1983年イギリス労働党党首選挙
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1983年イギリス労働党党首選挙(1983ねんイギリスろうどうとうとうしゅせんきょ、英語: 1983 Labour Party leadership election)は、1983年10月2日にイギリスで行われた労働党党首の選挙である[1]。
概要
[編集]1983年の総選挙での敗北後まもなく、マイケル・フットに対して党首辞任を求める圧力が強まった。選挙運動に資金を提供していた「労働党勝利のための労働組合」の議長デヴィッド・バスネットは、「早ければ早いほど良い」と述べ、党指導部の今後について早期に発表するよう主張した。総選挙から3日後の1983年6月12日、科学・技術・管理職組合(ASTMS)事務局長のクライヴ・ジェンキンス」は、フットを党首候補として推薦することを発表したが、フットは推薦を辞退し、党首退任の意向を表明した。
総選挙敗北後、デニス・ヒーリー、ニール・キノック、ロイ・ハッターズリー、ジェラルド・カウフマン、ピーター・ショアらが候補者として取り沙汰された。しかし、フットが党首辞意を表明した直後、クライヴ・ジェンキンスはASTMSの推薦候補をキノックに変更したことと公表し、キノックもこれを受諾した。他の労働組合の指導者たちもキノックやハッターズリーへの支持を表明した。デヴィッド・バスネットはチャンネル4の取材に対し、「私が考えるべき指導部チームは、キノックとハッターズリーの2人だ」と述べたほか、統合工学・電気労働組合(AUEW)書記長のギャヴィン・レアードは、ハッターズリーを党首に、キノックの副党首選出を支持した。
フットの退任決定が明らかになった直後、ヒーリーもまた、副党首を辞し党首の座は目指さないと発表した。一方で、今後も庶民院で主導的な役割を果たし続ける意向であり、影の閣僚への選出を目指すことを明言した[2]。もう一人の有力候補であったトニー・ベンは総選挙で落選したため、候補者から除外された[2]。
選挙データ
[編集]野党時は毎年開かれる定時党大会において党首選挙を実施する。しかし現職が在職中は党首選は形式的であり、現職以外の立候補は行われずに事実上、現職の再任を妨げず承認する。与党で現職党首が首相である場合、毎年の定時党大会において代議員の過半数の党首選実施の決議が可決されたときに実施する[1]。
党首
[編集]投票日
[編集]- 1983年10月2日[1]
選挙制度
[編集]- 選挙人団によるポイント制
- 労組ブロック - 40%。関係労組ごとに投票。党員1,000人で1票。
- 選挙区ブロック - 30%。選挙区労働党ごとに投票。党員1,000人で1票。
- 議員ブロック - 30%。議員1人1票。
投票方法
[編集]選挙権
[編集]被選挙権
[編集]- 議会労働党所属庶民院議員
- 立候補にあたっては、党所属庶民院議員5%の推薦が必要[1]。
候補者
[編集]| 候補者 | 出生日 出生地 |
経歴 |
|---|---|---|
ロイ・ハタズリー |
1932年12月28日(50歳) ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー、シェフィールド |
庶民院議員(7期)(1964-)[注 1] 価格・消費者保護大臣(1976-1979) 外交・英連邦大臣(1974-1976) 国防大臣(1969-1970) 影の内務大臣(1980-) 影の環境大臣(1979-1980) 影の教育科学大臣(1973-1974) |
エリック・ヘファー |
1922年1月12日(61歳) ハートフォードシャー、ハートフォード |
庶民院議員(7期)(1964-)[注 2] 産業大臣(1974-1975) 影のヨーロッパ担当大臣(1981-1983) |
ニール・キノック |
1942年3月28日(41歳) グウェント、トレデガー |
庶民院議員(5期)(1970-)[注 3] 影の教育科学大臣(1979-) |
ピーター・ショア |
1924年5月20日(59歳) ノーフォーク、グレート・ヤーマス |
庶民院議員(4期)(1963-)[注 4] 環境大臣(1976-1979) 貿易大臣(1974-1976) 無任所大臣(1969-1970) 経済大臣(1967-1969) 影の財務大臣(1980-1983) 影の外務大臣(1979-1980) 影の環境大臣(1979) 影のヨーロッパ担当大臣(1971-1972) |
選挙結果
[編集]キノックの党首当選後に行われた副党首選では、この選挙で次点となった右派のロイ・ハタズリーが当選。閣僚経験のないキノックをベテランのハタズリーが支える党内体制が出来上がり、この2人の組み合わせは「ドリーム・チケット」とも呼ばれた[4]。
当時41歳というキノックの若さも助け、労働党は「若返り」のイメージを印象付けることに成功し、党首選後に行われたオブザーバー紙の世論調査では、労働党支持率39%を記録、与党・保守党の支持率42%を脅かすまでになった。
候補者別得票結果
[編集]| 候補者 | 総計 | 労組ブロック投票 | 選挙区ブロック投票 | 議員ブロック投票 | |||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 獲得pp | 得票数 | 得票率 | 獲得pp | 得票数 | 得票率 | 獲得pp | 得票数 | 得票率 | |||
| ニール・キノック | 71.27pp | 29.04pp | 4,389 | 72.61% | 27.45pp | 571 | 91.51% | 14.78pp | 100 | 49.26% | |
| ロイ・ハタズリー | 19.29pp | 10.88pp | 1,644 | 27.20% | 0.58pp | 12 | 1.92% | 7.83pp | 53 | 26.11% | |
| エリック・ヘファー | 6.30pp | 0.05pp | 7 | 0.12% | 1.97pp | 41 | 6.57% | 4.29pp | 29 | 14.29% | |
| ピーター・ショア | 3.14pp | 0.03pp | 5 | 0.08% | 0.00pp | 0 | 0.00% | 3.10pp | 21 | 10.34% | |
| 総計 | 100.0pp | 40.00pp | 6,045 | 100.0% | 30.00pp | 624 | 100.0% | 30.00pp | 203 | 100.0% | |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ バーミンガム・スパークブルック選挙区選出。
- ↑ リバプール・ウォルトン選挙区選出。
- ↑ 1983からイスルウィン選挙区、1970-1983まではベッドウェルティ選挙区選出。
- ↑ 1974からステップニー・ポプラー選挙区、1964-1974まではベスナル・グリーン・ステップニー選挙区選出。
出典
[編集]- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 宮畑建志「イギリス二大政党の党首選出手続―手続の民主化と党首の地位防衛」『レファレンス』2007年7月、136頁、2026年7月1日閲覧。
- 1 2 Russell, William (13 June 1983). “Race is on for Labour Leader”. The Glasgow Herald. 2021年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2019年12月15日閲覧.
- ↑ Leeds de Melo, J (2003), Primary elections and party conferences — Democracy in political parties: UK, France, Germany and Italy, Routledge, 202 p.
- ↑ 永江正文 「党首若返りでイメージアップ」『世界週報』1983.10.25 p18-22 時事通信社