謝琰
| 謝琰 | |
|---|---|
| 東晋 衛将軍・会稽内史・都督五郡軍事 | |
| 出生 |
生年不詳 豫州陳郡陽夏県 |
| 死去 |
隆安4年5月30日(400年7月7日) 揚州会稽郡千秋亭 |
| 拼音 | Xiè Yǎn |
| 字 | 瑗度 |
| 諡号 | 忠粛 |
| 別名 | 末婢(小字) |
| 主君 | 孝武帝 → 安帝 |
| 氏族 | 陳郡謝氏 |
謝 琰(しゃ えん、生年不詳 - 隆安4年5月30日(400年7月7日[1][2]))は、中国東晋の武将。字は瑗度(えんたく)、小字は末婢(ばつひ)。陽夏(現在の河南省太康県[3])の人。謝纘の玄孫、謝衡の曽孫、謝裒の孫、謝安の次子で、謝肇・謝峻・謝混の父。伯父に謝奕ら、叔父に謝石ら、従兄に謝玄ら、従姉に謝道韞ら、従弟に謝邈ら、従妹に謝氏(王珣の妻)らがそれぞれ居る。
孝武帝・安帝の二代に仕え、淝水の戦いにおいて叔父の謝石を補佐し前秦の苻堅の大軍を破る軍功を挙げたが、孫恩の乱で戦死を遂げた。
生涯
弱冠(二十歳)の頃には既にその貞潔なることと優れた器量をもって名声があり、風采も美しかったという。従兄の護軍将軍謝淡は隣人であったが往来せず、一族の中でも特に優れた才徳を備えると見た数人を選んで交際した[4]。
官ははじめ著作郎、のち秘書丞に転じ、やがて散騎常侍・侍中と累進した[5]。
洛澗の戦い
太元8年(383年)、華北を統一した前秦の苻堅が王猛の遺命と群臣の反対とに背いて大軍を南下させると、父の謝安に見込まれて輔国将軍となり、八千の精兵を統率して迎撃に当たるよう命ぜられた[6]。
同年10月18日(383年11月28日)[2]、前秦の苻融が寿陽(県名、并州楽平郡[7])を陥落させ、東晋の平虜将軍徐元喜らを虜として前秦の参軍郭褒を淮南太守に任じ、これと同時期に前秦の慕容垂(のちに後燕の成武帝)が鄖城を攻略した。東晋の竜驤将軍胡彬は寿陽への援軍として水軍五千を統率していたが、寿陽が陥落したと知るや硤石に駐屯した。謝琰は謝石に従って洛澗から二十五里離れた地点に布陣したものの、前秦の衛将軍梁成が五万の兵をもって晋軍と対峙し、淮水に柵を設けてこれを牽制していたため、謝琰らは進軍を阻まれた[8][9]。
他方、胡彬は兵糧が尽き、密使を派遣して謝琰らの部隊に「今、賊(前秦)は盛んで、我が軍の兵糧は尽きました。もはや大軍にお目にかかることはできないかもしれません」と伝えんとしたが、密使は前秦の斥候のため拘束され、苻融のもとへ送られた。苻融は胡彬の文書を読むや直ちに使者を走らせ、苻堅に「敵は少なく虜にしやすい状態ですが、ただ逃げ去られることだけが気掛かりです。速やかにお越しください」と上奏した。このため苻堅は謝琰らを親征すべく、大軍を項(県名、豫州梁郡[7])に留め、軽騎兵八千を率いて昼夜兼行で寿陽へと疾走した。加えて、尚書の朱序を謝琰らのもとへ降伏勧告の使者として赴かせた[10]。
しかし朱序が謝琰らのもとに到着するや、朱序は密かに「若し前秦の百万の軍勢がすべて到着してしまえば、これに対抗するのは困難を極めます。今、諸軍が集結していないことに乗じて急襲を敢行すべきです。斯くしてその先鋒を破れば、彼らの気勢を削ぐことができ、そのまま打ち破ることができるでしょう」と説いた。謝石は苻堅自らが寿陽に駐屯していることを恐れ、戦わずして秦軍を疲弊させる策を採らんとしたが、謝琰は朱序の助言に従うよう謝石を諫止した[11]。
