1930年ヤンゴンにおける反インド人暴動

1930年ヤンゴンにおける反インド人暴動(1930ねんヤンゴンにおけるはんインドじんぼうどう)について詳述。
背景
[編集]英緬戦争を経てミャンマー全土がイギリスの植民地となると、インドからの移民が大量に流入した。19世紀後半にエーヤワディデルタが開発され、輸出用のコメの加工が同地域の主要産業となると、港湾都市を中心に多くの移民労働者が流入してきた[1]。下ビルマのインド系人口は、1871年には3万7,000人だったが、1901年には29万7,000人にまで増加した[2]。1931年の国勢調査によれば、ミャンマーのインド系人口は総人口のおよそ7%にあたる101万7,825人で[3]、ヤンゴンの総人口40万415人のうち、21万2,929人がインド系だった。インド系人口は上ビルマの2.5%・下ビルマの10.9%を占めた[4]。
インド系ビルマ人はさまざまな職業に従事し、ミャンマーの中産階級を構成した。マールワーリ人[注釈 1]は銀行業、テルグ人[注釈 2]はチェッティヤー(金貸し)、パールシー、タミル人、グジャラート人は商業に携わり、エーヤワディデルタ地帯ではビハール人[注釈 3]のザミーンダールが当地で大規模農場を経営した。また、ビハール人とテルグ人の季節農業労働者、港湾労働者(クーリー)、タミル人とマドラス人[注釈 4]の人力車車夫など、肉体労働に従事するインド人も多数ミャンマーに移住した[5]。
しかも、インド系移民の男女比は著しく男性に偏っており、1931年の統計では、インド系移民の約72%が男性であった[6]。このため、多くのインド人男性がミャンマー人女性と結婚し、ヒンドゥー教徒の男性との間に生まれた子は仏教徒に育てられたが、ムスリムの男性との間に生まれた子[7]はムスリムに育てられるという事態が生じた。実際にはインド系は当時のラングーン市の市税を55%負担するほど比較的裕福な人々が多かったのにもかかわらず、多数派のビルマ族はインド系を見下す傾向が強く、インド人男性との結婚は下降婚と見なされた[8]。 インド人は「カラー」という蔑称で呼ばれ、当時、裕福なチェッティヤーの地主が貧しいミャンマー人農民を搾取する様子を描いたパンフレット、記事、漫画が頻繁に出版された[5]
経緯
[編集]1930年[注釈 5]5月10日、約2,000人のテルグ人港湾労働者がシンディア蒸気航行会社に対してストライキを起こした。当初、会社は彼らの日給1.50ルピーから2ルピーへの引き上げ要求に応じず、ストライキ参加者を解雇して、約2,000人のミャンマー人を新たに雇用した。しかし5月22日、会社とテルグ人労働者との間で、日給を1.75ルピーに引き上げること合意が結ばれ、ミャンマー人労働者を解雇した。ただ、会社はこの合意についてミャンマー人労働者に知らせなかった[9]。
5月26日の朝、ミャンマー人労働者が出勤してくると、バー・ストリート桟橋のあたりでテルグ人労働者たちが、彼らに侮辱と嘲りの言葉を浴びせた。激怒したミャンマー人労働者たちはテルグ人労働者たちに殴りかかった。このニュースはすぐにヤンゴン中に広まり、人種間暴動は全国へ広がっていった。当時インド系ビルマ人が多数派だったヤンゴンでは、僧侶とバス運転手がミャンマー人暴徒を率いており、英領インド軍と警察は僧院を襲撃して剣や棍棒を押収した。また、インド系ビルマ人は、ナショナリズム新聞として名高かったミャンマー字新聞『トゥーリヤ』が、暴動を扇動したと非難し、新聞社に石を投げつけた[10][9]。
暴動は4日間続いたが、インド系とミャンマー人の長老、政治指導者、政府関係者、高僧の仲介により、ようやく終結した。英領インド総督によって設立された暴動解決委員会は、ミャンマー人とインド系の労働者がヤンゴン港での仕事を分担する決定を下した。政府発表によると、250人以上のインド系と少数のビルマ人が死亡し、負傷したインド系ミャンマー人の数は2,500人に上ったのだという[10]。
影響
[編集]この暴動を機に1930年5月30日、われらビルマ人連盟(タキン党)が結成された。ただ、彼らは自分たちの勢力拡大のために暴動を利用したが、反インド感情を煽ることはなく、むしろ「インド人を憎むのではなく、互いにもっと愛し合うように」と述べ、両人種の融和を説いた[11]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ 長田 2013.
- ↑ Michael Adas (2011). The Burma Delta: Economic Development and Social Change on an Asian Rice Frontier, 1852–1941. University of Wisconsin Press. p. 86. ISBN 9780299283537
- ↑ Tanka B. Subba, A.C. Sinha, ed (2015). Nepali Diaspora in a Globalised Era. Routledge. ISBN 9781317411031
- ↑ Paul H. Kratoska, ed (2001). South East Asia, Colonial History: High imperialism (1890s-1930s). Taylor & Francis. p. 179. ISBN 9780415215428
- 1 2 Renaud 2004, pp. 7–26.
- ↑ Ikeya 2011, pp. 22–23.
- ↑ ゼラバディ(Zerabadis)と呼ばれた。
- ↑ Ikeya 2011, pp. 120–122, 138.
- 1 2 Khinyi 1988, p. 4.
- 1 2 “The Day Myanmar’s Capital Erupted Into Race Riots” (英語). The Irrawaddy. 2025年11月10日閲覧。
- ↑ Khiny 1988, p. 5.
参考文献
[編集]- 斎藤紋子「ミャンマーにおける「バマー・ムスリム」概念の形成」『東南アジア -歴史と文化-』第2012巻第41号、2012年、5-29頁、doi:10.5512/sea.2012.41_5。
- 田村克己・松田正彦 編『ミャンマーを知るための60章』明石書店〈エリア・スタディーズ〉、2013年。ISBN 9784750339146。
- 長田紀之「「カラー」とバマー」、55-58頁。
- 斎藤紋子「ムスリムとミャンマーの関係」、59-62頁。
- 根本敬『物語 ビルマの歴史 - 王朝時代から現代まで』中央公論新社、2014年。ISBN 978-4-12-102249-3。
- Khin Yi (1988). The Dobama Movement in Burma/1930-1938. Cornell Univ Southeast Asia. ISBN 978-0877271185
- Renaud, Egreteau (2004). Wooing the Generals: India's New Burma Policy. Authors Press. ISBN 978-8172731731
- Ikeya, Chie (2011). Refiguring Women, Colonialism, and Modernity in Burma. University of Hawai'i Press. ISBN 9780824861063