黒駒合戦

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天正壬午の乱
時天正10年(1582年)8月12日
場所甲斐国黒駒
北緯35度35分10秒 東経138度44分41秒 / 北緯35.586136266700926度 東経138.74484921656418度 / 35.586136266700926; 138.74484921656418座標: 北緯35度35分10秒 東経138度44分41秒 / 北緯35.586136266700926度 東経138.74484921656418度 / 35.586136266700926; 138.74484921656418
結果 徳川軍の勝利
衝突した勢力
徳川軍 北条軍
指揮官
鳥居元忠
水野勝成
三宅康貞
北条氏忠
北条氏勝
黒駒の戦いの位置(中部地方内)
黒駒の戦い
中部地方における位置

黒駒の戦い(くろこまのたたかい)は、天正10年(1582年)8月12日に起こった戦いである[1]。 本能寺の変の後、空白地帯となった甲斐信濃の支配をめぐる争い(天正壬午の乱)の中で徳川と北条の間で起きた。戦いが徳川方の勝利となったことで、両者の対立は膠着状態におちいり、最終的に和睦することになった。

背景

徳川氏の状況

天正10年6月2日、本能寺の変が起こると、堺にいた徳川家康は、わずかな手勢で伊賀を経由して、伊勢湾を船で三河へと向かい(神君伊賀越え)、6月4日に岡崎城に戻った[2]。家康はすぐに明智光秀の討伐の意思を示し、6月14日には尾張鳴海へ軍を進めた[3]。

その一方で、北条を牽制する動きもみせた。 6月6日、甲斐巨摩郡下山に城を築くように、岡部正綱に命じた[3][4][注釈 1]。 また成瀬正一にも、甲斐の武田旧臣の取りまとめ、徳川方に臣従するように命じた[6]。

6月10日、織田家から甲斐を任されていた河尻秀隆に対して、本多信俊を派遣した[7]。 すでに河尻秀隆に対する一揆が起こっており、一揆の裏に徳川方の策謀を疑った河尻秀隆により本多信俊は殺害された[8]。 一揆は、6月15日に府中(甲府)を攻め、河尻秀隆を斬殺する[8]。 その後、岡部正綱や大須賀康高などの徳川軍により一揆は鎮圧された[8]。

徳川家康により遠江の二俣に匿われていた依田信蕃に信濃の武田旧臣の取り込みを依頼した[9][注釈 2][注釈 3]。 依田信蕃は、佐久へ向かい一時期、小諸城を奪取した[12]。 しかし北条氏直の軍が碓氷峠を越え、信濃に攻め入ると、7月12日には小諸城を放棄した[12]。

7月9日、徳川家康は甲府に入った[12][13]。

徳川家康は、酒井忠次に信濃平定を命じ、平定後に恩賞として信濃十二郡の支配を約束した[14]。 徳川方の信濃への侵攻は、甲斐府中から諏訪へと進む軍と東三河から伊那へ進む軍の二方向から進められた[15]。

北条氏直の軍が南下してくるとの報を受け、8月1日、 諏訪頼忠が立てこもる高島城を攻めていた酒井忠次は撤退を開始した[13]。 また酒井忠次と共に諏訪に陣をはっていた松平家忠も甲斐白須まで退いた[13]。 8月6日、酒井忠次の軍は新府城まで引き上げた[13]。 8月10日、徳川家康は府中(甲府)から新府城に進出し、城の修築にあたった[16]。

徳川本隊は新府城で、若神子城に進出した北条氏直の軍と対峙することになった[13]。

北条氏の状況

本能寺の変の報に接した北条氏政は、上野と甲斐への侵攻へと動く。北条家当主の北条氏直の軍が関東を北上、6月18日から19日かけて起きた神流川の戦いで滝川一益を破った[17]。氏直の軍は、碓氷峠を越え信濃に入り、7月12日に小諸城を落とした[12]。さらに川中島に進んで、上杉景勝と対峙した[18][19][注釈 4]。

『寛政譜』によると、 北条氏直は上杉方についていた真田昌幸と海津城の高坂昌元を北条方に内応させることに成功し、上杉景勝が川中島に出てきたところで、両名が上杉軍を攻撃し、氏直の軍も同時に突撃するという計画を立てた[19]。 しかしこの策謀が露見し、高坂昌元は処刑された[19]。