11月、謝玄は広陵相劉牢之に精兵五千を率いさせて洛澗へ派遣した。劉牢之は洛澗の手前十里のところで、梁成が背水の陣を敷いて迎撃態勢を整えているのを確認したため、川を渡るまで軍を直進させて梁成と戦い、梁成および弋陽太守王詠を斬った。更に兵を分散させて彼らの退路を断ち、揚州刺史王顕を捕縛して兵器や軍需を鹵獲した。ここに至って謝琰らは水陸両軍を動かし、苻堅に「これもまた強敵ではないか。誰が弱いなどと言ったのだ!」と言わしめた。その実、苻堅と苻融は寿陽の城壁に登って晋軍を望見し、軍陣の厳整なることと、寿陽を囲む八公山の草木までをも晋軍の兵だと錯覚したためであった[12]。
淝水の戦い
前秦の軍勢は淝水に逃れてその岸に布陣し、晋軍の渡河を警戒した。謝玄は苻融に使者を派遣して「貴殿は軍を遥か深くに進めながら、水際に迫って陣を敷いておられる。これは長期戦の構えであり、速戦即決を望む者の為すことではない。陣を少し退け、晋軍に川を渡らせ、雌雄を決しようではないか。それもまた良いことではないか」と伝えた。前秦の諸将は皆「晋軍にとって我が軍とは多勢に無勢、川岸で渡河を阻み、上陸させぬのが万全の策です」と述べた。しかし苻堅は「兵を少しだけ後退させ、敵が半分ほど渡河したところで我が軍の鉄騎に蹂躙させれば勝てぬはずがない」と言い、苻融もまたこれに同調して、遂には旗を振って兵を後退させた[13]。
ところが前秦の兵は一度退くと混乱して止まろうとしなかった。秦軍が後退を始めた直後、陣の後方で待機していた朱序が「秦は敗れたぞ!」と叫んだためである。これを機を見た謝玄は謝琰・桓伊らを伴って淝水を渡河し、混乱する秦軍を攻撃した。苻融は馬を駆って陣中を駆け巡り、退却を続ける者を呼び戻そうとしたが、馬が転倒したところを晋軍に殺された。急襲の成功に乗じた謝玄らは逃げる秦軍を追って青岡に至り、朱序は徐元喜・張天錫(のちに前涼の悼公)らと共に東晋へ亡命した。前秦の兵は互いに踏みつけ合って殺し合い、その死体は野を覆い川を塞いだ。命辛々生き延びた者たちも、風声鶴唳を聞くたびに晋軍の追撃かと恐れて多くの犠牲者を出した。苻堅が乗っていた雲母車や儀礼に用いる衣服・兵器・軍資金・珍宝・家畜などは数え切れないほどに鹵獲された。東晋の別動隊は寿陽を奪還すべくこれを攻撃し、淮南太守郭褒を虜として寿陽の攻略に成功した[14]。
戦後、謝琰は軍功により望蔡公の爵位を得たものの、程無くして父の謝安が死んだため職を辞した。服喪を全うすると征虜将軍・会稽内史、のち尚書右僕射・太子詹事に任ぜられ、散騎常侍を加えられたが、今度は母が死んだため又もや服喪に追われた[6]。その葬礼については朝廷で議論が起こり、「潘岳が賈充の妻のために作った『宜城宣君誄』には、『昔、武侯の時には葬礼が特別に厚く行われた。伉儷(夫婦)とは一体であり、朝廷の礼も同等である』とある。ゆえに葬儀の費用を支給し、全て謝太傅(謝安)の前例に従うべきだ」とされた[15]。
