菅原重二
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菅原 重二(すがわら しげじ、1919年〈大正8年〉3月 - 2002年〈平成14年〉6月)は、菅原研究所の創立者。ストロボスコープの開発育成の功績で、1982年に科学技術長官賞、1984年に藍綬褒章を受章している。
来歴・人物
戦前から戦時中
1919年、東京都日本橋区で十二人兄弟の末っ子として生まれた。家は、酒屋兼運送屋であった。幼少期は身体が弱かったため、3才まで多摩川に近い下野毛の農家に預けられた。日本橋に戻ると、小伝馬町の十思小学校へ通い、ついで府立七中(現都立隅田川高校)へ通った。
1年の浪人期間を経て早稲田大学理工学部機械工学科に入学。早大では、科学部でクラブ活動を行い、有益な交流を大いに深めた。SONYの元社長井深大とは先輩後輩の間柄で、十銭コーヒーを飲みながらよく啓発されていた。太平洋戦争開戦に伴って、1942年9月に早大を繰り上げ卒業となった。卒業後は海軍技術士官として従事。任地は横須賀で日本海軍のジェット戦闘機「秋水」の射撃標準機の設計に携わった。当時の上官は福岡成忠(後のNikon社長)であり、隣の部屋には、盛田昭夫(SONYの創設者)、同期には、後のサントリー社長の佐治敬三、後のトヨタ工業大学の駒井学長、後日興リサーチセンター理事長の宍戸氏などの著名人が多数従事していた。当時の海軍航空技術廠は、優秀な人材を集め、税金を注ぎ込み、あらゆる航空機用の兵器や機械・部品の研究・試作を行っていたため、先端技術の宝庫であり、菅原研究所にとって、豊富な知見と技術革新の芽を培った。
戦後から創立期
戦争が終わった1945年10月に東京工芸の研究主任となった。終戦後当時は、給料は極めて安く、学生時代にクラブ活動で覚えた電子技術を応用し、ラジオ屋として食いつないだ。井深氏が保証人となって、1949年12月に日本電気音響(後の日本コロムビア)の研究主任として従事。食うや食わずの生活の中で研究を続けてきたが、ストロボスコープの開発・製造・販売を目的に、1954年新宿区弁天町に菅原研究所を創設した。ストロボスコープの1号機はマブチモーターに納めた。
創業期の技術的基盤の形成
第二次世界大戦からの復員後、ベンチャー企業の先駆けとして精密測定器メーカー(株式会社菅原研究所)を設立した。機械工学の背景を持ち電気分野にも精通していたことから、「機械のための電気」を掲げ、後年メカトロニクスと称される領域を事業方針の柱に据えた。創業初期を支えたのは、後に早稲田大学理工学部長を務めた難波正人教授をはじめとする学術界の協力者たちであった。難波教授は自らのアイデアや夢を託す形で同社に助言や顧客紹介を行い、同教授の着想を契機として開発されたストロボスコープは、同社を世界的なメーカーへと押し上げる原動力となった。
難波研究室の自由な風土のもとで育った学生の支援も事業拡大に大きく寄与した。自社への発注を推進しただけでなく、技術的に未熟であった創業期に対し深夜に及ぶ技術指導を行うなど多面的な協力を提供した。これらの学術的支援を背景に開発された「ボールベアリング動的試験機」は、米国ベンディックス社などの世界的競合と肩を並べる製品へと成長し、後の日本のベアリング産業における国際貿易摩擦にまでも影響を及ぼす技術的基盤となった。
菅原研究所での歩み
1956年に株式会社組織とすると、ボールベアリングの真円度検査機ウェビメーター1号機を完成し、1959年には、ボールベアリング完成品検査機アンデロンメーター1号機を完成させた。
技術者の聖地ボストンでの出会い
1970年と1986年の2度ほど、アメリカ・ボストンのマサチューセッツ工科大学に長期滞在している。目的は、ストロボスコープの生みの親である同大学のエヂャートン博士への訪問であった。博士は、発明家で著名な学者であるだけでなく、戦時中から国防省の最高顧問で極めて多忙であったため、日本からきたベンチャー企業の社長とアポを取れるはずがないと思っていたが、博士のもとに留学していた東大の植村教授の紹介もあり、実現した。研究室では、重二お得意のストロボ技術の放談にかかわらず、博士は嫌な顔せず、むしろこの風変わりな東洋人の訪問を温かく迎えてくれた。人柄のよさか、同業のよしみとしてか、快く授業にも参加せてもらい、このとき博士の人柄に感銘を受けた。
趣味
趣味は、発明とドライブ。特許は、20個保持している。一度使ったふろの湯をきれいにする装置や、ズボンのチャックの閉め忘れ警報装置など、当時にしてはユニークな発明品が多い。考え事をしながら運転することが多く、車線変更で警官に咎められた際には、「時間があれば争いたいところだった」と後に、にんまりしながら語っている。大雪が降った際にはよく、最寄り駅まで大好きな車を運転し、困っている見ず知らずの人を自宅まで届けていた。
教育論・主張
- 教育制度と画一化への批判
- 戦後、日本社会における構造的な貧しさや国際競争力の低さを指摘し、その根本要因を国民の発想力・アイデアの欠如、および硬直化した教育制度にあると言及している。重二は、第二次世界大戦後に同様の苦境から出発しながら目覚ましい経済的繁繁栄を遂げた西ドイツと比較し、日本人の勤勉さが必ずしも豊かな社会の実現に結びついていない現実を問題視している。
- 旧来の明治・大正・昭和的な固定観念や学歴至上主義(出世コース志向)からの脱却を強く訴え、技術・製品・政治・経済の各分野における海外依存(特許料の流出等)を克服するためには、柔軟な発想力を持った次世代の育成が不可欠であると主張していた。
- 知識の詰め込みを重視する受験制度が若者の柔軟な思考力を奪い、精神的な疲弊をもたらしていると懸念を表明している。プラスチック成形機(インジェクションマシン)から押し出される製品のように画一的な人間が量産される結果、市場には似通った商品が溢れ、企業同士の不毛な過当競争を招いていると分析し、型破りな発想や個性を尊重する教育方針への転換を強く求めている。
- 若者への期待と世代間の役割
- 特に電子工学をはじめとする先端技術分野の著しい進歩においては、若い頭脳と感性が不可欠であると位置づけている。過酷な環境に置かれた現代の若者に対し、年長世代の役割は批判することではなく、実務的な教育を通じて側面から育成・支援することにあるとし、次世代の成長に希望を見出している。
- 海外経験の意義と体験的知見
著書
- 「技術者のボストン物語」菅原重二著