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菅原道真

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
菅原 道真
菅原道真像(室町時代、荏柄天神社蔵)
時代 平安時代前期
生誕 承和12年6月25日[1](845年8月1日)
死没 延喜3年2月25日[2](903年3月26日)
別名 尊称:菅公、菅丞相、天神、天神様
神号 天満大自在天神
日本太政威徳天
墓所 太宰府天満宮
官位 従二位、右大臣
贈正一位、太政大臣
主君 宇多天皇→醍醐天皇
氏族 菅原氏
父母 父:菅原是善
母:伴氏(伴真成の娘)
妻 島田宣来子
子 長男:菅原高視
女子:菅原衍子
他下記参照
特記
事項
大業人任[右]大臣例
[権]中納言兼[左]大弁例
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菅原 道真(すがわら の みちざね、承和12年6月25日〈845年8月1日〉- 延喜3年2月25日〈903年3月26日〉)は、日本の平安時代の貴族・学者・漢詩人。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣、贈正一位・太政大臣。

忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰める。しかし、左大臣・藤原時平の讒言により大宰府へ大宰員外帥として左遷され、現地で没した(昌泰の変)。死後は怨霊となって清涼殿落雷事件などを起こしたとして恐れられ、日本三大怨霊の一人に数えられた。

しかし、後に天満天神(天満大自在天神)として神格化され、信仰の対象となり、今日に至るまで「学問の神様」として親しまれている。

経歴

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生い立ち

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道真の産湯井戸と言われている井戸、菅原是善邸跡、京都市上京区

承和12年(845年)菅原是善とその夫人・伴氏との三男として生まれ[3]、幼名は「阿呼」(あこ)であった。道真の幼少期について、信用できる史料はほとんどない[4]。二人の兄に関する記録はなく道真も兄弟はいないとしていることから、兄たちは夭折したものと考えられてきたが[4]、道真の詠んだ詩中に一人子の表現があり「一人子説」が支持されている[5]。

幼いころは健康に恵まれなかったらしく、大病により生命の危機に瀕したこともあったが、母が観音へ祈願し観音像建立の願を起こし、ようやく回復したという。幼児の体質の虚弱さが、後まで道真の心身に影響を及ぼしたとする指摘がある[6]。

一方で、幼少より詩歌に才を見せ、11歳で初めて読んだ漢詩「月夜に梅華を見る」が『菅家文草』の巻頭に載せられている[7][4]。また、14歳で詠んだ七言律詩「朧月独興」は秀句として賞賛を受け、のちに『和漢朗詠集』に採録された。なお、漢詩の師はのちに岳父となる文章生・島田忠臣(田達音)であった[8][9]。

官吏登用試験に合格

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『月輝如晴雪梅花似照星可憐金鏡転庭上玉房香』(月岡芳年『月百姿』)11歳で漢詩を作った

貞観元年(859年)元服。加冠に際して、科挙への及第と家風の顕揚を念願して道真の母が詠んだ和歌が『拾遺和歌集』に採録されている[10]。貞観4年(862年)18歳で文章生に補せられる。18歳での文章生試及第は、弘仁7年(816年)の藤原衛・正躬王と並び、最も早い部類であった[11]。貞観9年(867年)には文章生のうち2名が選ばれる文章得業生となり、正六位下・下野権少掾に叙任されている。貞観12年(870年)対策(方略試)に「中上」で及第。問答博士は少内記・都良香で、作問は「氏族を明らかにす」「地震を弁ず」の二問であった[12][13]。本来、中上での及第の場合は三階の加叙が行われるべきところ、既に正六位下であったことから正六位上への一階の昇進にとどめられている[14]。

貞観元年(859年)元服した年に早速、道真は刑部福主の四十の賀の願文を代作しているが[15]、まもなく道真の文才は広く貴族社会に知れ渡り、代作した多数の願文・上表文が『菅家文草』に残っている[16]。

  • 源能有の先妣(亡母)伴氏の周忌法会の願文(貞観5年〔863年〕)
  • 平子内親王の先妣藤原氏の周忌法会の願文(貞観7年〔865年〕)
  • 藤原氏宗の職封の半ばを減ずることを請う状(貞観8年〔866年〕)
  • 藤原氏宗の右近衛大将を辞する表(貞観8年〔866年〕)
  • 弾正尹親王(惟喬親王)の先妣紀氏のために功徳を修する願文(貞観10年〔868年〕)
  • 藤原氏宗の左近衛大将を解かれんことを請う状(貞観12年〔870年〕)
  • 源生のために右衛門督を罷めんことを請う状(貞観12年〔870年〕)

また、貞観8年(866年)には円仁の『顕揚大戒論』の序も草した。

少壮の官人

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貞観13年(871年)玄蕃助、次いで詔勅を起草する職務を持つ少内記に任官。貞観14年(872年)正月、前年末に加賀国に到来していた渤海使の応接のため、直講・美努清名とともに存問渤海客使に任ぜられる[17]。しかし、まもなく母が没したことから服喪のために道真は職を辞し、渤海客使は少外記・大春日安守と交代した[18][19]。なお、5月には道真は内記に復任したらしく、渤海王(大玄錫)に対する勅書などの起草を行っている[20]。服喪を解かれて重大な勅書の起草にあたったことから、朝廷でも道真の文才が高く評価されていた様子が窺われる[21]。

貞観16年(874年)正月の叙位で29歳にして従五位下に叙爵する。この頃に公卿まで昇った文人官僚の叙爵年齢(橘広相・小野篁:31歳、菅原是善:33歳、藤原菅根・紀長谷雄:43歳)に比べても道真は若く、父祖の余栄と自身の才覚により極めて順調に昇進を重ねていった[22]。同年正月に兵部少輔に任ぜられるが、適任でなかったためか2月には民部少輔に転じ、これを3年ほどに亘って務める。道真は民部少輔の職に精勤する一方で、以下のような文章の代作や願文を手掛けた[23]。

  • 太政大臣藤原良房のために年官・随身を辞する第一表・第二表・第三表(いずれも貞観13年〔871年〕)
  • 温明殿女御源厳子のために尚侍殿下六十の算を賀する修功徳の願文(貞観13年〔871年〕)
  • 右大臣藤原基経のために官を辞する表(貞観14年〔872年〕)
  • 右大臣藤原基経のために故太政大臣良房の遺教により、水田をもって興福寺に施入する願文(貞観14年〔872年〕)
  • 小野親王(惟喬親王)のために別給封戸を謝する第一表・第二表・第三表(いずれも貞観16年〔874年〕)
  • 式部卿忠良親王のために所職をやめんことを請う表(時期不明)
  • 右大臣基経のために太上皇(清和上皇)に上って重ねて摂政を停められんことを請う表(貞観18年〔876年〕)

以前と比べて、大臣など高位の人々の依頼を受けていることから、道真自身の地位の上昇が窺われる[23]。特に、当時の朝廷の第一人者であった藤原基経も道真の文才を評価した一人であり、父・菅原是善を差し置いて、度々代筆を道真に依頼している[24]。

またこの間の貞観15年(873年)時務の参考や対策の拠り所とすべく、政治に関する古今の文書を収集した『治要策苑』の編集事業を志し、序文まで執筆する。しかし、完成を見ることはなく、現在には伝わっていない[25]。

文人官僚の顕職に就いて活躍

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陽成朝に入った貞観19年(877年)正月に式部少輔、次いで10月には文章博士を兼任する。式部の輔と文章博士は祖父・清公や父・是善のいずれも任官経験がある文人官僚の顕職であった。道真の最初の目標はこの二官に任ぜられて家風を継承しようとすることにあったと想定される[26]。文章博士は左少弁に遷任した巨勢文雄の後任として任ぜられているが、定員2名の博士のもう一人はかつての対策の問答博士である都良香であった。良香は道真より11歳年上であったが、二人の間は親密とは言えなかったようで、対策における厳しい判文に不満を抱いた道真の漢詩が残っている[27]。元慶3年(879年)正月に道真は累代の儒胤であることを理由に、良香を越えて従五位上に叙せられる[28]。10歳以上若い道真に位階を越えられ、良香は自身の門地の低さと、それを認める貴族社会に大きな不満を持ったと想定されるが、わずか1ヶ月ほどで良香は卒去してしまった。良香が没したことが、文章博士としての道真に対するある種の圧迫感を取り除くものであったと思われる[27]。その後、約5年に亘って道真は単独で文章博士の職を占めた。

式部少輔・文章博士として、道真は意欲的に多くの仕事を行うが、この頃が最も相応しい世界で能力を存分に発揮して十二分の活躍をした得意の時代であったと評価される[29]。

  • 元慶3年(879年)淳和太皇太后(正子内親王)の崩御に伴って天皇の服喪・天下の素服が問題となった際、道真は『大唐開元令』や日本の『令』を引用して、太后は天皇の曽祖姑であるため、天皇の服制はなく、天下の素服の例がないことを論じた。
  • 元慶6年(882年)参議の官を定めて職事(実務を執る官として、法規で職務権限や待遇(官位相当・考禄)を定めること)とすることを提案した。
  • 元慶7年(883年)正月、前年末に加賀国へ到来していた渤海使へ対応するために、道真は加賀権守を兼ねて島田忠臣とともに応接にあたった。
  • 元慶8年(884年)光孝天皇の代初めにあたって藤原基経の処遇を定めるために、諸道の博士に対して、太政大臣の職掌および唐のいずれの官に該当するかの意見を求められた際、道真は博士の中で最も官位の高い者として第一に意見を奏上した。
    • 太政大臣に職掌はない(『職員令』に有徳の選で分掌の職でないとあるため)。
    • 漢の相国にあたる(『漢書』百官表による)、もしくは、唐の三師にあたる(『唐六典』による)。
    • なお、三師は尚書省の官員ではない一方、太政大臣は分掌がなくても太政官の職事とされている点において、唐と日本では大きく相違している。

道真は文章博士として対策の策問を担当し、高丘五常・三善清行・紀長谷雄・小野美材らの問答博士を務める[30]。この経験に基づき、元慶7年(883年)対策の課試に関して、以下三ヶ条を建議した[31]。

  • 令条において、策問(二条)の各条中に含む事項に関する制限の定めがないため、一条に含む事項の数に限度を立てること。
  • 職制律に、玄象器物・天文図書・讖書・兵書・七曜暦・太一雷公式の私的所有を禁じているため、これらに関する策問は遠慮すべきこと。
  • 対策の評価について、上中の「文高く理平らか、理高く文平らか」と、上下の「文理ともに平らか」の区別が明確でないため、基準を定めるべきこと。

また、文章博士の本務として、元慶3年(879年)から元慶5年(881年)にかけて『後漢書』の講読を行っている[32]。

代表的な文筆活動として、元慶3年(879年)朔旦冬至を賀する表、および、元慶6年(882年)天皇の元服を賀する表、を太政大臣・藤原基経以下の全公卿に代わって執筆したほか、元慶3年(879年)に撰進された『日本文徳天皇実録』の序文も基経に代わって書いている。そのほかにも、以下の通り上表の代作や願文の起草を盛んに行った[33]。

  • 大納言南淵年名のための致仕の表(貞観19年〔877年〕)
  • 勅を奉じて(清和)太上天皇に上って御封を減ぜざらんことを請う表。太上天皇の勅を奉じて重ねて封戸を減ぜんことを請う表(元慶3年〔879年〕)
  • 大納言源多のために職封二百戸を返納せんことを請う状二通。尚侍源全姫のために職を罷めんことを請う表(元慶4年〔880年〕)
  • 右大臣源多のために官を謝する表二通。右大臣源多のために職封の半ばを減ずることを請う表(元慶6年〔882年〕)
  • 中納言在原行平のために民部卿を謝する状(元慶8年〔884年〕)
  • 太上天皇主催の清和院における大斎会の願文(元慶3年〔879年〕)
  • 太皇太后(藤原明子)の令旨を奉じた太上天皇の周忌のための願文(元慶5年〔881年〕)
  • 紫宸殿初め諸殿諸司や諸国で行われた仁王会の咒願文(仁和元年〔885年〕)