しかし僕射の王珣はかつての私怨から葬儀を意図的に遅延させた。これは王珣は謝万の娘を娶り、その弟の王瑉は謝安の娘を娶っていたものの、いずれも添い遂げず、それが両家の間に軋轢が生じさせていたためである。謝琰はこれを恥とし、自ら轀輬車を作って葬儀を遂行した[16]。当時の中国における「轀輬車」(おんりょうしゃ[17])とは、主として皇帝の葬儀に用いられた霊柩車を指し、臣下が用いるのは基本的に皇帝が下賜した場合に限る[18]。すなわち、謝琰は世間から批難を浴びることをも恐れず、父の葬儀に倣って母の轀輬車を用意していたものと推定され、この故事は当時の中国において霊柩車(轀輬車)が最も重視された葬儀の一環であったことを示すものとされる[18]。
王恭の乱
太元年間(376年 - 396年)の末には護軍将軍に任ぜられ、右将軍を加えられた。のち、会稽王司馬道子のため右将軍司馬に転じた[19]。
太元21年9月20日(396年11月6日)[2][20]、孝武帝が崩ずると、司馬道子が執政するに及んで政務を委ねられた寵臣王国宝を除くという名目で王恭が桓玄(のちに桓楚の武悼帝)らと結んで挙兵した。司馬道子はこれを知るや直ちに王国宝を誅殺し自らの過失を謝罪したため王恭は兵を退け、突如の蜂起中止に怒って挙兵を敢行した王廞は王恭の命を得た輔国将軍劉牢之に討たれた[21]。時に、譙王司馬尚之は司馬道子に「地方の藩伯(諸侯[22])が強大で、宰相の権力が弱い。勢力を樹置(扶植[23])して自衛すべきだ」と進言した。司馬道子はこれに従い、庾楷(東晋の征西将軍庾亮の孫[24])の豫州四郡を削って自身の司馬である王愉を江州刺史に任じた。このため庾楷は怒り、王恭に子の庾鴻を介して「(司馬)尚之兄弟は朝権を専弄(独占[25])し、藩伯を貶削(削減[26][27])せんとしている。事を懲警(警戒[28])し、今のうちに動くべきだ」と説いた。王恭はこれに同意し、再び殷仲堪・桓玄と結んで蜂起を決めた[29]。
しかし朝廷の内外は疑沮[30][31]の態勢にあったため、殷仲堪の密書は庾楷を通じて絹に記され、矢の筒に入れられて王恭のもとへ届けられた。ところが王恭はその筒を開封するや、歪んだ絹の文字を読めず、庾楷の偽書と思い込んだ。またかつて殷仲堪が盟約を反故にしたことがあったため彼を猜疑し、今回は動かぬだろうと判断、予定よりも早くに挙兵した。これを知るや、劉牢之は「将軍は外戚として重きを成し、忠貞の節を守っておられます。相王(司馬道子)もまた姫旦(周公旦)のように尊ばれ、昨年既に王国宝らを戮し、王廞も深く屈服した書簡を送ってきたではありませんか。この頃の人事も適正ではなかったでしょうが、大いなる過失があった訳でもないでしょう。庾楷の管轄していた四郡を王愉に配したとて、将軍(王恭)に何の損があるのでしょうか。晋陽の師[注釈 1]を繰り返しても良いのでしょうか」と諫言したが、王恭は従わなかった[33]。
