鷺流

鷺流(さぎりゅう)は、狂言の流派の一つ。江戸時代には大蔵流・和泉流とともに狂言の主要三流の一つをなし、江戸幕府の式楽体制のもとでは主として観世座付の狂言方として活動した[1][2]。
鷺流の成立には、近世初頭の狂言師鷺仁右衛門宗玄(1560年 - 1650年)が中心的な役割を果たしたとされる[3]。鷺家の系図は宗玄以前を室町時代までさかのぼるが、血縁関係には未詳の部分がある。小林は、日吉万五郎・宇治源右衛門・鷺三之丞らを通じた宗玄以前の芸の伝承を想定している[4]。
宗玄は長命座系の狂言師と関係が深く、かつて宝生座に属したとも伝えられる。慶長19年(1614年)に観世座付となったことは『駿府政事録』に記されている。鷺流はその後、宗家の仁右衛門家と分家の伝右衛門家を中心に発展した[5]。
明治維新後は幕府・諸藩の保護を失って衰退し、1895年(明治28年)に最後の宗家鷺権之丞が没した。その後も服部彦七や鷺畔翁らが活動を続けたが、1916年(大正5年)に服部、1922年(大正11年)に鷺が没し、中央における職業的芸系は実質的に断絶したとされる[6][7]。
地方では芸や台本の伝承が続き、現在も山口県山口市、新潟県佐渡市、佐賀県神埼市に鷺流系統の狂言が残る[8]。
歴史
成立以前
室町時代末期から織豊期には流儀の境界が固定しておらず、異なる芸系の狂言師が共演していた。文禄・慶長年間には、大蔵虎清、長命徳右衛門、鷺仁右衛門宗玄が同じ舞台に立った記録もある[9]。
鷺流宗家には宗玄以前を数代さかのぼる系図が伝えられていた。しかし小林責は、そこに記された人物の一部が『四座役者目録』などにみえる過去の観世座系狂言師と重なることなどから、この系図をそのまま鷺家の血縁的家系として扱うことはできないとしている[10]。
芸の伝承については、『近代四座役者目録』や大蔵虎明の『わらんべ草』などに記述がある。小林はこれらの史料から、
- 日吉万五郎 ― 宇治源右衛門 ― 鷺三之丞 ― 鷺仁右衛門宗玄
という芸系を想定しているが、この系統は血縁関係を確定するものではなく、師承関係などを史料から再構成した仮説である[11]。
鷺仁右衛門宗玄
鷺仁右衛門宗玄は永禄3年(1560年)に生まれ、慶安3年(1650年)4月24日に没したと考えられている。小林は、浄福寺の過去帳、『重修猿楽伝記』、『雲上散楽会宴』など複数の史料を比較し、この生没年を採用している[12][13]。
宗玄の出自について、『わらんべ草』は鷺家の本姓が「長命」であったと伝える。近世初頭の演能記録には宗玄とみられる「長命伊右衛門」の名もあり、宗玄の養子となった仁右衛門宗慶も長命徳右衛門の子であった。小林はこうした長命姓の狂言師との関係を、宗玄と長命座の結びつきを考える根拠としている[14]。
『近代四座役者目録』や『わらんべ草』には、宗玄がかつて宝生座に属したとの伝承もある。小林は長命座・金剛座・宝生家の関係を検討し、宗玄と宝生座との関係を推定している[15]。
慶長19年(1614年)9月3日の『駿府政事録』には、宗玄が観世座に属することを命じられた記事があり、鷺家に伝わった由緒書にも同様の伝承がある[16]。小林は、この観世座付への編入を鷺流の形成過程に位置づけている[17]。
江戸時代
江戸時代には能・狂言が幕府の式楽として制度化され、鷺流は主に観世座付として幕府御用を勤めた。観世座には宗家仁右衛門家、分家伝右衛門家、名女川家などが所属し、宝生座付の矢田家のような例もあった。複数の座に有力家をもった大蔵流に対し、鷺流の主要家は観世座に集中していた[2][18]。
幕府へ提出された演目の書上によれば、寛文以前には仁右衛門家が120曲、伝右衛門家が123曲を所演曲としていたが、享保9年(1724年)には両家とも160曲に増加した[19]。
鷺流は諸藩にも弟子家を有した。米沢藩には仁右衛門系の有江家、薩摩藩には仁右衛門家から分かれた健次郎家があり、長州藩では春日家などが鷺流の芸を伝えた[2]。