なお、上記のほかにも下級貴族の依頼を受けて執筆している願文が多く残っており、縁故による可能性もあるも、根本で道真が作文を好んでいた様子が窺われる[34]。

元慶4年(880年)の父・是善の没後は、祖父・菅原清公以来の私塾である菅家廊下を主宰、朝廷における文人社会の中心的な存在となった。

讃岐守として下向

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仁和2年(886年)讃岐守(讃岐国司)を拝任[35]、式部少輔兼文章博士を辞し、受領として任国へ下向することとなった。道真は、地方官の任は祖業ではなく、他人から「左遷である」と言われていることが残念であると述べており[36]、度々悲しみの意を表している[37]。赴任に先立つ宮中の内宴で、太政大臣・藤原基経から詩「明朝風景、何人にか属す」をともに唱和するよう求められたが、道真は落涙・嗚咽して一言しか発せなかったという[38]。なお別途、基経は東閤において道真に対する送別の宴を行っている[39]。

文人官僚の顕職から地方官に転出させられた理由として、以下の説が唱えられている[40]。

  • 学者間の競争が激しい中で、菅家門人の極端な勢力増大を恐れた学者たちが、一時的に道真を地方に遷してその勢いを抑制しようと運動し、為政者がそれを認めた。
  • 元慶8年(884年)に諸道の博士に対して太政大臣の職掌有無が諮問された際、あいまいな答えをする他の博士たちと異なって、道真が職掌なしとあまりに明白に断じたことが、光孝天皇や藤原基経に歓迎されなかった。実際に、まもなく太政大臣である基経に機務奏宣(太政官から上ってきた事項を天皇に奏上する)の権限を認めた詔が発せられ、道真の意見は無視されて事実上の後世の関白にあたる任が基経に委ねられている。

讃岐国は貞観年間末から元慶年間初頭にかけて(870年代)政治に慈愛がなく人民は疲弊するも、のちに讃岐介・安倍興行(元慶2年〔878年〕~)、次いで讃岐権守・藤原保則(元慶6年〔882年〕~)が能く統治をおこなっていた。道真はこれらの人々と親しい関係にあることから、その余徳により能治を得たい、彼らと同じようにはまねできないものの、奔走の間に詩を吟じたい、とする長詩「路に白頭翁に遇ふ」を残している[41]。

仁和3年(887年)末には一時帰京し、翌仁和4年(888年)正月には任地に戻った[42]。この年の4月に阿衡事件が発生。宇多天皇への代替わりに際して、左大弁・橘広相が起草した勅の表現「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」に対して、太政大臣・藤原基経が「阿衡に職掌なし」として政務を放棄する。これにより、「阿衡」の職掌有無について橘広相と文章博士・藤原佐世以下の学者たちの間での論争に発展し、学会・政界を巻き込んだ政争となった[43]。阿衡の論議に深い関心を示した道真は[44]、事件が長期化し基経がなかなか納得しないのを知って、意を決して10月頃再び入京し、基経に対して事件の発端となった橘広相を罰しないように意見書(奉昭宣公書)を寄せて諌めた[45]。

  • 紀伝道の業のため:このような表層的な理屈によって文意を解釈され罰せられてしまうなら、のちの文を作る者は罪科を免れるため、表現の質を自主規制していかざるを得なくなってしまう。このことは、累代の儒家である道真自身にとって大変憂慮すべきことである[46][47]。
  • 基経自身のため:広相は宇多天皇の擁立に功があり、娘は二人の皇子を儲けるなど天皇に至親であるなど、その功と親は基経に勝っている。広相のような才智謀慮・親故功労ある者を罰することは、基経にとっても大いなる損失である[48]。

この意見書に対して以下の評価がある[49]。

  • 私一個の私情からであると強調することによって、用例の詮索に終始する通儒たちの議論の水準を一挙に越えて、基経の私情を衝く地点に迫り、基経と広相の間の政治的問題の核心に遠慮なく立ち入っている。道真としても、真剣で単刀直入なこのような論じ方が基経の心を動かす近道であるとの読みもあったはず。少なくとも、道真は過去からの基経との信頼関係に基づきこの書簡を書いたと思われる(藤原克己)。

なお、この書が出されたと想定される11月にはすでに橘広相は赦免されており、基経の態度に影響を与えるものではなかったが、儒者による橘広相への非難を緩和[45]、翻意後の基経を心理的に支持した[50]、などの効果があった可能性も指摘されている。また、この書簡は宇多天皇が道真を信任する契機になったと考えられる[51]。

結局、讃岐守としての4年間の統治の努力にかかわらず、道真が頭で考え心を砕いたほどには、治績は上がらなかったらしく、それが政治家としての限界に他ならないと評価されている[52]。また、讃岐国での生活は、客観的には有効な人生経験の場であったが、道真の心情においては耐え難い退屈で憂鬱の期間であったらい。任期の終わりごろに京での充実した毎日に比して、讃岐での生活が味気なかったことを述べる「日の長きに苦しむ」と題する漢詩を残している[53]。

宇多天皇の近臣となり急速に昇進

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寛平2年(890年)任地より帰京。道真は本来ならば任地で行う引き継ぎを行わず京都に戻っている[54]。この年、阿衡事件の後も引き続き厚い信任を受けていた橘広相が病没し、宇多天皇は代わる側近として道真を抜擢した。

寛平3年(891年)正月に、親交があった太政大臣・藤原基経が没す。2月末に蔵人頭に補任された。蔵人頭は天皇近臣中の近臣ともいえる職であり、紀伝道の家系で蔵人頭となったのは、道真以前は橘広相のみであった[55]。道真は蔵人頭を辞任したいと願い出ているが、許されなかった[55]。さらに3月に式部少輔、4月に左中弁を兼帯し[56]、これまでの地方官から一躍政治の中枢に携わるようになる。

寛平4年(892年)従四位下に叙せられ、翌寛平5年(893年)2月には参議兼左大弁式部大輔に任ぜられて公卿に列した。基経没後、長男の時平は20代前半でまだ若く、左大臣・源融や大納言・藤原良世は70代の頽齢であったため、道真の抜擢は宇多天皇による理想政治を実現するための人事刷新の一環と想定される[57]。4月には宇多天皇の第一皇子・敦仁親王が皇太子に立てられるが、宇多が相談した相手は一介の参議に過ぎない道真一人であったという[58]。立太子に伴って道真は春宮亮を兼ねている[59]。

寛平6年(894年)8月に仁明朝以来約60年ぶりに遣唐使を派遣することになり、道真は遣唐大使に任ぜられるが(副使は左少弁・紀長谷緒)[60]、早くも9月には道真は唐の混乱を踏まえて遣使の再検討を求める建議を提出している[61]。

  • 在唐僧・中瓘から商人・王訥経由で送られてきた書状の中に唐の衰退が述べられている。
  • 度々、使節が途中で遭難しており唐に到達することは非常に困難である。

道真の建議に対して、かつては唐文化を摂取する必要なしとして日本文化の独立を認めた道真の見識を称賛、あるいは、渡海を恐れたとする批判、の意見があった。しかし実際には、朝廷側は内外に対する体面のために形式的に遣唐使の任命を行ったものの、既に費用対効果が合わなくなっていたために、初めから遣使の意志はなく、道真の建議も予定の筋書きであったと見られている[62]。この建議は結局検討されないまま、道真は遣唐大使の職にありつづけた[63]。しかし内外の情勢により、遣使が行われることはなかった[64]。結局、延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろすこととなった。

寛平7年(895年)10月に参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経・藤原有実・源直)を越えて従三位・権中納言に叙任。菅原氏の氏人として初めて権中納言となり父祖を越える官職に進んだ。同年11月に春宮・敦仁親王の春宮権大夫を兼帯するが、宇多天皇が春宮の補導について道真の力に期待をかけた様子が窺われる[65]。なおこの頃、道真は幼少の敦仁親王に侍し、しばしば詩を賦して示している[65]。

寛平8年(896年)諸国への派遣が予定されていた検税使について、道真はその可否を改めて評議すべき旨の奏状を上程した。検税使は官倉(正倉)に貯蓄された正税について、正税帳の記載と実際の量を検査・照合することで、国司の不正を摘発し、諸国の財政の健全さを保つことが目的である。しかし、人民が疲弊している状況の中では国政の邪魔になることを懸念し、以下理由を挙げて遣使の再検討を訴えた[66]。

  • 摘発を目論む諸国の帳外の剰物は、出挙稲の代わりに農民に貸し付けたり、凶作の年に租税の欠損を補填するものである。不正な国司が悪用する疑いがあるが、良吏には非常時の準備として必要な物であるため、これを取り上げることで国司の治術を失わせてしまう。
  • この剰物の多くは穎稲でかつ質が不良であるため、これを納めても国の利は少なく百姓の憂いとなるばかりである。
  • 検税使に任ぜられた7名の京官は重要な本務を帯びている。これらの人々が1年余り地方に出ることは国にとって得策でない。

同年8月には民部卿を兼ねており、権中納言としての兼官は遣唐大使・民部卿・左大弁・春宮権大夫・侍従と多数に及んだ。

また、寛平8年(896年)長女衍子を宇多天皇の女御とし、寛平10年(898年)には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とし、道真と宇多天皇との結びつきがより強化されることとなった[67]。

右大臣に就任

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宇多朝末にかけて、左大臣の源融や藤原良世、宇多天皇の元で太政官を統率していた右大臣の源能有ら大官が相次いで没し、寛平9年(897年)6月に藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が廷臣の上首に並び立つ体制となる。

7月に入ると、宇多天皇は春宮・敦仁親王(醍醐天皇)に譲位する。宇多は寛平6年(894年)ごろには既に譲位の遺志を抱くも、道真の諌止により取りやめていた。寛平9年(897年)になって、再び宇多は道真に譲位を諮ると、道真はむしろ遅れては意外の変が生ずるかもしれないと賛成。これを受けて、敦仁親王の元服とともに践祚の儀が行われたという[58]。天皇の譲位・践祚という国家最大の重大事に、他の廷臣を差し置いて、道真ただ一人が関与させられていることは、道真にとっては重大な危険を負わされていた。宇多が道真を信任したことに誤りはなかったが、信任の仕方は当を得たものではなかった、とする評価がある[68]。

宇多は譲位にあたって、時平と道真に対して新帝の補導を託した。また、醍醐に対しても、時平は第一の臣であるからよく顧問に備えその補導を仰ぐとともに、道真は鴻儒で深く政事を知っており、また新帝の立太子と即位に大きな貢献があり新君の功臣というべきであると、両人ともに用いるべきと諭している[58][69]。また、宇多は宣命を発し、新帝が幼少の間に時平と道真に官奏執奏の特権を許した[注釈 1]。同月に時平と道真は並んで正三位に叙せられ、道真は皇太夫人・藤原温子(時平の妹)の中宮大夫を兼ねている。

醍醐天皇の治世でも宇多上皇の御幸や宴席に従うなど、宇多の側近としての立場も保ち続けた[71]。昌泰元年(898年)奏請・宣行は全て時平・道真を経るように命じたことに対して、他の納言たち(権大納言・源光、中納言・藤原高藤、同・藤原国経)が反発して政務をボイコットし、外記庁への出勤を取りやめてしまう。やむをえず、道真は宇多上皇に対して諸納言らに外記へ参上させることを請うよう状を上程。これを受けて宇多は勅旨を下して諸納言らに説明し、ようやく事態は解決した。このような問題が発生していることから、朝廷における道真の地位が非常に不安定なものであった様子が窺われる[72]。

昌泰2年(899年)2月に道真は右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べる。道真は家が儒家であり家格が低いことと、出世につけて中傷が増えたため辞退したいと上申していたが、悉く却下された[73]。逆に、宇多上皇から道真のみに政務を委任したい旨の打診を受けるが、道真はこれを拒絶している[74]。さらに、昌泰3年(900年)2月から3月にかけて、家柄に合っていない、学者の身で大任を汚したことは苦痛であるとして、道真は右大臣や右大将を辞する上表を行っているが、これも却下されている[75]。一方で、同年10月に文章博士・三善清行から道真に対して、止足を知り引退して生を楽しむよう諭す文章が送られている[75]。

この間の同年8月に道真は祖父以来の文章・漢詩をまとめた家集(自らの集『菅家文草』12巻、父・是喜の集『菅相公集』10巻、祖父・清公の集『菅家集』6巻)を醍醐天皇に献上する。これに対して醍醐から御製の漢詩を賜与されるが、その中で「今日文華皆尽く金」と激賞されている[76]。

左遷と死

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昌泰4年(901年)正月の叙位で時平と道真は並んで従二位に叙せられる[77]。しかし、同月25日に天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったとして、突如として大宰員外帥に左遷された[78]。道真の左遷は宇多上皇には全く知らされることなく断行されたものであり、宇多はこれを聞いて醍醐天皇に面会し取り成そうとして内裏に馳せ参じる。しかし、衛士に阻まれて参内できず、また道真の弟子であった蔵人頭・藤原菅根が取り次がなかったため、宇多の参内を天皇は知らなかった[79]。また、右近衛中将・源善ら道真の党類とみなされた人々のほか、長男の大学頭・菅原高視を始め、道真の子息4人が流刑に処された(昌泰の変)。