隆安2年9月2日(398年9月28日)[2]、安帝は司馬道子に太傅を加えると共に、右将軍謝琰・会稽王世子司馬元顕・前将軍王珣らに王恭の討伐を命じた。同年9月10日(398年10月6日)には謝琰ら官軍は牛渚(現・安徽省馬鞍山市当塗県[34])で庾楷を破った。9月17日(398年10月13日)、司馬道子は自ら中堂に駐屯し、司馬元顕は石頭に鎮戍、その三日後となる9月20日(398年10月16日)になって王珣は北郊、謝琰は宣陽(門名、司州河南郡洛陽県[7])にそれぞれ鎮戍した[35]。この頃、王恭は劉牢之が自分の席に座る夢を見、翌朝「成功すれば、お前を北府の主にしよう」[注釈 2]と語って竹裏へ劉牢之と帳下都督顔延を派遣し拠らせたが、司馬元顕が大金をもって劉牢之を煽動し、顔延を斬って官軍に降伏させた。劉牢之は同日のうちに女婿の高雅之と子の劉敬宣とを遣わして王恭の軍を偵察させると、新亭に進駐し、反軍を軽騎で急襲した。王恭は敗れて帰還を図ったが、高雅之が既に城門を閉ざしていたため、弟の王履とともに単騎で逃走した[37]。
王恭は久しく騎乗しておらず、髀肉に瘡(そう[注釈 3])を患ったこともあって遠くには逃げられなかった。曲阿(県名、揚州毗陵郡[39])の長塘湖へ逃れたとき、かつての参軍殷確と遭遇した。彼は王恭らを船に乗せて葦で作った席の下に隠し、桓玄のもとへ逃がそうとしたが、一行は道中で商人の銭強に遭遇した。銭強は殷確に対して宿怨を抱えており、ゆえに殷確が王恭らを匿っている旨を湖浦尉に密告、王恭は捕らえられて京師(すなわち建康)へ押送された。その到着前、司馬道子は「面会して恥を搔かせてやろう」と考えるのみであったが、桓玄らが石頭に進軍してくるや変事を恐れ、倪塘に至って王恭を斬った。王恭の五人の子、四弟の王爽、甥(王恭の長兄王華の子)の秘書郎王和、及びその党与である孟璞・張恪らは皆殺しにされた。直後、朝廷は太常の殷茂を派遣、桓玄および殷仲堪を諭したため、桓玄らは尋陽へ逃走した[40][41]。
孫恩の乱
隆安3年11月2日(399年12月15日)[2]、孫恩が五斗米道の信徒を糾合して蜂起、王凝之(王羲之の子、謝琰の従姉謝道韞の夫)を殺して会稽を陥れ、呉興太守謝邈(謝琰の従弟)・永嘉太守司馬逸らをも殺害すると、謝琰は都督呉興義興二郡軍事に任ぜられ、孫恩の討伐を命ぜられた[43][44]。
まず義興に至って反軍の領袖許允之を斬殺、太守の魏鄢[注釈 4]を郡へ帰還させると共に、呉興に疾走して丘尪を討った。直後、勅命のため劉牢之と協力して孫恩を海島に敗走させ、これを憂慮した朝廷より会稽内史・都督五郡軍事を拝命[注釈 5]、本官は据え置きとされた[47]。
謝琰はその資望をもって越(現・浙江省[48])の地を鎮撫したため、世の論者はみな「もはや東方を憂える必要はない」と考えたという。しかし、謝琰は郡に赴任しても慰撫の才を示さず、疎か軍備をも怠った。麾下の将は「強賊は海に在り、こちらの隙を窺っております。どうか仁徳を広め、彼らを改心(帰順)させる道を開いてください」と諫めたが、謝琰は「苻堅は百万の兵を率いていながら、なお淮南で葬送を遂げられた。況して孫恩のような敗残の賊が海へ逃げ帰ったところで、如何して再び出て来られようか。よしんば本当に来襲するとしても、それは天が国賊を養わず、早く就戮(殺害[49])せんとしているだけだ」として諫言を撥ね除けた[50]。
果たして孫恩は浹口に侵攻し、余姚(県名、揚州会稽郡[39])・上虞(県名、揚州会稽郡[39])を経て山陰(県名、揚州会稽郡[39])の北三十五里に位置する邢浦に軍を進めた。ここに至って謝琰は参軍劉宣之を派遣、反軍を撃退したが、まもなく上党太守張虔碩が敗れ、これにより反軍は昂揚して鋭進し、人々は震駭した。官軍の者は皆、「今は慎重に堅守すべきであり、南湖に水軍を並べ、伏兵を設けて敵を待つべきだ」と進言したが、謝琰は聞き入れなかった[51]。
