権を示したとも[135])。
- ↑ 疫病の根源であり疫病をもたらす悪神(眷属)を支配しコントロールする神とされた牛頭天王は、インドから中国を経て日本に伝わったと考えられており、疫病封じの目的で信仰を集めたが、仏教思想や渡来系氏族の信仰、特に陰陽道とも混じりあって、神道・仏教・陰陽道などのアジア世界の様々な尊格・信仰[137][138]、アマテラスの弟のスサノヲ、仏教の薬師如来・観音菩薩・大日如来、道教の商貴王(鍾馗)・天刑星、陰陽道の方位神である天道神・歳徳神・八将神、朝鮮の民俗信仰のソシモリなど[137][138]が一体視されたものとみなされている[137]。牛頭天王は天竺(インド)の祇園精舎(釈迦の修行道場)の守護神であり、インド由来の仏教の守護神として信仰されていた[139]。牛頭天王信仰の中心であった祇園社は、修行僧が創建したとの記録(『日本紀略』926年)または十禅師円如が祇園寺として創建したとも記録されており、神社というより寺院と神社が結合した空間であり、寺院の側面が強く見られる[140]。
- ↑ 宗教思想史研究者の山本ひろ子は「異神」を「神話の神でも、仏菩薩でもない、新しい第三の尊格」と定義した[141]。
- ↑ 現代の神社でよく行われる茅の輪くぐりは、牛頭天王信仰として広まり年中行事として定着したものである[138]。
- ↑ 折口信夫は、大正期に広まった「神社非宗教論」を明治期にまで遡及させ、明治以降、宗教的なものは神道の本道だと認められなくなったため、神道は「宗教的なもの」を喪失し衰弱したとみなし、近代神道を批判した[154]。
- ↑ 戦後の折口信夫の「神道宗教化」論にはキリスト教との交流・影響が認められる[156]。
- ↑ 日本思想史研究者の佐藤弘夫は、カミについてのこうした「『目に見えない根元的存在』ー『目に見えるその現れ』という重層的把握」は日本列島における神観念の特色であり、古代から近代まで継続するものだが、「不可視の超越者が実体としてこの世に化現する」という観念自体は世界各地で広く観察されるもので、日本列島に限られないと指摘している[122][157]。
- ↑ 他に中世の聖地の制約としては、非人やハンセン病患者もまた伽藍の中心部分=聖域から排除されていた[160]。また一般庶民の場合も、経済的な問題で聖地に参詣できない等、垂迹を介する浄土信仰は、性別や身分・階層・貧富といった世俗的な差別をそのまま救済の差別に反映し、また垂迹の造立と荘厳さを重視する信仰態度は、信仰世界における金銭の重要度を増し、権力への依存を強めることになった[160]。佐藤弘夫によると、法然が疑問視したのは当時の宗教界のこうした状況であり、あらゆる人々を等しく浄土に導く手段として、念仏を通じて「この世の聖なる存在=垂迹」を介さずに直接彼岸の阿弥陀仏に直結し救済されるという教えを説いた[160]。これが法然や親鸞の神祇不拝(神を拝まない)という態度である[161]。なお、法然も親鸞も当時の社会通念である本地垂迹という理念自体は否定しておらず、現世利益や念仏者守護などの往生浄土外の機能に関して役割を認めていた[160]。
- ↑ 近世においては天皇もまた無数のカミのうちの一つであり、明治政府にとって、こうした江戸時代に出現した無数の神々の宗教的権威を天皇一人に集約するということが、大きな課題になった[165]。
- ↑ 大嘗祭・新嘗祭で祭られる神については議論があるが、岡田莊司は古くはアマテラスのみであったとしている[46]。
- ↑ 教派神道と区別された神道は国家神道とも呼ばれるが、法律家や行政実務家は以前からそれを神社と呼ぶのが例であった[204]。現在では国家神道を単に「神社」と称することはない。
- ↑ 天皇制度の発足のともなって国号は「倭」から「日本」へ、君主の称号は「大王」から、唐の高宗が「皇帝」の言い換えとして名乗った帝国君主の称号である「天皇」に改められた[210]。中国の政治制度を導入し、中国様式の都城(藤原京、平城京)を造営し、中国風の年号が建てられ、これは現在も続いている[210]。
- ↑ 『日本書紀』では、アマテラスとタカミムスビの孫ニニギが天から降る「天孫(皇孫)降臨」神話、その子孫の神武天皇が最初の天皇となり、持統天皇までが一系で続いていることが記述された[211]。なお、奈良時代の人々が実際に自分たちの時代の始まりと強く意識していたのは雄略天皇朝であり、神武天皇は当時の人々の歴史意識とも乖離した存在だった[212]。
- ↑ あしはらのちいおのあきのみずほのくに。日本のこと。[210]
- ↑ 7、8世紀の日本に儒教が存在したことは確実であるが(『論語』を記した出土品の最古の事例は7世紀前期のもの)、朝廷は科挙を採用しない等国として重視はしなかった[61]。古代・中世の日本では貴族層の一部に、統治の技術・学問として受容されていた[61]。
- ↑ 近代日本の文脈の中で『古事記』『日本書紀』を解釈し、天孫降臨神話と大嘗祭を結びつけて創られた大嘗祭起源神話を「大嘗会告論」と呼ぶが、この解釈は元をたどれば、室町時代の忌部正通による『日本書紀』注釈書『神代巻口訣』貞治6年(1367年)から来ているとされていた[221]。近年では忌部公通の実在が疑われ、『神代巻口訣』も偽書の疑いがあるため、天孫降臨神話と大嘗祭を結びつけた決定打となったのは、江戸時代中期の国学者平田篤胤の『古事記』『日本書紀』研究と考えられている[221]。
- ↑ 祭政一致は、英語ではそのまま「Saisei itchi」として用いられている[253][254][255]。
- ↑ 佐々木宏幹は、シャーマニズムには次のような3つの要素があるとした[259]。
出典
[編集]- ↑ これは『宗教年鑑』(文化庁)に基づく神道支持者とされる者の数で、神社側の自己申告によるものである 令和6年版』