道真の後裔である菅原陳経が「時平の讒言」として以降[80]、現在でもこの見解が一般的である[81]。道真自身が学者としてはまれな大臣の地位に就いている上に、多数の門徒が諸司の重要な地位を占める恐れがあるため、藤原氏の嫡流としてこれを打倒する機会を狙うことは当然と考えられる[82]。一方で、道真と時平の関係は険悪、あるいは対立的であったと捉えられることが多いが、実際は道真の家と時平の家はそれぞれの父親の代から関わりが深く、度々詩や贈り物を交わす関係であった[83]。ただし、贈答詩については、道真から発したものはなく時平への返答のみ[84]である。昌泰2年(899年)には、時平が父基経の事業を受け継いで建設した極楽寺(現在の宝塔寺の前身)を定額寺とするための願い状の代筆を道真に依頼するなど、時平は文章家としての道真を高く評価していた[85]。道真の失脚は、単に時平の陰謀だけによるものではなく、道真に反感を持っていた多くの貴族層の同意があった[86][87]。

廃立の企てが真実であったかははっきりしないが、少なくとも朝廷側は事前に道真が関与していた明確な根拠を掴んではいなかったと考えられている[88]。

  • 宇多の取り成しを事前に無理に押し止めたという朝廷の態度が、道真左遷の理由の正当性を著しく弱めている。もし、道真の罪状が明白なら、宇多の取り成しがあっても醍醐が左遷の正当性を主張することができたはずであり、むしろ事前に事態を宇多に通報してもよかったはず。おそれく、罪状の証拠はなく、根拠は流言の類程度であったことを示している(坂本太郎)。

一方で、宇佐奉幣使・藤原清貫が左遷後の道真を視察した際に、道真自身から聞いた言葉として、「自ら謀ることはなかった。ただ善朝臣(源善)の誘引を免れることができなかった。又仁和寺(宇多上皇)の御事に、数(しばしば)承和の故事(承和の変)を奉じるのだということが有った」とされ[89]、これを根拠に廃立計画自体は存在し、道真が関与していたとする見解もある[90]。

歴史学者の河内祥輔は道真自身の関与の程度はともかく、以下の背景から廃立計画は存在していたとしている[91]。

  • 藤原穏子(時平の妹)の入内を望む醍醐天皇に対して、阿衡事件の経緯から基経の娘(時平の姉妹)の入内を拒んできた宇多上皇の反発があった。実際に、宇多上皇が穏子の入内や彼女が生んだ保明親王の立太子に反対していたことを、時平や穏子の甥にあたる藤原師輔が書き残している[92]。なお、道真の左遷からわずか2か月後には穏子が女御になっている[93][91]。
  • 宇多上皇は在位中より陽成上皇系の皇子(貞辰親王や元良親王など)を復権させて皇位に就けようとする動きを警戒しており、早期に次の皇太子を立てる必要を感じていた。昌泰の変当時、17歳であった醍醐天皇には皇子がいなかったため、皇太子の最有力候補は天皇の同母弟の中で唯一健在であった斉世親王である。これに、藤原穏子の入内問題を巡る宇多上皇と醍醐天皇との対立が絡み、事態は廃立計画にまで進んだ可能性がある。醍醐天皇は当然この動きに反発し、道真本人の意思とは関わりなく疑惑が道真に向けられる可能性があった[91]。

一方で、『菅家後集』で清貫が道真と面会した形跡がないことから、藤原清貫の報告に対する真実性を疑問する意見もある(永冨明郎)[94]。

同月27日に領送使として左衛門少尉・善友益友および左右兵衛各一人と定められ、太宰府への移動はすべて自費によって支弁し、左遷後は俸給や従者も与えられず、政務にあたることも禁じられた[95]。十分な準備期間も与えられないまま、早くも2月1日には京を出発させられる。さらに道中の国々も食料や馬を与えることなしと命ぜられたために、非常に厳しい待遇での西下であった。この官符に「前員外帥藤原朝臣吉野(承和の変で大宰員外帥に左遷)の例によってこれを行へ」とあったことから、公式に昌泰の変は承和の変に準じるものと扱われたことが窺われる[90]。『菅家後集』に収められた「叙意一百韻」では、左遷・流謫の身に至るまでの自らの嘆きを綴っている[96]。

大宰府浄妙院で謹慎していたが、左遷から2年後の延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。刑死ではないが、衣食住もままならず窮死に追い込まれたわけであり、緩慢な死罪に等しい。道真が死に臨んで、大宰府で詠んだ漢詩を集め紀長谷雄に送ったが、それが『菅家後集』1巻として伝わっている。

死後の復権

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『梅紋』道真公・天満宮の象徴として使われる

延喜6年(906年)冬に道真の嫡子高視は赦免され、大学頭に復帰している[97]。延喜8年(908年)に参議・藤原菅根が死亡し、延喜9年(909年)には左大臣・藤原時平が39歳で病死した。これらは後に道真の怨霊によるものだとされる[98]。延喜13年(913年)には右大臣・源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死した。

延喜23年(923年)3月に醍醐天皇の皇子で皇太子の保明親王が薨御。『日本紀略』はこれを道真の恨みがなしたものだとしている[99][注釈 2]。4月になって道真は従二位大宰員外帥から右大臣に復され、正二位を贈られる[98]。また、道真を左遷する詔書は破棄され、延喜から延長への改元も行われた[101]

延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、大納言・藤原清貫をはじめ朝廷要人を含む多くの死傷者が出る(清涼殿落雷事件)。さらに、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した[102]。これも道真の怨霊が原因とされ、天暦元年(947年)に北野天満宮において神として祀られるようになった[102]。

一条天皇の時代には道真の神格化が更に進み、正暦4年(993年)6月28日には贈正一位左大臣、同年閏10月20日には太政大臣が贈られている[102]。

道真の怨霊により没したとされる人々
家系 氏名 死亡時年齢 官位など 死亡時期・状況 備考
藤原北家 藤原定国 41歳 従三位・大納言 延喜6年(906年)7月3日:死亡 道真の後任の右近衛大将
藤原南家 藤原菅根 53歳 従四位上・参議 延喜8年(908年)10月7日:死亡 昌泰の変で宇多上皇の参内を妨害
藤原北家 藤原時平 39歳 正二位・左大臣 延喜9年(909年)4月4日:病気により死亡 昌泰の変で道真を讒言
仁明源氏 源光 69歳 正二位・右大臣 延喜13年(913年)3月12日:鷹狩での事故により溺死(死体が上がらず) 道真の後任の右大臣
天皇家 保明親王 21歳 皇太子 延喜23年(923年)3月21日:死亡 時平の甥
天皇家 慶頼王 5歳 皇太子 延長3年(925年)6月19日:病気により死亡 時平の外孫
藤原南家 藤原清貫 64歳 正三位・大納言 延長8年(930年) 6月26日:被雷により死亡(清涼殿落雷事件) 左遷後の道真の様子を朝廷に報告
天皇家 醍醐上皇 46歳 太上天皇 延長8年(930年)9月29日:病気により死亡
藤原北家 藤原保忠 47歳 大納言 承平6年(936年)7月14日:死亡 時平の長男
藤原北家 藤原敦忠 38歳 従三位・権中納言 天慶6年(943年)3月7日:死亡 時平の三男

官歴

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菅原道真の官歴表
和暦(西暦) 月日(旧暦) 年齢[注釈 3] 事項
貞観4年(862年) 5月17日 18歳 文章生
貞観9年(867年) 1月7日 23歳 文章得業生[103][注釈 4]
2月29日 下野権少掾(得業生兼国)[103]
年不詳 月日不詳 不詳 正六位下[104]
貞観12年(870年) 3月23日 26歳 対策[105]
5月17日 及第(問答博士・都良香)[105]
9月11日 正六位上(対策及第)[104]
貞観13年(871年) 1月29日 27歳 玄蕃助(得業生労)[103][注釈 5]
3月2日 少内記[103]
貞観14年(872年) 1月6日 28歳 兼存問渤海客使[104]
1月26日 去存問渤海客使(母服喪)[104]
貞観16年(874年) 1月7日 30歳 従五位下[103]
1月15日 兵部少輔[104]
2月29日 民部少輔[104]
貞観19年(877年) 1月15日 33歳 式部少輔[103]
9月16日 大嘗会御前次第司次官[104]
10月18日 兼文章博士[104]
元慶3年(879年) 1月7日 35歳 従五位上[104]
元慶7年(883年) 1月11日 39歳 兼加賀権守[103]
4月21日 治部権大輔[注釈 6]
元慶8年(884年) 10月2日 40歳 大嘗会前次第司次官[104]
仁和2年(886年) 1月16日 42歳 讃岐守、止式部少輔文章博士加賀権守[104]
仁和3年(887年) 11月17日 43歳 正五位下[103]
寛平2年(890年) 春 46歳 讃岐守得替
寛平3年(891年) 3月9日 47歳 式部少輔[103]
3月29日 蔵人頭[103]
4月11日 兼左中弁[103]
4月18日 禁色[103]
寛平4年(892年) 1月7日 48歳 従四位下[103]
12月5日 兼左京大夫[103]
寛平5年(893年) 2月16日 49歳 参議兼式部大輔、左中弁如元[103]
2月22日 兼左大弁、式部大輔如元[103]
3月15日 兼勘解由長官[103]
4月1日 兼春宮亮[103]
寛平6年(894年) 8月21日 50歳 兼遣唐大使[103]
12月15日 兼侍従[103]
寛平7年(895年) 月日不詳 51歳 兼近江守
10月26日 従三位、権中納言、余官如元[103]
11月13日 兼春宮権大夫[103]
寛平8年(896年) 8月28日 52歳 兼民部卿、止式部大輔[103]
寛平9年(897年) 5月 53歳 止左大弁か[103]
6月19日 権大納言兼右近衛大将、民部卿如元[103]
7月3日 止春宮権大夫(醍醐天皇受禅)[103]
7月13日 正三位(醍醐天皇即位)[103]
11月26日 兼中宮大夫(中宮=皇太夫人・藤原温子)[103]
昌泰2年(899年) 2月14日 55歳 右大臣、右大将如元[103]
昌泰4年(901年) 1月7日 57歳 従二位[103]
1月25日 左遷大宰員外帥[103]
延喜3年(903年) 2月25日 59歳 薨去[103]
延喜23年(923年) 4月20日 没後 贈右大臣、正二位[103]
正暦4年(993年) 5月20日 贈正一位左大臣[103]
10月20日 贈太政大臣[103]

家系

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父は菅原是善、母は伴氏。菅原氏は、道真の曾祖父菅原古人のとき土師(はじ)氏より氏を改めたもの。祖父菅原清公と父はともに大学頭・文章博士に任ぜられ侍読も務めた学者の家系であり、当時は中流の貴族であった。母方の伴氏は、大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出している[注釈 7]。

正室は島田忠臣の娘、島田宣来子。忠臣は父も不明であるという家系の出身であったが、紀伝道においては道真の師であり、度々道真と詩や手紙を交わしあう関係であった[106]。子は長男・高視や五男・淳茂をはじめ男女多数。子孫もまた学者の家として長く続いた。高視の曾孫が孝標で、その娘菅原孝標女(『更級日記』の作者)は道真の六世の孫に当たる。

特に高視の子孫は中央貴族として残り、高辻家・唐橋家をはじめ6家の堂上家(半家)を輩出した。明治時代になり5つの堂上家は華族に列し、当主はいずれも子爵に叙せられている。また高辻家からは西高辻家が別家し、太宰府天満宮の社家として現代に至る。

系譜

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博多人形『幼少の菅公』(大阪天満宮、菅家廊下)
博多人形『弓術の場』

ただし伝承上の子も含む。

  • 父:菅原是善
  • 母:伴氏 - 伴真成の娘[注釈 8]
  • 妻:島田宣来子 - 島田忠臣の娘
  • 妻:宮原頴人の娘
    • 男子:菅原旧風
  • 生母不明の子女
    • 男子:菅原寧茂
    • 男子:菅原景行
    • 男子:菅原景鑑(?-908)
    • 五男:菅原淳茂(?-926)
    • 男子:菅原弘茂
    • 男子:菅原兼茂
    • 男子:菅原宣茂
    • 男子:菅原淑茂
    • 男子:菅原滋殖
    • 女子:菅原尚子 - 尚侍・尚膳
    • 三女?:菅原寧子 - 尚侍、斉世親王室
    • 女子:菅原俊子 - 藤原発成室
    • 男子:阿満
    • 女子:紅姫
    • 男子:隈麿
    • 男子:長寿麿
    • 女子:みよこ姫
    • 男子:福部童子
    • 女子:苅屋姫
    • 男子:前田
    • 男子:原田
    • 男子:左座太郎(菅宰相)[注釈 9]
    • 男子:左座次郎(菅千代丸)
    • 男子:好寛

