張楚
張楚(ちょうそ)は、紀元前209年から紀元前208年まで中国にあった国である。はじめ大楚(だいそ)と号し、後に「張楚」に改めた(なお、「張楚」が国号であったかには議論がある。)。陳勝・呉広の乱を起こした陳勝を王として、陳(現在の河南省周口市淮陽区)を都にしたが、陳勝が殺されて滅んだ。
歴史
紀元前209年に蘄県大沢郷で反乱を起こした陳勝と呉広は、まず大楚を称して進軍した[1]。陳を占領すると、ここを都として陳勝が王となり、国号を張楚とした[2]。陳は戦国時代末の一時期に楚が都を置いた地である[3]。秦の時代には淮陽郡の治所であった[4]。
付近で呼応した反乱軍を糾合し、各地に兵を送って急速に勢力を拡大した。だが、西に送り出した軍勢が章邯が率いる秦軍に連敗して戦局は急転した[5]。張楚は陳を失い、逃げた陳勝は部下に殺された[6]。こうして張楚は6カ月で滅んだが、残存勢力はなおも楚を名乗って戦い、最終的に秦を滅ぼすことになった。
国号
もともと学説上は、「張楚」とは「張大楚国」(楚国を拡大する)[7]の意味であり、国号自体は「楚国」であったとする理解が通説であったとされる。しかし、1970年代、後述の出土資料の記述を踏まえ、「張楚」は、国号であるとする理解(劉乃和、張政烺)が普及し、さらに、紀年であるという理解も示され、結局、政権名であるという理解に落ち着いた。ところが、2020年代、この理解に疑問も呈する議論がされるようになり、出土資料に「張楚之歳」とあるからには、「張楚」とは楚の建国という事件名を意味するにすぎないとの指摘がされ(尹弘兵ら)、あるいは、そもそも伝世文献にも「為張楚」(秦始皇本紀)、「号為張楚」(高祖本紀、陳渉世家)と表現されているにすぎず、陳勝らが「張楚」という主張(楚を再興したという主張)[8]を公言したという記述にとるべきであるという学説も現れている(太田)。[9]
出土資料にみえる張楚
湖南省益陽市の免子山遺跡で発見された觚(六角柱に字を描いた木簡の一種)に、「張楚之歳」と書かれたものがあった[10]。楚の紀年法では、「張楚之歳」は張楚が興った翌年を意味するが、その頃には既に張楚は滅んでいたので、滅亡後に他の反乱軍、たとえば項梁らが記した可能性がある[10]。また、湖南省長沙市でみつかった漢代の馬王堆漢墓帛書「五星占」の暦にも「張楚」と記されていた[11]。
張楚の人物
『史記』陳渉世家による。官職・称号が判明する者のみあげる。
脚注
- ↑ 『史記』陳渉世家第18。岩波文庫『史記世家』下、10 - 12頁。
- ↑ 『史記』陳渉世家第18。岩波文庫『史記世家』下、12 -13頁。
- ↑ 藤田勝久『史記秦漢史の研究』、179 - 183頁。
- ↑ 藤田勝久『史記秦漢史の研究』、183頁。
- ↑ 『史記』陳渉世家第18。岩波文庫『史記世家』下、14頁。
- ↑ 『史記』陳渉世家第18。岩波文庫『史記世家』下、17 - 18頁。
- ↑ 司馬貞の『史記索隠』が引用する李奇の説は、「欲張大楚國,故稱張楚也」とする。
- ↑ 漢書顔師古注が支持する張晏の説によると、「張楚」とは、弛んだ楚を改めて張ったということであり、楚を再興したという意味になる。
- ↑ 太田, 麻衣子 (2025-09-30). “「張楚」とはなにか”. 史林 (史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)) 108 (5): 551.
- 1 2 藤田勝久『史記秦漢史の研究』、185頁。
- ↑ 藤田勝久『史記秦漢史の研究』、184頁。