1975年アメリカグランプリ
| レース詳細 | |||
|---|---|---|---|
|
| |||
| 日程 | 1975年シーズン第14戦 | ||
| 決勝開催日 | 10月5日 | ||
| 開催地 |
ワトキンス・グレン・グランプリレースコース | ||
| コース長 | 5.435 km (3.377 mi) | ||
| レース距離 | 59周 320.665 km (199.252 mi) | ||
| 決勝日天候 |
曇(ドライ)[1] 最高気温: 20.6 °C (69.1 °F) 最大風速: 8.74 m/s (19.56 mph)[W 1] | ||
| ポールポジション | |||
| ドライバー | |||
| タイム | 1:42.003[W 2] | ||
| ファステストラップ | |||
| ドライバー |
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| タイム | 1:43.374(43周目)[W 3] | ||
| 決勝順位 | |||
| 優勝 | |||
| 2位 | |||
| 3位 | |||
1975年アメリカグランプリ(1975ねんアメリカグランプリ、英: 1975 United States Grand Prix、正式名称: XVIII United States Grand Prix)は、1975年のF1世界選手権の第14戦(最終戦)として、1975年10月5日にワトキンス・グレン・グランプリレースコースで開催された自動車レース(アメリカグランプリ)[W 5]。
1908年に最初のアメリカン・グランド・プライズ[注 1]が開催されて以来25回目であり、1958年にリバーサイドで最初のアメリカグランプリが開催されて以来18回目のアメリカグランプリであった。
概要
[編集]レースを制したのは、この年のチャンピオンとなったオーストリア人ドライバーのニキ・ラウダ(フェラーリ・312T)であった。ラウダは、前年度チャンピオンのブラジル人エマーソン・フィッティパルディ(マクラーレン・M23)に4秒差を付け、シーズン5勝目を挙げた。フィッティパルディのチームメイトである西ドイツ人ドライバーのヨッヘン・マスが3位でフィニッシュした。フィッティパルディが2位となったことにより、ブラバムに所属するアルゼンチン人ドライバーのカルロス・ロイテマンとのシーズン半ばにわたるポイント争いを制し、ドライバーズランキング2位を確定させた。フィッティパルディが所属するマクラーレンは、フェラーリに次ぐコンストラクターズランキング2位となるべくブラバムを追うも、1点及ばず3位に終わった。
背景
[編集]フェラーリはこの年、既にポールポジション8回、優勝5回を挙げ、ドライバーズタイトルとコンストラクターズタイトルの二冠を制していたが、アメリカGPでの勝利は一度もなかった[W 6]。また、この時点まで、ドライバーズタイトルを獲得した年にアメリカGPを制したドライバーも存在しなかった。
コースの改修
[編集]このレースのために、エッセへの入り口となる丘の麓に「シェクター・シケイン」が追加された[2]。2年前にフランソワ・セベールがここで事故死した後、このコーナーは速度が速すぎると判断された。提案したティレルのジョディー・シェクターにちなんで名付けられたこのシケインにより、ラップタイムが約5秒低下すると予想されていた。
また、コース全域に張り巡らされていた3段のガードレールをずっと後方に移し、エスケープゾーンを設けて安全性の向上を高めた[2]。
エントリー
[編集]マキ、BRM、サーティース、ヴァルシュタイナーが参加せず[W 7]、エンバシー・ヒルとエンサインが1台に、3台体制だったマーチも2台に減らしたことから[W 8]、参加台数は24台にとどまった[3]。
ヒルはトニー・ブライズのみが参加し[W 7]、エンサインはクリス・エイモンがロングビーチ市街地コースで行われたF5000のレースで足を骨折したため、ロエロフ・ヴンデリンクのみN175で参加する[W 7]。マーチはヴィットリオ・ブランビラとハンス=ヨアヒム・スタックの2台に減らし、レラ・ロンバルディはウィリアムズから参加する[W 8]。
一方、ティレルはタイトルスポンサーのエルフから支援を受けているミシェル・ルクレールがスポット参戦し、3台体制に増やした[W 8]。ペンスキーは第12戦オーストリアGPの事故で亡くなったマーク・ダナヒューに代わって、欠場したサーティースからジョン・ワトソンを迎え入れ、新車PC3を投入した[4][W 7]。
コパスカーはウィルソン・フィッティパルディが手の負傷から復帰し、ロータスはジム・クロフォードに代わってブライアン・ヘントンが2台目のドライバーとして起用された[W 8]。
