1942-1943年のイラン飢饉
| 1942-1943年のイラン飢饉 | |
|---|---|
| 英・ソによるイラン占領 の一環 | |
イラン国内でパンを運ぶポーランド難民 (1943)。 西側からの難民へ食物を供与することは、 多くのイラン人が飢餓で亡くなり、或いは食物にありつけない中、 折りに触れ緊張を生じさせた。 | |
| 場所 | イラン全土; 特に英国占領地域で顕著 |
| 時期 | 1942–1943 |
| 死者 | 諸説あるが、4百万人以上とも |
| 加害者 | ソ連 と 英国(連合王国) |
1942–1943年のイラン飢饉(1942から1943ねんのイランききん)は、 第二次世界大戦中の英ソ占領時におけるイランでの大規模飢饉である。
イランは 第二次世界大戦中の中立国であったにも拘らず、1941年8月にソ連と連合王国の連合軍によって侵攻されレザー・パフラヴィーによる軍事・政治・社会統制の崩壊をもたらし、彼自身の退位と亡命へと至った[1]。イギリスは王位をガージャール家に戻すことを望んだが適任者がいなかったことから、渋々弱冠21歳のモハンマド・レザー・パフラヴィーを王位に就かせることに合意した。こうした過程にも拘らず、モハンマド・レザー・パフラヴィーは5年後に占領が終わるまで、実権を掌握することはなかった。
ソ連に石油などの物資を輸送するために、連合軍はイラン縦貫鉄道を支配し、強制的にイランの半数の私的・公的に所有されるトラックと「契約」し、占領後わずか数ヶ月の内に、イランの食料流通網の75%を支配した。この時点より、飢饉は本格的かつ急速に拡大していった。

初期に米国が行おうとした援助は、米国大使ルイ G. ドレフュス (Louis G. Dreyfus) がワシントンに、「イランの飢饉はさほど深刻ではなく、枢軸国相手の、より大局的な戦争への対応に比べ優先すべき事項ではない」と報告したことにより途絶えた。首都テヘランを含む多くの都市においてイラン人は連合軍に対して、飢饉だけでなく略奪を行っていることに対し、大規模抗議行動を組織した。これらの抗議活動は、英国の後ろ盾のあるアフマド・ガヴァム (Ahmad Qavam) 首相の政権当局により、暴力的に弾圧された。
英ソ占領による悪夢の体験は、イランにおける反西洋主義の台頭へと繋がり、1953年のクーデターへの干渉なども加わり、その後のイラン革命 時に反西洋(欧米)的なスローガンが使われることなどに繋がった。
経緯
[編集]英国とソ連は各々自国が支配する地域で影響の強化を目指した。一方、連合軍としてはイラン縦貫鉄道を支配し、イランの私的・公的に所有されるトラックの半数と契約することにより、1941年の収穫期中に、イランの食料流通網の75%を支配した。残りの25%の輸送能力も、トラックの部品への輸入制限から、急速に役立たずのものとなっていった。この様にして国内の商業・社会サービスは破壊され、700%以上の生活費の高騰を招いた。1942年の不作は、英国占領の南部の飢饉をもたらした。英国政権は必要な穀物の供給を約束したが、実現はされず、イラン政府が米国に掛け合った際も、長い交渉の末得られた援助の約束も果たされることはなかった。米国外交官ルイ G.ドレフュスは当初米国政府に飢饉が深刻なものだと報告したが、程なくして、小麦の不足が本当か疑問を呈し、「イランは連合国からの援助に頼る前に自助努力をすべきとの英国のスタンス」に従うことを提言した[要出典]。
英国政府は、この状況の責任を、買い占め、市場への供給不足、不十分な交通網に転嫁したが、ワシントン(米国政府)は英国が自分たちの政治目的達成のために、わざと食料供給を操作したことだと踏んでいた。一方、ソ連は、対独戦のための人民・軍隊に資源が必要であり、ソ連支配地域では同様な事態が起きていないことから、飢饉の責任は偏に英国の失政にあるとして、北部からの食料の輸送を禁じた[要出典]。しかし、侵攻前にイランを視察した視察官は、既にその時点でイランの準飢饉状態は既に全土に広がっていたことを目撃している[要出典]。
米国領事は1941年4月にイラン東部、中央部、南部を訪れ、その状況を次の様に報告している:
「この旅で最も印象的だったのは、国じゅうでの食料不足であった。一か所のさほど重要でない例外を除き、道中のあらゆる場所で食料が不足しており、多くの場所ではパンが全くといっていいほど手に入らなかった… イラン当局は1940年の深刻な不足の後も食料品の輸出を制限しなかった。従って今回の不足が当局をより慎重にさせるとも考えにくい。実際、私が通過した際、ボジュノルド周辺地域ではソ連経由でドイツへの輸出に向けて、穀物専売業者が穀物を集めていた。」[2]
1941年8月、連合軍侵攻の直前、平均日給は8リアルであった:
「以上のことから、賃金は家族の食費にすら足りず、ほとんどの労働者が飢餓状態にある食生活を送っていることがわかる… まともな衣服を買うことも、子どもの教育といった贅沢を夢見ることすら不可能な状況である。」[2]
