謝道韞
| 謝道韞 | |
|---|---|
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| 東晋 詩人 | |
| 出生 |
生年不詳 豫州陳郡陽夏県 |
| 死去 | 没年不詳 |
| 拼音 | Xiè Dào-yùn |
| 字 | 道韞(『晋書』) |
謝 道韞(しゃ どううん[1]、生没年不詳)は、中国東晋の女流詩人・文学者。陽夏(現在の河南省太康県[2])を本貫とする陳郡謝氏の出自。謝奕の子で、王凝之の妻。兄弟に謝玄ら、従弟に謝琰ら、叔父に謝安・謝石ら、義父に王羲之がそれぞれ居る。
才女として知られ、「柳絮の才」(「詠雪の才」とも)・「閨秀」などの故事を今日に遺した。
姓名について
『晋書』における表記は「謝道韞」で「道韞」は字とされるが[3]、『世説新語』の註が引く『婦人集』においては「謝道蘊」と記され、そこで「道蘊」は名とされる[4]。本項では正史における表記を尊重し、「謝道韞」を記事名および本文に用いる表記とする。
生涯
聡明で見識があり、才知と弁舌に優れていたとされる。叔父の謝安に「『毛詩』の中でどの句が最もよいか」と問われたとき、謝道韞は「『吉甫作頌、穆如清風。仲山甫永懷、以慰其心』です」と答えたため、謝安は雅人の深い趣があると評した[5]。
隆安3年(399年)、夫の王凝之は天師道(五斗米道)を信奉するあまり、孫恩の乱の渦中で会稽を失陥すると、謝道韞を顧みず、子を連れて脱走せんとしたが、城外で反軍に捕らわれ子ともども殺された。謝道韞はこの報せを聞くや、直ちに婢女に命じて輿に乗せさせ、自ら刀を携帯して門外に出陣、反軍と戦って数人を斬り殺したが、力量の差は如何ともできず、終には反軍に捕らえられた。孫恩は謝道韞の外孫にあたる幼い劉濤を殺そうとしたが、謝道韞は「これは王家のことに関わることであり、他の家には関係がない。もしどうしてもと言うならば、先ず私を殺しなさい」と述べた。残虐として知られた孫恩も、その言葉を聞くや顔色を改め、のち両者を釈放した[6][7]。
斯くして謝道韞は会稽に寡居し、家中は皆厳粛であったという。その名声を聞いた太守の劉柳(前漢の第六代景帝、及び三国魏の侍中劉廙の後裔)が、面会して談論したいと願うと、謝道韞も予てより劉柳の名を存じていたためこれを許し、髪を簪で束ね、質素な敷物に座して帳の内で待った。やがて劉柳が到着すると、彼は礼を整え、帯を正して座席に歩んだ。謝道韞の風采は高く優雅で、話し振りは清らかで上品であったといい、劉柳が先ず戦禍に遭った彼女の家族のことに言及すると、謝道韞は初め感慨を覚えて涙を流したが、その後は落ち着いて質問に応じ、言論も道理も滞ることがなかった。このため劉柳は退きながらも感嘆して、「これほどの人物はこれまで見たことがない。その言動を具に観察すると、人は心身ともに服してしまうだろう」と言った。これに対し謝道韞は、「親族を次々と失った後に、漸くこのような人物に出会えた。その問答を聴けば、心は大いに開くだろう」と答えた[8]。
