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1988年の市民の自由法

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1988年の市民の自由法
アメリカ合衆国の国章
制定議会アメリカ合衆国第第100議会(英語版)
引用
一般法律Pub.L. 100–383
Stat.102 Stat. 903
立法経緯

1988年の市民の自由法(1988ねんのしみんのじゆうほう、Pub.L. 100–383, title I, August 10, 1988, 102 Stat. 904, 合衆国法典第50a編第1989b条 50a U.S.C. § 1989b et seq.)は、第二次世界大戦中に不当にアメリカ合衆国政府により強制収容された日系アメリカ人に対する賠償金を承諾し「将来の市民の自由に対する同様の不当な扱いと侵害事件を妨げるための」アメリカ合衆国の連邦法である。この法案は、下院のカリフォルニア州民主党議員で嘗て強制収容されたノーマン・ミネタと上院のハワイ州民主党議員スパーク・マツナガにより提出された[1]。この法案は議会の共和党の少数派が反対票を投じる一方で民主党の多数派が支持した。法案は大統領ロナルド・レーガンが署名して法律となった。

この法律は、1990年に支払いが始まり、2024年には4万6,000ドルに相当する賠償として2万ドルを生存する被収容者それぞれに支払うことを承諾した。また、政府の行動が正当な保安上の理由に反するとして「人種に対する偏見や戦争ヒステリー、政治的な指導の失敗」に基づいていたとも記された[2]。全部で82219人が救済金を受け取った[3]。

補償の対象は、アメリカ市民と永住権者に限定された為、ペルーを主としたラテンアメリカから連行された日系人は、戦後にアメリカ合衆国に残ったか、母国へ帰国したか、日本へ渡ったかを問わず、対象からは除外された。1996年にカルメン・モチヅキは集団訴訟を起こし[4]、有資格者当たり約5,000ドルの和解金を勝ち取った。該当者の内、145人が資金が枯渇する前に和解金を受け取った。1999年には、残りの人々へも賠償金を支払うことが、司法長官により認められた[5]。

背景

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日系人の強制収容

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日系人の強制収容は、第二次世界大戦期のアメリカ合衆国西海岸からの約12万人の[6]日系アメリカ人(その内62%は、アメリカ市民権の保有者だった)[7][8]の強制排除と監禁であった。真珠湾攻撃の直後に、FBIにより逮捕された約5,500人の男性が、司法省が運営する強制収容所に直接送られ、約5,000人が強制収容が執行される前に、「自発的に」国内の他の地域に移住できた[9]。残りの約11万人は、戦時転住局(WRA)が運営する国内の遠隔地に急造された強制収容所へ送られた[9]。

フランクリン・ルーズベルト大統領は、各地の軍司令官が「一部または全員を除外できる」「軍事区域」を指定することを認める「大統領令9066号」により、強制収容を正当化した。この権限は、行政罰としての収容所を除くアラスカ州及びカリフォルニア州の全域と、オレゴン州・ワシントン州・アリゾナ州の一部といった太平洋沿岸地域から、日系人全員が除外されることを宣言するのに用いられた[10]。「差し迫った公共の必要性」がある場合にある人種の公民権を抑制することが許されるか議論しながら最高裁判所は除外や排除、拘禁の合憲性を支持した[11]。

救済と賠償金

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失われた財産に対する賠償金の一部は、1948年に支払われたが、殆どの被収容者は失った分を完全に回復できなかった[8]。1960年代と1970年代に、戦時の収容に対する補償を得る為の新たな運動が、日系コミュニティで起こされた。日系アメリカ人市民同盟は、1970年の大会で個人に対する賠償を求める決議を採択し、程なくして立法化に向けたロビー活動の為に、グループの活動家や政治的指導者と活動を始めた。1979年に「日系アメリカ人リドレス全国協議会」は、嘗ての被収容者のために連邦政府に対して集団訴訟を提起し、1980年にダニエル・イノウエ上院議員やボブ・マツイ議員、スパーク・マツナガ議員、ノーマン・ミネタ議員からの圧力を受けて議会は、「戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会(英語版) (CWRIC)」を立ち上げた。CWRICは、国内の11の都市で調査公聴会を開催し、750人以上が戦時中と戦後の経験について証言した。1983年に委員会は戦時中の日系アメリカ人の移住が「人種的な偏見や戦争ヒステリー、政治的指導の失敗」の結果であった結論付け、金銭的賠償が嘗ての被収容者に行われるべきだとする『拒否された個人の正義 (Personal Justice Denied)』と題する報告書で見解を述べた。1987年に提案された、大統領が公式の謝罪を行うという、CWRICの要請を実施する法案が、連邦政府の支出が増大することを理由に反対する、レーガン大統領や共和党上院議員からの大きな抵抗に遭ったが、1988年8月10日に署名され法律となった[3]。

1990年10月9日に、初めての賠償金給付の式典が行われた。9人の高齢の一世が、それぞれ2万ドルと車椅子の人々に手渡すために膝を突いて大統領ジョージ・H・W・ブッシュとアメリカ合衆国司法長官ディック・ソーンバーグ(英語版)が署名した正式な謝罪を受け取った[12]。