孫恩率いる反軍が謝琰率いる官軍のもとへ到着した時、将兵はまだ食事も摂っていなかったが、謝琰は「まずこの賊を滅ぼしてからで良い」と言い、馬に跨って出陣した。広武将軍桓宝が先鋒を務め、陥陣[52]して多くの反軍を斬殺したが、堤の道は狭く、魚貫の隊列で行軍していた謝琰はその前後を反軍に断絶されると共に、船中から軍の側面を射撃され、ついに千秋亭で敗北を喫した。あまつさえ、謝琰は反軍の帳下都督張猛に背後から馬を斬り付けられたため落馬し、長子の驃騎参軍謝肇・次子の建昌侯謝峻ともども戦死し、桓宝もまた反軍に討たれた。のち劉裕(のちに南朝宋の武帝)が左裏で反軍に勝利した際、謝琰らを殺した張猛を虜として謝琰の末子謝混のもとへ送った。謝混は張猛の肝臓を抉り出し、そのまま彼を踊り食ったという[53]。
朝廷は詔して「謝琰の父子は君主と父母への忠孝のために命を落とし、忠と孝とは一門に集まっていた」と称し、謝琰に侍中・司空を追贈、忠粛と諡した。謝琰は謝肇・謝峻・謝混の三子を儲けており、そのうち年長の二人が反軍に殺されると、詔によって謝肇に散騎常侍、謝峻に散騎侍郎がそれぞれ追贈された。末子の謝混は官を尚書左僕射に進めたが、劉裕の政敵劉毅に左袒したことが仇となり、劉裕が劉毅の一派を掃蕩するに及んで死を賜った[54]。
脚注
注釈
出典
- ↑ 『晉書』「安帝紀」:(隆安四年)五月丙寅,散騎常侍、衛將軍、東亭侯王珣卒。己卯,會稽內史謝琰爲孫恩所敗,死之。恩轉寇臨海。
- 1 2 3 4 5 西暦・旧暦への変換は兩千年中西曆轉換による。
- ↑ 川勝義雄 / 改訂新版 世界大百科事典『「謝安」の意味・わかりやすい解説』平凡社、コトバンク。2026年5月12日閲覧。
- ↑ 『晉書』「謝琰傳」:(謝)琰字瑗度。弱冠以貞幹稱,美風姿。與從兄護軍淡雖比居,不往來,宗中子弟惟與才令者數人相接。
- ↑ 『晉書』「謝琰傳」:拜著作郎,轉秘書丞,累遷散騎常侍、侍中。
- 1 2 『晉書』「謝琰傳」:苻堅之役,安以琰有軍國才用,出為輔國將軍,以精卒八千,與從兄玄俱陷陣破堅,以勳封望蔡公,尋遭父憂去官,服闋,除征虜將軍、會稽內史。頃之。徵為尚書右僕射,領太子詹事,加散騎常侍,將軍如故。
- 1 2 3 『晉書』「地理志・上」
- ↑ 『資治通鑑』「晉紀二十七」:詔以尚書僕射謝石為征虜將軍、征討大都督,以徐、兗二州刺史謝玄為前鋒都督,與輔國將軍謝琰、西中郎將桓伊等眾共八萬拒之;使龍驤將軍胡彬以水軍五千援壽陽。琰,安之子也。
- ↑ 『資治通鑑』「晉紀二十七」:冬,十月,秦陽平公融等攻壽陽;癸酉,克之,執平虜將軍徐元喜等。融以其參軍河南郭褒為淮南太守。慕容垂拔鄖城。胡彬聞壽陽陷,退保硤石,融進攻之。秦衛將軍梁成等帥眾五萬屯於洛澗,柵淮以遏東兵。謝石、謝玄等去洛澗二十五里而軍,憚成,不敢進。
- ↑ 『資治通鑑』「晉紀二十七」:胡彬糧盡,潛遣使告石等曰:「今賊盛,糧盡,恐不復見大軍!」秦人獲之,送於陽平公融。融馳使白秦王堅曰:「賊少易擒,但恐逃去,宜速赴之!」堅乃留大軍於項城,引輕騎八千,兼道就融於壽陽。遣尚書朱序來說謝石等以「強弱異勢,不如速降。」