北条氏直は川中島での上杉軍との決戦を断念し、南下して甲斐へ進むことを決断した[21]。 北条は軍を二手に分け、本隊は雨境峠を越えて諏訪に侵入した[22]。 別働隊は北条氏規が率いて平沢口から甲斐に進んだ[22]。

8月6日までに、北条氏直本隊が若神子城へ進出し、新府城の徳川軍と対峙した。 『家忠日記』によると、北条方の兵は2万、徳川方の兵は2000であった[23]。

また北条は甲斐南東方面から北条氏勝を都留郡へ侵入させた[18]。 氏勝は甲府と鎌倉を結ぶ鎌倉往還の途中にある標高約1570mの御坂峠に、御坂城を築城した[24]。 『鳥居家中興譜』によると、8月5日、北条氏忠の軍が御坂城に合流し、合わせて8000(1万とも)の北条軍が府中へ攻め込む機会を伺っていた[25]。

信濃の状況

甲州征伐の後、浪人となっていた諏訪頼忠は挙兵し、高島城を奪った。 『寛政譜』によると、当初、頼忠は大久保忠世の勧めで徳川方についた[26]。 しかし、『家忠日記』の7月22日に「高嶋アツカイ切候テ働候」とあり[23]、徳川と手切れとなり北条方についた[26]。 これは酒井忠次の指揮下に入ることに反発したことが理由であったと考えられる[26]。その後、頼忠は高島城に籠城し、前述のように酒井忠次の軍により攻められることになった[13]。

上杉景勝の支援を受けた小笠原洞雪斎が、木曽義昌の軍を追放して深志城を奪取した。 『寛政譜』によると京都にいた小笠原貞慶は信濃に戻り、徳川方の支援のもと小笠原旧臣の支持を取り付け、7月16日に深志城を攻撃した[27]。 小笠原洞雪斎は城の明け渡し同意し、貞慶が深志城に入った[27]。 しかし、『当代記』によれば、その後、小笠原貞慶は北条方に寝返り、塩尻に陣を張った[28]。

甲州征伐後、浪人となっていた保科正直は、北条方の支援を受けて高遠城を奪取した[27]。

織田家から安曇・筑摩郡の支配を与えられた木曽義昌は、滝川一益の伊勢撤退と引き換えに、信濃衆の人質を引き継いだ。北条、徳川、上杉のいずれにつくか態度を鮮明にしなかった。

経過

この節は、特記のないかぎり『鳥居家中興譜』の記述に依る。

徳川家康が府中から新府城へ本軍を移したことを知った北条氏忠は、府中を攻撃することを画策した[29]。 8月10日(『鳥居家中興譜』での記述)に御坂城から軍を出し、山を下って黒駒藤ノ木付近に野営した[29]。

この動きは、すぐに府中にあった鳥居元忠に伝えられた[29][30][注釈 5]。 鳥居元忠は600の兵を率いて酉の刻(午後6時頃)に府中を発する[29][注釈 6]。 北条軍の陣の背後の山にまわりこみ、そこで夜が明けるまで待機した[29]。

夜が明けると、大石を落とし、大声をあげて山を下り、北条軍に攻めかかった[29]。 北条軍は混乱に陥り、北条氏忠は自分の馬を失い、徒歩で小田原城へ逃げ帰る状況であった[29]。 鳥居元忠は勢いに乗じて御坂城を落とし、さらに午の刻(正午頃)に御坂峠から東に下って谷村城を攻撃し、夕刻にはこれを落とした[33]。

この戦いで徳川方の戦果は、『鳥居家中興譜』では「討取所ノ首数三千餘」とある[29]。 『家忠日記』では、「随一之者三百余討取候」とある[16]。『武徳編年集成』には「敵或ハ厳石ニ当テ死スル者総テ千六百七十余ト云」と記述がある[31]。これらの記述は誇張があると推測されるが、北条方の惨敗であったことは間違いないと考えられる[31]。

戦後

8月20日、徳川家康は新府城から甲府に出向いて黒駒での戦闘を称賛し、鳥居元忠に甲斐都留郡を与えた[1][16]