地方では流儀の境界が江戸の座付制度ほど明確ではなく、長州藩の春日家には、代によって大蔵流または鷺流の師に学んだ例がある。『狂言の世界』は、当時の地方では後世ほど「転流」を意識しなかった可能性を指摘している[20]。
宗家と分家
仁右衛門家は宗玄から近世を通じて続き、権之丞の代に明治維新を迎えた[12][21]。宗玄以前については、宗家系図や京都の浄福寺に残る史料を検討しても不明な点があり、小林は家系・芸系の確立を宗玄の代に求めている[22]。
伝右衛門家は初代政俊(了意)に始まり、仁右衛門家と並んで鷺流内部の一勢力を形成した。名女川家などの弟子家を有し、幕末まで続いた[23]。
今日まで山口県に現在伝承される鷺流狂言は、この伝右衛門派に連なる長州藩抱えの狂言方の芸系を引いている[24]。
芸風と他流との関係
芸風
鷺流の芸風については、競合関係にあった他流の史料、とりわけ大蔵虎明の『わらんべ草』に批判的な記述が多いため、その評価には注意を要する。虎明は当時世間でもてはやされた狂言を「かぶき」の道化にたとえるなど強く批判している。小林責は、『わらんべ草』の他の記述との関係から、この批判が宗玄ら鷺流の芸を主として念頭に置いたものと解釈している[25]。
『近代四座役者目録』は宗玄を上手と評価する一方、従来の型とは異なる当座の工夫が多かったと記す。舞台で新たな演技を行ったとする記録も残る[26]。
小林は、これらの記述をもとに、宗玄期の鷺流には当座の工夫を取り込む柔軟さがあったと解釈している[25]。
大蔵流・和泉流との関係

近世初期には、鷺流と大蔵流との間に強い対抗意識があった。大蔵虎明は『わらんべ草』で鷺仁右衛門・伝右衛門らをたびたび批判しており、こうした記述は17世紀前半に流儀意識が形成されつつあった状況を示すものと考えられている[27]。
流派間には芸の交流もあり、和泉流宗家の由緒書には、鷺家が正保3年(1646年)に山脇和泉守元宜から「花子」「釣狐」などの伝授を受けたとある。また同史料には、鷺流と和泉流を都(京都)に本拠を構える「上掛り」、奈良に拠点を置く大蔵流を「下掛り」とする認識もみえる[28][29]。
江戸時代に流派が確立した後も異流の狂言師が共演する場合はあり、とくに地方では師事関係が流儀の境界を越える例もみられた[20]。
台本と伝書
狂言はもともと口承による伝承を基本としたが、近世に流儀と家が形成されるにつれて、詞章や演出を記録した台本が多数作成された[30]。
鷺流で現存する早期のまとまった台本として、延宝忠政本が知られる。延宝6年(1678年)に書写された仁右衛門系の台本で、25曲を収める。後代の大蔵流・和泉流では失われた古い演出を残す例も指摘されている[31][32]。
18世紀初頭の伝右衛門派では鷺伝右衛門保教が享保保教本を編んだ。保教本は享保元年(1716年)から保教が没した享保9年(1724年)までの時期に編まれたとされ、鷺流の曲のみならず他流から見聞した芸も収集・整理している。豊富な注記をもち、近世前期から中期における狂言の演出・レパートリーの変化を知るうえで重要な史料である[19]。
その後、仁右衛門派には大坂の森藤左衛門による安永森本(1777年頃)、米沢藩の有江九十郎による寛政有江本(1788年 - 1790年頃)、佐渡の小杉忠三郎家に伝わる小杉本(1804年頃)、健次郎家の鷺賢通による安政賢通本(1855年)が成立した。伝右衛門派には、名女川家による宝暦名女川本(1761年頃)や野中本(1854年頃)がある[23]。
『狂言の世界』は、鷺流の諸本について、派だけでなく各家・各時期、個々の台本によって詞章や演出に差があると指摘する[20]。
これらの鷺流の台本は、狂言史・演劇史だけでなく、近世日本語の研究資料としても利用されている。米田達郎は享保保教本を起点に鷺流諸本の詞章を比較し、人称詞、待遇表現、丁寧表現、終助詞などを検討した。鷺流台本は、近世中後期の舞台語を研究する資料にも用いられている[33]。