- ↑ 『資治通鑑』「晉紀二十七」:序私謂石等曰:「若秦百萬之眾盡至,誠難與為敵。今乘諸軍未集,宜速擊之;若敗其前鋒,則彼已奪氣,可遂破也。」石聞堅在壽陽,甚懼,欲不戰以老秦師。謝琰勸石從序言。
- ↑ 『資治通鑑』「晉紀二十七」:十一月,謝玄遣廣陵相劉牢之帥精兵五千人趣洛澗,未至十里,梁成阻澗為陳以待之。牢之直前渡水,擊成,大破之,斬成及弋陽太守王詠,又分兵斷其歸津,秦步騎崩潰,爭赴淮水,士卒死者萬五千人。執秦揚州刺史王顯等,盡收其器械軍實。於是謝石等諸軍水陸繼進。秦王堅與陽平公融登壽陽城望之。見晉兵部陣嚴整,又望見八公山上草木,皆以為晉兵,顧謂融曰:「此亦勁敵,何謂弱也!」憮然始有懼色。
- ↑ 『資治通鑑』「晉紀二十七」:秦兵逼肥水而陳,晉兵不得渡。謝玄遣使謂陽平公融曰:「君懸軍深入,而置陳逼水,此乃持久之計,非欲速戰者也。若移陳小卻,使晉兵得渡,以決勝負,不亦善乎!」秦諸將皆曰:「我眾彼寡,不如遏之,使不得上,可以萬全。」堅曰:「但引兵少卻,使之半渡,我以鐵騎蹙而殺之,蔑不勝矣!」融亦以為然,遂麾兵使卻。
- ↑ 『資治通鑑』「晉紀二十七」:秦兵遂退,不可復止,謝玄、謝琰、桓伊等引兵渡水擊之。融馳騎略陳,欲以帥退者,馬倒,為晉兵所殺,秦兵遂潰。玄等乘勝追擊,至於青岡。秦兵大敗,自相蹈藉而死者,蔽野塞川。其走者聞風聲鶴唳,皆以為晉兵且至,晝夜不敢息,草行露宿,重以饑凍,死者什七、八。初,秦兵小卻,朱序在陳後呼曰:「秦兵敗矣!」眾遂大奔。序因與張天錫、徐元喜皆來奔。獲秦王堅所乘雲母車及儀服器械、軍資珍寶畜產不可勝計,復取壽陽,執其淮南太守郭褒。
- ↑ 『晉書』「謝琰傳」:又遭母憂,朝廷疑其葬禮。時議者云:「潘岳為賈充婦《宜城宣君誄》云:'昔在武侯,喪禮殊倫。伉儷一體,朝儀則均。'謂宜資給葬,悉依太傅故事。」
- ↑ 『晉書』「謝琰傳」:先是,王珣娶萬女,珣弟瑉娶安女,並不終,由是與謝氏有隙。珣時為僕射,猶以前憾緩其事。琰聞恥之,遂自造轀輬車以葬,議者譏之。
- ↑ 吉村怜 / 日本大百科全書(ニッポニカ)『「金縷玉衣」の意味・わかりやすい解説』小学館、コトバンク。2026年5月12日閲覧。
- 1 2 劉可維『中国古代賵賻制度研究』九州大学、2014年。2026年5月14日閲覧。
- ↑ 『晉書』「謝琰傳」:太元末,為護軍將軍,加右將軍。會稽王道子以為司馬,右將軍如故。
- ↑ 『晉書』「孝武帝紀」:六月,呂光僭卽天王位。秋九月庚申,帝崩于清暑殿,時年三十五。葬隆平陵。
- ↑ 『晉書』「王恭傳」:及帝崩,會稽王道子執政,寵昵王國寶,委以機權。恭每正色直言,道子深憚而忿之。<中略>以恭為安北將軍,不拜。乃謀誅國寶,遣使與殷仲堪、桓玄相結,仲堪偽許之。恭得書,大喜,乃抗表京師曰:「後將軍國寶得以姻戚頻登顯列,不能感恩效力,以報時施,而專寵肆威,將危社稷。先帝登遐,夜乃犯闔叩扉,欲矯遺詔。賴皇太后聰明,相王神武,故逆謀不果。又割東宮見兵以為己府,讒疾二昆甚於仇敵。與其從弟緒同黨凶狡,共相扇動。此不忠不義之明白也。以臣忠誠,必亡身殉國,是以譖臣非一。賴先帝明鑒,浸潤不行。昔趙鞅興甲,誅君側之惡,臣雖駑劣,敢忘斯義!」表至,內外戒嚴。國寶及緒惶懼不知所為,用王珣計,請解職。道子收國寶,賜死,斬緒於市,深謝愆失,恭乃還京口。恭之初抗表也,慮事不捷,乃版前司徒左長史王廞為吳國內史,令起兵於東。會國寶死,令廞解軍去職。廞怒,以兵伐恭。恭遣劉牢之擊滅之,上疏自貶,詔不許。
