お勝

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お勝(おかつ)は、江戸時代後期に江戸の駿河町で活動した町芸者。狂歌師大田南畝の詩歌や記録には、「勝」「阿勝」「おかつ」「お勝」などの表記で登場する。にかけて、歌妓としての活動や宴席への出入[1]。

記録

大田南畝の記録

文化9年(1812年)5月、大田南畝の『放歌集』には、お勝が歌妓・亀文字とともに永代橋のもとで舟を止め、酒を酌み交わしたことが記されている。また、南畝が「勝といふうたひめ」に贈った狂歌も収録されている[1]。

文化10年(1813年)12月、南畝は「歌妓阿勝に贈る」と題する漢詩を詠んでいる。詩には「駿河街上」とあり、お勝と駿河町との関係が示されている。翌文化11年(1814年)1月6日にも、南畝の詩に「歌妓阿勝」が登場する[1]。

文化11年(1814年)の狂文には、「詩は五山、役者は杜若、傾はかの、芸者は御勝、料理八百善」とあり、当時名の知られた詩人・役者・遊女・芸者・料理屋を並べた記述の中で、お勝が芸者として挙げられている[1]。

同年12月には、「題三楽器図 応歌妓阿勝求」と題する詩が記録されている。これは歌妓阿勝の求めに応じて三楽器の図に題したものとされるが[1]。

文化12年(1815年)1月には、新橋の酒席に歌妓阿勝が同席したことや、深川の養老亭での宴席に阿勝が参加したことが記録されている。同年2月の記録には、お勝について「盛名有つて一時に噪がし」とあり[1]。

同年3月11日、南畝はお勝とともに隅田川へ花見に出かけたことを記している。8月には浅草の花屋敷で秋の七草を見物した際に歌妓おかつが居合わせたこと、9月にはお勝の妹について触れた記述や、お勝が舟で深川へ向かった際の記録がある[1]。同年10月3日の記録には、お勝が黒繻子の帯を着けて宴席に現れたことが記されている。11月には、お勝が丸髷に結った姿を見た際の狂歌が収録されている[1]。

文化13年(1816年)2月11日には、南畝が呉船楼で歌妓お勝に会い、翌日に眉を落として歯を黒くすると聞いたことを記している[1]。

家族

文化12年(1815年)3月26日付とされる大田南畝の書簡には、「歌妓おかつ 駿河町、越後屋隣住」とあり、お勝が駿河町の越後屋の隣に住んでいたと記されている。同じ箇所には「妹に梅、ふさ、其外多し」とあり、妹として「梅」「ふさ」の名が挙げられている[2]。また、『放歌集』に関する記録には、「駿河町の姉おかつ・妹はおふさ」とある[3]。

同書簡には、お勝の「一年纏頭凡五百金」とも記されている。「纏頭」は芸能者などに贈られる祝儀を意味するため、この記述はお勝が多額の祝儀を得ていたとする当時の記録である[2]。

同時代以後の評価

三升屋二三治の『貴賤上下考』には、町芸者について述べた箇所に「名に高き町芸者は駿河町の於かつ」とある。同書は弘化4年(1847年)の序を持つ資料として紹介されている[4][5]。

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 “大田南畝・人物編Ⅰ・お勝”. 浮世絵文献資料館. 2026年10月14日閲覧。
  2. 1 2 “浮世絵事典・や「八百善」”. 浮世絵文献資料館. 2026年10月14日閲覧。
  3. ↑ “大田南畝・人事・芸者”. 浮世絵文献資料館. 2026年10月14日閲覧。
  4. ↑ “浮世絵事典・け「女芸者」”. 浮世絵文献資料館. 2026年10月14日閲覧。
  5. ↑ “貴賤上下考”. CiNii Books. 2026年10月14日閲覧。