事績・作品

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百人一首 菅家(菅原道真)
このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに

著書には自らの詩、散文を集めた『菅家文草』全12巻(昌泰3年、900年)、大宰府での作品を集めた『菅家後集』(延喜3年、903年頃)[108][109]、編著に『類聚国史』がある。日本紀略に寛平5年(893年)、宇多天皇に『新撰万葉集』2巻を奉ったとあり、『寛平御時后宮歌合』や『是貞親王歌合歌』などの和歌とそれを漢詩に翻案したものを対にして編纂した『新撰万葉集』2巻の編者と一般にはみなされるが、原撰本(上下巻)を道真、増補本(下巻に補填を加えたもの)を源当時ではないかという指摘がある[110]。

私歌集として『菅家御集』などがあるが、後世の偽作を多く含むとも指摘される。『古今和歌集』に2首が採録されるほか、「北野の御歌」として採られているものを含めると35首が勅撰和歌集に入集する。

六国史の一つ『日本三代実録』の編者でもあり、左遷直後の延喜元年(901年)8月に完成している。左遷された事もあり編纂者から名は外されている。

祖父の始めた家塾・菅家廊下を主宰し、人材を育成した。菅家廊下は門人を一門に限らず、その出身者が一時期朝廷に100人を数えたこともある。菅家廊下の名は清公が書斎に続く細殿を門人の居室としてあてたことに由来する。

和歌

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此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に(古今和歌集 羇旅歌。この歌は小倉百人一首にも含まれている)
海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさむ(新古今和歌集 雑歌下。大宰府へ左遷の途上備前国児島郡八浜で詠まれた歌で硯井天満宮が創建された。「海ならず たたえる水の 底までも 清き心を 月ぞ照らさん」)
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(初出の『拾遺和歌集』による表記。後世、「春な忘れそ」とも書かれるようになった)
水ひきの 白糸延へて 織る機は 旅の衣に 裁ちや重ねん(後撰和歌集巻十九)〈今昔秀歌百撰23選者:松本徹〉
君が住む 宿のこずゑの ゆくゆくと 隠るるまでに かへりみしはや(『拾遺和歌集』巻六。歌集のもととなった『拾遺抄』の詞書には、「流され侍はべて後、妻のもとに言ひをこせて侍ける」と相手を明記。)

漢詩

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月輝如晴雪 梅花似照星 可憐金鏡転 庭上玉房馨(月は雪の如く輝き 梅花は星の照るに似る 憐れむべし金鏡転じ 庭上に玉房馨れるを)十一歳の道真が詠んで周囲の大人たちを感嘆させたという漢詩。


駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋(駅長驚くことなかれ 時の変わり改まるを 一栄一落 これ春秋。大宰府へ左遷の途上に立ち寄った播磨国明石駅家の駅長の同情に対して答えたもの。)

去年今夜待清涼 秋思詩篇獨斷腸 恩賜御衣今在此 捧持毎日拜餘香(去年の今夜清涼に待し、秋思の詩篇独り斷腸。恩賜の御衣今此こに在り、捧持して毎日余香を拝す。九月十日 太宰府での詠。)

彫刻

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木造十一面観音立像 - 平安時代初期9世紀 -カヤ材の一木造で、彩色を施さない素地仕上げ。カヤ材をビャクダンの代用材として用いた檀像様(だんぞうよう)の作品。像高98cm。道明寺蔵の国宝

人物

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人柄

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菅原道真像(菊池容斎『前賢故実』巻第五より)
  • 詩作にも官能的で優美な表現を取り入れており、宮廷詩では美人舞妓の踊り乱れた姿や、髪・肌・汗・香・化粧・衣などの様子を詩で仔細に鮮やかに表現している[注釈 10]。ただし、常に浮かれていたわけではなく、特に盛り上がっている宴会のみで、普段の宴会では謹厳な態度を守り、自分の言行を抑える、というように二つの顔を使い分けていたという[111]。
  • 子煩悩で子供に関しての詩を多く残しており、菅家文草「夢阿満」では、“阿満”という一番可愛がっていた子が亡くなると、神仏を恨み世界から天地がなくなった、と嘆くほど悲しんでいる。しかし、最後に幼い阿満が三千世界に転生するときに迷わぬよう、観自在菩薩に祈っている。
  • 根っからの詩人で、詩が思い浮かぶとすぐさまその場で口ずさみながら、周りの物に書き付けるほどだった[112]。
  • 自身の人生について、昔の栄達していたときは、世俗の煩わしさに縛られ窮屈だったが、今は罪を問われて左遷され、荒廃したあばら屋に閉じ込められた不自由な暮らし、と大宰府で述懐している[113]。
  • どんな大量の黄金も、父祖から代々伝わった学識には遠く及ばない、としている[114]。
  • 「一国丸ごと買い取ってしまいたい」と評するほど、越州国の風景を気に入っていたという[112]。
  • 家族や気の置けない友人達との語らい、馬で自然を駆け巡ることなどを好んだが、大量の行政文書をかたづけるなど仕事に忙殺されることだけは嫌っていた[115]。
  • 梅の花を好んだことで有名だが、桜花の美しさを「弥勒菩薩が悟りをひらくという龍華樹も遠く及ばない」と称え[116]、菊の花も若い頃から栽培するほど好み[117]、薔薇の美しさを、妖艶で人を虜にして惑わす妖魔と例えている[118]。
これに、雪と月[注釈 11]を加えた「雪月花[注釈 12]」を好んだとされ、雪は女性の化粧や老人の白髪の表現に、月は美しさはさることながら、正邪を照らしだす真澄鏡に例えたり[119]、擬人化し「問秋月」「代月答」のように自己問答の形式で漢詩がつくられ、月光を誰も知らない自身の心の奥底にある清廉潔白さを照らし出す光として[120] 題材にされた。

思想

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  • 『菅家文草』によると、道真は願文作成により、儒教的言説に基づいて、世界の差異(身分差別[注釈 13]、男女差別など)を構造化し、仏教的基本原理(輪廻・化身・垂迹等々)とアナロジー(類推)を用いることで、隣接する概念間の差異を次々と消去し、「万物の均質化」と「存在の連鎖[注釈 14]」を生み出した[121]。
  • 未だかつて邪は正に勝たず(邪まなことはどんなことがあっても、結局正義には勝てないのである)[122]。
  • 全ては運命の巡りあわせなのだから、不遇を嘆いて隠者のように閉じこもり、春の到来にも気づかぬような生き方はすべきではない[123]。
  • 紀長谷雄にたいし、世間では偉そうにべらべら喋る大学者さまが我が物顔で通るたびに有難がられているが、君が口を閉ざしても君の詩興が衰えることはないから心配するな、と励ましの詩をおくっている[124]。
  • 香は禅心よりして火を用ゐることなし 花は合掌に開けて春に因らず(香りは、わざわざ火を用いて焚くものではなく、清らかな心の中に薫るもの。同じように、花は春が来るからつぼみが開くのではなく、正しい心で合掌するその手の中に花は咲くもの)[125]。
  • 「閑思共有雕蟲業、應化使君昔詠詩」篆刻道が神仏に通ずることを示す[126]。
  • 道真は神仙や隠逸を詩題にすることが多く[127]、自身を呉猛[注釈 15]に例えてもいる[128]。

交流

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  • 師であり義父である島田忠臣とは生涯に亘って交流があり、忠臣が死去した際に道真は「今後再びあのように詩人の実を備えた人物は現れまい」と嘆き悲しんだという。
  • 紀長谷雄とは旧知の仲で、試験を受ける際に道真に勉学を師事したとされる。道真は死の直前に大宰府での詩をまとめた「菅家後集」を長谷雄に贈ったとされ、道真の妻を逃がしたという伝承もある。また、『扶桑略記』によれば、百人一首の舞台[129] として有名な宇多天皇御一行遊覧の際に長谷雄を求めて叫んだほど長谷雄への信頼があった、と同時に宇多天皇厚遇の時期であっても道真が孤独だったことがわかる。
  • 在原業平とは親交が深く、当時遊女(あそびめ)らで賑わった京都大山崎を、たびたび訪れている。
  • 天台宗の僧相応和尚とも親交があり、大宰府に向う際に淀川にて、自ら彫ったという小像と鏡一面を渡し、後のことを和尚に託したという。道真薨去後、和尚は小像・鏡を郷里の長浜市にある来生寺、その隣の北野社にそれぞれ祀ったという。
  • 清廉剛直な武官の藤原滋実とも親交があった。滋実は、元慶の乱の鎮圧に参加し俘囚に配給して懐柔し、反乱した夷俘を討たせる役を命じられ見事成し遂げる。のちに陸奥国司となる。死因についてははっきりせず、部下に不正を行っていた輩が多く呪詛され殺されたのではないか、という噂がなされたため道真は五男菅原淳茂に調査を命じている。滋実が逝去したさい、誄歌「哭奥州藤使君」[130] をおくっている。かつて道真は滋実より「私は、あなたさまよりひそかに恩恵をうけています。私は、死のうが生きようが、生死を超えてあなたより受けたこのご恩に報いたいと思っております」と、熱い想いをつげられたという。それを回顧した道真は、自身の正義の是非について裁いてくれるよう、また、正義をつらぬくための手助けになってくれるよう、滋実の霊に懇願し悲嘆にくれている。ほかに、東国と中央政府の癒着した腐敗政治についても言及している。
  • 『十訓抄』などには時平の弟、藤原忠平とは共に宇多天皇主催の歌会にでたり常に手紙を贈り合うなど、親交があり、道真の左遷にも反対したとされる[131]。しかし坂本太郎は道真左遷時の忠平は従四位下にすぎず、時平に反対することなどできなかったと指摘している[131]。これは北野天満宮の支援者であり、忠平の子孫である摂関家による付会ではないかと見られている[132]。
  • 渤海使で日本に帰化したとされる王文矩とも親交があったという。
  • 道真は、菅家廊下の弟子の中で文室時実を一番可愛がっていた。時実は、若い頃から匏(能無しという意味)と言われる苦学生で、食べることもままならないほど貧しくそのうえ年老いた母親も抱えていた。道真が讃岐赴任のためいなくなったあとも、独り努力を重ね見事難関の省試に合格しその報告をしにきた彼にたいし、道真は称賛と若い文章生にいじめられないか心配する詩を綴っている[133]。
  • 13世天台座主法性坊尊意に教学を師事したとされる。
  • しかし、『菅家文草』「書斎記」によれば、友人でも親しい者とそうでない者がおり、そうでない者として、さして気が合うわけでもないのに愛想よく寄ってくる者、腹の底が判らない口先だけは変に親しい者、休息と称して無理矢理押し入ってくる者、秘蔵の書や書物を乱暴に扱う者、自分が苦労して書物から抜粋した短冊の知識を理解し勝手に持ち出してしまう者、理解できず破り捨ててしまう者、先客である大切な友人の面会を無視して特に用もないのに強引に面会にくる者をあげ、自分を本当に理解できる友人は3人ぐらいしかおらず、その3人も失ってしまうのではないかと戦々恐々としている。
また、学者や貴族などの恨み妬みが凄まじく、『菅家文草』「思ふ所有り」「詩情怨」では、巷で出回った怪文書の作者として濡れ衣を着せられ誹謗中傷されたこと、「博士難」では、道真が文章博士に就任するとき、父是善から味方がいなく孤独になることを助言されており、就任わずか三日目にして、まわりから誹謗中傷する噂がなされたことが書かれている。
  • 絵に描いたものが飛び出して実体化するという逸話をもつ、宮廷絵師巨勢金岡とも親交があったとされる。
  • 藤原南家出身の藤原菅根は、若い頃は菅家廊下で学んでいた。しかし、道真に投げやりな態度を難詰されたり、宴で歌った歌を全く認められないなどしたため逆恨みし、成人して官僚になっていくにつれ藤原時平率いる藤原北家へ接近していったとされる。
  • 安倍興行、島田良臣、菅野惟肖、巨勢文雄等の学者たちとは、地方官時代に文通で遠く離れたお互いを励ましあうなど、詩友として交流があったという。ただし、巨勢文雄については、試験で文雄が称賛し推薦した弟子の三善清行を、試験官だった道真が嘲笑し落第させている。これが、清行との確執の発端とされている[注釈 16]。
  • 対策及第の試験官だった都良香が後年評価に不服だった道真の怨念に当たり亡くなったとする伝説がある。[135]

