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1871年のロサンゼルスの中国人虐殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1871年ロサンゼルス中国人虐殺
虐殺で殺害された中国人犠牲者の遺体
場所 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス、Calle de los Negros周辺
座標 北緯34度03分24秒 西経118度14分16秒 / 北緯34.056583度 西経118.237806度 / 34.056583; -118.237806座標: 北緯34度03分24秒 西経118度14分16秒 / 北緯34.056583度 西経118.237806度 / 34.056583; -118.237806
日付 1871年10月24日
標的 中国人住民
攻撃手段 虐殺、集団リンチ、人種暴力、略奪
死亡者 18人(資料により異説あり)[1][2]
犯人 約500人規模の暴徒
動機 不明/中国人コミュニティ内部の対立を契機とする人種的暴力
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1871年ロサンゼルス中国人虐殺(1871ねんロサンゼルスちゅうごくじんぎゃくさつ、英語: Los Angeles Chinese massacre of 1871)は、1871年10月24日にアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスで発生した、中国人住民を標的とする虐殺・集団リンチ事件である。白人やラティーノ系住民を含む約500人規模の群衆が、当時の中国人街を襲撃し、中国人住民を殺害するとともに、店舗や住居を略奪した[3][4]。

犠牲者数について史料や後世の記述には17人から19人までの差がある。ロサンゼルス公共図書館(Los Angeles Public Library)、Chinese American Museum、Scott Zeschによる研究、現在の1871 Memorial Projectでは18人を犠牲者として扱っており、本項もこれに従う[1][2][5]。一方、『ロサンゼルス・タイムズ』など19人とする資料も存在する[6]。

当時のロサンゼルスの中国人人口は約170人にすぎず、虐殺による犠牲者はその約1割に相当した[1]。犠牲者の大部分は事件の発端となった中国人同士の銃撃戦には関与していなかったとされる[1][7]。事件は、19世紀後半のアメリカ西部における反中国人感情と人種暴力を象徴する事件の一つであり、米国史上最大規模の集団リンチの一つとして論じられている[3][8]。

背景

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19世紀のロサンゼルス

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1871年当時のロサンゼルスは人口約6,000人の都市で、1870年の国勢調査では総人口5,728人のうち中国人は172人であった[1]。治安機構は未発達で、市の警察官はわずか6人であり、19世紀半ばのロサンゼルスでは正式な刑事司法に代わって群衆によるリンチや自警団的な「民衆の正義」がたびたび行われていた[1][9]。

カリフォルニア・ゴールドラッシュ以降、広東省など中国南部から多くの移民がアメリカ西海岸へ渡り、ロサンゼルスにも中国人コミュニティが形成された。住民は料理人、洗濯業、農業、家事労働などに従事したほか、商店を経営する者や医療を営む者もいた[3][4]。

中国人住民の多くは、市中心部のロサンゼルス・プラザに近いCalle de los Negros周辺に居住していた。この通りは約500フィート(約150メートル)の短い未舗装路で、名称はスペイン語で「黒い人々の通り」を意味し、メキシコ統治時代に周辺に居住した肌の色の濃いカリフォルニオに由来するとされる[1][10]。1860年代にはロサンゼルス最初期の中国人街が形成される一方、酒場、賭博場、売春宿なども集中する地区となっていた[7][1]。

反中国人感情と法的差別

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1850年代から1860年代前半のロサンゼルスでは中国人に関する報道は比較的中立的であったとされるが、1869年頃から『Los Angeles News』や『Los Angeles Star』など一部の新聞が中国人移民を攻撃する論説を掲載するようになり、人種的動機による暴力も増加した[1]。中国人労働者が低い賃金で働くことを白人労働者の雇用に対する脅威とみなす経済的反感に、文化・宗教・外見の相違を理由とする排外主義が重なっていた[3]。

中国人には司法制度上の重大な不利益もあった。1854年、カリフォルニア州最高裁判所はPeople v. Hall(英語版)(4 Cal. 399)で、中国人が白人被告に不利な証言をすることを認めないとの判断を示した[11]。このような人種差別的な法制度は、中国人が暴力や犯罪の被害を受けた際に法的救済を得ることを困難にした[3]。

中国人コミュニティ内部の対立

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虐殺の直接の発端には、中国人コミュニティ内部の二つの会館・相互扶助団体(huiguan)の派閥間対立があった。主にYo Hingが率いるHong ChowとSam Yuenが率いるNin Yungの間で、中国人女性Yut Hoをめぐる争いが続き、訴訟や暴力事件へ発展していた[7][3]。

1871年10月23日には、Yut Hoの兄弟とされるAh Choy(Won Choyとも表記)がYo Hingを銃撃する事件が起きた。翌24日には関係者の審理が行われたが、その日の夕方、Calle de los Negros周辺で再び双方の間に銃撃戦が発生した[3]。

