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1974年の日本ハムファイターズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1974年の日本ハムファイターズ
成績
パシフィック・リーグ6位
年間6位:49勝75敗6分 勝率.395
後期6位:24勝39敗2分 勝率.381
前期6位:25勝36敗4分 勝率.410[1]
本拠地
都市 東京都文京区
球場 後楽園球場
球団組織
オーナー 大社義規
経営母体 日本ハム
監督 中西太
« 1973
1975 »

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1974年の日本ハムファイターズ(1974ねんのにっぽんハムファイターズ)では、1974年の日本ハムファイターズの動向をまとめる。

このシーズンの日本ハムファイターズは、球団が日拓ホームから日本ハムに身売りされ、チーム名が「日本ハムファイターズ」に改称された最初のシーズンであり、中西太監督の1年目のシーズンである。

概要

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日本ハムファイターズの当年及び近年のシーズン成績
年 最終成績 リ
丨
グ
試
合
勝 敗 分 勝
率
総
得
点
総
失
点
打
率
本
塁
打
盗
塁
犠
打
四
死
球
O
P
S
防
御
率
完
投
失
策
監
督
1974 リーグ6位6位13049756.395..中西太
1973 リーグ5位5位13055696.444..田宮謙次郎
1972 リーグ4位4位13063616.508..田宮謙次郎
1971 リーグ5位5位130447412.373..田宮謙次郎
1970 リーグ5位5位13054706.435521599.25314711067406.7144.183292松木謙治郎
1969 リーグ4位4位13057703.449488.2541168480370.690松木謙治郎
1968 リーグ6位6位13551795.392472.2481186183382.670大下弘
1967 リーグ3位3位13465654.500510.260979590415.697水原茂
1966 リーグ3位3位13670606.538386.233814876369.624水原茂
1965 リーグ2位2位14076613.555510.24710013094383.661水原茂
1964 リーグ3位3位15078684.534555.25010011994462.670水原茂

先述の通り、球団が日拓ホームから日本ハムへ身売りされて球団名も変更、そして監督は前年までヤクルトアトムズのヘッドコーチだった中西太を迎え、球団社長には同球団の監督で中西の義父・三原脩が就任した。だが終わってみれば1968年以来の最下位、そこで三原球団社長はチーム改造に着手し、まずシーズン終了直後の10月22日に大下剛史が広島東洋カープの上垣内誠・渋谷通と交換トレード、続いて1週間後の10月30日には大杉勝男がヤクルトの小田義人・内田順三と交換トレード、他にも白仁天が太平洋クラブライオンズの東田正義と交換トレードとなり、東映時代からの主力3選手が一気に放出される事となった。

チーム成績

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レギュラーシーズン

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開幕オーダー
1 三阪本敏三
2 二大下剛史
3 左張本勲
4 一大杉勝男
5 右千藤三樹男
6 中白仁天
7 捕加藤俊夫
8 遊末永吉幸
9 投渡辺秀武
1974年パシフィック・リーグ順位変動
前期
順位 4月終了時 5月終了時 前期成績
1位 ロッテ-- 阪急-- 阪急--
2位 阪急1.0 太平洋2.5 ロッテ4.5
3位 太平洋4.0 ロッテ4.0 太平洋6.5
4位 日本ハム4.5 近鉄7.0 南海7.0
5位 近鉄5.5 日本ハム8.0 近鉄9.0
6位 南海6.0 南海8.5 日本ハム12.0
後期
順位 7月終了時 8月終了時 後期成績
1位 ロッテ-- ロッテ-- ロッテ--
2位 南海 南海2.5 南海5.0
3位 日本ハム2.5 阪急4.5 阪急5.0
4位 太平洋3.5 太平洋7.5 太平洋10.0
5位 近鉄4.0 近鉄9.5 近鉄
6位 阪急5.0 日本ハム12.0 日本ハム15.0
1974年パシフィック・リーグ成績
順位球団勝敗分勝率差
優勝ロッテオリオンズ695011.580---
2位阪急ブレーブス695110.5750.5
3位南海ホークス595516.5187.5
4位太平洋クラブライオンズ59647.48012.0
5位近鉄バファローズ56668.45914.5
6位日本ハムファイターズ49756.39522.5

*優勝はプレーオフで決定。2位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定[1]

オールスターゲーム1974

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ファン投票 選出なし
監督推薦 新美敏 大杉勝男 張本勲