讃岐

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  • 道真は詩臣として中央で天皇のそばにお仕えし詩を作ることこそ菅原家の祖業であるという強い信念を持っていた。その為、自分が地方官として讃岐に赴任することに葛藤していた。赴任後、詩人として周りとの感性の違いに戸惑い[注釈 17]、また、道真は家族愛が人一倍強かったので、家族のそばにいれない寂しさも綴っている。
しかし、元来の生真面目で清廉な性格から、白居易の兼済(広く人民を救済)という志を信条とし、自ら酒を醸して酒宴を催し村人と親交を深めたり[136]、『寒早十首』『冬夜九詠』などで民の悲惨な実情を見分するなど[注釈 18]、善政を執り行うよう努めた[111]。
のちに、清廉と謹慎を心がけた政治をしたが、不正腐敗に汚染された青蝿のような官吏たちを一掃できなかったことを悔いている[137]。

左遷

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  • 『政事要略』巻二十二によれば、大宰府へ左遷の道中には、監視として左衛門少尉善友と朝臣益友、左右の兵衛の兵各一名がつけられた。また、官符に道真は“藤原吉野の例に倣い「員外帥」待遇にせよ”と明記され、道中の諸国では馬や食が給付されず、官吏の赴任としての待遇は与えられなかった。
  • 『菅家後集』「叙意一百韻」には、左遷道中の様子として反道真派の奸計により絶えず危険にみまわれ、落し穴などの罠や誅伐として行く手に潜伏していた刺客に襲われたこと、傷ついた駄馬や損壊した船を与えられたことなど、執拗な嫌がらせをうけていたことが綴られている[138]。

大宰府

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  • 讃岐時代と同様に北九州の庶民の暮らしぶりについても詩を綴っている。延喜元年(901年)十月頃の作『菅家後集』「叙意一百韻」で、人を騙して銭をまきあげる布商人、何の苦もなく簡単に殺人を犯す悪党、のどかな顔をして肩を並べている群盗、汚職で私腹を肥やす役人などが慣習として蔓延っており「粛清することはもはや不可能」と評する程の治安の悪さを綴っている。
また、自分のみじめな姿を見に来る野次馬への苦痛、自分の心が狂想におちいってること[注釈 19]、仏に合掌して帰依し座禅を組んでいること[注釈 20]、言論封殺のため自由に詩を作ることを禁じられたこと、自身の体が痩せこけ白髪が増えていってることや、着物が色あせていくこと[注釈 21]、政敵の時平一派にたいする憤り、かつて天皇へ忠誠を誓ったことへの後悔、捏造された罪状が家族・親戚まで累が及ぶことと、過去の功績の抹殺にたいしての痛恨と悲憤を綴っている。
  • 『菅家後集』「讀家書」では、久しぶりに妻から手紙がきたことを書いている。道真は、妻が薬(生姜と昆布)を送るなど自分を労わる気持ちは嬉しいが、家族の生活が苦しいことをひた隠しにしていることが、かえって自分を悲しめ心配させているのだと綴っている。
また、「詠樂天北窓三友詩」によれば、詩友として≪死≫という真の友だけが残ったとし[注釈 22]、謫居の北の窓の部屋に時たま現れる雀と燕の親子を良友とし、彼ら雌雄が相互支えあい雛を養育し飢えさせることのない慈しみある行動は、家族を離散させてしまった私では遠く及ばないとし、その口惜しさを言葉にすることもできず、血の涙を流しながらただ天神地祇に祈るのみ。そして、昔の友は喜び今の友は悲しみとし、それぞれ異なる友だが、それはそれで同一のものなのかもしれない、と結ぶ。

伝説

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出生

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  • 喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、菅原院天満宮神社(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説、菅生天満宮(堺市美原区)説、菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)、菅原天満宮(島根県松江市)説もあるため、本当のところは定かではないとされている。また、余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わる。
  • 道真の生誕地については諸説ある。各地に伝わる『天神縁起』によれば、承和12年(845年)春頃、十一面観音菩薩[注釈 23]を安置する高松山天門寺にある菅生池の菅の中より忽然と容顔美麗(振り分け髪をした薄桃色の着物を着る少女の姿[140])なる5・6歳の幼児が化現し、光を放ちながら飛び去り[141]、是善邸南庭に現れ「私には父母がいないのでそなたを父にしたい」と語った子供が、道真だという[140][注釈 24]。[注釈 25]
  • 長男次男を幼くして相次いで亡くした是善は、臣下の島田忠臣に命じ伊勢神宮外宮神官の度会春彦を通じて豊受大御神に祈願して貰った。そうして生まれたのが道真だという。その縁で、春彦は白太夫[注釈 26] として道真の守役となり生涯にわたり仕える事になったという。
  • 菅原天満宮によれば是善が出雲にある先祖の野見宿禰の墓参りをした際、案内してくれた現地の娘をたいそう寵愛した。そして生まれたのが道真だという。
  • 滋賀県余呉町には、道真が天女から産まれたという天女の羽衣伝説が残されている。あらすじは、あるとき、漁師の桐畑太夫[注釈 27]のところへ美しい天女が舞い降りる。太夫は羽衣を隠し無理矢理その天女と夫婦になる。そして、玉のような男の子が産まれ陰陽丸と名づけられる。しかし、天女が羽衣を見つけ天に帰ってしまい、桐畑太夫もそのあとをおい天にのぼっていってしまう。男の子は石の上に捨て置かれ、母恋しさに法華経のような声で泣きじゃくる。そこに、菅山寺の僧・尊元阿闍梨が通りかかり憐れに思い引き取り養育することにした。その後、菅原是善が菅山寺に参拝にきたさいその子供を養子にする。この子供こそのちの菅原道真だという。
また、別説では、桐畑太夫と天女のあいだに産まれた陰陽丸、菊石姫の兄妹としている。[143]
  • 江戸時代に書かれた『古朽木』によれば、道真は梅の種より生まれたという。
  • 『野馬台詩(歌行詩)』の主釈によれば、菅原道真と吉備真備は兄弟で、兄が道真、弟が真備だという。
  • 道真は丑年丑の日丑の刻生まれだったという伝承がある。

人物像

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  • 梅ヶ枝餅とカレイと醤油ご飯が好物だったという伝承がある[144][145]。他に、柿を庶民に普及したという言い伝えも残っている[146]。
  • 茶に関する故実を調査・研究し、世間に喫茶の習慣を広めたため、茶聖菅公と称されたという。[147]
  • 乗馬を好み、通勤は馬でおこない、讃岐での遠出や右近の馬場での桜狩りなど、趣味でも馬を走らせていたという[148]。のちに、天神乗りという騎乗法が伝わり、馬術の師として祀られることになる[149]。
  • 政治の合間に和歌を吟詠しては、その草稿を「瑠璃壺」に納めていた。左遷の時、その壺を携えて筑紫に下り、見るもの聞くものにつけて感じるままに和歌を詠み、百首を新たに壺に納め、道真が逝去後、壺は白太夫の手に渡ったという[150]。別の伝承では、道真が大宰府へ赴いたとき、宇佐のほとりで龍女が現れ、「瑠璃壺」を承ったという[151]。
  • 学問だけでなく、武芸(弓道)にも優れ、若い頃は都良香邸で矢を射れば百発百中だったという伝承がある。また、大蛇に苦しめられたため自ら矢で射て退治したという逸話もある[152]。
  • 宝剣「天國」[注釈 28]、宝刀「神息」[注釈 29]、神刀「猫丸」/脇差「小猫丸」[注釈 30]、毛抜形太刀〈無銘/〉(伝天國)[158][159]、菅公御佩用の御太刀[160]、銀の太刀[注釈 31]など様々な太刀を常に佩刀していたという。また、河童の大将や大鯰を斬り殺したという逸話も残っている。(後述参照)
刀工として古代の名工の一人に数えられている。[161]
  • 子はおよそ23人[162]、またはそれ以上に上るとされ[163]、長男高視が産まれる以前の、文章得業生の頃には既に子があったという[164]。
  • 「和魂漢才」という言葉を生み出したとされる。日本固有の精神「大和魂」と、中国伝来の学問「漢才」という対なる概念のことで、また、その両者を合わせるといった思想。のちに和魂洋才という言葉が派生した。ただし、この言葉が出てくる『菅家遺誡』は、鎌倉時代から室町時代に成立したと見られており[165] 後世に平田篤胤によって加筆改竄された偽書ではないか、という指摘がなされている[166]。
  • 心だに 誠の道にかなひなば 祈らずとても 神や守らん(人は、心さえ誠の道にそっていれば、あらためて祈りを捧げなくても、神がきっと守ってくれるだろう。)[注釈 32][168]
  • 勝楽寺延命院には、讃岐国が栄えるよう道真が「一」の字を奉納したという言い伝えがある。「一」には物事のはじめ、又は全体を知るという意味があり、古来よりこの「一」と縁を結べば諸願成就すると言われている。[169]
  • 菅原家は代々焼物、神聖文字、占呪法(気・密教・呪術等の秘法)、土木事業、行事、儀式、法律等を祖業[注釈 33]とし道真もこれを受け継いでいる[171]。また、仙人、道士を研究し秘法の実践に余念がなかった[172]。
  • 伊勢神宮には神代文字[注釈 34]で書かれた道真の奉納文が残されている[174]。また、道真を遠祖とする副島家には道真のものとする御神印が伝わっている[175]。直系子孫の塩小路家には、祖父清公が始め道真が完成させた神と対話する為の神聖文字として菅家塩小路篆刻道が現代まで継承されている[176]。

出来事

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  • 元慶8年(884年)、道真が40歳の頃に叔母である覚寿尼のいる道明寺に4~7月まで滞在した。その時、夏水井の水を汲み青白磁円硯で、五部の大乗経の書写をしていた。すると、二人の天童が現れ、浄水を汲んで注ぎ写経の業を守護し、白山権現、稲荷明神が現れ、筆の水を運び、天照大神、八幡神、春日大明神が現れ、大乗経を埋納する地を示したという。そこに埋納すると「もくげんじゅ」という不思議な木が生えてきたという。[177]
  • 同年、畿内が大旱魃にみまわれたため、陽成天皇の勅命により道真が奉幣使として意賀美神社にて祈雨祈願したところ、たちどころに雨が降るという霊験があったという。[注釈 35]
  • 『菅家瑞応録』によれば、9歳で善光寺に参拝したおり、問答に才を顕し、10歳の時には、内裏での福引の御遊に集まった公卿たちに忠言したという。
  • 17歳で清水寺に参拝したさい、田口春音という捨子を拾い養育したという。春音は大宰府まで同行し、道真逝去後は出家し、道真の菩提を弔ったという。
  • 久米仙人の修行の様子が龍門寺の扉に描かれ、道真の文と共にしばらくの間残ったとする文献がある。[178]

讃岐

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  • 仁和4年(888年)讃岐の国で大旱魃が起こり、讃岐守に就いていた道真がこれを憂い、城山で身を清め七日七晩祭文[注釈 36]を読上げたところ、見事雨に恵まれたという。
そのさい、道真が舞ったとされる踊りが西祖谷の神代踊として伝わっており[180]、民衆が喜び踊り狂ったものが滝宮の念仏踊の起源とされている。
  • 道真が讃岐守に就いていた頃、側に仕えていたお藤という女性と恋仲になり、愛妾にしたという。[181]
  • 極楽寺の明印法師という僧と親交を深めたとされ、極楽寺の由緒を話したり、道真から寄付をうけたり、詩文を贈答されたり、道真が一時帰京した際には、わざわざ京まで逢いにいったという。
  • おとぎ話『桃太郎』は、道真が讃岐守に就いていた時分に、当地に伝わる昔話をもとに作り上げ、それを各地に伝えた、という伝説が女木島に伝わっている。
また、『竹取物語』の竹取の翁の名が「讃岐造」であること、自身の神秘的な出生にまつわる伝承[注釈 37]から道真が作者ではないかという説がある。