シャドウはマトラエンジンを搭載したDN7を放棄した[3]。これにより、ジャン=ピエール・ジャリエはDFVエンジン搭載のDN5を再びドライブする[W 7]。
エントリーリスト
[編集]- 追記
予選
[編集]予選は金曜日、土曜日の各2回、計4回のセッションで行われた[3][6]。
マーク・ダナヒューが第12戦オーストリアGPのウォームアップ走行中に致命傷を負い、ペンスキーはジョン・ワトソンをダナヒューの後任に据えた。ペンスキーはワトソン用に新車PC3を投入したが、リアサブフレームを壊したため[7]、パドックでデモンストレーターとして使用されていた旧型PC1に切り替えざるを得なかった。
ドライバーたちが新しいコースレイアウトに慣れていく中、ニキ・ラウダは最初から最速であった。
金曜日にヴィットリオ・ブランビラがラウダをわずか100分の1秒上回る最速タイムを記録したが、ラウダのエンジンに振動が発生したが、Tカーに乗り換えてブランビラのタイムを1秒近く上回った。ブランビラは第2セッションの終盤にクラッシュしてしまい、マシンは修復不可能なまでに大破してしまったが、メカニック達の尽力により決勝開始までに修復できた[2]。
土曜日、エマーソン・フィッティパルディが1分42秒360で一時的にトップタイムを記録したが、ラウダもこれに応戦し、1分42秒003で今シーズン10回目のポールポジションを獲得した[7]。この2人がフロントローに並び、カルロス・ロイテマン、ジャン=ピエール・ジャリエ、マリオ・アンドレッティ、ブランビラがグリッド上位の6台を占めた。
シケインの設置とガードレールの後退により、人身に影響のあるアクシデントは一件も発生しなかった[7]。
予選結果
[編集]| 順位 | No. | ドライバー | コンストラクター | タイム | 差 | Grid |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 12 | フェラーリ | 1:42.003 | - | 1 | |
| 2 | 1 | マクラーレン-フォード | 1:42.360 | +0.357 | 2 | |
| 3 | 7 | ブラバム-フォード | 1:42.685 | +0.682 | 3 | |
| 4 | 17 | シャドウ-フォード | 1:42.759 | +0.756 | 4 | |
| 5 | 27 | パーネリ-フォード | 1:42.822 | +0.819 | 5 | |
| 6 | 9 | マーチ-フォード | 1:42.846 | +0.843 | 6 | |
| 7 | 16 | シャドウ-フォード | 1:42.960 | +0.957 | 7 | |
| 8 | 4 | ティレル-フォード | 1:43.032 | +1.029 | 8 | |
| 9 | 2 | マクラーレン-フォード | 1:43.100 | +1.097 | 9 | |
| 10 | 3 | ティレル-フォード | 1:43.127 | +1.124 | 10 | |
| 11 | 11 | フェラーリ | 1:43.246 | +1.243 | 11 | |
| 12 | 27 | ペンスキー-フォード | 1:43.310 | +1.307 | 12 1 | |
| 13 | 10 | マーチ-フォード | 1:43.417 | +1.414 | 13 | |
| 14 | 5 | ロータス-フォード | 1:43.570 | +1.567 | 14 | |
| 15 | 24 | ヘスケス-フォード | 1:43.820 | +1.817 | 15 | |
| 16 | 8 | ブラバム-フォード | 1:44.054 | +2.051 | 16 | |
| 17 | 23 | ヒル-フォード | 1:44.064 | +2.061 | 17 | |
| 18 | 25 | ヘスケス-フォード | 1:45.236 | +3.233 | 18 | |
| 19 | 6 | ロータス-フォード | 1:45.244 | +3.241 | 19 | |
| 20 | 15 | ティレル-フォード | 1:46.023 | +4.020 | 20 | |
| 21 | 21 | ウィリアムズ-フォード | 1:46.032 | +4.029 | 21 2 | |
| 22 | 31 | エンサイン-フォード | 1:47.224 | +5.221 | 22 | |
| 23 | 30 | コパスカー-フォード | 1:48.226 | +6.223 | 23 | |
