桓魋

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桓魋(かん たい)または向魋(しょう たい)は、春秋時代の宋の人物[注釈 1]。宋の司馬であった。兄には左師の向巣、弟には司馬牛・向頎・向車がいた。

経歴

紀元前500年、宋の景公に気に入られていた桓魋は、景公の弟の公子地の所有していた白馬を欲しがり、景公はこれを桓魋に与えた。公子地は怒り、手下に桓魋を襲わせ白馬を取り返したので、桓魋は恐れて出奔しようとした。景公の同母弟の公子辰が取りなし、公子地を陳に出奔させ、景公にはこれを引き止めるように勧めた。しかし、景公は公子地を引き止めなかったので、結局公子辰も陳に出奔した(『春秋左氏伝』定公十年[1][2])。翌紀元前499年、公子辰・公子地らが陳より蕭に入り、叛乱を起こした(『春秋左氏伝』定公十一年[3][4])。

紀元前495年または紀元前492年、孔子が曹を去って宋を訪れた際、司馬の桓魋は孔子を憎み殺そうとして、大樹を引き抜いて襲ったため、孔子はみすぼらしい服装に身をやつして逃れた(『史記』宋微氏世家[5]、孔子世家[6])。この時、弟子に早く逃げるよう促された孔子は「天徳を予れに生せり。桓魋其れ予れに如何せん(天が私に徳を授けたもうたのだから、桓魋ごときが私に何をできよう)」と言ったとされる(『論語』述而第七[7][8]、『史記』孔子世家[6])。

紀元前484年、宋に出奔してきた衛の大叔疾が桓魋に玉を贈った。景公はこれを欲しがったが、桓魋は献上しなかったので、罪を得た(『春秋左氏伝』哀公十一年[9][10])。

紀元前482年、前年より鄭を攻めた向巣の率いる宋軍が嵒で罕達の率いる鄭軍に包囲されていたので、桓魋がその救援に向かったものの、子賸(罕達)が桓魋を捕らえた者に褒美を与えると布告したので、桓魋は敗走した(『春秋左氏伝』哀公十三年[11][12])。

紀元前481年、桓魋の増長を憎んだ景公はこれを除こうと宴に事寄せて桓魋を招いたが、うまくいかなかった。桓魋の方でも宴と称して兵を集めたので、景公は司馬の子仲(皇野)に相談し、桓魋の兄で左師の向巣に命じて桓魋を討たせようとした。桓魋の弟の向頎が桓魋にそれを急報したので、桓魋は宋の国都へ行き叛乱を起こそうとしたが、別の弟の向車に引き止められ、曹[注釈 2]に赴いてそこで叛乱を起こした。その鎮圧を命じられた向巣は果たせず、桓魋のもとへ奔り、曹人を人質に取ろうとした。桓魋はそれに同意せず人質を解放したが、曹人が反抗したので、桓魋は衛へ、向巣は魯へ逃れた。桓魋の弟の司馬牛は斉へ行くことにした。しかし衛でも桓魋は所持していた玉を狙われ、斉に逃れた。斉では田恒が桓魋を副卿にした。司馬牛は斉を去って呉へ行ったものの、呉で憎まれたのでそこも去り、晋や斉からの招きを断って魯で死んだ(『春秋左氏伝』哀公十四年[13][14])。

孔子の弟子の司馬牛(名は犂または耕)は、桓魋の弟の司馬牛と同一人物であるとされている。司馬牛が「人皆な兄弟有り。我れ独り亡し(人にはみな兄弟があるのに、私にだけはいない)」と嘆いて子夏に慰められたのは、桓魋らが悪人であるために兄弟がいないものとして嘆いたというのが伝統的な解釈であるが、孔子の弟子の司馬牛と桓魋の弟の司馬牛は同名の別人であり、孔子の弟子の司馬牛には実際に兄弟がいなかったのだという解釈もある(『論語』顔淵第十二[15][16])。

参考文献

  • 『論語』述而第七、顔淵第十二
    • 吉川幸次郎 訳『世界古典文学全集』 4巻《論語》、筑摩書房、1971年。 
    • 宇野精一、平岡武夫 編、平岡武夫 訳『全釈漢文大系』 1巻《論語》、集英社、1980年。 
  • 『春秋左氏伝』定公十年、定公十一年、哀公十一年、哀公十三年、哀公十四年
    • 貝塚茂樹 編、大島利一、内藤戊申、伊藤道治、永田英正 訳『世界古典文学全集』 13巻《春秋左氏伝》、筑摩書房、1970年。 
    • 宇野精一、平岡武夫 編、竹内照夫 訳『全釈漢文大系』 6巻《春秋左氏伝 下》、集英社、1975年。 
  • 司馬遷『史記』宋微氏世家、孔子世家
    • 司馬遷 著、小川環樹、今鷹誠、福島吉彦 訳『史記世家』 上、岩波書店〈岩波文庫〉、1980年。 
    • 司馬遷 著、小川環樹、今鷹誠、福島吉彦 訳『史記世家』 中、岩波書店〈岩波文庫〉、1982年。 

脚注

注釈

  1. ↑ 桓魋の祖先は宋の桓公の子の公子向で、その名を取って一族は向氏または桓氏と呼ばれた。
  2. ↑ 当時すでに宋に征服されていた。

出典

  1. ↑ 大島ほか 1970, pp. 419–422.
  2. ↑ 竹内 1975, pp. 515–516.
  3. ↑ 大島ほか 1970, p. 422.
  4. ↑ 竹内 1975, p. 517.
  5. ↑ 小川ほか 1980, pp. 267–268.
  6. 1 2 小川ほか 1982, p. 301.
  7. ↑ 吉川 1971, p. 112.
  8. ↑ 平岡 1980, p. 197-198.
  9. ↑ 大島ほか 1970, p. 444.
  10. ↑ 竹内 1975, pp. 598–599.
  11. ↑ 大島ほか 1970, p. 446.
  12. ↑ 竹内 1975, pp. 606–607.
  13. ↑ 大島ほか 1970, pp. 448–450.
  14. ↑ 竹内 1975, pp. 619–623.
  15. ↑ 吉川 1971, pp. 194–195.
  16. ↑ 平岡 1980, p. 333-334.