しかしながら、当時の書簡および外交文書は、すべての関係者に責任があったことを示している。これには、腐敗した流通業者の関与も含まれていた[3]。
物資不足はイランに最も深刻な打撃を与え、責任の所在をめぐって見苦しい責任転嫁が続いた。英国はイランの流通の非効率を責め、米国は冷酷な英国とともにイランの失策を非難し、イランは三つの連合国全てを責めた。どの立場にもある程度の真実はあった。しかし結局のところ、連合国が小麦不足に直接責任を負っていた。占領を正当化した同盟条約第7条は、英国とソ連に対し、イラン国民を戦争による「困窮と苦難」から守ることを義務づけていた。しかし侵攻とその後のシャーの退位は、イランの旧来の政治・経済構造を破壊してしまい、実働可能な代替体制を提供することができなかった。占領軍は大量のイランの食料を購入または没収し、イランに駐留・勤務する10万人以上の連合軍兵士の食料需要は、外部からの供給では一部しか賄われなかった。テヘランの主要な小麦供給源はアゼルバイジャンであったが、ソ連当局は同州から穀物需要の50%を調達し、1942年3月から1943年3月の間にテヘランへ輸送されたアゼルバイジャン産小麦はわずか300トンにとどまった。さらに、ソ連の占領政策により20万人のイラン人がテヘランへの避難を余儀なくされ、同市の人口と食料需要を37%膨らませた。
ルイ・ドレフュスはワシントンに、イランの首相が、英国とソ連による対イラン条約の履行のあり方について議会内で広範な不満が高まっていると語ったことを報告した。「議員たちは、ロシア人が家畜を奪っていること、 ポーランド人がイランに投棄されている こと、英国人が食料を供給せずイランの小麦を イラクに送っていること、ロシア人がイラン北部の状況を利用していること、英国人が財政的その他の面でイランを食い物にしていること、そしてイラン人が全般的に欺かれ搾取されていることについて、激しく不満を訴えている。
リーダー・ブラード(Reader Bullard)の書簡および外交文書は、英国当局が当時およびその後の歴史叙述においてしばしば描かれたほど冷淡ではなかったことを示している。さらに、当時の文書は、英国がその後しばしば描かれてきたほど全能ではなかったことを示している。外交官ハロルド・イーマン(Harold Eeman)は、ソ連の占領により、英国占領地域内にあったイランのより乾燥した州が通常の穀物供給を断たれ、その結果生じた不足が予想通り英国当局のせいにされたと記した。「これは著しく不当であった」とイーマンは書いている。「英国軍は自軍の兵士への食料供給に加え、テヘラン近郊のキャンプに住むロシアからのポーランド難民数千人にパンを提供し、実際に飢饉の恐れが生じるたびにイラン人自身にも小麦粉を配給していたのだから。」
イランの民衆は、連合軍が国を略奪し、イランをインフレと飢餓へと追い込んだと非難した。1942年12月、食料不足に抗議するデモがテヘラン で毎日のように起こり、やがて 暴動 へと発展した[4]。
約2週間後、アフマド・ガヴァム (Ahmad Qavam) 首相は警察に対し、実力行使によってデモを鎮圧するよう命じ、双方に死傷者が出た。1942年末から1943年にかけて、ケルマーンシャーの街頭は半裸で飢えた人々であふれ、毎日15人が飢えと貧困によって命を落とした。1943年2月には市内でチフス が発生し、医師や職員の間で感染が広がったため病院は閉鎖された。ソ連が状況改善のために2万5000トンの穀物を放出したのは、ようやく1943年になってからのことであった。
第二次世界大戦がイランに与えた影響は、米国ホロコースト記念博物館によっても認められている。ホロコースト百科事典の「第二次世界大戦中のイラン」の項目には、以下のように記されている:[5]
第二次世界大戦がイランに与えた影響は壊滅的なものであった。イランの中立は無視され、同国は占領軍によって事実上の独立を失った。英国およびソ連当局は主要道路とイラン縦断鉄道の使用を自国の目的のために支配し、イランの人的資源と物資を戦争遂行のために接収・投入した。農業に充てられる資源がほとんど残されない中、1942年の不作と大量のヨーロッパ難民の流入が重なり、飢饉が広がり多くの人々が命を落とした。
死者数
[編集]この飢饉の死者数とその性質は、同じく英国占領下で起きた第一次世界大戦 中の先行する飢饉とともに、学術界で議論が続いている。