明治維新後
幕府・諸藩の保護喪失
1868年(明治元年)の明治維新によって幕府の式楽体制が崩壊し、1871年(明治4年)の廃藩置県によって諸藩抱えの能楽師も従来の経済的基盤を失った[34]。
1869年(明治2年)には京都在住の大蔵流・和泉流・鷺流の狂言師らが、出演や楽屋での規律などについての式目を定めた。署名者には鷺流の狂言師も含まれており、維新直後には流派を越えて狂言師が協調する動きもみられた[34]。
宗家の権之丞は維新後、佐渡や京都北郊などを転々とし、明治14年(1881年)頃に東京へ戻ったが、流儀を再建できないまま1895年(明治28年)に没した[35][36]。
吾妻能狂言への参加
明治初期、鷺流の職分の多くは吾妻能狂言に参加した。吾妻能狂言は、宝生流シテ方の日吉吉左衛門らによって始められた興行で、当初は能楽を演じていたが、のちには三味線音楽なども伴う、能楽と他の芸能を折衷した舞台へ変化した[37]。
小林責の調査によれば、幕末に幕府御用を勤めていた者を含む多数の鷺流系狂言師がこの興行へ参加した[38]。
明治9年(1876年)の岩倉具視邸における行幸啓能など、後の能楽復興につながる演能では、大蔵流や和泉流の狂言師が中心となり、鷺流の主要な職分はほとんど参加しなかった[39][40]。
小林は、吾妻能狂言への参加に加え、宗家の統率力低下と観世座への依存が、鷺流の衰退に関わったと論じている。大蔵流や和泉流には宗家の消長とは別に芸系を支える有力な弟子家があったが、鷺流は座付制度の崩壊の影響を強く受け、中央の能楽界へ復帰する条件が整いにくかったという[36][41]。小林は、歌舞伎俳優への教授だけを衰退の原因とする見方を退け、これらの事情と能楽復興過程との関係を論じている[6]。
歌舞伎との関係
吾妻能狂言の衰退後、鷺流狂言師の一部は歌舞伎界で活動した。明治15年(1882年)には九代目市川團十郎が春木座で「釣狐」を演じた。当時の記録には教授者として「蜷川庄三郎」の名がみえ、小林責はこれを鷺流の名女川庄三郎と比定している[42]。
服部彦七は明治後期にも狂言の伝承に携わり、鷺畔翁は歌舞伎の狂言作者として活動するとともに、俳優や劇場関係者に能・狂言の式法を教授した[43]。
小林は河竹繁俊の回想を引き、鷺畔翁が近代歌舞伎における能・狂言系の松羽目物の演出に相当の役割を果たしたことを指摘している[44]。
中央における伝承の終焉
1895年(明治28年)の宗家権之丞の死後も、服部彦七は能舞台に出演し、鷺畔翁は歌舞伎界で狂言を伝えた[45]。1916年(大正5年)に服部が72歳で没し、1922年(大正11年)に鷺畔翁が没した。『岩波講座 能・狂言』は、この時期を中央の鷺流の実質的な断絶とみなしている[7]。
地方における伝承
中央で職業的な芸系が途絶えた後も、地方では弟子家や地域社会を通じて芸と台本が伝えられた。現在、鷺流系統の狂言は新潟県佐渡市、山口県山口市、佐賀県神埼市に残る[8]。
山口には伝右衛門派、佐渡には仁右衛門派に連なる系統が伝えられる。研究では、各地域の伝承過程における詞章・演出の変化も指摘されている[24][46][47]。
山口

山口に伝わる鷺流狂言は、長州藩抱えの狂言方を介して伝えられた伝右衛門派の系統を基本とする[24]。
幕末の狂言師春日庄作は江戸で鷺伝右衛門家に学び、維新後には山口で町人らに狂言を教授した。その後は、地域の伝承者が芸を継承した[24]。
稲田秀雄は、長州藩時代の台本と考えられる江山本を各流派の諸本と比較した。江山本には伝右衛門派の特徴があるほか、大蔵流に近い詞章、仁右衛門派と一致する箇所、中央の伝右衛門派諸本とは異なる詞章・演出も認められるという[46][47]。
春日庄作自筆本にも伝右衛門派の特徴とともに、中央の諸本とは異なる演出や独自の工夫がある[48]。その差異が春日自身の工夫か、それ以前の長州藩の伝承に由来するかは明らかでない[48]。
