1994年香港選挙制度改革
| 1994年立法局(選舉規定)(修訂)條例 | |
|---|---|
| 立法局 | |
| 引証 | 香港法例第381章 |
| 適用地域 | |
| 立法局 | |
| 適用日 | 1994年7月8日 |
| 廃止日 | 1997年7月1日 |
| 立法経緯 | |
| 提出者 | 憲制事務司呉栄奎 |
| 法案起草日 | 1994年2月25日 |
| 第一読会 | 1994年3月9日 |
| 第二読会 | 1994年6月29日 |
| 第三読会 | 1994年6月29日 |
| 廃止法令 | |
| 全國人民代表大會常務委員會關於根據《中華人民共和國香港特別行政區基本法》第一百六十條處理香港原有法律的決定 | |
| 関連法令 | |
| 立法局(選舉規定)條例 | |
| 現況: 廃止 | |

1994年香港選挙制度改革(1994ねんホンコンせんきょせいどかいかく、英語: 1994 Hong Kong electoral reform)は、1997年7月1日の中華人民共和国への香港返還を目前にした、イギリスによる植民地統治末期の香港において、最後の香港総督クリストファー・パッテンにより行われた憲制改革である。この改革は、1994年および1995年に実施された三段階の選挙、すなわち1994年区議会選挙、1995年市政局・区域市政局選挙、1995年立法局選挙において、有権者を拡大することを目的としていた。特に、この改革により新設された9つの功能組別は「新九組(イェール式広東語: sān gáu jóu)」と呼ばれ、270万人が新たに有権者となり、事実上の直接選挙議席の拡大となった。
この改革は香港政界に大きな政治的波紋を引き起こすとともに、中国とイギリスの外交対立へと発展した。魯平が率いる中華人民共和国国務院港澳事務弁公室が反対するなか、改革法案をめぐって香港立法局の意見は二分された。また、香港の財界人やイギリス外務省の中国専門家である外交官らも、1990年にイギリス外相ダグラス・ハードと中国外交部長銭其琛との間で交わされた7通の「ハード=銭書簡」に違反するものとして、公然と改革案を批判した。法案の審議では、自由党の李鵬飛(英語: Allen Lee)が政庁案に対抗して提出した修正案が採決に付されたが、政庁側は29対28のわずか1票差でこれを退けた。その後、改革法案は民主派の支持を得て、最終的に可決された[1][2][3]。
中国側は、この改革を不服として、英中間で合意されていた返還前後の「直通列車」方式を反故にして臨時立法会を深圳に設置し、臨時立法会の決定によって返還後はパッテン改革の殆どは白紙に戻されることとなった。
背景
[編集]1997年の香港返還は、1984年12月18日、中英両政府が『中英共同声明』において最終的な合意に達した。同声明は、1997年7月1日をもって、イギリス政府から香港島、九龍、新界を含む香港全土に対する主権の行使を中国政府が回復すると定めた。また、香港特別行政区は中央人民政府の直轄下に置かれる一方、外交および国防を除いて高度の自治を享有し、行政権、立法権、および終審権を含む独立した司法権を有するとされた。
香港植民地政府は1984年7月18日、『香港における代議政制のさらなる発展に関する緑皮書(英語: Green Paper: the Further Development of Representative Government in Hong Kong、中国語: 代議政制綠皮書)』を公表し、香港で民主化を進めることを決定した。1985年には初めて立法局の間接選挙が実施され、1991年立法局選挙では初めて直接選挙が導入された。一方、香港の民主派は1988年立法局選挙に際して全面的な直接選挙を実施するよう求めていたが、この要求は植民地政府によって退けられた。
1989年の天安門事件は、香港市民の間に中国に対する大きな不安を引き起こした[4]。これを受け、イギリス政府は、香港市民に対する責任を果たし、植民地から美しく撤退するため、民主化の歩みを加速させる決意を強めた[5]。
