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1300年革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
油田での衝突の様子を描いた1979年発行の45チャット札。

1300年革命(1300ねんかくめい、ビルマ語: ၁၃၀၀ ပြည့် အရေးတော်ပုံ)。ビルマ暦では西暦1938年は1300年に当たる。この年から翌1939年まで続いた、マグウェ地方域のチャウッ(英語版)とイェナンジャウン(英語版)の油田労働者によるストライキを発端として、全国的に広がったストライキをこう呼ぶ。この年には他に1938年ヤンゴンにおける反インド人暴動も発生しており、不穏な年だった。1988年の8888民主化運動の際には、1300年革命50周年という点が強調された。

経緯

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油田労働者のストライキ

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1930年頃の農民反乱のリーダー・サヤー・サンと並び立つ、油田労働者ストライキのリーダーの1人タキン・ポーフラジー(英語版)。

1937年10月初旬、バーマ・オイル(BOC)は、これまで年間10日間だった油田労働者の休暇を20日としたが、その後、ティンジャン最終日、ワソー満月祭の初日、地元のパゴダのお祭りの初日が休日から外され、計17日となった。祝日は増えたが、1938年当時1万2,579人いた油田労働者のうち7,955人、約63%を占めていたミャンマー人労働者[注釈 1]は、伝統的な祝日が外されたことに不満を募らせた。チャウッのタキン党のメンバーは、これを宗教問題と喧伝し、手薄だった労働者の党への動員を目論んだ。そして翌1938年1月8日、タキン党のメンバーだったBOCの労働者が停職処分を受けたことをきっかけに、タキン党に扇動されたチャウッの油田労働者がストライキを起こし、BOC以外の他の石油会社、イェナンジャウン、タンリン郡区[注釈 2]など全国に広がっていき、1万人以上の労働者が参加したとされる。ちなみに、ストライキは、賃上げ、有給休暇の取得、教育・医療環境の改善など広範な労働条件の改善を要求するものだったので、仏教徒のビルマ族だけではなく、ムスリム、ヒンドゥー教徒双方のインド系ビルマ人も多数参加し、また、女性の参加者も多数いた[1][2]。

ストライキの指揮は現地のタキン党のメンバーが取り、タキン党の中央執行部はヤンゴンから指示を送り、世論にストライキ参加者への支援を訴えて寄付金を募り、タキン党の各地方支部にもストライキへの支援を要請した。タキン・アウンサン、タキン・ヌ(ウー・ヌ)、タキン・タントゥン(英語版)、タキン・ソーなど、のちにミャンマーの政界や武装勢力で活躍する若手党員が中核的役割を果たし、全国行脚して各地でデモ、集会を組織し、人々にストライキへの支援を呼びかけるのみならず、「コウミーン・コウチーン」(ビルマ語: ကိုယ်မင်း ကိုယ်ခြင်း、「わが王、わが種族」)というビルマ族中心主義と社会主義思想を融合させたタキン党の思想をも広め、各地に新支部を設立していった[3]。

しかし、タキン党の支援は不十分で、次第にストライキ参加者は困窮していき、各石油会社の切り崩し工作に遭って離脱する者、タキン党を批判して離脱する者が続出した。またタキン党内部でも、ビルマ族中心主義に固執する古参党員と、ビルマ族、インド人といった人種の垣根を超えた階級闘争と考える若手党員との間で亀裂が生じた。実際、タキン党にはインド系ビルマ人の党員も多数いた。10月までに約1万人の労働者が職場復帰し、ストライキ参加者は2,000人ほどにまで減っていた[3]。

