高剛

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고강
コ・ガン
高 剛
警察庁より公開された肖像
生誕 高 剛(こう つよし)
(1970-06-29) 1970年6月29日(56歳)
埼玉県
国籍 朝鮮籍
親 高大基(父)
渡辺秀子(母)
家族 高敬美(姉)
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高 剛(コ・ガン、こう つよし、韓国語: 고강, 1970年〈昭和45年〉6月29日 - )は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による拉致被害者[1][2]。1973年(昭和48年)12月に姉の敬美とともに、東京都目黒区のマンションより失踪した[2]。その後、北朝鮮に連行されたとみられる[2]。父は在日朝鮮人工作員の高大基、母は日本人の渡辺秀子で、1984年(昭和59年)5月に国籍法が改正されるまでは、父系主義に基づいて外国人父と日本人母の間に生まれた子には日本国籍が与えられなかったため、朝鮮籍である[2]。失踪当時3歳[2]。警察は高敬美・高剛の姉弟の失踪を拉致事件(2児拉致事件)と断定している[1][2]。

拉致事件

東京都品川区西五反田のTOCビル4階にあった貿易会社ユニバース・トレイディングは、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の幹部だった金炳植によって1971年(昭和46年)に設立され、約30名の社員と共に貴金属の輸出の業務にあたっていた[3]。しかし、その実態は北朝鮮工作機関のフロント企業であり、社員のうち10名は北朝鮮工作員であった[3]。日本の公安警察の捜査員によると、「表向きは貿易業務だったが、目的は在日米軍の情報収集などの秘密工作や資金調達、海外の工作員との連絡だった。貿易会社は金も稼げるし、海外に出張しても自然だ。ちょうど良い偽装だった」という[3]。

1972年(昭和47年)、金炳植が本国に召還されて失脚すると、会社を引き継いだのが愛媛県宇和島市出身の在日朝鮮人・高大基であった[3]。大基は、朝鮮総連傘下の研究機関・朝鮮問題研究所の研究員でもあり、さらに朝鮮大学校を卒業した朝鮮総連の専従活動家を構成員とする武闘工作部隊「ふくろう部隊」の訓練隊長でもあった[3][注釈 1]。

大基が渡辺と知り合ったのは1961年(昭和36年)のことで、当時渡辺は北海道紋別市のスナックバーで勤務していた[3]。客として店を訪れた大基が渡辺に一目惚れして交際が始まり、2人は1967年(昭和42年)3月1日に結婚した[3][5][6]。敬美は同年4月10日に生まれた[7]。大基の住居は埼玉県上福岡市(現在のふじみ野市)にあり、その後弟の剛も生まれたが、1973年(昭和48年)に突然大基が失踪した[8][3][5]。本国に召還されたのではないかと推定されている[3]。

残された渡辺は夫が失踪した理由がわからず、その行方を追って、夫の勤め先である五反田のユニバース・トレイディングを訪ねた[3]。秀子と敬美、剛はその後消息不明となった[3]。ユニバース・トレイディングが北朝鮮工作機関のダミー会社であることが発覚するのを恐れて親子3人を監禁したものと思われる[7][6][8]。

渡辺については、2007年(平成19年)4月の新聞ではユニバース・トレイディングの内部で工作員の男に絞め殺されたと報じられている[9]。報道によると、同社の関係者によって「箱に入れ石を詰めて捨てた」「遺棄場所は山形と秋田の県境」などの証言がなされたが遺体発見にはいたっていない[9][注釈 2]。

敬美と剛は、1974年(昭和49年)6月中旬、福井県小浜市の岡津海岸から工作船で北朝鮮に連行されたと考えられている[3][6][8]。これを指示したのは、北朝鮮の工作員でユニバース・トレイディングの役員でもあった在日韓国人の洪寿恵(ホン・スヘ)であることが警察の捜査で判明しており[1]、彼女は1977年(昭和52年)以降、日本に帰化して木下陽子と名乗っている[10][注釈 3]。

