1931年イギリス労働党党首選挙
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1931年イギリス労働党党首選挙(1931ねんイギリスろうどうとうとうしゅせんきょ、英語: 1931 Labour Party leadership election)は、1931年8月28日にイギリスで行われた労働党党首の選挙である。
概要
[編集]1931年初頭、世界恐慌の発生に呼応して、イングランド銀行で取り付け騒ぎが発生した。その結果、ジョージ・メイが議長を務める国民支出委員会が設立された。7月31日には失業手当の10%削減を含む大幅な支出削減を答申した「メイ報告書」が発表され、ラムゼイ・マクドナルド率いる内閣は賛成11、反対9の僅差で報告書を閣議決定した。しかし閣議決定に反対したアーサー・ヘンダーソン外務大臣を中心とした労働党左派は、マクドナルドに報告書の内容が実施する場合、閣僚辞任する意向を伝えた。国政運営に苦慮したマクドナルドは、8月24日に国王に辞表を提出した。しかし、王はこれを受け入れる代わりに、マクドナルドに保守党と自由党という主要野党と共に国民政府を結成するよう促した。その日のうちにこの決定が発表されると、労働党閣僚の大多数が辞任した。
翌週の8月28日に議会労働党の全体会議が開催され、マクドナルド率いる国民政府グループ15名は党から除名され、党首が不在となり党首選挙が実施された[1]。
選挙データ
[編集]現職の有無にかかわらず、議会の新会期ごとに党首選を実施。しかし現職が在職中は党首選は形式的であり、現職以外の立候補は行われずに事実上、現職の再任を妨げず承認する[注 1][2]。
党首
[編集]- 選挙前:ラムゼイ・マクドナルド(第8代)
- 選挙後:アーサー・ヘンダーソン(第9代)
投票日
[編集]選挙制度
[編集]- 有効投票の過半数を獲得した候補者が当選。不在の場合は、投票数が最も少ない候補者が除外され、さらに投票が行われる[2]。
投票方法
[編集]選挙権
[編集]被選挙権
[編集]- 議会労働党所属庶民院議員
- 立候補にあたっては、庶民院議員の推薦人並びに賛成者を各々1名必要[2]。
有権者数
[編集]- 270[注 2]
候補者
[編集]| 候補者 | 出生日 出生地 |
経歴 |
|---|---|---|
アーサー・ヘンダーソン |
1863年9月13日(67歳) ラナークシャー、グラスゴー |
庶民院議員(9期) (1903-1918,1919-1922,1923,1924-)[注 3] 外務大臣(1929–1931) 内務大臣(1924) 無任所大臣(1916–1917) 議会労働党議長(1908-1910,1914-1917) |
選挙結果
[編集]無投票。ヘンダーソンのみが立候補し、議会労働党の全体会議で党首選出が承認された[3]。
選挙後
[編集]商務庁長官を辞任したウィリアム・グラハムを共同副党首に任命するなど[注 4]、マクドナルド内閣の閣僚を辞任し党内に残留した議員を要職に登用した。しかし、直後の総選挙で5分の1以上の議席を失う大敗を喫し、党首に就任したばかりのヘンダーソンを含め、党幹部が相次いで落選した。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 1960年と1961年は党内の路線対立により、再任を望む現職に新人が挑んで選挙となっている。
- ↑ 1929年イギリス総選挙で当選した287議員、補欠選挙で当選した17議員から辞職、死去した19議員、国民政府参画により除名された15議員を差し引いた議員数。
- ↑ バーンリー選挙区。1923まではニューカッスル・アポン・タイン・イースト選挙区、1919-1922まではウィドネス選挙区、1903-1918まではバーナード・キャッスル選挙区選出。
- ↑ 現職副党首のジョン・ロバート・クラインスに加えて共同副党首。
出典
[編集]- ↑ “MacDonald Formes a National Government”. The Glasgow Herald. London, UK. 25 August 1931. p. 1. 2026年4月10日閲覧.
- 1 2 3 4 5 宮畑建志「イギリス二大政党の党首選出手続―手続の民主化と党首の地位防衛」『レファレンス』2007年7月、136頁、2026年7月1日閲覧。
- ↑ “Labour Party”. 2017年2月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月19日閲覧。
参考文献
[編集]- Marquand, David (1977), Ramsay MacDonald, London: Jonathan Cape