なお、同郡出身の張玄之の妹もまた才気があり、顧氏に嫁いでいた。張玄之はしばしばこれを称えて、謝道韞に比肩し得るものとした。また、世の人が済尼という張氏・謝氏の両家をよく往来していた人物に両者の評価を問うたところ、「王夫人(謝道韞)は精神が伸びやかで明るく、林下の風趣がある。顧家の婦人は心が澄み、玉のように映える、まさに閨房の秀でた女性である。」と答えた[9][10]。この「閨房の秀でる」という表現は、のち「閨秀」の形に転じ、特に「学問や芸術に優れた才女」、あるいは「女流」の意を持つ語になった[11][12]。
逸話
柳絮の才
ある寒い日、謝安は屋内で一族を集め、文章の意義について語り合っていた。やがて雪が降り出し、謝安が「この雪は何に喩えられようか」と問うと、謝安の兄の子謝朗は「空中に塩を撒き散らしたようでしょう」と答えたが、謝道韞は「未だ柳絮(りゅうじょ、白い綿毛を帯びた柳の種子の意)の風に因りて起こるに若かず」(それよりも、柳絮が風に乗って舞い上がるようなものです)と補ったため、謝安は大いに喜んだという。この逸話は、後世「才女」を意味する「柳絮の才」あるいは「詠雪の才」という成語を生んだ[1][4][13]。
封胡遏末
謝道韞が王凝之に嫁いで帰ったとき、彼女はたいへん不満そうであったため、謝安が「王郎(王凝之)は、かの王羲之の子であり、悪くはあるまい。なぜ不満なのか」と問うと、謝道韞は「我が一門の叔父には阿大(謝安)や中郎(詳細不明)がおり、従兄弟にも封・胡・遏・末といった者がおります。まさかこの世に王郎のような人物がいるとは思いませんでした」と答えた。「封」は謝韶、「胡」は謝朗、「遏(羯)」は謝玄、「末」は謝川の幼名、あるいはその頭文字であり、現代中国ではこれに由来する「封胡遏末」(ほうこあつまつ、拼音:fēng hú è mò)ないし「封胡羯末」(ほうこけつまつ、拼音:fēng hú jié mò)という語が「優れた子弟」の喩えとして用いられる[14][15][16]。
その他
著作
謝道韞を題材とした作品
脚注
- 1 2 田所義行 / 日本大百科全書(ニッポニカ)『「詠雪の才」の意味・わかりやすい解説』小学館、コトバンク。2026年4月21日閲覧。
- ↑ 川勝義雄 / 改訂新版 世界大百科事典『「謝安」の意味・わかりやすい解説』平凡社、コトバンク。2026年4月21日閲覧。
- ↑ 『晉書』列女傳「王凝之妻謝氏」:王凝之妻謝氏,字道韞,安西將軍奕之女也。
- 1 2 『世說新語』「言語」:謝太傅寒雪日内集,與兒女講論文義。俄而雪驟,公欣然曰:「白雪紛紛何所似?」兄子胡兒曰:〈胡兒,謝朗小字也。《續晉陽秋》曰:「朗字長度,安次兄據之長子。安蚤知之。文義艷發,名亞於玄,仕至東陽太守。」〉「撒鹽空中差可擬。」兄女曰:「未若柳絮因風起。」公大笑樂。即公大兄無奕女,左將軍王凝之妻也。〈《王氏譜》曰:「凝之字叔平,右將軍羲之第二子也。歴江州刺史、左將軍、會稽内史。」《晉安帝紀》曰:「凝之事五斗米道。孫恩之攻會稽,凝之謂民吏曰:『不須備防,吾已請大道,許遣鬼兵相助,賊自破矣。』既不設備,遂爲恩所害。」《婦人集》曰:「謝夫人名道蘊,有文才。所著詩、賦、誄、頌傳於世。」
- ↑ 『晉書』列女傳「王凝之妻謝氏」:聰識有才辯。叔父安嘗問:「《毛詩》何句最佳?」道韞稱:「吉甫作頌,穆如清風。仲山甫永懷,以慰其心。」安謂有雅人深致。