虐殺

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銃撃戦とロバート・トンプソンの死

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10月24日夕方、Calle de los Negrosで銃撃が始まり、Ah Choyが首を撃たれて致命傷を負った。現場に駆けつけた警察官Jesús Bilderrainも肩などを撃たれて負傷した[6][4]。

Bilderrainの救援に加わった牧場主で元酒場経営者のロバート・トンプソン(Robert Thompson)は、警察官から近づかないよう警告されたものの、中国人らが立てこもっていたコロネル・アドビ(Coronel Adobe)の建物へ接近し、内部に向けて発砲した。その直後、建物内部からの銃撃を胸に受け、その後死亡した[4][3]。

したがって、後世の一部の記述にみられるように、トンプソンが単に「現場に居合わせて誤って殺された」わけではなく、銃撃戦へ自ら介入した後に撃たれたことが、当時の証言や後世の研究から確認されている[3]。

群衆の形成

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トンプソンの死亡が市内に伝わると、現場周辺には急速に人々が集まった。「中国人が白人を大量に殺している」といった誇張された噂も広まり、群衆はやがて約500人規模に膨れ上がった[3][1]。これは当時のロサンゼルス全人口のおよそ1割に近い規模であった。

当初、治安当局は銃撃犯の逃走を防ぐ目的でコロネル・アドビ周辺の出口を監視した。しかし、後世の研究では、実際の銃撃犯の一部が逃走する一方で、事件と無関係の中国人住民が包囲された地域に取り残される結果になったと指摘されている[5]。

トンプソンの死を中国人住民全体の責任とみなす雰囲気が強まり、群衆は銃撃戦の当事者と無関係な住民にも攻撃を拡大した[7]。

襲撃・リンチ・略奪

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事件現場となったCalle de los Negros周辺を示す1888年の地図

群衆の一部はコロネル・アドビの屋根に上り、屋根に穴を開けて内部へ向け発砲した。建物から逃げ出した中国人に対しても銃撃が行われた[3][6]。やがて群衆は建物内に押し入り、中国人住民を引きずり出した。

捕らえられた中国人は殴打や銃撃を受け、ロープを首に掛けられて市街地を引き回された。Tomlinson's Corralの門、John Gollerの馬車工房、荷馬車などが即席の絞首台として使用された[1][7]。Chinese American Museumなどの現在の整理では、最終的な犠牲者18人のうち15人が絞首され、残る3人が銃撃により殺害されたとされている[2]。

暴力と並行して、中国人が使用していた建物や商店の多くが略奪された。犠牲者の所持品も奪われ、医師Chee Long "Gene" Tongの遺体から宝石を奪うため指が切断されたとする記録も残る[3][6]。

犠牲者には中国人コミュニティで医師として知られていたGene Tongのほか、料理人、洗濯業者、商店主、葉巻職人などが含まれていた。LAPLの整理では、殺害された者のうち事件の発端となった銃撃戦に関与していた可能性があるのは1人だけとされる[1]。

救出と終息

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群衆の全員が虐殺に加担したわけではなく、一部の住民や法執行関係者は中国人を暴徒から救出した。Robert M. Widney、Henry Hazardらはリンチを止めようとし、複数の中国人を群衆から逃がしたと記録されている[3][5]。また、中国人を自宅や店舗にかくまった住民もいた。

夜には保安官側が秩序回復のため協力者を募り、群衆を解散させた。翌朝、17人の遺体が市監獄の庭に並べられた。最初に絞首された1人はすでに埋葬されていたため、現在LAPLなどが採用する犠牲者数は計18人となる[1]。

犠牲者

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現在のロサンゼルス市のCivic Memory事業および1871 Memorial Projectでは、以下の18人を虐殺の犠牲者としている[4][5]。ただし、当時の中国人の氏名は英語話者によって不完全あるいは音写された形で記録されたため、多くの犠牲者について中国語での正式な姓名・漢字表記は判明していない[5]。

史料上の氏名表記 職業など 記録された殺害状況
Johnny Burrow — コロネル・アドビ内で銃撃され死亡
Wing Chee 料理人 銃撃された後、Commercial Streetの荷馬車で絞首
Wong Chin 商店主 荷馬車で絞首
Ah Cut 酒類製造業 Calle de los Negrosで銃撃され死亡
Wan Foo 料理人 Gollerの馬車工房で絞首
Lo Hey 料理人 Gollerの馬車工房で絞首
Ho Hing 料理人 Gollerの馬車工房で絞首
Day Kee 料理人 Gollerの馬車工房で絞首
Ah Long 葉巻職人 Tomlinson's Corralで絞首
Ah Loo 少年 Gollerの馬車工房で絞首
Leong Quai 洗濯業 Tomlinson's Corralで絞首
Wa Sin Quai — コロネル・アドビ内で銃撃され死亡
Chee Long "Gene" Tong 医師・薬草医 銃撃・暴行を受け、Tomlinson's Corralで絞首
Ah Waa 料理人 Gollerの馬車工房で絞首
Chang Wan Gene Tongの同居人 Tomlinson's Corralで絞首
Tong Wan 料理人、音楽家 暴行を受け、Gollerの馬車工房で絞首
Ah Wing Pico Houseの従業員 暴行を受け、Tomlinson's Corralで絞首
Ah Won 料理人 Commercial Streetの荷馬車で絞首