右大臣

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  • 寛平2年(890年)の頃、與喜山で仕事をしていた樵夫の小屋に、何者かが「これを祀れ」と木像を投げこんだという。樵夫はその頃、長谷寺に道真が参詣に来ていたので、「木像は道真公の御作ではないか」と思い、大切に祀ったという。その像が與喜天満神社に現存する木造神像として伝えられている。
  • 寛平7年(895年)に法華経や金光明経を手写し伊香具神社へ納経したという。[182][注釈 38]
また、道真自刻として伝わる志明院の眼力不動明王[注釈 39]、清閑寺の十一面千手観音像、大報恩寺の千手観音立像、他に、住吉神社の神鏡[注釈 40]、氣比神宮の為当太神御神幣有奉納鉾太刀など、さまざまなものを神社仏閣へ奉納している。
  • 寛平8年(896年)2月10日、勅命により道真が長谷寺縁起文を執筆していたところ、夢に3体の蔵王権現が現れ、「この山は神仏の加護厚く功徳成就の地である」と、告げられたという。[185]
  • 昌泰元年(898年)10月17日、夢に祖父清公が現れ補陀落に行きたいと懇願されたので、道真は長谷寺で忌日法要したという。[186]
また、同時期に百人一首[129] の舞台ともなった宇多天皇御一行遊覧のさい、「人々以為らく、今日以後の和歌の興衰を」と、いずれ漢詩にかわり和歌が台頭することを予見している。[187]
  • 醍醐天皇の時世に、道真が谷汲山華厳寺の岩屋に参籠しお経を書写していると、白石山の淵に龍宮に住む乙姫[注釈 41]が現れ毎朝早く、ご飯の炊事・洗濯に使用している「姫ヶ井の泉」の清水を「閼迦の水」として道真に与えていた伝承がある。乙姫の歌として「このころは汲みては知らん山の井の 浅さ深さを 人の心に」が残されているが、不思議なことに、道真以外にこの乙姫の姿を見られた者はいなかったという。[189][190]
  • 醍醐天皇の命により災いを起こす人魚を道真が小野の地で退治した伝承が、四角柱の人魚塚とともに残されている。[191]

左遷

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  • 左遷の日、藤原時平、源光、藤原定国、藤原菅根らは、勅宣と称し陰陽寮の官人をあつめ、道真とその子孫が永く繁栄できぬよう絶えるよう、皇城の八方の山野に雑宝を埋めおき、神祭(陰陽道祭)を行うという大がかりな呪詛・厭術をさせた。しかし、道真はこれを絶つ術を知っていたため呪いを免れたが、子孫たちはなす術がなかったため、死後、神となった道真が守護し呪詛・厭術を防いでいるという。[192]
  • 左遷のおり道真は嫡子を哀れみ「日月は天地の父母なり、梅は寒苦を経て清香を発し、松は千年を経て尚、志節道義を失わず」と諭したという。[193]
  • 道真が都を出発する前日、都七条坊門の文(あや)という娘が、夢中で見送るようにとお告げをうけ、三条大橋の袂で綾竹を持ち別れの舞を舞い見送ったのが綾子舞の由来とされる。[194]
  • 大阪市東淀川区にある「淡路」「菅原」の地名は、道真が大宰府に左遷される際、当時淀川下流の中洲だったこの地を淡路島と勘違いして上陸したという伝説にちなんだ地名である。
  • 出水市壮の菅原神社に関する伝承として、ジョウス(城須)という老夫婦が道真に三杯の茶を振舞い、そのため道真が追手から逃れることができたという。[195]
  • 道真が、失意の中で尼崎に立ち寄ると、悲しみで人だけでなく草木もしおれた。しかし、ネギだけがしゃんとしており、村人はそのネギを憎み、食べなくなったという言い伝えがある。[196]
  • 山陽道を通って太宰府へ向かう道中で、かつて讃岐に赴任する際に懇意になった明石駅の駅長・橘季祐(たちばなのゆえすけ)に再会したが、落魄した道真を見た駅長は道真にかける言葉もなかった。道真はこのときの思いを「駅長驚くなかれ 時の変改することを 一栄一楽 是れ春秋」の詩を与えて慰め返したという。この逸話は『大鏡』に載せられているものであるが、後年の『源氏物語』でも「駅長に口詩を与えた人もいた」と記されている[35]。
  • 901年道真が筑後川で暗殺されそうになった際、「三千坊」という河童の大将が彼を救おうとして手を斬り落とされ落命した、もしくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした三千坊の手を道真が斬り落とした、という伝承が福岡県の北野天満宮に、河童の手の亡骸とともに残されている。
  • また、大宰府左遷のおり道真は兵主部という妖怪を助け、その返礼として「我々兵主部は道真の一族には害を与えない」という約束をかわした、という伝説も伝わっている。
  • 道真は左遷の際、忠臣高田正期へ桜の木を与えた。この桜の花が咲かなかった年に道真に何かあったのでは、と正期は不安になり大宰府へ赴いたという。このことに感動した道真は、天拝山の土で自身の像をつくりそれを持ち帰らせた。正期は、独鈷抛山の麓に祠をつくりそれを祀った。正期の死後、桜は枯れてしまう。それから300年後、積善寺の住職の枕元に天神となった道真が夜毎に立ったので、独鈷抛山の麓の祠を寺の境内に移動した。すると桜の形をした石が桜の木が植わっていたまわりの石から浮かび上がってきたという。[197][198]
  • 道真が忌宮神社の大宮司家に立寄り泊まった際、庭にある井戸に自分の姿を映した。すると、ひどく淋しい気持ちになり、水にうつった自分の顔に向かい「都を離れてすでに百日以上になる、ずいぶんやつれた顔になったな、しかし、もう二度とこの土地にくることはなし、この井戸で私の顔をみることもあるまい」と筆と紙をとり出し、自画像を描いたという。その後、その井戸は「御影の井戸」と呼ばれ、この井戸をのぞいたものは、目がつぶれるという言い伝えが伝わっている。[199]
  • 岡山県にある天満宮(称:子安天満宮)には、道真が当地に宿泊したさい、海女が難産で苦しんでいるのを不憫に思い一首の歌を与えた。すると、たちまち海女は安産したという言い伝えがあり、その時に道真が座った石を腰懸石として瓦祠で祀っている。[200]
  • 道真の側室は臨月であったが、道真との別れを惜しみ後を追ったという。しかし、途中で産気を催したため、人家に立ち寄ろうとしたものの、間に合わず輿中で大量に出血しながら産んだという。その時、道が真赤に染まった為、「赤大路」の地名由来となった。その後、近くの民家で介抱したものの、産後の経過が悪く亡くなってしまう。夫人は死期に臨むさい、里人の介抱を深く感謝し死後は安産の神になると遺言されたので、子安天満宮が建立されたという。[201]
他に、斎世親王の妃となっていた道真の息女が身重で信濃に落ち延びる途中で産気づき、街道の平石で臥せって苦しんでいた。その後、里人の手厚い看護もむなしく無念な最期となったが、その臨終の際、里人の厚い情けに報いるためにと女人の安産を平石に強く祈願したといわれている。[202]
  • また、道真の息子福部童子は、父の後を追って大宰府へ向かったが、山口で病気になり亡くなったという。[203]
  • 娘の苅屋姫も父のあとを追いかけたが、あと少しの所で間に合わず、足摺り(=蹉跎)して嘆いたという。のちに、大宰府でその話を聴いた道真は、三尺二寸の自身の木像を作って娘に送ったという。[204]
  • 道真の六女で愛娘のみよこ姫は、宮城県丸森町にある宗吽院に輿入れしたという。[205]
  • 道真の正室島田宣来子(または側室)が、岩手県一関市東山町に落ち延びたという落人伝説がある。[注釈 42]
  • 左遷の折、北九州市戸畑区天籟寺に立ち寄ったという伝説がある。立ち寄りにあたり、手足を洗ったとされる菅公御手洗の池が存在する。ただ住民は不審に思い早々に追い出してしまったとなっており、後に道真と知った住民は菅原神社を建立した。

太宰府

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  • 『寛永諸家系図伝』によれば、道真が筑紫にいたとき、兄“前田”と弟“原田”2人の息子を授かったという。[206]
  • 大宰府での生活は厳しいもので、「大宰員外帥」と呼ばれる名ばかりの役職に就けられ、大宰府の人員として数えられず、大宰府本庁にも入られず、給与はもちろん従者も与えられなかった。住居として宛がわれたのは、大宰府政庁南の、荒れ放題で放置されていた廃屋(榎社)で、侘しい暮らしを強いられていたという。また、時平の差し向けた刺客が道真を狙って謫居周辺を絶えず徘徊していたという。
  • 謫居には、左遷時に別れをあまりにも悲しみ慕われたため仕方なく連れてきた姉紅姫、弟隈麿幼い2人の子供がいた。『菅家後集』「慰少男女詩」で親子で励ましあって一緒に生活していたことが綴られている。また、2人を連れて館のまわりを散歩していると、小さな池にたくさんの蛙がおり、親兄弟が揃ってにぎやかに鳴き声をあげていた。その声を聞いていた道真が、離れ離れになった家族のことなどを思い出して一首詠むと、歌を聞いた池の蛙たちは、不遇な道真たちの心を察したのかこののち鳴かなくなったという伝承がある[207]。
しかし、902年秋頃に弟の隈麿が他界、数か月後に左遷時に病床にあった妻も他界し、その10日後に道真も他界した。残された紅姫は、亡き父から託された密書を四国にいる長兄菅原高視に届けるために密かに大宰府をたった。藤原氏の追手が迫る中、若杉山麓に身を潜め、山上の若杉太祖神社に守護を祈願したが、いつしか刺客にみつかり、篠栗の地で非業の最期を遂げたという。現在は、紅姫稲荷神社に紅姫天王という稲荷神として祀られている[208]。
  • 道真が大宰府に流されたとき道真を慕ってついてきた時遠という従者が鳥栖に隠れ住んでいた。鹸老いて子供のいない時遠を憐れみ道真は我が子長寿麿を養子にやったという。道真は時々長寿麿の元を訪ね、池に映った自分の肖像画を描き子にあたえたという。その池が元町に残る(鏡姿見の池)で、道真が腰掛けた石とともに伝わっている。[209]
  • 道真公が藤原氏の刺客から逃れるため板屋まで逃げてきたことがあった。数日後、太宰府へ発つさい、親切にしてくれた板屋の民家に同伴の子どもを預けた。これが、板屋の「真子」姓の始まりとされ、その子孫が奉納したという道真とその母と妻二組の像が北山神社のご神体となっている。[210]
  • 道真は太宰府に向かう途中、津和田村の「千早の杜」を訪ね、そこで「わがたよる千早の宮のます鏡くもらぬすがたうつしてぞゆく」「ふりかえりかへり行くかも別れにし、千早の杜の見ゆるかぎりは」と詠み、連れ子の好寛を隣村の中務家に預けたという。[211]
  • 梅ヶ枝餅は道真が大宰府へ員外師として左遷され悄然としていた時に、老婆が道真に餅を供しその餅が道真の好物になり、道真の死後老婆が梅の枝を添えて餅を墓前に供えた、或いは道真が左遷直後軟禁状態で食事もままならなかったおり、老婆が軟禁部屋の格子ごしに梅の枝の先に餅を刺して差し入れたという伝承が由来とされる。
  • 左遷のおり、道真の母の霊が息子を心配し、京都伏見稲荷大社から稲荷神を遣わせ、大宰府の石穴神社に鎮まったとする伝承がある。稲荷神は、道真の配所に稲穂を届け飢えを救ったという。[212]
  • あるとき、葦の生い茂る沼周辺で大鯰が顔を出して通行人の邪魔をしていた。道真は、これを太刀で頭、胴、尾と三つに斬り退治したという。その遺体がそれぞれ鯰石となり、後に雨を降らす雨乞いの石として地元の人々に大切にされたという[注釈 43]。
  • 延喜2年(902年)正月7日に道真自ら悪魔祓いの神事をしたところ、無数の蜂が参拝者を次々と襲う事件がおきた。そのとき鷽鳥が飛来して蜂を食いつくし、人々の危難を救ったのが鷽替え神事の由来とされる。また他にも、道真が賊に襲われたとき牛が身をていして守ってくれた伝説や、道真が難破に巻き込まれたとき昔飼っていた愛犬の霊が宿った犬石が助けてくれたという犬島伝説が伝わる。
  • 道真がいろは歌の作者とする説がある。7段書きにした場合に下の部分が「咎なくて死す」となるため、『菅原伝授手習鑑』を契機に江戸時代中期頃広まったという。[213]
  • 晩年、道真は無実を天に訴えるため、身の潔白を祭文に書き、七日七夜天拝山山頂の岩の上で爪立って、祭文を読上げ天に祈り続けた。すると、祭文は空高く舞上り、帝釈天を過ぎ梵天まで達し、天から『天満大自在天神』と書かれた尊号がとどいたという。