1954年(昭和29年)には山口鷺流狂言保存会が結成され、1967年(昭和42年)に山口県の無形文化財に指定された。さらに1997年(平成9年)5月27日には国の「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に選択された[49]。
東京文化財研究所の前身の芸能部は1958年(昭和33年)3月18日、山口で鷺流狂言の録音を行った。「節分」の劇中歌謡、「七つ子」、「靫猿」の猿歌、「山崎通い」「杉の木」、「文荷」の劇中歌謡などが収録されている[50]。高桑いづみの調査時点で山口鷺流の歌謡の多くは伝承が途絶えており、1958年の録音にはその歌謡が記録されている[50]。
2001年(平成13年)には、山口市に残る狂言台本を体系的に翻刻した『山口鷺流狂言資料集成』が刊行された[51]。
佐渡

佐渡では江戸時代後期以降に鷺流狂言が広まり、仁右衛門派の芸系が伝承されたとされる[52]。
江戸後期の葉梨源内、幕末から明治期の三河静観・鶴間兵蔵らが伝承に関わったとされる。昭和期には一時伝承が途絶えたとみられていたが、昭和50年代に伝承者の存在が確認され、復興が進められた[52]。
1981年(昭和56年)に佐渡鷺流狂言研究会が発足し、1984年(昭和59年)3月27日に新潟県の無形文化財に指定された[52]。

三河静観の所蔵本を弟子の安藤世彦・安藤幸彦が明治期に筆写した10冊の「鷺流狂言本」が伝わり、2004年(平成16年)3月1日に佐渡市の有形文化財に指定されている[53]。
佐渡の鷺流資料については、1999年(平成11年)に佐渡鷺流狂言研究会編『佐渡鷺流狂言』が刊行され、伝来台本の翻刻が行われた[54]。
高志狂言
佐賀県神埼市千代田町高志地区には、鷺流系統の高志狂言が伝承される。高志神社の祭礼などで演じられ、1971年(昭和46年)3月28日に佐賀県重要無形民俗文化財に指定された[55]。
「附子」「萩大名」「千鳥」「太刀奪」など約20番を演じることができ、「半銭」も伝承されている。佐賀県の解説では、「半銭」は鷺流の秘曲で、宗玄が徳川家康の命によって作ったものと伝えられている。宗玄作曲という記述は高志に伝わる由来譚である[55]。
研究史
鷺流の研究は、地方の伝承の記録、宗家系図・近世台本の検討、実演記録の分析などによって進んだ。石川彌一は1954年(昭和29年)に「山口に残存する鷺流狂言」を発表し、1957年(昭和32年)には同名の著書で山口の台本・資料を紹介した[56][57]。小林責は1974年(昭和49年)の『狂言史研究』で宗家系図や宗玄の出自、明治期の衰退を検討した[3][6]。田口和夫は延宝忠政本を翻刻・紹介し[31]、『岩波講座 能・狂言』では近世台本の系譜が整理された[58]。
2001年(平成13年)刊行の『山口鷺流狂言資料集成』は、稲田秀雄による江山本・春日庄作自筆本の比較研究にも用いられた[51][46][47][48]。高桑いづみは1958年録音の山口鷺流歌謡を調査し[50]、米田達郎は2020年(令和2年)に鷺流台本を用いた日本語史研究をまとめた[33]。
脚注
出典
- ↑ 表 & 天野 1987, pp. 251–256.
- 1 2 3 小山, 田口 & 橋本 1987, pp. 197–203.
- 1 2 小林 1974, pp. 26–54.
- ↑ 小林 1974, pp. 27–45.
- ↑ 小林 1974, pp. 28–36.
- 1 2 3 小林 1974, pp. 198–220.
- 1 2 小山, 田口 & 橋本 1987, pp. 223–224.
- 1 2 “全国で3地域に残る鷺流狂言が神埼市に集結”. 神埼市. 2026年9月26日閲覧。
- ↑ 表 & 天野 1987, pp. 251–254.
- ↑ 小林 1974, pp. 27–31.