| 24 | 20 | ウィリアムズ-フォード | 1:49.734 | +7.731 | 24 3 | |
| 出典: [W 11][W 2][W 12] | ||||||
- 追記
決勝
[編集]

決勝日の13時から開始されたウォームアップで[5]、ジョン・ワトソンのペンスキー・PC3は電気系統のトラブルに見舞われた[5]。PC3が牽引されている間、クルーはパドック内にあるスポンサーのファースト・ナショナル・シティバンク向けに展示されていた旧型PC1を回収し[W 7]、最後尾グリッドから決勝をスタートする[5]。ウィリアムズは2台ともスターティンググリッドにいなかった。レラ・ロンバルディはワトソン同様、ウォームアップで電気系統のトラブルに見舞われた[5]。チームメイトのジャック・ラフィットはバイザーの洗浄液を目薬と間違え、直ちに病院へ向かったが決勝のスタート時間に間に合わなかった[W 13][5]。ロンバルディはラフィットのマシンに乗り換えようとしたが、シートが適合せず出走を断念した[W 7]。
ポールポジションのニキ・ラウダが新設されたシケインを最初に通過した。その後ろにはエマーソン・フィッティパルディ、ジャン=ピエール・ジャリエ、ヴィットリオ・ブランビラ、カルロス・ロイテマン、マリオ・アンドレッティが続いた。カルロス・パーチェとパトリック・デパイユは2周目に接触し、両者リタイアとなった。
フェラーリ・312Tを駆るラウダと、マクラーレン・M23を駆るE.フィッティパルディの差は約1秒に落ち着いた。6位に浮上していたヨッヘン・マスは、4周目に誤ってエンジンを切ってしまったため、アンドレッティ、ジェームス・ハント、ロニー・ピーターソンの3台に抜かれた[W 7]。次の周、マスの直前にいたクレイ・レガツォーニはマクラーレン・M23の後輪にノーズを接触してフロントウィングを破損し[W 7]、交換のためピットインしたが作業に時間を要し、1周以上遅れを取った[W 7]。10周目、ロイテマンのエンジンが停止し、アンドレッティのフロントサスペンションが破損した。これによりラウダとE.フィッティパルディはジャリエに12秒差をつけ、ジャリエはハント、ブランビラ、マス、ピーターソン、ジョディー・シェクターを含むグループに5秒差をつけていた。
ラウダのチームメイトであるレガツォーニは長いピットストップの後、18周目に先頭グループに追いつかれた。彼はラウダを先行させたが、青旗[注 2]が振られて先行を許すよう指示されていたにもかかわらず、6周にわたりE.フィッティパルディを抑え続けた。レガツォーニは24周目に黒旗が提示されてピットインした。フェラーリのチームマネージャーを務めるルカ・ディ・モンテゼーモロはこの裁定を不服としてレガツォーニにレース続行を指示し[W 14]、競技長に殴りかかる場面もあったが[8]、4周走行した後に抗議のためレガツォーニをリタイアさせた[W 14]。
ラウダを援護したレガツォーニに黒旗が出された時点で、ラウダとE.フィッティパルディの差は12秒2に広がった[5]。ジャリエはリアホイールベアリングの固着でリタイア、ブランビッラはシートサポートの緩みで7位に後退し、ハント、マス、ピーターソン、シェクターが3位を争っていた。マスは33周目にハントをオーバーテイク。残り9周でピーターソンもギア選択とブレーキバランスに苦しむハントを抜いた。残り3周でマスのブレーキがフェードし始め、ピーターソンが接近したが、ブレーキング時に左前輪をロックさせた。これにより生じたフラットスポットで速度が落ち、最終ラップでハントが4位を奪還した。E.フィッティパルディはラウダに5秒弱まで差を縮めたが[8]、ラウダは最後まで首位を守りきって今シーズンを締めくくった[9]。
このレースは、翌年からコパスカーのチーム運営に専念するウィルソン・フィッティパルディ、グラハム・ヒル率いるエンバシー・ヒル及び同チームに所属するトニー・ブライズ(後述)にとって最後のレースとなった。
レース結果
[編集]| 順位 | No. | ドライバー | コンストラクター | 周回数 | タイム/リタイア原因 | Grid | Pts. |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 12 | フェラーリ | 59 | 1:42:58.175 | 1 | 9 | |
| 2 | 1 | マクラーレン-フォード | 59 | +4.943 | 2 | 6 | |
| 3 | 2 | マクラーレン-フォード | 59 | +47.637 | 9 | 4 | |
| 4 | 24 | ヘスケス-フォード | 59 | +49.475 | 15 | 3 | |
| 5 | 5 | ロータス-フォード | 59 | +49.986 | 14 | 2 | |