生存する被収容者やその子孫への支払いは1988年の法律の施行を行うために創設された二つの政府機関の内の一つ救済庁の監督を受けて1993年まで存続した[3]。別の市民の自由公教育基金は強制収容について公に教育する救済法の規定に合致するように創設された。5000万ドルが1988年に「調査と公教育活動に資金提供するために」認可されたが、反救済ロビー活動は1994年まで教育活動を延期し最終的な総額500万ドルに減額した。ビル・クリントン大統領は1996年に諮問機関を設置し、CLPEFは1997年から1998年まで様々な教育計画と補助金に資金提供するのに使われた[13]。

1988年の市民の自由法

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レーガン大統領が公式行事で法案に署名している。左から右に:スパーク・マツナガハワイ州選出上院議員、ノーマン・ミネタカリフォルニア州選出共和党員、パット・サイキハワイ州選出共和党員、ピート・ウィルソンカリフォルニア州選出上院議員、ドン・ヤングアラスカ州選出共和党員、ボブ・マツイカリフォルニア州選出共和党員、ビル・ロウアリー(英語版)カリフォルニア州選出共和党員、ヘンリー・カジハラJACL会長
署名式の映像

1988年の市民の自由法(日系アメリカ人とアウレト族の第二次世界大戦の強制収容に対する補償)は下記の通り意図していることを述べている[14]。

  1. 第二次世界大戦期の日系のアメリカ合衆国市民と永住権者の疎開や移住、強制収容の基本的な過ちを認める。
  2. このような市民と永住権者の疎開や移住、強制収容に対してアメリカ合衆国人民を代表して謝罪する。
  3. 同様の事件の再発を防止するためにこのような人々の強制収容について公に知らしめる取り組みに資金提供する公教育基金を提供する。
  4. 強制収容された日系人に対して補償を行う。
  5. 公明正大に法律に従ってアメリカ合衆国の責務の合意としてウニマク島の西のプリビロフ列島とアリューシャン列島のアウレト族に補償を行う。従って
    1. このアウレト族が第二次世界大戦中にアメリカ合衆国の管理下にあった期間に被った不正と耐えた苦難
    2. 第二次世界大戦中にアメリカ画集国軍により奪われ破壊された個人財産
    3. 第二次世界大戦中にアメリカ合衆国軍により奪われ破壊された村落の教会財産などの村落の財産
    4. アウレト族の職業などの生産利用にとって第二次世界大戦後に復旧しなかったアッツ島の伝統的な村の土地
  6. 将来における市民の自由に対する同様の不正と侵害の事件を妨げる。
  7. 他の国民により行われた人権侵害についてアメリカ合衆国による憂慮の表明を説得力があり偽りのないものにする。

議会での賛成と反対

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1987年9月17日にアメリカ合衆国下院は38人が棄権する中で243対141で法案を可決した(象徴的に第442連隊戦闘団と数が同じであった)。共和党の多数派が法案に反対する(賛成63票に対し反対98票)一方で民主党の多数派は法案に賛成した(賛成180票に対し反対43票)[15]。1988年4月20日にアメリカ合衆国上院は4人が棄権する中で69対27で法案を可決した。上院共和党の僅かな多数派も法案に賛成する(賛成25票に対して反対20票)一方で民主党の大多数が法案に賛成した(賛成44票に対し反対7票)[16]。

脚注

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出典

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  1. ↑ “Spark Matsunaga” (英語). Densho Encyclopedia (2015年6月10日). 2024年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月9日閲覧。
  2. ↑ 100th Congress, S. 1009, reproduced at Archived 2010-11-27 at the Wayback Machine. internmentarchives.com; accessed September 19, 2006.
  3. 1 2 3 Sharon Yamato. "Civil Liberties Act of 1988," Densho Encyclopedia (accessed 2014-07-16).
  4. ↑ Court TV Library: Civil Rights Cases – Japanese WWII Internment Archived 2007-09-16 at the Wayback Machine.
  5. ↑ “Campaign for Justice”. Nikkei for Civil Rights and Redress. 2007年3月12日閲覧。
  6. ↑ Various primary and secondary sources list counts between 110,000 and 120,000 persons.
  7. ↑ Semiannual Report of the War Relocation Authority, for the period January 1 to June 30, 1946, not dated. Papers of en:Dillon S. Myer. Scanned image at Archived 2018-06-16 at the Wayback Machine. trumanlibrary.org. Accessed 2006-09-18.
  8. 1 2 "The War Relocation Authority and The Incarceration of Japanese Americans During World War II: 1948 Chronology", Web page Archived 2015-11-05 at the Wayback Machine. at www.trumanlibrary.org, accessed 2006-09-11
  9. 1 2 Brian Niiya. "Voluntary evacuation," Densho Encyclopedia (accessed 2014-04-03).
  10. ↑ Korematsu v. United States dissent by Justice Owen Josephus Roberts, reproduced at findlaw.com, accessed 2006-09-12
  11. ↑ Korematsu v. United States majority opinion by Justice Hugo Black, reproduced at findlaw.com, accessed 2006-09-11
  12. ↑ Isikoff, Michael (1990-10-10), “Delayed Reparations and an Apology”, The Washington Post
  13. ↑ Sharon Yamato. "Civil Liberties Public Education Fund," Densho Encyclopedia (accessed 2014-07-17).
  14. ↑ “Chapter 52—Restitution For World War II Internment of Japanese-Americans and Aleuts”. 2018年8月8日閲覧。
  15. ↑ House Vote #304 (September 17, 1987) from GovTrack.us roll call records, accessed 2010-08-21
  16. ↑ Senate Vote #525 (Apr 20, 1988) from GovTrack.us roll call records, accessed 2010-08-21

関連項目

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外部リンク

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