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- 伊藤信博「桓武期の政策に関する一分析 (1)」『言語文化論集』第26巻、名古屋大学大学院国際言語文化研究科、2005年3月10日、3-40頁、CRID 1390009224656411136、doi:10.18999/stulc.26.2.3。
- 安蘇谷正彦「「神道研究」の百年 : 神道研究の二つのタイプ(日本の宗教研究の百年, <特集>第六十三回学術大会紀要)」『宗教研究』第78巻、日本宗教学会、2005年、1059-1081頁、CRID 1390282680927407488、doi:10.20716/rsjars.78.4_1059。
- 宮家準「民俗宗教史の研究 : 宗教的伝統の解明をめざして(日本の宗教研究の百年, <特集>第六十三回学術大会紀要)」『宗教研究』第78巻、日本宗教学会、2005年、1083-1107頁、CRID 1390282680927408256、doi:10.20716/rsjars.78.4_1083。
- 末木文美士『中世の神と仏』山川出版社〈日本史リブレット 32〉、2003年。ISBN 4-634-54320-6。
- 伊藤信博「御霊会に関する一考察 (御霊信仰の関係において)」『言語文化論集叢』第24巻、名古屋大学大学院国際言語文化研究科、2003年3月28日、3-17頁、CRID 1390009224656431232。
- 高野信治「武士神格化一覧・稿 : 上・東日本編」『九州文化史研究所紀要』第47巻、九州大学九州文化史研究所、2003年3月31日、1-105頁、CRID 1390864869326430848、doi:10.15017/1547166。
- 島薗進「国家神道と近代日本の宗教構造」第75巻、日本宗教学会、2001年9月、CRID 1520572357363998720。
- 茂木貞純『神道と祭りの伝統』神社新報社、2001年。ISBN 4-915265-95-1。
- Nelson, John K. (1996). A Year in the Life of a Shinto Shrine. Seattle and London: University of Washington Press. ISBN 978-0-295-97500-9
- 橋本章「滋賀県蒲生町の水無月行事 : 茅の輪くぐりの意味について」『鷹陵史学』第21巻、鷹陵史学会、1995年9月30日、151-175頁、CRID 1390301919374716288、doi:10.50927/os00210r151。
- 大隅和雄 著「神道」、山折哲雄 編『世界宗教大事典』平凡社、1991年2月。ISBN 4-582-13002-X。
- 山上伊豆母『古代神道の本質』法政大学出版局、1989年、84-100頁。ISBN 4588306014。
- 佐々木 (1984):佐々木宏幹『シャーマニズムの人類学』弘文堂、1984年。ISBN 9784335570315。
- 岡田莊司「中世初期神道思想の形成―『中臣祓訓解』 ・ 『記解』を中心に」『日本思想史学』第10巻、日本思想史学会、1979年。
- 大隈和雄「解説 中世神道論の思想史的位置」『中世神道論』岩波書店〈日本思想大系 19〉、1977年。
- 佐々木 (1973):佐々木宏幹 著「シャマニズム」、小口偉一・堀一郎 編『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、249-253頁。ISBN 9784130100274。
- 新城常三『社寺と交通 : 熊野詣でと伊勢参り』至文堂〈日本歴史新書〉、1960年。
- その他一般書・在野研究者の本
- 宝賀寿男『蘇我氏 : 権勢を誇った謎多き古代大族』青垣出版〈古代氏族の研究 14〉、2019年。ISBN 978-4-434-26171-8。
- 宝賀寿男『天皇氏族 : 天孫族の来た道』青垣出版〈古代氏族の研究 13〉、2018年。ISBN 978-4-434-25459-8。
- 宝賀寿男『三輪氏 : 大物主神の祭祀者』青垣出版〈古代氏族の研究 7〉、2015年。ISBN 978-4-434-20825-6。
- 『神道行法の本 : 日本の霊統を貫く神祇奉祭の秘事』学習研究社〈New sight mook. Books esoterica 第36号〉、2005年。ISBN 4-05-603775-2。
- 菅田正昭『面白いほどよくわかる神道のすべて : 日常の暮らしに生きる神道の教えと行事』日本文芸社〈学校で教えない教科書〉、2004年。ISBN 4-537-25212-X。
- 『古神道の本 : 甦る太古神と秘教霊学の全貌』学研〈New sight mook〉、1994年。ISBN 978-4-05-600630-8。
- 高校参考書
全国歴史教育研究協議会 編『日本史B用語集―A併記』(改訂版)山川出版社。ISBN 9784634013025。
- 宗教団体による一次資料
- 神社本庁監修 編『神社検定公式テキスト. 3』(神社のいろは 続)中公新書、2013年。ISBN 978-4-594-06764-9。
- 一次資料(史料)
- 国立国会図書館 デジタルコレクション 神社祭式行事作法 内務省神祇院教務局祭務課編集 昭和17年 敬禮 警蹕 書誌ID 000000664653 P15 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040190/1
- 国立国会図書館 デジタルコレクション 告示 / 内務省 / 第76号 / 神社祭式行事作法 明治40年 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2950545
- 国立国会図書館 デジタルコレクション 神奈川県内政部 / 神社祭式行事作法解説 昭和18年 P21 22 23 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1097500