| 6 | 3 | ティレル-フォード | 59 | +50.321 | 10 | 1 | |
| 7 | 9 | マーチ-フォード | 59 | +1:44.031 | 6 | ||
| 8 | 10 | マーチ-フォード | 58 | +1 Lap | 13 | ||
| 9 | 28 | ペンスキー-フォード | 57 | +2 Laps | (12) 1 | ||
| 10 | 30 | コパスカー-フォード | 55 | +4 Laps | 23 | ||
| NC | 16 | シャドウ-フォード | 52 | 規定周回数不足 | 7 | ||
| NC | 6 | ロータス-フォード | 49 | 規定周回数不足 | 19 | ||
| Ret | 25 | ヘスケス-フォード | 46 | アクシデント | 18 | ||
| Ret | 31 | エンサイン-フォード | 41 | ギアボックス | 22 | ||
| Ret | 11 | フェラーリ | 28 | 抗議のため撤退[1] | 11 | ||
| Ret | 17 | シャドウ-フォード | 19 | ホイールベアリング | 4 | ||
| Ret | 7 | ブラバム-フォード | 9 | エンジン | 3 | ||
| Ret | 27 | パーネリ-フォード | 9 | サスペンション | 5 | ||
| Ret | 23 | ヒル-フォード | 5 | アクシデント | 17 | ||
| Ret | 15 | ティレル-フォード | 5 | エンジン | 20 | ||
| Ret | 4 | ティレル-フォード | 2 | アクシデント | 8 | ||
| Ret | 8 | ブラバム-フォード | 2 | アクシデント | 16 | ||
| DNS | 21 | ウィリアムズ-フォード | 体調不良 | 21 | |||
| DNS | 20 | ウィリアムズ-フォード | イグニッション | 24 | |||
| 優勝スピード(勝者ラウダの平均速度):186.850 km/h | |||||||
| ファステストラップ:エマーソン・フィッティパルディ - 1:43.374(43周目)[W 3] | |||||||
| 出典: [W 15][W 4][W 12] | |||||||
- 追記
| ドライバー | 周回数 | リードラップ |
|---|---|---|
| ニキ・ラウダ | 59周 | 1-59(全周回) |
| 出典: [W 16] | ||
- 太字は最多ラップリーダー
レース後
[編集]グラハム・ヒルとトニー・ブライズの死
[編集]
1975年11月29日の夕方、2度のドライバーズタイトルを獲得し、エンバシー・ヒルのオーナーを務めるグラハム・ヒルは、フランスからロンドンへパイパー・アズテック軽飛行機を操縦していた。同乗者は、チームマネージャーのレイ・ブリンブル、ドライバーのトニー・ブライズ、デザイナーのアンディ・スモールマン、メカニックのテリー・リチャーズとトニー・アルコックであった。彼らは、翌1976年に向けて準備を進めていた新車GH2のテストを行っていたポール・リカール・サーキットから帰途についていた。彼らは、パーティーに出席するためにロンドンへ移動する前に、エルストゥリー飛行場に着陸する予定であった。午後10時直前、濃霧の中、機体はアークリーにあるゴルフコース脇の木々に衝突した。続く墜落と爆発で、搭乗者全員が死亡した[W 17][W 18][10][11][12]。これにより、チームは副チームマネージャーとメカニック2名のみとなり、活動を継続することは不可能となったため、チームは解散した[W 19][W 20]。
主な記録
[編集]ドライバー
[編集]- 最終ファステストラップ:エマーソン・フィッティパルディ[W 21] - 6回目[W 7]
- 初参戦 / 初出走:ミシェル・ルクレール[W 22]
- 最終参戦 / 最終出走 / 最終完走:ウィルソン・フィッティパルディ[W 23]
- 最終参戦 / 最終出走:トニー・ブライズ[W 24]、ロエロフ・ヴンデリンク[W 25]
コンストラクター
[編集]最終ランキング
[編集]コンストラクターズ・チャンピオンシップの詳細については「1975年のF1世界選手権 § 1975年のコンストラクターズランキング」を参照
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- 注: トップ5のみ表示。有効ポイントは前半7戦のうちベスト6戦と後半7戦のうちベスト6戦の合計。ポイントは有効ポイント、括弧内は総獲得ポイント。
