誤訳
誤訳(ごやく、英: mistranslation)は、誤った翻訳、間違って訳すこと[1]。
まれに「欠陥翻訳」といった呼称が用いられることもある[2]。誤訳の指摘をおもな内容とする書籍などでは、「珍訳」と呼んで揶揄することもある[3]。
概説
翻訳の際におかしうる誤り(過誤)のひとつで、次のようなものがある。
- 翻訳者が原文の内容を正しく理解できていないために、訳文(翻訳文)が間違ってしまうもの[4]
- 原文の内容が過不足なく訳出できていないもの[4] ─ 原文に含まれている要素を訳文に反映させていない「訳抜け」や、逆に原文に書かれていない要素を訳文に盛り込んでしまう場合も翻訳上のミスとされる[4]
- 単語の単純な見間違え[4] ─ たとえば「tile」(タイル)と「title」(タイトル)の見間違えなどである。誰でも一度別の単語だと思い込んでしまうと、何度見直しても間違いに気づけない[4]。
- 調査不足や専門知識の不足[4] ─ 専門用語を調査せず、翻訳者が自分の思い込みで翻訳してしまうミス[4]
- 国家の命運や戦争がかかわる場面では、原文の意味を意図的に歪曲し、読者を誤解へと誘導しようとする「意図した誤訳」が行われたと疑われるような事例もある[5][6][7]。
- もっぱら表現の適否、巧拙(上手か下手か)的な問題点は「悪訳」呼んで、誤訳とは区別することがある[8]。
歴史的な誤訳の例
聖書の誤訳
- "モーセの角"
旧約聖書『出エジプト記』34章29節には、十戒を与えられたモーセの顔から光が放たれていたという描写がある[9]。現代の聖書の訳は、ヘブライ語原典なども踏まえてこのような訳となっているが、ヒエロニムスがラテン語版聖書(ウルガタ)を翻訳した際には、「顔が輝く、光を発する」とすべき「קַרן」を[10]、「cornuta esset facies」と訳した。この「cornuta」は、「角が生えた」を意味する「cornutus」の変化形とも解釈できたため、以降、モーセの顔には角があったという説が中世からルネッサンス期に広まった。異論もあるものの、モーセに角があったとするのは誤訳に基づく誤解と考えられている[10]。
作品名
- "まだらの紐"
シャーロック・ホームズシリーズの「The Adventure of the Speckled Band」は「まだらの紐」と訳され定着したが、原本では「ひも」と「一団」の掛詞であった[11]。詳しくはまだらの紐#タイトルの仕掛け。
演説
- "お前らを生き埋めにしてやるぞ!"、"お前らを葬り去ってやるからな! "
冷戦下の1956年、フルシチョフがモスクワのポーランド大使館におけるレセプションで西側諸国の外交官を前に演説した。その際、Мы вас похороним(ムィ・ヴァス・ポホローニム)という表現を使った。これはロシア語の慣用句を使い、マルクス主義のイデオロギー的な優位性を主張する当時のソ連ではありふれた表現であり、「資本主義は自ら墓掘り人を育てる(=労働者階級によって内側から崩壊する)」という教義に基づき、「歴史の推移として共産主義が資本主義よりも長く生き残る(私たちが君たちの葬式を出すことになる)」という意味を示唆する表現だったが、この表現を英語への通訳を担当した者が We will bury you(お前たちを葬り去ってやる/生き埋めにしてやる)と極めて攻撃的な意味となる英文に訳したため会場は騒然となった。その情報は報道でも流れ、西側諸国では『ソ連が「核攻撃で全滅させるぞ!」と警告してきた』と受け止められ、冷戦の対立をさらに激化させた。[12][13]
- 項目「あんたらを葬ってやる」も参照
人名
- "常凱申"
2008年10月に中国の清華大学歴史学科の副主任王奇によって書かれた学術文献において、蔣介石が「常凱申」と誤訳された[14]。欧米において広く用いられる広東語読みをウェード式で音写したことに由来する「Chiang Kai-shek[15]」を、現代の中国で広く用いられる拼音と混同して無理やり標準中国語の発音に対応する漢字表記を当て字したことから発生した誤訳である。2009年6月19日には出版した中央編訳出版社によって謝罪と発行停止の対応が行われた[16]。その後、この呼称は中華圏において蔣介石をからかうインターネット・ミームとして定着し、コール オブ デューティ ブラックオプスIIIの中国語版ではこのミームにあやかって弾薬を満たすことができる強化能力を「申凱物流」と呼んでいる[17]。
- "Mr. Shithole"
2020年1月に習近平がミャンマーを公式訪問した際、ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問(当時)の公式Facebookページにビルマ語で投稿された声明を、Facebookの自動翻訳機能で英語に変換され表示された画面では、習近平の名前がすべて「Mr. Shithole」と誤訳された。当時、Facebookのビルマ語データベースに「習近平(Xi Jinping)」の名前が登録されていなかったため、AIシステムが似たような音節(「xi」や「shi」で始まる言葉)から推測して翻訳を生成した結果、Shitholeと誤訳したのであり、技術的な問題だった。[18][19]
翻訳学習者の誤訳と、それに対する指導法
2017年に発表された大西らによる研究では、(学生に対する)インタビュー調査を通して、翻訳の学習者(学生)が誤訳をしてしまう原因(と学生が感じていること)が調査され、大西らにより分類された[20]。
大西は、学習者の誤訳の原因を、翻訳作業の中で当該箇所に特段の考慮(調査含む)をしたか否かで大別した。
調査など特段の考慮をしていない誤訳には次のようなものがある。
(1) 不注意による起因する誤り(見落とし、見誤りなど)
(2) 思い込みに起因する誤り(語義を誤って記憶しており、辞書等で確認せずにそのまま訳してしまうなど)
考慮がなされたにもかかわらず誤訳となった例には、次のようなものがある