- ↑ 白川静 / 普及版 字通『「藩伯」の読み・字形・画数・意味』平凡社、コトバンク。2026年5月19日閲覧。
- ↑ 白川静 / 普及版 字通『「樹置」の読み・字形・画数・意味』平凡社、コトバンク。2026年5月19日閲覧。
- ↑ 『晉書』「庾楷傳」:庾楷,征西將軍亮之孫,會稽內史羲小子也。
- ↑ 白川静 / 普及版 字通『「専弄」の読み・字形・画数・意味』平凡社、コトバンク。2026年5月19日閲覧。
- ↑ 白川静 / 普及版 字通『「貶削」の読み・字形・画数・意味』平凡社、コトバンク。2026年5月19日閲覧。
- ↑ 白川静 / 普及版 字通『「貶殺」の読み・字形・画数・意味』平凡社、コトバンク。2026年5月19日閲覧。
- ↑ 白川静 / 普及版 字通『「懲警」の読み・字形・画数・意味』平凡社、コトバンク。2026年5月19日閲覧。
- ↑ 『晉書』「王恭傳」:譙王尚之復說道子以籓伯強盛,宰相權弱,宜多樹置以自衛。道子然之,乃以其司馬王愉為江州刺史,割庾楷豫州四郡使愉督之。由是楷怒,遣子鴻說恭曰:「尚之兄弟專弄相權,欲假朝威貶削方鎮,懲警前事,勢轉難測。及其議未成,宜早圖之。」恭以為然,復以謀告殷仲堪、桓玄。玄等從之,推恭為盟主,克期同赴京師。
- ↑ 白川静 / 普及版 字通『「疑阻」の読み・字形・画数・意味』平凡社、コトバンク。2026年5月19日閲覧。
- ↑ 白川静 / 普及版 字通『「疑沮」の読み・字形・画数・意味』平凡社、コトバンク。2026年5月19日閲覧。
- ↑ “師 | 漢字一字”. 漢字ペディア. 日本漢字能力検定協会. 2026年5月20日閲覧。
- ↑ 『晉書』「王恭傳」:時內外疑阻,津邏嚴急,仲堪之信因庾楷達之,以斜絹為書,內箭稈中,合鏑漆之,楷送於恭。恭發書,絹文角戾,不復可識,謂楷為詐。又料仲堪去年已不赴盟,今無動理,乃先期舉兵。司馬劉牢之諫曰:「將軍今動以伯舅之重,執忠貞之節,相王以姬旦之尊,時望所系,昔年已戮寶、緒,送王廞書,是深伏將軍也。頃所授用,雖非皆允,未為大失。割庾楷四郡以配王愉,于將軍何損!晉陽之師,其可再乎!」恭不從,乃上表以封王愉、司馬尚之兄弟為辭。
- ↑ 精選版 日本国語大辞典『「牛渚」の意味・読み・例文・類語』。2026年5月19日閲覧。
- ↑ 『晉書』「安帝紀」:九月辛卯,加太傅、會稽王道子黃鉞。遣征虜將軍會稽王世子元顯、前將軍王珣、右將軍謝琰討桓玄等。己亥,破庾楷于牛渚。丙午,會稽王道子屯中堂,元顯守石頭。己酉,前將軍王珣守北郊,右將軍謝琰備宣陽門。
- ↑ 吉川忠夫 / 改訂新版 世界大百科事典『「晋」の意味・わかりやすい解説』平凡社、コトバンク。2026年5月19日閲覧。
- ↑ 『晉書』「王恭傳」:恭夢牢之坐其處,旦謂牢之曰:「事克,即以卿為北府。」遣牢之率帳下督顏延先據竹裏。元顯使說牢之,啖以重利,牢之乃斬顏延以降。是日,牢之遣其婿高雅之、子敬宣,因恭曜軍。輕騎擊恭。恭敗,將還,雅之已閉城門,恭遂與弟履單騎奔曲阿。