- 太字は1975年のチャンピオンを示す。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- 書籍・雑誌
- 1 2 3 4 5 (F1全史1971–1975 1993, p. 133)
- 1 2 3 (AUTOSPORT 181, p. 106)
- 1 2 3 (AUTOSPORT 181, p. 43)
- ↑ (AUTOSPORT 181, pp. 42–43)
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 (AUTOSPORT 181, p. 110)
- ↑ (AUTOSPORT 181, pp. 106–107, 110)
- 1 2 3 (AUTOSPORT 181, p. 107)
- 1 2 (F1全史1971–1975 1993, p. 97)
- ↑ (Henry 1989, pp. 284–285)
- ↑ (F1全史1971–1975 1993, pp. 101–102)
- ↑ (AUTOSPORT 184, p. 42)
- ↑ (AUTOSPORT 185, p. 84)
- ウェブサイト
- ↑ “Weather information for the "1975 United States Grand Prix"” (英語). The Old Farmers' Almanac. 2026年3月2日閲覧。
- 1 2 “USA 1975 - Qualifications” (英語). STATS F1. 2026年3月2日閲覧。
- 1 2 “USA 1975 - Best laps” (英語). STATS F1. 2026年3月2日閲覧。
- 1 2 “USA 1975 - Result” (英語). STATS F1. 2026年3月2日閲覧。
- ↑ “1975 United States Grand Prix Entry list”. RacingSportsCars. 2026年3月2日閲覧。
- 1 2 “Grands Prix USA- Wins” (英語). STATS F1. 2026年3月2日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 “USA 1975”. STATS F1. 2026年3月2日閲覧。
- 1 2 3 4 “United States GP, 1975” (英語). grandprix.com. 2026年3月2日閲覧。
- ↑ “Race Results” (英語). Hesketh Racing. 2026年3月2日閲覧。
- ↑ “USA 1975 - Race entrants” (英語). STATS F1. 2026年3月2日閲覧。
- ↑ “Formula One 1975 United States Grand Prix Classification | Motorsport Stats” (英語). 2021年1月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年3月2日閲覧。
- 1 2 “USA 1975 - Starting grid” (英語). STATS F1. 2026年3月2日閲覧。
- ↑ “10 Of The Strangest Reasons Why Drivers Have Retired From F1 Races” (英語). WTF1 (2017年5月7日). 2019年8月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年3月2日閲覧。
- 1 2 “Lauda wins as Regazzoni is criticised” (英語) (1975年10月5日). 2016年1月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年3月2日閲覧。
- ↑ “1975 United States Grand Prix” (英語). formula1.com. 2014年6月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年3月2日閲覧。
- ↑ “USA 1975 - Laps led” (英語). STATS F1. 2026年3月2日閲覧。
- ↑ “This day in history-- 1975: Graham Hill killed in air crash” (英語). BBC. 29 November 1975. 2026年3月2日閲覧.