木下の指示を受け、2人を北朝鮮に連れて行ったのは、世話役であった当時55歳の女とみられる[10]。女は、工作船を待つ間に「お姉ちゃんも飲むからね」などと言って自分は酔い止め薬を飲んで安心させた上で、2人には睡眠薬を飲ませていたことが新たに判明した[10]。女は関係者に対し、「姉(敬美)は目を覚ましたので、手を引いて工作船に乗せたが、弟(剛)は寝ていたので、背中におぶって乗せた」などとも話している[10]。

2007年(平成19年)4月12日、警察は敬美・剛を拉致されたものと断定したが、現在の支援法は日本国籍保持者のみが対象になっており、朝鮮籍の敬美は政府による拉致認定がなされていない[7]。また、高姉弟拉致の主犯である木下については、4月26日の逮捕状の発付を得て国際手配を行い、4月27日に外務省を通じて北朝鮮に対し、身柄の引き渡しを要求している[1][7][6][12]。

脚注

注釈

  1. ↑ 「ふくろう部隊」は、朝鮮総連の議長であった韓徳銖と対立するようになった金炳植が、自身に反対する勢力や批判的な人物に差し向けて襲撃させる金炳植の私兵集団だった[4]。
  2. ↑ 渡辺については、このような証言により殺害説があることは事実だが、その真相はよく分かっていない[7][5][6]。特定失踪者問題調査会では「拉致濃厚の特定失踪者」としている[5]。渡辺は失踪直後に殺害されたといわれていたものの、実際は1年後も生きていたことが判明しており、公安当局も渡辺が「ご主人に会わせるから」と言われて北朝鮮に渡った可能性も考えられるとしている[5]。
  3. ↑ 1981年(昭和56年)5月6日、木下は夫の西村智亮とともに新東京国際空港(現在の成田国際空港)からオーストリア・ウィーンに向けて出国した[11]。

出典

  1. 1 2 3 4 “北朝鮮による拉致容疑事案について「姉弟拉致容疑事案」”. 警察庁. 2025年9月20日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 6 “失踪者リスト「高剛」”. 特定失踪者問題調査会. 2025年9月26日閲覧。
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 竹内明 (2017年11月12日). “北朝鮮「武闘工作部隊」日本人妻と子供たちが辿った残酷すぎる運命”. 現代ビジネス. 2025年9月20日閲覧。
  4. ↑ 李英和(1999)pp.23-24
  5. 1 2 3 4 5 荒木和博 (2021年8月23日). “神戸集会で渡辺秀子さん・敬美さん・剛さんに関して決議【調査会NEWS3484】(R3.8.23)”. 特定失踪者問題調査会. 2025年9月20日閲覧。
  6. 1 2 3 4 5 “失踪者リスト「渡辺秀子」”. 特定失踪者問題調査会. 2025年9月20日閲覧。
  7. 1 2 3 4 5 “失踪者リスト「高敬美」”. 特定失踪者問題調査会. 2025年9月20日閲覧。
  8. 1 2 3 荒木(2005)p.178
  9. 1 2 『四国新聞』 2007年4月13日
  10. 1 2 3 4 “2児拉致事件 リーダー格の女に逮捕状”. 日テレNEWS24. 日本テレビ (2007年4月26日). 2025年9月20日閲覧。
  11. ↑ 荒木和博 (2019年7月12日). “昭和53年から56年にかけて起きた事件”. 調査会NEWS. 特定失踪者問題調査会. 2025年9月20日閲覧。
  12. ↑ “姉弟拉致容疑事案に関する北朝鮮側への申し入れ等について”. 外務省 (2007年4月27日). 2025年9月20日閲覧。

参考文献 

  • 荒木和博『拉致 異常な国家の本質』勉誠出版、2005年2月。ISBN 4-585-05322-0。 
  • 李英和『朝鮮総連と収容所共和国』小学館〈小学館文庫〉、1999年9月。ISBN 4-09-403431-5。 

関連項目

外部リンク