飛梅伝説

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道真が京の都を去る時に、庭に植えられた梅の木に「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」[214] という和歌を詠んだ。その梅が、京の都から太宰府の道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」が存在する[215]。また、同様に松の木も京都から飛び立ったが、須磨(現在の神戸市須磨区板宿町板宿八幡神社)で力尽きて落ちたという「菅公の飛松」の伝説もある[216]。

薨去の地に関する伝承

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菅原道真のものという伝説が残る藤川天神境内の墳墓

鹿児島県薩摩川内市東郷町藤川の菅原神社(別名:藤川天神)で菅原道真が死去したとされたとの伝承と共に、道真のものと伝わる墓がある。

身の危険が迫り、筑前から船で水俣湾を経て鹿児島県薩摩川内市湯田町に上陸し、薩摩川内市城上町吉川を経て、同市東郷町藤川の藤川神社で隠棲し薨去したとされる。その経路には、船繋石・御腰掛石などの史跡が残っている。また、吉川では菅原道真を奥座敷に納戸にかくまったことから、年中行事として村人が集まり女子は左右の袖を広げて男子を隠して奥座敷に潜ませる真似をする風習が残っている[217]。

他に『放ちの鐘伝承』がある。迫る刺客に危険を感じた菅原道真は舟で南下する途中にお告げのあった湯田川河口奥の大きな石に舟を繋ぎ(菅公舟繋ぎ石)降りて鈴を鳴らすと潮が引き、持ち物共々船は河口から沖へと消え、身軽になった道真は幾山を越え東郷の地を辿り、藤川にて天神になったという。その後湯田川河口は、放し事を下げ潮時に念じれば叶う聖地となった[218]。

怨霊伝説と北野信仰

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『北野天神縁起絵巻』に描かれた、清涼殿落雷事件
太宰府天満宮(福岡県太宰府市)全国天満宮の総本社とされる
天満宮を彩る梅園(道明寺天満宮・大阪府藤井寺市)
丁五圓券(1次5円)

道真を怨霊と見る向きが決定的になったのは、延喜23年(923年)に醍醐天皇の皇子保明親王が薨去し、これを受けて道真の復権が行われた頃だと見られている[219]。さらに延長3年(925年)に保明親王の皇子慶頼王、承平3年には時平の長男保忠が没しており、これも道真の怨霊説を補強する形となった[219]。

清涼殿落雷事件(930年)によって道真の怨霊は雷と結び付けられ、朝廷は火雷神が祀られていた京都北野寺の寺内社北野神社に道真を祀った[220]。太宰府には先に醍醐天皇の勅命によって藤原仲平が建立した安楽寺の廟を安楽寺天満宮に改修して道真の祟りを鎮めようとした。また時平の弟藤原忠平の子藤原師輔は北野神社を支援し、天徳3年(959年)に祭文を捧げ、社殿を造営している[132]。師輔は兄であり、時平の娘を妻としていた藤原実頼の家と競っており、道真の怨霊の強調は実頼の系統を圧迫する目的があったのではないかという説がある[221]。また、天延3年(973年)に師輔が建てた社殿が火災で焼けた際に師輔の子供たちが再建に関わった記録が存在しないことから、師輔の社殿造営は個人的崇敬によるもので親族で共有されたものではなく、藤原氏としての北野信仰の始まりは一条天皇期と考えるべきだとする指摘もある[222]。正暦4年(994年)には疫病が流行し、これは道真の祟りとして正二位・左大臣が贈られている[223]。一方で寛和2年(982年)には慶滋保胤が道真を学問の神として祀る祭文を挙げており、寛弘9年(1012年)には大江匡衡の祭文によって学問の神的側面が強調されている[224]。また冤罪を晴らす神としての信仰もあり、『栄華物語』には太宰府に配流された藤原伊周が雪冤を願って太宰府天神を参詣する姿が描かれている[225]。以降、北野信仰は中・下層階級から摂関家に至るまで広まった[226]。

江戸時代には昌泰の変を題材にした芝居、『天神記』『菅原伝授手習鑑』『天満宮菜種御供』等が上演され、特に『菅原伝授手習鑑』は人形浄瑠璃・歌舞伎で上演されて大当たりとなり、義太夫狂言の三大名作のうちの一つとされる。現在でもこの作品の一部は人気演目として繰返し上演されている。

近代以降は忠臣としての面が強調され、紙幣に肖像が採用された。具体的には、戦前の日本銀行券の歴代の五円(五圓)紙幣のうち改造券・乙号券・丁号券・い号券・ろ号券、及び甲貳拾圓券に採用されている。配所にても天皇を恨まずひたすら謹慎の誠を尽くしたことは、広瀬武夫の漢詩「正気歌」に「或は菅公筑紫の月と為る」と詠まれ、また文部省唱歌にも歌われた(例えば尋常小学唱歌などに「菅公」と題する歌が収録されている)。第一高等学校では生徒訓育を目的に、倫理講堂正面に文人の代表として菅原道真の、武人の代表として坂上田村麻呂の肖像画が掲げられていた[227]。昭和3年(1928年)に講談社が発行した雑誌「キング」に、「恩賜の御衣今此に在り捧持して日毎余香を拝す」のパロディ「坊主のうんこ今此に在り捧持して日毎余香を拝す」が掲載されたところ、不敬であるとの批判が起こり、講談社や伊香保温泉滞在中の講談社社長野間清治の元に暴漢らが押し寄せるという事件も発生している。

近年では、『社会科 中学生の歴史』(帝国書院)などの歴史の教科書に、『北野天神縁起絵巻』や道真の肖像画が載せられ、怨霊から神になるまでの経緯が紹介されている[228]。

道真を題材とした作品

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漫画

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小説

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映像

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歴史番組

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NHK

歌謡曲

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テレビアニメ

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ギャラリー

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脚注

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注釈

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  1. ↑ 『公卿補任』はこれをもって道真と時平に対する内覧の任命とするが、吉川真司は執奏された官奏が天皇に渡る前に内容を確認するのが内覧の職務であり、執奏者と内覧が同一人物であることはあり得ないとしてこれを否定する[70]。
  2. ↑ 並木和子は保明親王は同年正月には宇多法皇の元を訪問するなど、特段の異変が見られなかったため、突然の急病による死は内外に衝撃を与えたのではないかとみている。藤原菅根・時平あるいは源光の死去の時には道真の怨霊の話題は出ておらず、彼らの死の時点では道真の怨霊の存在は意識されていない、もしくは公には口には出来なかった状況であったのではないかとみている。藤原時平らの死去が道真の怨霊と結び付けられたのは、道真の怨霊の存在が認められた保明親王の死後で、時平らの死と道真の怨霊を結び付ける説話や藤原仲平による大宰府天満宮創建も全て後世の創作ではないかと指摘している(この指摘をした並木和子は道真を葬ったとされる道真の従者味酒安行が大宰府天満宮の実際の創建者であったとみている。)[100]。
  3. ↑ 本表の年齢は数え年表記である。承和12年(845年)を誕生年(1歳)として各年の年齢を算出している。
  4. ↑ 『政事要略』所引道真伝では貞観8年5月7日とする。
  5. ↑ 『政事要略』所引道真伝、『北野天神御伝』では2月とする。
  6. ↑ 渤海客対応ための臨時任官で、5月12日に渤海客が帰国しているため、それまでに官職を去るか。
  7. ↑ 古代の大伴氏が淳和天皇の避諱で改名した。
  8. ↑ 大伴狭手彦六世の孫とする[107]。
  9. ↑ 藤原氏の追手から逃れる為に兄弟で名を改名したとされる。
  10. ↑ 受験勉強中にも、「賦得折楊柳、一首」など女性を細やかに表現した詩をつくっている。
  11. ↑ 星についての和歌も残しており、『拾遺和歌集』「天つ星道も宿りもありながら空に浮きても思ほゆるかな」(天の星のように、道も宿もありながら、空に浮かんでいるような思いがすることだなあ)と左遷道中で今後の不安を、『新古今和歌集』「彦星の行き逢いを待つ鵲の門と渡る橋を我に貸さなむ」(彦星が織姫と会うのを待つという、鵲の渡す橋を私に貸してくれ)と大宰府で帰京への強い想いなどを綴っている。
  12. ↑ 白居易の詩「寄殷協律」の一句「雪月花時最憶君(雪月花の時 最も君を憶ふ)」による語。白居易は道真が最も影響をうけた人物。
  13. ↑ ただし、天皇とその周辺は、外世界にいる完全者である仏の化身として、衆生を救済する者として特別に扱った。後に、この天皇のような特別な者のみを仏の化身とした考えは失われ、仏の化身という思想だけが乱用され、皮肉にも道真自身もその流れに巻き込まれていくことになる。
  14. ↑ 「この宇宙はあらゆる階層の存在で充満した連続する鎖の環である」という哲学的観念。
  15. ↑ 三国時代に活躍した道士で後に羽化し仙人となり後世で真人を追封された。十二真君、二十四孝の一人。
  16. ↑ この事を深く恨んだ清行は、『革命勘文』上奏により、逆臣藤原仲麻呂の例をあげ、改元させ後世まで道真を逆賊として印象づけようとするなど、時平らと共に裏で様々な暗躍をしたとされている。また、『政事要略』巻二十二では道真を悪逆の主とよんでいる。『扶桑略記』延喜18年(918年)の項に、10月26日に清行が亡くなると、息子浄蔵が5日後に京に戻り祈祷し、清行の蘇生に成功。その7日後に清行は西に向かって念仏しながら改めて他界するが、火葬したさい、なぜかその舌だけは焼けずに残っていたという[134]。
  17. ↑ 『春日獨游三首・其二』によれば、夜に突然詩興が湧いたので彷徨い大声で詩を読誦していたところ、村人に狂人扱いされてしまったという。
  18. ↑ のちに都でこの不遇に見まわれている民のことを回顧し同情している。
  19. ↑ そのためか、詩中には判読できない部分もある。
  20. ↑ 『菅家後集』「官舎幽趣」によれば、左遷されてから思うのは、王の迎えをも傲慢に拒否して卑しい身分の役人にとどまった荘子の生き方、そして、どこにいても信じて仕えるのは、この世のすべては空しいと説いた釈迦の教え、としている。
  21. ↑ 「詠樂天北窓三友詩」では謫居での暮らしは辛酸を極め夢を見るどころではないと綴る。
  22. ↑ 他に「無実の罪をきせられている私を悲しんでくれる者は誰もいない」と、孤独感も詠っている。[139]
  23. ↑ 道真と十一面観音菩薩は結びつけられることが多い。たとえば、『道明寺縁起絵巻』の、左遷途上で土師里によった場面で、道真を中心に十人の白丁姿の化人が現れ一夜にして彫刻を彫った、のような伝承が散見される。
  24. ↑ 長谷寺より化現した、白太夫が予知夢をみたなど様々なバリエーションがある。
  25. ↑ この伝承は、道真が37歳ころの詩「我に父母無く兄弟無し」が由来ではないかという指摘がある。[142]
  26. ↑ 若い頃から白髪でお腹が太かった。
  27. ↑ 桐畑太夫には、弘仁二年(811年)に、菊石姫という美しい娘が産まれたという伝承もある。菊石姫の体は成長するにしたがって徐々に龍へと変化したため、太夫に気味悪がられ捨てられてしまう。そして、世話になった乳母を助けるため盲目の龍となり、最終的に余呉湖の主におさまったという。
  28. ↑ 日本刀剣の祖とされ、かの天叢雲剣や小烏丸を作ったとされる刀匠天国作の宝刀。『元禄本天満宮縁起』『菅生宮縁起』『誉田宗庿縁起絵巻』等によると、仁和二年(886年)七月一四日、道明寺にいた道真は、誉田八幡宮へ参籠したさい一五・六歳の童子が現れ天國を授かったという。そして、筑紫まで佩刀し最後は府の官人に渡ったとされる[153]。江戸時代に亀戸天神から盗人がこの宝剣を盗んださい、激しい雷雨に見舞われたため神罰と恐れをなし神社へ返還したという[154]。また、「一度鞘から抜き放てば決まって豪雨を呼ぶ」という伝承もある[155]。
  29. ↑ 銘「朱鳥二年八月日神息」。刀匠の祖とされる伝説上の刀工神息の作刀。道真の遺品として御鏡と共に白太夫(渡会春彦)により長子菅原高視へ授けられたという。現在は潮江天満宮の御神体となっている。[156]
  30. ↑ 太刀「猫丸」は道真作とされ、脇差「小猫丸」は道真の守刀とされる。あるとき、道真が刀を壁に立てかけていたところ、走ってきた猫が当たった瞬間に、胴体が真っ二つに切れたところから「猫丸」と名付けられた、という同様の逸話を持つ。[157]
  31. ↑ 『太郎丸託宣記』によれば、ほかに仏舎利・玉帯・尺鏡(笏と鏡)を所持していたという。
  32. ↑ 愛知県津島市神守町には、道真の息女が津島に流されて来てこの和歌を人々に伝えたという伝承が残されており、神守の地名の由来となっている。[167]
  33. ↑ 遣唐使となった祖父菅原清公が唐より持ち帰った知識と、古来より自家に伝わる儀式を清公、菅原是善、菅原道真の三代で合一、日本独自のものとして発展させた[170]。
  34. ↑ 道真の叔父秋篠清成が興した出雲神流には伝書として、神代文字で記された草刈記・葛城記・熊野記等が伝わる[173]。
  35. ↑ 奉幣使としてあちこちに行っており、貞観一八年(876年)に、越前国の神社に奉幣使として赴いている。
  36. ↑ 祭文の内容は「城山の神よ、我が願いを聞き入れて下されば、讃岐の民は末代まで貴殿を敬い祀るであろう。だがしかし、もしそれを聞き入れて下さらなければ、民は貴殿を疎んじ、その尊厳は地に落ちるであろう」という懇願と脅しを交えた説得文だったという。[179]
  37. ↑ 道真は処女作『月夜見梅花』や『水中月』など月を題材にした詩作も多い。
  38. ↑ この2つの経典は、仁王経と合わせて護国三部経といわれ、国家の安泰を願って用いられた。
  39. ↑ 根本中院本尊眼力不動明王は宇多天皇の勅願により菅原道真公一刀三礼の彫刻で以来皇室勅願所として崇敬深く、秘仏として即位に際し勅使を迎え開扉され、宝祚延長、万民安穩の祈願を籠めたと伝わる。この院は役小角の創建とされ、後に空海が再興し空海作の本尊不動明王も祀られている[183]。京都最強の魔所、魑魅魍魎の最後の砦などともいわれ怪異の噂が絶えないという[184]。
  40. ↑ 古墳時代中期のもの。
  41. ↑ 白石山には、尸羅ヶ池より住み着いた尸羅(しら)という嫉妬に狂った龍女が、八丈岩という大岩で相手の龍女(夜叉)を襲ったという伝説があり、彼女が住む洞窟の池は龍宮に続くと伝えられている[188]。
  42. ↑ 菅公夫人の墓
  43. ↑ 更に後の明治6年、この地が旱魃に見まわれた際に石を焚いたところ、石が裂け中から鯰が生まれるようになったという。