できごと

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  • 5月9日 - 3月26日に入団、4月25日に初給料50万円(年俸600万円の月割り)を支給され、4月27日に多摩川グラウンドでのイースタン・リーグの試合に先発する予定だったが突如失踪したバール・スノーが、パ・リーグから史上2人目(パ・リーグ及び外国人では現在唯一)の「無期限失格選手」とされる。なおスノーは後に、故郷・ユタ州に帰郷した事が判明した。
  • 4月24日 - 張本勲が後楽園球場での対近鉄2回戦の1回裏に二塁打を放ち、プロ通算300二塁打を達成[2]。
  • 5月8日 - 後楽園球場での日本ハム対太平洋3回戦の試合で、7回表に太平洋のファンが三塁手の阪本敏三めがけてビール瓶を投げつけ坂本は頭を裂傷し、日本ハムナインとファンが小競り合いする騒ぎが起きる[3]。
  • 7月5日 - 後期開幕。この日からユニフォームはホーム・ビジターとも「縦縞無し」から「縦縞有り」に変更、1978年に「背番号上の選手名入り」に、1979年に「ベルトレスからベルト入り」に、さらに同年後期には「ビジター用胸マークと背番号を白から赤」に変更し、リーグ優勝した1981年まで使用した。
  • 7月17日 - テリー・レイが対近鉄後期一回戦の一回表に3つボークを取られ、1イニング3ボークのパ・リーグ新記録[4]。
  • 8月18日 - 高橋直樹が日生球場での対近鉄後期7回戦で史上唯一の「一人で1試合の勝利投手とセーブ投手の両方を記録」を達成した[5]。この後、ルール改定が行われ、「勝ち投手になった場合、その人物にはセーブをあたえない」という規定が追加されたため、現在では達成不可能。
  • 8月29日 - 張本勲が神宮球場での対太平洋後期8回戦に出場し、プロ通算2000試合出場を達成[6]。
  • 9月29日 - 高橋博士が後楽園球場での南海ダブルヘッダー第二試合の後期13回戦で史上初の1試合全ポジションに付く[7][8]
  • 10月2日 - 大杉勝男が1968年9月21日からこの日の試合まで、球団記録の798試合連続出場[9]。
  • 10月22日 - 日本ハムと広島東洋は、大下剛史と上垣内誠・渋谷通のトレードが成立したと発表。
  • 10月30日 - 日本ハムとヤクルトは、大杉勝男と小田義人・内田順三のトレードが成立したと発表[10]。

選手・スタッフ

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表彰選手

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リーグ・リーダー[1]
選手名タイトル成績回数
張本勲 首位打者.3402年ぶり7度目
ベストナイン
選手名ポジション回数
張本勲外野手3年連続14度目
ダイヤモンドグラブ賞
選出なし

ドラフト

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順位選手名ポジション所属結果
1位菅野光夫内野手三菱自動車川崎入団
2位川原昭二投手丹羽鉦電機入団
3位吉武正成投手専修大学入団
4位木村聖一投手弘前実業高拒否・電電北陸入社
5位柿崎幸男外野手三沢高入団
6位中野晴彦内野手新発田農業高入団

脚注

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注釈

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出典

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  1. 1 2 3 “年度別成績 1974年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2017年6月5日閲覧。
  2. ↑ 読売新聞1974年4月25日14面「張本300二塁打」読売新聞縮刷版1974年4月p752
  3. ↑ 読売新聞1974年5月9日14面「後楽園でファン騒ぐ ビン当たり阪本(日本ハム)負傷」読売新聞縮刷版1974年5月p218
  4. ↑ 読売新聞1974年7月18日15面「日本ハム・レイ投手が1イニング、ボーク3のパ・リーグ新記録」読売新聞縮刷版1974年7月p559
  5. ↑ 読売新聞1974年8月19日14面「高橋直、勝利とセーブ」読売新聞縮刷版1974年8月p516
  6. ↑ 読売新聞1974年8月30日15面「日本ハム・張本が2000試合出場」読売新聞縮刷版1974年8月p839
  7. ↑ 読売新聞1974年9月30日15面「高橋博全ポジション」読売新聞縮刷版1974年9月p937
  8. ↑ “【9月29日】1974年(昭49) 日ハム・高橋博士、日本初!1試合で全ポジション守る”. 日めくりプロ野球. スポーツニッポン新聞社. 2015年12月10日閲覧。
  9. ↑ “個人打撃連続記録(1)”. パシフィック野球連盟公式サイト. 2015年12月10日閲覧。
  10. ↑ 毎日新聞1974年10月31日15面「大杉がヤクルト入り」毎日新聞縮刷版1974年10月p889
  11. ↑ ベースボールマガジン2002夏季号, ベースボールマガジン社, (2002), p. 123
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