この一覧とは別に、虐殺に先立つ中国人派閥間の銃撃戦で死亡したAh Choyを加えて「19人」と数える記述や、当時の報道・後世の資料に基づく別の集計が存在し、犠牲者数の相違の一因となっている[6][3]。

捜査と裁判

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捜査と起訴

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事件後、検視審問と大陪審による捜査が行われた。LAPLの整理によれば、中国人殺害について25件の殺人罪による起訴が行われたが、実際に裁判を受けたのは10人にとどまった[1]。

当時は前述のPeople v. Hall以来の法制度によって中国人が白人に不利な証言を行うことが著しく制限されており、犯行の立証には大きな障害があった[11][3]。また、数百人規模の群衆が事件に関与していたため、個々の被告と特定の殺害行為を結びつけることも困難であった。

1872年には、L. F. "Curly" Crenshawのほか、Esteban Alvarado、Charles Austin、Refugio Botello、A. R. Johnson、Jesús Martinez、Patrick M. McDonald、Louis Mendelの計8人が故殺(manslaughter)で有罪となり、2年から6年の州刑務所刑を言い渡された[9][3]。

有罪判決の破棄

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しかし1873年、カリフォルニア州最高裁判所はPeople v. Crenshaw(46 Cal. 65)などで有罪判決を破棄した。裁判所は、中国人医師Chee Long Tongの殺害をめぐる起訴状について、Tongが実際に「殺害された」という犯罪成立に必要な事実を十分に記載していないという法的欠陥があると判断した[12][3]。

事件が差し戻された後、検察は再審を行わず、8人は釈放された。このため、虐殺そのものについて最終的に刑罰を受けた者はいなかった[1]。

一方、銃撃戦でロバート・トンプソンを死亡させた事件についてはSam Yuenも起訴されたが、1872年11月の裁判では致命傷となった銃撃とYuen本人を結びつける証拠が不十分として無罪となった[3]。

損害賠償訴訟

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虐殺と略奪で財産を失った中国人商人らはロサンゼルス市を相手取り損害賠償を求めた。Fong Yuen Ling et al. v. Mayor and Common Council of the City of Los Angelesでは、カリフォルニア州最高裁判所が1874年に市の責任を認めない判断を示した[13]。

事件後

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反中国人運動

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虐殺はロサンゼルスにおける反中国人感情を終わらせることにはならなかった。LAPLによれば、その後も反中国人的な新聞論説が続き、1876年にはAnti-Coolie Clubと呼ばれる排華団体がロサンゼルスで組織された[1]。

19世紀後半にはカリフォルニアをはじめアメリカ西部各地で、中国人労働者への暴行、追放、殺害が相次いだ。1882年には連邦政府が中国人排斥法を制定し、中国人労働者の移民を原則として停止した。1871年のロサンゼルス虐殺はこの法律を直接生み出した事件ではないが、同時代に拡大した反中国人運動と人種暴力の歴史的文脈の中に位置づけられている[14]。

事件現場の変容

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Calle de los Negrosはその後Los Angeles Streetへ組み込まれ、道路の拡幅などにより19世紀末までに従来の形を失った。事件の中心となったコロネル・アドビも1880年代末までに取り壊された[3][5]。

中国人コミュニティはその後、Alameda Street周辺に拡大して「旧チャイナタウン」を形成したが、この地区も20世紀前半、ロサンゼルス・ユニオン駅建設に伴って撤去された[5]。事件現場は現在のエル・プエブロ・デ・ロサンゼルス歴史地区およびNorth Los Angeles Street周辺に相当する。

記憶と顕彰

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事件は発生当時には他地域の新聞でも大きく報じられた一方、ロサンゼルスでは比較的早く公的記憶から薄れた。LAPLによれば、事件が起きた1871年末に地元紙が掲載したその年の主要事件の回顧記事では、虐殺への言及さえなかった[1]。

20世紀後半から21世紀にかけて、中国系アメリカ人団体、歴史研究者、博物館などによって事件の再検証が進んだ。Chinese American Museumは2010年以降、毎年10月24日に犠牲者を追悼する行事を開催している[15]。