ヤンゴン大行進、ボー・アウンチョーの日

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停滞状況を打破するため、1938年11月14日、チャウッ、イェナンジャウンなどの油田労働者が、650キロメートル離れたヤンゴンまで行進して、各石油会社に直接要求を提示する計画が決定され、同月30日、約900人の油田労働者が、タキン党チャウッ事務所前からヤンゴンに向けて出発した。英植民地政府、石油会社はこれを阻止しようと試み、ヤンゴンでは多くのタキン党員が逮捕されたが、行進を止めることはできなかった。マグウェでは警官隊に襲撃されたが、撃退した。タキン党は全国の中学・高校の生徒に支援ストや行進に参加たちへの水や食料の提供を要請した。行進者たちは行く先々で熱烈な歓迎を受け、飲食物、寄付、贈り物などを受けた。行進がヤンゴンに近づくと、タキン党が動員した、農閑期にあった農民たちが、小作料廃止や負債の帳消しなどを訴えて合流した[4]。

ボー・アウンチョーの日

一方、ヤンゴンでは油田労働者たちのヤンゴン到着に備えて、全ビルマ学生組合連合(英語版)(ABFSU)とラングーン大学学生組合(RUSU)主導で、学生デモが計画されたいた。当初は象徴的なデモに留まるとされたが、両組合を指導していたタキン・バヘイン(英語版)[注釈 3]とタキン・バスエ(英語版)[注釈 4]が当局に逮捕されるに及び、学生たちは本格的な反英デモの決行を決意した[5]。

12月20日、総勢3000人の大学生・高校生がビルマ政庁の建物を取り囲み、デモを行った。そしてデモが終わって、行進を始めようとしたその時、騎馬警察隊がやって来てデモ隊と衝突。100人以上の学生が負傷し、アウンチョーという大学生が警棒で頭を殴られ、死亡した。ちなみにこの時、アウンチョーとともに騎馬警察隊に頭を殴られ、アウンチョーの最期を看取ったのが、のちにビルマ連邦革命評議会のメンバー、国民民主連盟(NLD)副議長となるチーマウンである[6]。アウンチョーが亡くなった12月20日は、ボー・アウンチョーの日として追悼記念日となった[5]。

翌1939年1月8日早朝、チャウッでストライキが始まってちょうど1年後、チャウッを出発してから40日後、20の町と9つの村に立ち寄った後、行進者たちはシュエダゴン・パゴダに到着した。当初900人いた行進者は、逮捕、疲労、病気のために約700人にまで減っていた。パゴダには多くの人々が集まり、タキン党の三色旗がはためく中、楽隊が太鼓を打ち鳴らし、「ドバマー! われらが優等民族!」「革命の勝利!」といったシュプレヒコールが上がり、翌1月9日、全ビルマ農民組織と全ビルマ労働者組織が結成され、タキン党の傘下に置かれた。1月29日にはビルマ女性独立連盟が結成された。行進者たちはパゴダに露営し、タキン党に先導されて連日集会を催し、労働者や農民の権利要求のみならず、資本主義体制打倒、バー・モウ政権打倒のような革命的スローガンをも叫んだ。ストライキは他の場所にも広がり、1月9日から2月28日までの間に32の工場と企業の労働者がストライキを行った[7]。

1月23日、当局はタキン党のメンバーの一斉逮捕に乗り出し、多くのタキン党のメンバーが逮捕され、その中にはアウンサン、ウー・ヌ、タキン・タントゥン、タキン・コウドオ・フマイン(英語版)も含まれていた。アウンサンにとっては生涯唯一の留置所暮らしだった。タキン党は暫定執行部を発足させ、警察がタキン党のメンバーを逮捕した際、シュエダゴン・パゴダに土足で踏み込んだ点をあげつらい、「タキン党のメンバーの逮捕、書類および機器類の押収は、警察の日常業務とみなせるが、履物を脱がずにパゴダの境内に入る行為は、信教の自由の侵害であり、すべての仏教徒に対する侮辱である」と、「靴問題」を再燃させ、世論を味方につける戦略に出た[7]。