- ↑ 小林 1974, pp. 35–45.
- 1 2 小林 1974, pp. 27–28.
- ↑ 小林 1974, pp. 51–52.
- ↑ 小林 1974, pp. 32–35.
- ↑ 小林 1974, pp. 31–36.
- ↑ 小林 1974, pp. 28–30.
- ↑ 小林 1974, pp. 45–50.
- ↑ 小林 1974, pp. 45–47.
- 1 2 小山, 田口 & 橋本 1987, pp. 193–195.
- 1 2 3 小山, 田口 & 橋本 1987, pp. 202–203.
- ↑ 小山, 田口 & 橋本 1987, pp. 201–202.
- ↑ 小林 1974, pp. 45–54.
- 1 2 小山, 田口 & 橋本 1987, pp. 201–203.
- 1 2 3 4 “鷺流狂言”. 山口県. 2026年9月26日閲覧。
- 1 2 小林 1974, pp. 47–50.
- ↑ 小林 1974, pp. 48–50.
- ↑ 表 & 天野 1987, pp. 252–256.
- ↑ 小林 1974, pp. 39–40.
- ↑ 小林 1974, pp. 52–53.
- ↑ 小山, 田口 & 橋本 1987, pp. 149–150.
- 1 2 田口 1979.
- ↑ 小山, 田口 & 橋本 1987, pp. 192–193.
- 1 2 米田 2020.
- 1 2 小山, 田口 & 橋本 1987, pp. 217–218.
- ↑ 小林 1974, pp. 26–28.
- 1 2 小林 1974, pp. 198–199.
- ↑ 小林 1974, pp. 198–202.
- ↑ 小林 1974, pp. 200–202.
- ↑ 小林 1974, pp. 202–206.
- ↑ 小山, 田口 & 橋本 1987, pp. 221–223.
- ↑ 小林 1974, pp. 203–206.
- ↑ 小林 1974, pp. 207–208.
- ↑ 小林 1974, pp. 210–219.
- ↑ 小林 1974, pp. 213–219.
- ↑ 小林 1974, pp. 210–220.
- 1 2 3 稲田 2011, pp. 13–27.
- 1 2 3 稲田 2012, pp. 1–17.
- 1 2 3 稲田 2013, pp. 1–18.
- ↑ “鷺流狂言”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2026年9月26日閲覧。
- 1 2 3 高桑 2013, pp. 1–18.
- 1 2 鷺流狂言記録作成委員会 2001.
- 1 2 3 “新潟県指定 無形文化財:佐渡鷺流狂言”. 佐渡市. 2026年9月26日閲覧。
- ↑ “佐渡市指定 有形文化財:鷺流狂言本”. 佐渡市. 2026年9月26日閲覧。
- ↑ 佐渡鷺流狂言研究会 1999.
- 1 2 “県指定(民俗文化財の部)03”. 佐賀県. 2026年9月26日閲覧。
- ↑ 石川 1954, pp. 12–13.
- ↑ 石川 1957.
- ↑ 小山, 田口 & 橋本 1987, pp. 192–203.
参考文献
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- 稲田, 秀雄「山口鷺流の位置(上)―江山本所収曲をめぐって―」『山口県立大学国際文化学部紀要』第17号、2011年、13-27頁。
- 稲田, 秀雄「山口鷺流の位置(下)―江山本所収曲をめぐって―」『山口県立大学国際文化学部紀要』第18号、2012年、1-17頁。
- 稲田, 秀雄「山口鷺流台本の系統(一)―春日庄作自筆本をめぐって―」『山口県立大学国際文化学部紀要』第19号、2013年、1-18頁。
- 高桑, いづみ「鷺流狂言の小舞謡―無形文化遺産部所蔵「山口鷺流小舞謡」の記録をめぐって―」『無形文化遺産研究報告』第7号、東京文化財研究所、2013年、1-18頁。
- 米田, 達郎『鷺流狂言詞章保教本を起点とした狂言詞章の日本語学的研究』武蔵野書院、2020年9月。ISBN 9784838607334。
関連文献
- 『鷺流狂言傳書―保教本』天理大学出版部〈天理図書館善本叢書和書之部 60-63〉、1984年。
- 小林, 責、池田, 哲夫『佐渡能楽史序説―現存能舞台三五棟』高志書院、2008年9月。