第二次世界大戦中のイランにおける飢饉は、西洋の学術研究が著しく不足している。例えば、ジュリアン・バリエ(Julian Bharier)による1968年の人口統計学的研究(学術誌『ポピュレーション・スタディーズ Population Studies』掲載)は、この時期を付随的に扱うにとどまり、戦争がイラン人にさらなる苦難を課したと示唆するのみで、「1946年は、連合国占領後にイランが再び立ち直り始めた第二次世界大戦後最初の年である」と述べるだけである。それ以外に、バリエは飢饉についてまったく言及していない。それどころか、バリエはイランの戸籍登録局(C.R.O.)の数字を引用し、1942年から1945年の年間人口増加率を2%と推定しているが、これは人口統計学者メフディ・アマーニ(Mehdi Amani)が1926年から1945年の全期間について推定した平均1.5%の成長率を上回っている[6]。バリエは、第二次世界大戦時代の飢饉を分析したコーマック・オー・グラーダ(Cormac Ó Gráda) による2019年の論文でも引用されているが、ここでもイランの飢饉はわずか一文で言及されるにとどまっている。「死者数は不明であるが、おそらく軽微なものであった」というものである[7]。
コーネル大学で農業経済学の博士号を取得したM・G・マジュド博士(Dr. M. G. Madjd)は、この飢饉に関する最初の本格的な英語による研究を著した[8]。マジュドは『イラン・イスラーム期歴史学誌 Journal of Iranian Islamic Period History』において、第二次世界大戦中の連合国占領期に300万〜400万人のイラン人が飢えと疾病によって死亡したと結論づけたが、これは米国務省の人口統計にあるイランの人口 1941年(1500万人)と1944年(1000万〜1200万人)に従えば、人口の4分の1に相当するものである[9]。
脚注
[編集]- ↑ Melville, Charles (1984). “Meteorological Hazards and Disasters in Iran: A Preliminary Survey to 1950”. Iran 22: 113–150. doi:10.2307/4299740. JSTOR 4299740.
- 1 2 Majd, Mohammad Gholi (2024-03-26) (英語), Historiography and Toll of World War I and World War II Famines in Iran, doi:10.20944/preprints202403.1562.v1 2024年10月8日閲覧。
- ↑ Jackson, Ashley (2018-06-26) (英語). Persian Gulf Command: A History of the Second World War in Iran and Iraq. Yale University Press. pp. 236–237. ISBN 978-0-300-23536-4
- ↑ McFarland, Stephen L. (February 1985). “Anatomy of an Iranian Political Crowd: The Tehran Bread Riot of December 1942”. International Journal of Middle East Studies 17 (1): 51–65. doi:10.1017/S0020743800028762. JSTOR 163309.
- ↑ “Iran During World War II”. Holocaust Encyclopedia 2022年3月5日閲覧。.
- ↑ Bharier, Julian (1968). “A Note on the Population of Iran, 1900-1966”. Population Studies 22 (2): 273–279. doi:10.1080/00324728.1968.10405540. PMID 22091615.
- ↑ Ó Gráda (2019年9月2日). “The famines of WWII”. Centre for Economic Policy Research. 2021年2月1日閲覧。
- ↑ Majd, Mohammad Gholi (2016). Iran under Allied Occupation in World War II: The Bridge to Victory & A Land of Famine. University Press of America. ISBN 978-0-7618-6738-8
- ↑ Majd, Mohammad Gholi (2021). “The Three Famines and the Makings of a Malthusian Catastrophe in Iran, 1869-1944”. Journal of Iranian Islamic Period History 12 (27): 99–101. doi:10.22034/JIIPH.2021.44132.2161.