アウンランとマンダレーにおける犠牲者

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1月30日、マグウェ地方域アウンランで、タキン党のメンバーが逮捕されたことに抗議するデモが行われ、騎馬警察隊と衝突、タキン党のメンバー9人とデモ参加者7人が逮捕され、60人が負傷した。その際、デモに参加したコー・バポという男性が警察官に銃撃され、タイェッ(英語版)の病院で死亡した。そして、弔問客が遺体をボートに乗せ、川を下ってアウンランに戻る途中、そのボートがエーヤワディ船団(英語版)所有の汽船アナンダと衝突して転覆し、11人が溺死した。その後、コー・バポの遺体は火葬に付され、その墓石には「コー・バポ - 1300年革命の殉教者」と刻まれている[8]。

2月10日、前々日にマンダレー当局が学生リーダー2人と僧侶2人を逮捕したことに抗議して、エインドーヤー・パゴダ(英語版)で抗議集会が開催され、マンダレーだけではなく、近隣のマダヤー(英語版)、てチャウセー(英語版)、アマラプラ(英語版)、ザガインから多くの学生、僧侶、市民が集まった。その後、抗議者たちはデモ行進を行ったが、それに対して警官隊が発砲。僧侶7人を含む17人が死亡した。その中にはまだ12歳だったマウン・ティンアウンも含まれていた。彼らの葬儀には多数のタキン党のメンバーが参加し、1300年革命にちなんだ霊廟が建設された[9][10]。

終結

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1939年2月16日、内閣不信任案が可決され、事態を収拾できなかったバー・モウ政権は退陣に追い込まれた。その後を継いだウー・プ(ビルマ語版)首相はABFSUと交渉し、学生ストライキは中止された。3月12日、残された油田労働者・農民はシュエダゴン・パゴダを出て、ヤンゴン各所でストライキを行ったが、いずれも当局によって鎮圧され、当局が用意した列車に乗ってそれぞれの故郷に戻った。 5月10日、約200人のストライキ参加者が、当局の支援を拒否して徒歩で油田地帯に戻る決定を下し、シュエダゴン・パゴダから歩き始めたが、その途中、サンチャウン郡区のコダッチィー・パゴダ(Kodatkyi Pagoda)で解散宣言を行い、船に乗ってそれぞれの故郷に戻った[11]。

脚注

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注釈

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  1. ↑ ちなみにインド系ミャンマー人労働者は5,231人、41%だった。
  2. ↑ 製油所があった。
  3. ↑ 同年結成されたビルマ共産党(CPB)創設者の1人。
  4. ↑ ビルマ社会党(英語版)の創設者の1人。のちに首相。

出典

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  1. ↑ Khinyi 1988, pp. 57–60.
  2. ↑ “The Day Myanmar’s Oil Workers Downed Tools” (英語). The Irrawaddy. 2025年11月12日閲覧。
  3. 1 2 Khinyi 1988, pp. 57–84.
  4. ↑ 根本 1996, pp. 82–83.
  5. 1 2 Aye Kyaw 1993, pp. 78–80.
  6. ↑ “Kyi Maung” (英語). Burma National News. 2025年8月20日閲覧。
  7. 1 2 Khinyi 1988, pp. 98–132.
  8. ↑ Khinyi 1988, p. 124.
  9. ↑ “How Myanmar’s Security Forces Murder Children Through History” (英語). The Irrawaddy. 2025年11月13日閲覧。
  10. ↑ Khinyi 1988, pp. 127–128.
  11. ↑ Khinyi 1988, pp. 129–132.

参考文献

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  • 根本, 敬『アウン・サン―封印された独立ビルマの夢』岩波書店、1996年。ISBN 978-4000048682。 
  • Khin Yi (1988). The Dobama Movement in Burma/1930-1938. Cornell Univ Southeast Asia. ISBN 978-0877271185 
  • Aye Kyaw (1993). The Voice of Young Burma. Cornell University Press, Southeast Asia Program Publications at Cornell University. https://www.jstor.org/stable/10.7591/j.ctv1nhqfp 
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