黒駒の戦いで徳川が勝利したことをうけ、木曽義昌は徳川への臣従を決意した[34]。8月30日付けで、木曽義昌に対して家康から所領安堵状が出されている[34]。9月2日、徳川家康は木曽義昌に諏訪への出陣を求めた[28]。

一方、北条氏直の軍は、若神子城で動きを封じられた[35]。黒駒の戦い以後、北条と徳川の間には大きな衝突は起なかった。『家忠日記』には、物見が手傷を負った程度の小競り合いが9月17日と9月25日に発生したとの記述がある[35][36]。

徳川家康は依田信蕃と、真田信尹を使って真田昌幸を徳川方へ勧誘した[11]。9月20日頃、依田信蕃と真田昌幸が対面し、真田の徳川方への臣従が約束された[37]。9月28日付けで徳川家康は真田昌幸に、小県郡と上野の沼田の安堵に加えて、諏訪郡と甲斐に2000貫文分の知行を与える知行状を出した[38]。

依田と真田は、碓氷峠から平沢口に通じる北条軍の補給隊を執拗に攻撃した[39]。

9月下旬から10月には、保科正直は北条方から徳川方に寝返っている[28]。 徳川家康は10月24日付けで、保科正直に対して伊那郡の半分の支配を認めた知行状を出した[28]。

10月29日、徳川と北条の間で和睦が成立した[40]。 上野の沼田・吾妻領は北条に、信濃佐久郡および甲斐都留郡は徳川に帰属すること、また徳川家康の二女督姫を北条氏直に嫁がせることになった[41][注釈 7]。

12月12日、徳川家康は甲府を発して浜松城へ戻った[42]。 北信濃の制圧は、大久保忠世に任された[42]。

諏訪頼忠は、徳川と北条の和睦の前後に徳川方に臣従した[34]。 また小笠原貞慶は、北条と徳川の和睦後、徳川方に臣従し、天正11年(1583年)2月に子の小笠原秀政を人質に出した[28]。

影響

黒駒の戦いの勝利で徳川方は、北条の甲斐信濃の侵攻を断念させ、徳川による支配確立につながった。特に、甲斐の完全な領有化に成功した[43]。

一方で、信濃各地を実効支配していた領主の知行をそのまま認めることになり、国替えなどの強制力を使うことができず、信濃に直轄拠点を持つことができなかった[43]。 また北信濃の川中島四郡は上杉方の勢力下に置かれたままであった[43]。 徳川家康は、北条との和睦成立後にこれを駆逐するため川中島への出陣を度々検討している[43][注釈 8]。

しかし、徳川家康は川中島への出陣を行うことはなかった。 これは、羽柴秀吉と良好な関係を築きつつあった上杉景勝との直接対決を避けたと考えられる[43]。 徳川家康は信濃の支配が不安定のまま、羽柴秀吉との対立に向かうことになった[43]。 また、北条との和睦の条件であった上野の沼田・吾妻領の引き渡しは、真田昌幸が実効支配を続けており、宙に浮いたままとなった[43]。

脚注

注釈

  1. ↑ 岡部正綱は徳川家康と同い年であり、家康が今川家の人質として駿府にあったときから知り合いであった[5]。岡部正綱が武田家に属していたときにも手紙のやり取りをしていた[5]。
  2. ↑ 依田信蕃は甲州征伐で織田信長への帰参が遅れたため、死罪を命じられたといわれる[10]。
  3. ↑ 7月26日、徳川家康は依田信蕃に対して信濃佐久郡および諏訪郡を知行地と約束する書状を送っている[11]。
  4. ↑ 北条氏直は6月22日付けで、佐久郡の国衆に知行宛行状を出している[20]。
  5. ↑ 鳥居元忠は大野砦を守備していた松平清宗と三宅康貞にも情報を伝え、出陣を求めた[31]。
  6. ↑ 同じく府中にいた水野勝成も元忠を追いかけて出陣した[32]。
  7. ↑ 徳川家康が依田信蕃へ送った10月24日付けの書によると、織田信雄の斡旋で北条と和睦したことを伝えている[1]。
  8. ↑ 例えば、『家忠日記』天正11年(1583年)7月11日の項に「酒左ヨリ来六日ニ川中嶋ヘ御陣之由申來候 」とある[44]。