- ↑ “Graham Hill, 46, Retired Racer, In Fatal Crash Piloting His Plane”. New York Times archive. UPI通信社 (1975年12月1日). 2026年3月2日閲覧。
- ↑ “Motor racing legend Graham Hill killed in a plane crash”. The Guardian (英語). London: Guardian Newspapers. 2 December 2008. 2026年3月2日閲覧.
- ↑ Bardon, P. “Report on the accident at Arkley Golf Course” (英語). AAIB Formal Reports. Air Accidents Investigations Branch. 2026年3月2日閲覧。
- ↑ “戦績:E.フィッティパルディ”. F1 DataWeb. 2026年3月2日閲覧。
- ↑ “戦績:M.ルクレール”. F1 DataWeb. 2026年3月2日閲覧。
- ↑ “戦績:W.フィッティパルディ”. F1 DataWeb. 2026年3月2日閲覧。
- ↑ “戦績:T.ブライズ”. F1 DataWeb. 2026年3月2日閲覧。
- ↑ “戦績:R.ヴンデリンク”. F1 DataWeb. 2026年3月2日閲覧。
- ↑ “Hill - Grands Prix started 1975” (英語). STATS F1. 2026年3月2日閲覧。
- ↑ “戦績:ヒル”. F1 DataWeb. 2026年3月2日閲覧。
- ↑ “Statistics Constructors - Wins - Chronology of the record” (英語). STATS F1. 2026年3月2日閲覧。
- 1 2 “FIA Formula One World Championship 1975 United States Grand Prix Standings” (英語). Motorsport Stats. 2026年3月2日閲覧。
- 1 2 “FIA Formula One World Championship 1975 Italian Grand Prix Standings” (英語). Motorsport Stats. 2026年3月2日閲覧。
参照文献
[編集]- 『F1全史』シリーズ(NCID BN12600893)
- 林信次『F1全史 1971-1975 [名手スチュワートの退場/若手精鋭たちの新時代]』ニューズ出版(現:三栄)、1993年。ASIN B07DP9R68Q。ISBN 4-938495-05-8。ASB:FZS19931201。
- 『オートスポーツ』(NCID AA11437582)
- 『No.181 1975年12月1日号』三栄書房(現:三栄)、1975年、42-43, 105-110頁。ASB:AST19751201。
- 『No.184 1976年1月15日号』三栄書房(現:三栄)、1976年、42頁。ASB:AST19760115。
- 『No.185 1976年2月1日号』三栄書房(現:三栄)、1976年、82-85頁。ASB:AST19760201。
- アラン・ヘンリー 著、早川麻百合、鳥江政弘 訳『チーム・フェラーリの全て』CBS・ソニー出版、1989年。ISBN 4-7897-0491-2。
- Nye, Doug (1978). The United States Grand Prix and Grand Prize Races, 1908-1977. B. T. Batsford. ISBN 0-7134-1263-1
- Walker, Rob (January, 1976). "17th United States Grand Prix: Ferrari's First World Championship Formula 1 Win In America". Road & Track, 70-73.
翻訳元
[編集]- Wikipedia英語版 - en:1975 United States Grand Prix(2026年1月14日 16:57:34(UTC))
外部リンク
[編集]- USA 1975 - STATS F1(レースレポートのみフランス語。他は英語)
- United States GP, 1975 - grandprix.com(英語)
- 1975年第14戦アメリカグランプリの結果 - F1 DataWeb
| 前戦 1975年イタリアグランプリ |
FIA F1世界選手権 1975年シーズン |
|
| 前回開催 1974年アメリカグランプリ |
次回開催 1976年アメリカグランプリ |