(3) 原文の意味に対する迷い(多義的な単語をどのように訳せばよいか判断がつかず、曖昧に解釈できる表現を選んでしまうなど)
(4) 原文の意味を取り違える(原文を誤解し、場合によっては原文にない説明的表現も盛り込んで訳してしまうなど)
(5) より適切な訳を求めて(目標言語の表現として適切なものを推敲しているうちに、結果として不適切なものを選択してしまうなど)
特に (5) は翻訳者が原文の内容を理解できていたにもかかわらず、結果として誤訳してしまう例であり、翻訳指導の上で (1)から(4) に対する指導方法とは異なる対処が必要だと大西らは指摘した。
| 考慮 | 原因の分類 | 原文内容の理解 |
|---|---|---|
| なし | (1) 不注意による起因する誤り | できていない |
| (2) 思い込みに起因する誤り | ||
| あり | (3) 原文の意味に対する迷い | |
| (4) 原文の意味を取り違える | ||
| (5) より適切な訳を求めて | できていた |
関連書籍
- 「誤訳悪訳の病理―ミスを防ぐためのαからωまで」 横井忠夫著 現代ジャーナリズム出版会1971年1月1日刊
- 「歴史を変えた誤訳 原爆投下を招いた誤訳とは!」 鳥飼玖美子著 新潮社 2001年5月10日
- 「誤訳の世界はワンダーランド」 古賀正義著 ぎょうせい 1983年
- 「推理小説の誤訳」 古賀正義著 サイマル出版会 1983年4月 ISBN 4-377-50593-9
- 「誤訳の常識」 中原道喜著 聖文新社 ISBN 4792217105
脚注
- 注
- 出典
- ↑ 「誤訳」『精選版 日本国語大辞典』。コトバンクより2020年10月4日閲覧。
- ↑ 別宮貞徳『誤訳、悪訳、欠陥翻訳―ベック剣士の激辛批評!』バベルプレス、1993年。
- ↑ 菊地義明『誤訳・悪訳・珍訳大研究―間違いだらけの翻訳を糺す!』日本実業出版社、1995年。
- 1 2 3 4 5 6 7 “翻訳の誤りとは ~4つの分類とチェック”. 川村インターナショナル. 2020年10月4日閲覧。
- ↑ 末次賢治 (2004年9月13日). “戦争を終わらせた誤訳(抜粋)”. 楽天. 2020年10月4日閲覧。
- ↑ “日米和親条約の誤訳が歴史を動かした?”. Crimson Interactive Japan Co., Ltd. (2019年3月14日). 2020年10月4日閲覧。
- ↑ 堀田都茂樹 (2019年7月23日). “意図した誤訳- 一語の誤訳が世界を変える”. Babel Corporation. 2020年10月4日閲覧。
- ↑ 中原道喜「はしがき」『誤訳の典型』聖文新社、2010年。「翻訳の過程は,おおまかに“ 解釈 ”と“ 表現 ”という二つの部分に分けられるが,“ 表現 ”(または“ 訳し方 ”)の適否や巧拙がかかわるのは「悪訳」であって,「誤訳」ははっきりとした“ 解釈 ”の誤りに由来するものである.」 版元ドットコム
- ↑
『出エジプト記(口語訳)』。ウィキソースより閲覧。「モーセはそのあかしの板二枚を手にして、シナイ山から下ったが、その山を下ったとき、モーセは、さきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。」 - 1 2 “モーセの頭に2本の角が生えた彫像がありますが、これはどういうことを意味していますか。” (PDF). 日本基督教団西神戸教会. 2020年10月4日閲覧。
- ↑ 河村幹夫『ドイルとホームズを「探偵」する』日経プレミアシリーズ、2009年、80-81頁
- ↑ “翻訳・通訳は文化理解が命!”. エナゴ学術英語アカデミー. 2026年10月22日閲覧。
- ↑ “Lost in Translation, Lost in Peace: Khrushchev’s Phrase and Its Cold War Legacy”. TRANS LATION NATION. 2026年10月22日閲覧。
- ↑ “清華歷史教授不識蔣介石 著作翻譯出錯 蔣介石變「常凱申」”. 雅虎香港新聞 (2009年6月11日). 2009年6月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年8月29日閲覧。
- ↑ 李雲漢. “〈蔣中正先生與台灣〉”. 《近代中國》第109期,1995年10月.
- ↑ 吴越 (2009年7月2日). “蒋介石译成“常凯申” 出版社停止发行并道歉”. 文匯報. 中国新聞網. 2010年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2009年7月19日閲覧.
- ↑ MKIceAndFire (2016-10-04), CALL OF DUTY MODERN WARFARE REMASTERED Gameplay Walkthrough Part 1 [1080p HD 60FPS - No Commentary], オリジナルの2020-07-04時点におけるアーカイブ。 2018年9月6日閲覧。
- ↑ “米フェイスブック、習近平国家主席の名前誤訳を謝罪”. ロイター. 2026年10月22日閲覧。
- ↑ “Facebook apologises for rude mistranslation of Xi Jinping’s name”. ALJAZEERA(アルジャジーラ). 2026年10月22日閲覧。
- ↑ 大西菜奈美、山田優、藤田篤、影浦峡「翻訳学習者が誤訳をする理由 MNH-TT の校閲カテゴリ「X3」から見る学習者の訳出プロセスと学習効果」(PDF)『通訳翻訳研究への招待』第18号、2017年、88-106頁、2020年10月14日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 『誤訳の構造』を読む 第1回 - 柴田耕太郎による中原道喜『誤訳の構造』の紹介