出典

[編集]
  1. ↑ 阿部 1979, p. 12.
  2. ↑ 阿部 1979, p. 207.
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  4. 1 2 3 滝川幸司 2019, p. 19.
  5. ↑ 今正秀 2013, p. 22.
  6. ↑ 坂本太郎 1962, p. 22.
  7. ↑ 『菅家文草』巻頭第一「月夜に梅華を見る」
  8. ↑ 『菅家御伝記』
  9. ↑ 坂本太郎 1962, p. 23.
  10. ↑ 坂本太郎 1962, p. 18-19.
  11. ↑ 坂本太郎 1962, p. 24.
  12. ↑ 『菅家文草』8
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  14. ↑ 『日本三代実録』貞観12年9月11日条
  15. ↑ 『菅家文草』11
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  17. ↑ 『日本三代実録』貞観14年正月6日条
  18. ↑ 『日本三代実録』貞観14年正月26日条
  19. ↑ 坂本太郎 1962, p. 37-38.
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  21. ↑ 坂本太郎 1962, p. 39.
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  28. ↑ 『北野天神御伝』
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  30. ↑ 『菅家文草』8
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  34. ↑ 坂本太郎 1962, p. 63.
  35. 1 2 武部健一『道路の日本史』中央公論新社〈中公新書〉、2015年5月25日、55-56頁。ISBN 978-4-12-102321-6。
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  105. 1 2 『菅家文草』巻8、省試対策文二条割注
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  107. ↑ 中田憲信『菅公系譜』
  108. ↑ 『菅家文草』勉誠出版 石川県立図書館蔵川口文庫善本影印叢書 1、2008年 ISBN 978-4-585-03181-9
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  111. 1 2 菅原道真における白居易の受容
  112. 1 2 『菅家文草』「海上月夜」
  113. ↑ 『菅家後集』「秋夜」
  114. ↑ 『菅家文草』「九日侍宴同賦菊散一叢金、応製」
  115. ↑ 『菅家文草』「春日山を尋ぬ」
  116. ↑ 『菅家文草』「春夜の桜花を賦す」
  117. ↑ 『菅家文草』「官舎の前に菊の苗を播う」
  118. ↑ 『菅家文草』「感殿前薔薇、一絶」
  119. ↑ 『新古今和歌集』「月ごとに流ると思ひし真澄鏡西の海にも止まらざりけり」
  120. ↑ 『新古今和歌集』「海ならず湛へる水の底までも清き心は月ぞ照らさん」
  121. ↑ 武田佐知子編『太子信仰と天神信仰 信仰と表現の位相』(思文閣出版、2010年)ISBN 978-4-7842-1473-0 pp. 201-229
  122. ↑ 『菅家後集』「叙意一百韻」
  123. ↑ 『菅家文草』「立春」
  124. ↑ 『菅家文草』「詩を吟ずることを勧めて、紀秀才に寄す」
  125. ↑ 『和漢朗詠集』
  126. ↑ 塩小路光孚 1998, p. 138.
  127. ↑ 谷口孝介 1988, p. 25.
  128. ↑ 谷口孝介 1988, p. 28.
  129. 1 2 「このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」
  130. ↑ 『菅家後集』486
  131. 1 2 黒木香 1985, p. 15.
  132. 1 2 黒木香 1985, p. 16.
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  134. ↑ 永冨明郎著『天神さまの細道 菅原道真を紀行する』東洋図書出版2011年、p.339-341、p.417
  135. ↑ 永冨明郎著『天神さまの細道 菅原道真を紀行する』東洋図書出版2011年、p.161
  136. ↑ 『旅亭歲日招客同飲』『四年三月二十六日作』
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  138. ↑ 清藤鶴美『菅家後草』1953年。
  139. ↑ 『新古今和歌集』「筑紫にも 紫生ふる 野辺はあれど 無き名悲しぶ 人ぞ聞えぬ」
  140. 1 2 『北野天神縁起絵巻』
  141. ↑ 『菅生宮縁起絵巻』
  142. ↑ 永冨明郎著『天神さまの細道 菅原道真を紀行する』東洋図書出版2011年、p.69
  143. ↑ 近江地方の羽衣伝説における菅原道真と菊石姫
  144. ↑ 福井市中央卸売市場 1月25日の「天神講」には焼カレイを!!
  145. ↑ 燕市 天神講 つばめ食育だより
  146. ↑ 柿天神祭で道真しのぶ 氷見・伊勢玉神社:北國新聞2017年10月26日
  147. ↑ 防府天満宮 芳松庵
  148. ↑ 『菅家文草』「早衙」
  149. ↑ 落馬止め天神(北野天神)サイト/由緒
  150. ↑ 狩野文庫本『瑠璃壺之御詠歌百首者』
  151. ↑ 『河州志紀郡土師村道明尼律寺記』
  152. ↑ レファレンス協同データベース 草津市下寺町の天満宮(てんまんぐう)の神事の概要を知りたい。
  153. ↑ 皇室ヤフオク(11)昭和天皇 御大礼 飾太刀・追記アリ
  154. ↑ 天国あまくに ~雷鳴呼ぶ神剣を鍛った刀工の祖~
  155. ↑ 光明堂 - 成田山新勝寺ページ! 光明堂 愛染明王 縁結びの絵馬 天国の宝剣
  156. ↑ 日本古学アカデミー 『本朝神仙記伝』の研究(31) -松木春彦-
  157. ↑ もみじ苑・宝物殿 特別同時公開 | 北野天満宮
  158. ↑ 九州国立博物館 | 特別展『国宝 大神社展』 毛抜形太刀 伝菅公遺品
  159. ↑ 太宰府天満宮宝物殿小企画『神社に奉納された名刀展』
  160. ↑ アマナイメージズ 天神祭 丑日講 菅公御佩用の御太刀
  161. ↑ 『本朝鍛冶考』『古刀銘尽大全』『日本国中鍛冶銘文集』『文明十六年銘尽』 『長享目利書』等
  162. ↑ 『北野天神御伝』
  163. ↑ 6-2)<菅原氏> (菅原氏詳細系図参照) ⑲
  164. ↑ 『菅家文草』「日の長きに苦しむ」
  165. ↑ 『菅家遺誡』 - コトバンク
  166. ↑ 所功著『菅原道真の実像』臨川書店、2002年
  167. ↑ 弁護士加藤英男.com 菅原道真公・御歌「祈らずとても神や守らん」
  168. ↑ 新釈講孟余話: 吉田松陰、かく語りき 吉田松陰著 2014年、pp.311-312
  169. ↑ 週刊みとよ ほんまモンRadio! 延命院での『一』のお願いごと
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  174. ↑ 小島末喜『伊勢神宮の古代文字―ついに現われた幻の奉納文』1977年。
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  178. ↑ 仏教説話大系編集委員会 編『仏教説話大系 36 日本の古典1 古代編』鈴木出版、1985年、116頁。ISBN 4-7902-0036-1。
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  180. ↑ 阿波ナビ 西祖谷の神代踊
  181. ↑ 恋松天神 お藤天神
  182. ↑ 伊香具神社社伝
  183. ↑ 京都観光navi 志明院
  184. ↑ ムーPLUS 京都でスケルトン妖怪と遭遇!? 大浦龍宇一さんの怪体験(前編)
  185. ↑ 長谷寺縁起絵巻
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  187. ↑ 『宮滝御幸記』
  188. ↑ 各地の夜叉ケ池伝説集-白石の里(岐阜県揖斐郡揖斐川町)
  189. ↑ 岐阜県揖斐川町 清水の歴史
  190. ↑ 『美濃国諸旧記』八巻
  191. ↑ 田辺悟『人魚(にんぎょ)』法政大学出版局〈ものと人間の文化史 143〉、2008年7月15日、118頁。ISBN 978-4-588-21431-8。
  192. ↑ 安楽寺縁起藤原長子託宣記
  193. ↑ 四十物昆布(あいものこんぶ) 生地の名水めぐり 黒部の地域情報 ◆前名寺天満宮
  194. ↑ 柏崎の偉人と文化財 綾子舞 小歌踊 小切子踊(高原田)
  195. ↑ 菅原神社 鹿児島県神社庁
  196. ↑ 「尼崎百物語」12日発刊 尼崎の怪談や伝説掲載 :神戸新聞NEXT2016年4月8日
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  199. ↑ 公益財団法人 下関市水道サービス公社 下関の水 おもしろ塾❷ 水にまつわる伝説 御影・姿見の井戸
  200. ↑ 岡山県神社庁 天満宮
  201. ↑ 子安天満宮(高槻市)
  202. ↑ 樹下神社『女天神 安産石』
  203. ↑ 古熊神社
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  206. ↑ レファレンス協同データベース 加賀藩前田家の先祖、天穂日命から前田利家公までに代々の姓名を教えてほしい。
  207. ↑ ちくしの散歩 23.菅公伝説(2)
  208. ↑ 神社人 紅姫稲荷神社
  209. ↑ 鳥栖新聞 鳥栖民話2
  210. ↑ 福岡市早良区板屋北山神社の由来
  211. ↑ 津秦天満宮由緒
  212. ↑ 「石穴神社 奥の院 調査報告」
  213. ↑ 囮の暗号「咎なくて死す」
  214. ↑ 文献によって春を忘るなの表記もある。「拾遺和歌集」「大鏡」『源平盛衰記』など
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  216. ↑ 佐藤環「文化財を活用した地域教材活用の研究」
  217. ↑ 鹿児島県立川内中学校編『川内地方を中心とせる郷土史伝説 西播磨の民謡』発行人:泰山哲之、1979年
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参考文献

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関連書籍

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関連項目

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外部リンク

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