2021年の事件150周年には、ロサンゼルス市のCivic Memory Working Groupによる報告書で事件を恒久的に記憶するための記念施設整備が提案された。同年、当時のロサンゼルス市長エリック・ガルセッティは市を代表して事件について謝罪した[5][4]。

その後、ロサンゼルス市と民間団体によって1871 Memorial Projectが進められ、国際公募を経て、芸術家Sze Tsung Nicolás Leongと作家Judy Chui-Hua Chungのチームによる複数地点型の記念施設案が選定された[5]。計画では事件現場周辺からユニオン駅、チャイナタウンなどに記念地点を設け、犠牲者の氏名や事件の歴史を都市空間の中で伝える構想が示されている。2026年時点では、第1地点を2026年中に公開し、その後も施設整備を進めることが目標とされている[5]。

関連項目

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脚注

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  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 Wallace, Kelly (2017年5月19日). “Forgotten Los Angeles History: The Chinese Massacre of 1871” (英語). Los Angeles Public Library. 2026年8月16日閲覧。
  2. 1 2 3 “2024 Events: The Commemoration of the Chinese Massacre of 1871” (英語). Chinese American Museum, Los Angeles. 2026年8月16日閲覧。
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 Zesch, Scott (2012) (英語). The Chinatown War: Chinese Los Angeles and the Massacre of 1871. New York: Oxford University Press. doi:10.1093/acprof:osobl/9780199758760.001.0001. ISBN 978-0-19-975876-0
  4. 1 2 3 4 5 6 “1871 Anti-Chinese Massacre” (英語). Past Due: Report and Recommendations of the Los Angeles Mayor's Office Civic Memory Working Group. Huntington-USC Institute on California and the West (2021年). 2026年8月16日閲覧。
  5. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 “1871 Memorial Project” (英語). 1871 Memorial Project. 2026年8月16日閲覧。
  6. 1 2 3 4 5 Grad, Shelby (2021年3月18日). “The racist massacre that killed 10% of L.A.'s Chinese population and brought shame to the city”. Los Angeles Times (英語). 2026年8月16日閲覧.
  7. 1 2 3 4 5 Zesch, Scott (2008). “Chinese Los Angeles in 1870–1871: The Makings of a Massacre” (英語). Southern California Quarterly 90 (2): 109–158. JSTOR 41172418.
  8. ↑ Lee, Erika (2013). “The Chinatown War: Chinese Los Angeles and the Massacre of 1871, by Scott Zesch” (英語). The Journal of American History 100 (1): 217. JSTOR 44308637.
  9. 1 2 Spitzzeri, Paul R. (2005). “Judge Lynch in Session: Popular Justice in Los Angeles, 1850–1875” (英語). Southern California Quarterly 87 (2): 83–122. doi:10.2307/41172258. JSTOR 41172258.
  10. ↑ Newmark, Marco R. (1944). “Calle de los Negros and the Chinese Massacre of 1871” (英語). The Quarterly: Historical Society of Southern California 26 (2/3): 96–98. JSTOR 41168958.
  11. 1 2 “People v. Hall (1854)” (英語). Immigration History. 2026年8月16日閲覧。
  12. ↑ People v. Crenshaw, 46 Cal. 65 (Cal. 1873).
  13. ↑ Fong Yuen Ling et al. v. Mayor and Common Council of the City of Los Angeles, 47 Cal. 531 (Cal. 1874).
  14. ↑ Lew-Williams, Beth (2018) (英語). The Chinese Must Go: Violence, Exclusion, and the Making of the Alien in America. Harvard University Press. ISBN 978-0-674-97601-6
  15. ↑ “Past Events: The Commemoration of the 1871 Chinese Massacre” (英語). Chinese American Museum, Los Angeles. 2026年8月16日閲覧。

参考文献

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  • Faragher, John Mack (2016) (英語). Eternity Street: Violence and Justice in Frontier Los Angeles. W. W. Norton & Company. ISBN 978-0-393-24802-9 
  • Lew-Williams, Beth (2018) (英語). The Chinese Must Go: Violence, Exclusion, and the Making of the Alien in America. Harvard University Press. ISBN 978-0-674-97601-6 
  • Spitzzeri, Paul R. (2005). “Judge Lynch in Session: Popular Justice in Los Angeles, 1850–1875” (英語). Southern California Quarterly 87 (2): 83–122. JSTOR 41172258. 
  • Zesch, Scott (2008). “Chinese Los Angeles in 1870–1871: The Makings of a Massacre” (英語). Southern California Quarterly 90 (2): 109–158. JSTOR 41172418. 
  • Zesch, Scott (2012) (英語). The Chinatown War: Chinese Los Angeles and the Massacre of 1871. New York: Oxford University Press. doi:10.1093/acprof:osobl/9780199758760.001.0001. ISBN 978-0-19-975876-0 

外部リンク

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