- ↑ 『晉書』列女傳「王凝之妻謝氏」:及遭孫恩之難,舉厝自若,既聞夫及諸子已為賊所害,方命婢肩輿抽刃出門。亂兵稍至,手殺數人,乃被虜。其外孫劉濤時年數歲,賊又欲害之,道韞曰:「事在王門,何關他族!必其如此,寧先見殺。」恩雖毒虐,為之改容,乃不害濤。
- ↑ 『資治通鑑』晉紀三十三:孫恩因民心騷動,自海島帥其黨殺上虞令,遂攻會稽。會稽內史王凝之,羲之之子也,世奉天師道,不出兵,亦不設備,日於道室稽顙跪咒。官屬請出兵討恩,凝之曰:「我已請大道,借鬼兵守諸津要,各數萬,賊不足憂也。」及恩漸近,乃聽出兵,恩已至郡下。甲寅,恩陷會稽,凝之出走,恩執而殺之,並其諸子。凝之妻謝道韞,奕之女也,聞寇至,舉措自若,命婢肩輿,抽刀出門,手殺數人,乃被執。
- ↑ 『晉書』列女傳「王凝之妻謝氏」:自爾嫠居會稽,家中莫不嚴肅。太守劉柳聞其名,請與談議。道韞素知柳名,亦不自阻,乃簪髻素褥坐於帳中,柳束脩整帶造於別榻。道韞風韻高邁,敘致清雅,先及家事,慷慨流漣,徐酬問旨,詞理無滯。柳退而歎曰:「實頃所未見,瞻察言氣,使人心形俱服。」道韞亦云:「親從凋亡,始遇此士,聽其所問,殊開人胸府。」
- ↑ 『晉書』列女傳「王凝之妻謝氏」:初,同郡張玄妹亦有才質,適於顧氏,玄每稱之,以敵道韞。有濟尼者,游於二家,或問之,濟尼答曰:「王夫人神情散朗,故有林下風氣。顧家婦清心玉映,自是閨房之秀。」道韞所著詩賦誄頌並傳於世。
- ↑ 『世說新語』「賢媛」:謝遏絕重其姊,張玄常稱其妹,欲以敵之。有濟尼者,並遊張、謝二家。人問其優劣?答曰:「王夫人神情散朗,故有林下風氣。顧家婦清心玉映,自是閨房之秀。」
- ↑ スーパー大辞林『けい しゅう ―しう【閨秀】』三省堂。
- ↑ 白川静 / 普及版 字通『「閨秀」の読み・字形・画数・意味』平凡社、コトバンク。2026年4月22日閲覧。
- ↑ 『晉書』列女傳「王凝之妻謝氏」:又嘗內集,俄而雪驟下,安曰:「何所似也?」安兄子朗曰:「散鹽空中差可擬。」道韞曰:「未若柳絮因風起。」安大悅。
- ↑ 『晉書』列女傳「王凝之妻謝氏」:初適凝之,還,甚不樂。安曰:「王郎,逸少子,不惡,汝何恨也?」答曰:「一門叔父則有阿大、中郎,群從兄弟復有封、胡、羯、末,不意天壤之中乃有王郎!」封謂謝韶,胡謂謝朗,羯謂謝玄,末謂謝川,皆其小字也。
- ↑ 『世說新語』「賢媛」:王凝之謝夫人既往王氏,大薄凝之。既還謝家,意大不說。太傅慰釋之曰:「王郎,逸少之子,人材亦不惡,汝何以恨迺爾?」荅曰:「一門叔父,則有阿大、中郎。群從兄弟,則有封、胡、遏、末。〈封胡,謝韶小字。遏末,謝淵小字。韶字穆度,萬子,車騎司馬。淵字叔度,奕第二子,義興太守。時人稱其尤彥秀者。或曰封、胡、遏、末。封謂朗,遏謂玄,末謂韶,朗玄淵,一作胡謂淵,遏謂玄,末謂韶也。〉不意天壤之中,乃有王郎!」
- ↑ “封胡遏末” (中国語). 教育部重編國語辭典修訂本. 中華民國教育部國語推行委員會 編. 2026年4月21日閲覧。
- ↑ 『晉書』列女傳「王凝之妻謝氏」:又嘗譏玄學植不進,曰:「為塵務經心,為天分有限邪?」
- ↑ 『晉書』列女傳「王凝之妻謝氏」:凝之弟獻之嘗與賓客談議,詞理將屈,道韞遣婢白獻之曰:「欲為小郎解圍。」乃施青綾步鄣自蔽,申獻之前議,客不能屈。