- ↑ 精選版 日本国語大辞典『「瘡」の意味・読み・例文・類語』コトバンク。2026年5月19日閲覧。
- 1 2 3 4 『晉書』「地理志・下」
- ↑ 『晉書』「王恭傳」:恭久不騎乘,髀生瘡,不復能去。曲阿人殷確,恭故參軍也,以船載之,藏於葦席之下,將奔桓玄。至長塘湖,遇商人錢強。強宿憾於確,以告湖浦尉。尉收之,以送京師。道子聞其將至,欲出與語,面折之,而未之殺也。時桓玄等已至石頭,懼其有變,即于建康之倪塘斬之。恭五男及弟爽、爽兄子秘書郎和及其党孟璞、張恪等皆殺之。
- ↑ 『晉書』「安帝紀」:輔國將軍劉牢之次新亭,使子敬宣擊敗恭,恭奔曲阿長塘湖,湖尉收送京師,斬之。於是遣太常殷茂喻仲堪及玄,玄等走于尋陽。
- ↑ 『晉書』「謝琰傳」:王恭舉兵,假琰節,都督前鋒軍事。恭平,遷衛將軍、徐州刺史、假節。
- ↑ 『晉書』「安帝紀」:(隆安三年)十一月甲寅,妖賊孫恩陷會稽,內史王凝之死之,吳國內史桓謙、臨海太守新蔡王崇、義興太守魏隱並委官而遁,吳興太守謝邈、永嘉太守司馬逸皆遇害。遣衛將軍謝琰、輔國將軍劉牢之逆擊,走之。
- ↑ 『晉書』「謝琰傳」:孫恩作亂,加督吳興、義興二郡軍事,討恩。
- ↑ 『資治通鑑』「晉紀三十三」:吳國內史桓謙、臨海太守新秦王崇、義興太守魏隱皆棄郡走。
- ↑ 『資治通鑑』「晉紀三十三」:東土遭亂,企望官軍之至,既而牢之等縱軍士暴掠,士民失望,郡縣城中無復人跡,月餘乃稍有還者。朝廷憂恩復至,以謝琰為會稽太守、都督五郡軍事,帥徐州文武戍海浦。
- ↑ 『晉書』「謝琰傳」:至義興,斬賊許允之,迎太守魏鄢還郡。進討吳興賊丘尪,破之。又詔琰與輔國將軍劉牢之俱討孫恩。恩逃於海島,朝廷憂之,以琰為會稽內史、都督五郡軍事,本官並如故。
- ↑ デジタル大辞泉『「越」の意味・読み・例文・類語』小学館、コトバンク。2026年5月20日閲覧。
- ↑ 白川静 / 普及版 字通『「就戮」の読み・字形・画数・意味』平凡社、コトバンク。2026年5月20日閲覧。
- ↑ 『晉書』「謝琰傳」:琰既以資望鎮越土,議者謂無復東顧之虞。及至郡,無綏撫之能,而不為武備。將帥皆諫曰:「強賊在海,伺人形便,宜振揚仁風,開其自新之路。」琰曰:「苻堅百萬,尚送死淮南,況孫恩奔衄歸海,何能復出!若其復至,正是天不養國賊,令速就戮耳。」遂不從其言。
- ↑ 『晉書』「謝琰傳」:恩後果復寇浹口,入余姚,破上虞,進及邢浦,去山陰北三十五里。琰遣參軍劉宣之距破恩。既而上党太守張虔碩戰敗,群賊銳進,人情震駭,咸以宜持重嚴備,且列水軍于南湖,分兵設伏以待之。琰不聽。
- ↑ 白川静 / 普及版 字通『「陥陣」の読み・字形・画数・意味』平凡社、コトバンク。2026年5月20日閲覧。
- ↑ 『晉書』「謝琰傳」:賊既至,尚未食,琰曰:「要當先滅此寇而後食也。」跨馬而出。廣武將軍桓寶為前鋒,摧鋒陷陣,殺賊甚多,而塘路迮狹,琰軍魚貫而前,賊於艦中傍射之,前後斷絕。琰至千秋亭,敗績。琰帳下都督張猛于後斫琰馬,琰墮地,與二子肇、峻俱被害,寶亦死之。後劉裕左裏之捷,生擒猛,送琰小子混,混刳肝生食之。
- ↑ 『晉書』「謝琰傳」:詔以琰父子隕于君親,忠孝萃於一門,贈琰侍中、司空,諡曰忠肅。三子:肇、峻、混。肇曆驃騎參軍,峻以琰勳封建昌侯。及沒於賊,詔贈肇散騎常侍,峻散騎侍郎。