出典

  1. 1 2 3 東海大名家康, p. 177.
  2. ↑ 東海大名家康, p. 174.
  3. 1 2 東海大名家康, p. 175.
  4. ↑ 戦国時代の徳川氏, p. 187.
  5. 1 2 戦国時代の徳川氏, p. 186.
  6. ↑ 戦国時代の徳川氏, p. 191.
  7. ↑ 戦国時代の徳川氏, p. 184.
  8. 1 2 3 戦国時代の徳川氏, p. 185.
  9. ↑ 依田信蕃 : もうひとりの"真田", p. 51.
  10. ↑ 依田信蕃 : もうひとりの"真田", p. 48.
  11. 1 2 依田信蕃 : もうひとりの"真田", p. 55.
  12. 1 2 3 4 戦国時代の徳川氏, p. 200.
  13. 1 2 3 4 5 6 東海大名家康, p. 176.
  14. ↑ 戦国時代の徳川氏, p. 202.
  15. ↑ 戦国時代の徳川氏, p. 206.
  16. 1 2 3 家忠日記, p. 136.
  17. ↑ 依田信蕃 : もうひとりの"真田", p. 52.
  18. 1 2 依田信蕃 : もうひとりの"真田", p. 57.
  19. 1 2 3 戦国時代の徳川氏, p. 209.
  20. ↑ 依田信蕃 : もうひとりの"真田", p. 53.
  21. ↑ 戦国時代の徳川氏, p. 210.
  22. 1 2 依田信蕃 : もうひとりの"真田", p. 58.
  23. 1 2 家忠日記, p. 135.
  24. ↑ 定本・山梨県の城, p. 182.
  25. ↑ 鳥居元忠, p. 96.
  26. 1 2 3 戦国時代の徳川氏, p. 207.
  27. 1 2 3 戦国時代の徳川氏, p. 205.
  28. 1 2 3 4 5 戦国時代の徳川氏, p. 226.
  29. 1 2 3 4 5 6 7 8 鳥居元忠, p. 98.
  30. ↑ 戦国時代の徳川氏, p. 217.
  31. 1 2 3 戦国時代の徳川氏, p. 218.
  32. ↑ 福山開祖・水野勝成, p. 27.
  33. ↑ 鳥居元忠, p. 99.
  34. 1 2 3 戦国時代の徳川氏, p. 225.
  35. 1 2 東海大名家康, p. 219.
  36. ↑ 家忠日記, p. 139.
  37. ↑ 依田信蕃 : もうひとりの"真田", p. 71.
  38. ↑ 依田信蕃 : もうひとりの"真田", p. 70.
  39. ↑ 依田信蕃 : もうひとりの"真田", p. 72.
  40. ↑ 戦国時代の徳川氏, p. 219.
  41. ↑ 東海大名家康, p. 178.
  42. 1 2 戦国時代の徳川氏, p. 229.
  43. 1 2 3 4 5 6 7 戦国時代の徳川氏, p. 236.
  44. ↑ 家忠日記, p. 163.

参考文献

  • 煎本増夫『戦国時代の徳川氏』新人物往来社、1998年10月30日。ISBN 4-4040-2676-5。 NCID BA39299621。 
  • 平井隆夫 編『福山開祖・水野勝成』新人物往来社、1992年6月15日。ISBN 4-4040-1918-1。 NCID BA36486509。NDLJP:13320834/1。 
  • 定本・山梨県の城刊行会 編『定本・山梨県の城』郷土出版社、1991年11月19日。ISBN 4-8766-3171-9。 NCID BN07770373。 
  • 川崎文隆『東海大名家康』鳥影社、1990年2月10日。ISBN 4-7952-5144-4。 NCID BN04645466。 
  • 中村孝也『家康の臣僚 : 武将篇』国書刊行会、1988年2月29日。 NCID BN03346823。 
  • 市川武治『依田信蕃 : もうひとりの"真田"』郷土出版社、1987年10月2日。 NCID BA36510603。 
  • 松平家忠 著、竹内理三 編『家忠日記(一)』臨川書店、1968年5月15日。NDLJP:3448699/1。 
  • 和田兼三郎『鳥居元忠』鈴木禄三郎、1922年10月20日。NDLJP:965783/1。