1757年暫定内閣
| デヴォンシャー公爵内閣 Devonshire caretaker ministry | |
|---|---|
| グレートブリテン王国 第10代内閣(改造内閣) | |
| 1757年4月6日-6月27日 | |
第4代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ | |
| 成立年月日 | 1757年4月6日 |
| 終了年月日 | 1757年6月27日 |
| 組織 | |
| 国王 | ジョージ2世 |
| 第一大蔵卿 | 第4代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ |
| 与党 | |
| 議会における地位 | 多数与党政権 |
| 野党 | |
| 詳細 | |
| 成立直前の選挙 | 1754年イギリス総選挙 |
| 議会任期 | 1754–1761 |
| 前内閣 | ピット=デヴォンシャー公爵内閣 |
| 次内閣 | 第2次ニューカッスル公爵内閣 |
1757年暫定内閣(1757ねんざんていないかく、英語: 1757 caretaker ministry)は、1757年4月6日から1757年6月27日までグレートブリテン王国に存在した内閣である。
歴史
[編集]1756年、グレートブリテン王ジョージ2世は不本意ながらも南部担当国務大臣の大ピットが主導する内閣を受け入れた。当時、内閣の名目上の首相は第4代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュである。
1757年4月6日[1]、ピットがジョン・ビング提督の処刑に反対したことにより彼を嫌悪したジョージ2世はピットとその義弟で海軍大臣のテンプル伯爵を罷免した。しかし、その結果は戦争遂行するだけの力を持つ強力な内閣には「偉大な平民」(The Great Commoner)と呼ばれたピットの入閣が不可欠であることを明白に示しただけだった。
デヴォンシャー公は内閣に残ったが、この内閣は戦時中を生き残るには弱すぎた。ホレス・ウォルポールは彼の「ジョージ3世王の治世の回想録」でこの内閣を「骨抜きで弱っている出来損ないのシステム」とこき下ろした。
この暫定内閣の主な問題の1つとしては、庶民院院内総務と言える人物が1人もいなかったことであり、また庶民院の主要会派からも支持されなかった。このため、デヴォンシャー公はピットにその政敵である初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズと和解させる必要を感じた。ニューカッスル公は議会で最も強いホイッグ党の会派を率いていたが、ピットは彼を入閣させないことで押し通した。
1757年5月、デヴォンシャー公とニューカッスル公との議論の後、ハードウィック伯爵を自分の使者として、新しい内閣の結成に関する交渉を命じた。戦争遂行に必要であり、かつ対抗馬になりうる人物がいなかったため、ピットは1757年6月29日に南部担当国務大臣および実質的な首相に再び任命され[1]、7月には第2次ニューカッスル公爵内閣が成立した。デヴォンシャー公は第一大蔵卿を辞任して、より職務の軽い宮内長官になった。
内閣の人事
[編集]| 役職 | 閣僚 | 所属政党 | 備考 | ||
|---|---|---|---|---|---|
| 第一大蔵卿 貴族院院内総務 |
デヴォンシャー公爵 | ホイッグ党 | |||
| 枢密院議長 | グランヴィル伯爵 | ホイッグ党 | |||
| 王璽尚書 | ゴア伯爵 | ホイッグ党 | |||
| 海軍大臣 | ウィンチルシー伯爵 | ホイッグ党 | |||
| 北部担当国務大臣 南部担当国務大臣 |
ホルダーネス伯爵 | ホイッグ党 | |||
| 財務大臣 イングランド・ウェールズ首席判事 |
マンスフィールド男爵 | ホイッグ党 | |||
| 庶民院院内総務 | (空位) | ||||
| 大法官 | (空位) | ||||
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Foord, Archibald S. (1964). His Majesty's Opposition 1714–1830. Oxford University Press
- Herbert van Thal, ed (1974). The Prime Ministers. vol. One: From Sir Robert Walpole to Sir Robert Peel. London: George Allen and Unwin
- “William Pitt, Earl of Chatham”. The Oxford Dictionary of National Biography (Oxford). (2004).
関連項目
[編集]| 先代 ピット=デヴォンシャー公爵内閣 |
グレートブリテン王国の内閣 1757年 |
次代 第2次ニューカッスル公爵内閣 |