1992年、イギリス首相ジョン・メージャーは、デイヴィッド・ウィルソンを香港総督から退任させることを決定するとともに、パーシー・クラドックを外交政策顧問から外した。両者は、北京に対し宥和的な政策をとっているとして、香港の民主派から批判を受けていた。一部の観察者は、こうした人事の変更について、香港問題を担当するこの二人の有力官僚と、当時の中英関係の進展のあり方にイギリス政府が不満を抱いていることを示すものとみなした[6]。
直前の1992年イギリス総選挙で落選していた保守党主席クリストファー・パッテンが、第28代香港総督に任命された。パッテンは、香港総督に任命された初の政治家であった。1992年7月9日のパッテンの香港着任は、民主化への移行が新たな段階に入ったことを意味した[5]。
改革案
[編集]クリストファー・パッテンが着任した当時、立法局(LegCo)は、地域選挙区(英語: Geographical Constituencies, GCs、中国語: 地區直選)から直接選挙で選出される18議席、主として香港の有力なエリート層によって選出される21の職能別選挙区(英語: Functional Constituencies, FCs、中国語: 功能組別)、総督が任命する17議席、3名の当然議員(英語: ex officio members、布政司、律政司、財政司)、そして立法局主席を兼任する香港総督本人によって構成されていた。
1995年立法局の選挙方式については、返還後の香港のミニ憲法にあたる『香港基本法』によって、地区直選20議席、功能組別30議席、選挙委員会選出10議席と定められていた。この枠組みのもとで立法局の民主的な構成を拡大するため、パッテンは『中英共同声明』および『香港基本法』の範囲内で改革の余地を見いだす必要があった。

1992年10月7日、パッテンは就任後初の立法局での施政報告の際、1994/95年度の選挙制度改革案を発表した。その内容は以下の通りであった[7]:
- 立法局、市政局・区域市政局、区議会を含む地区直選に小選挙区制を導入する。
- 選挙権年齢を21歳から18歳に引き下げる。
- 区議会および市政局・区域市政局のすべての任命議席を廃止する。
- 中国全国人民代表大会香港代表が選挙に立候補する際のすべての制限を撤廃する。
- 一部の既存の功能組別選挙区について、法人投票を個人投票に変更することにより、有権者の範囲を拡大する。
- 約270万人に選挙権を与えるため、新たに9つの功能組別選挙区の議席を設ける。
- 区議会議員によって構成される選挙委員会を導入し、同委員会から立法局議員10名を選出する。
このように、パッテンは功能組別選挙区の定義を拡大することで、結果として事実上ほぼすべての香港市民が、この間接選挙議席について投票できるようにした。
6に挙げた、約270万人を有権者とする新設の9つの功能組別選挙区は、「新九組(イェール式広東語: sān gáu jóu)」と呼ばれ、以下の区分となった。
この改革をめぐる2年間の広報活動は、クリストファー・パッテンの「ウォー・ルーム」の責任者であったマイケル・ハンソン(英語: Michael Hanson、中国語: 韓新)が指揮した[1][2][3]。
見解
[編集]中国政府
[編集]中国政府は、パッテンが事前の予告なく上から推し進めた改革について、西側諸国が中国の政治体制を段階的に転覆させるための戦術であると受け止めた[8]。改革案の発表に先立ち、イギリス外相ダグラス・ハードは、中国外交部長の銭其琛に改革案の詳細を伝えていた。北京側は、改革案の一部が『香港基本法』に違反していると警告し、1995年に選出される立法局について、北京側がそれまで約束していたように1997年の主権移譲をまたいで存続させる、いわゆる「直通列車(英語: through-train)」方式は認められないとした。また、1995年立法局選挙に関するいかなる制度も、事前に中英双方の合意を得るべきであると強調した。北京側は、パッテンの改革案を直接的な対決姿勢とみなした[7]。
北京側は、この対立を引き起こした最大の責任者をパッテンとみなし、中国の宣伝機関もパッテンを名指しで攻撃した。中国国務院港澳事務弁公室主任の魯平は、記者会見でパッテンを「千古罪人」と呼んだ[9]。香港でも、新華社香港分社の幹部らがさまざまな機会を利用してパッテンを批判した。新華社香港分社副社長の鄭国雄(英語: Zheng Guoxiong)は、次のように述べた:
パッテンは改革案を提出することによって、対決姿勢を貫いた。これは香港の繁栄に影響を及ぼし、それを損なった。クリストファー・パッテンには、中国と協力しようとする誠意がまったくなかった。その態度は徹底して対決的なものであり、中国政府の努力とその姿勢を完全に無視し、香港の繁栄と安定に悪影響をもたらした。そのすべての責任を負うべきなのは彼である[10]。
新華社香港分社社長の周南は、パッテンの改革案を「三つの違反」(triple violations)と呼び、次のように述べた:
ますます多くの香港市民が、パッテンの政治改革案が『中英共同声明』、『香港基本法』、そして中英両国がそれまでに達した合意に重大に違反していることを認識するようになっている。また、パッテンがこの誤った道を歩むことによって、香港の繁栄と安定、そして円滑な移行をすでに損なっており、今後も損ない続けることになると認識している。われわれは、香港の安定と繁栄を維持し、1997年の円滑な移行を確保し、香港市民の長期的利益を守るため、すでに必要なあらゆる措置を講じており、今後も講じていく。パッテンに残された唯一の道は、いわゆる「政治改革」案を直ちに放棄し、政治的な駆け引きをやめることである[11]。
中国共産党にとって、有権者層の大幅な拡大は、1997年以降の香港をより統制しにくいものにすることを意味していた。その統制力は、1989年の天安門事件以降すでに低下していた。天安門事件を受けて「反中国」感情が高まるなか、1991年に初めて直接選挙が導入された立法局選挙では、民主派が歴史的な圧勝を収めていた[8]。
民主派
[編集]立法局に議席を有していた3つの民主派政党、香港民主同盟(UDHK)、匯点(MP)、香港民主民生協進会(ADPL)は、おおむねパッテンの改革案を支持した。ただし香港民主同盟は、改革案が最初に発表された際、香港市民に真の民主主義をもたらすには改革の内容があまりにも消極的であると批判した[12]。
民主派各党は、具体的な選挙方式についてそれぞれ異なる案を提示していた。しかし同時に、政治的安定と円滑な主権移譲を望み、北京政府との直接的な対立を避けようともしていた。
香港民主同盟と匯点(両党は後に1994年に合併して民主党を結成)は、小選挙区制を支持した。香港民主同盟はさらに、選挙委員会が選出する10議席を廃止して30名の議員を直接選挙によって選出することや、功能組別選挙区の有権者を、就業していない女性、学生、退職者にも拡大することを求めた[13]。
香港民主同盟が、選挙委員会と功能組別の双方についてそれぞれ1票を投じる方式を提案したのに対し、香港民主民生協進会は、各市民が功能組別または選挙委員会のいずれか一方に1票を投じる方式を提案した。その後、同党は北京政府との衝突を避けるため、北京側の主導する香港特別行政区籌備委員会に参加し、一部の民主派支持者から批判を受けた。
無所属の立法局議員であった劉慧卿(英語: Emily Lau)やその他の民主派活動家の一部は、これら3政党の比較的穏健な姿勢に不満を抱いていた。劉は、1995年に立法局の全議席を直接選挙によって選出する、より急進的な改革案を求めた[14]。
その後、匯点は劉慧卿が提出した修正案の採決を棄権した。同党は、『香港基本法』に抵触するいかなる措置も中国政府の反発を招き、政情不安や、すでに構築された政治制度の解体につながると考えていたためである。匯点は民主化のさらなる進展を望んでいたものの、北京側を必要以上に敵に回すことは望んでいなかった[13]。
親財界派
[編集]
自由党党首の李鵬飛は、立法局における改革案の主要な反対者であった。立法局では、李が率いる親財界派が北京側の方針に歩調を合わせ、パッテンの改革案に反対した。同派は1993年に自由党を結成し、中英間の対立を交渉によって解決することを目指した。
実業家の羅康瑞(英語: Vincent Lo)が率いる保守系の香港工商専業聯会は、『香港基本法』との「接続(英語: convergence、中国語: 銜接)」を支持し、パッテンの改革案に反対する声明を発表した[12]。
イギリス中国通
[編集]イギリス首相ジョン・メージャーはパッテンの改革案を全面的に支持していたが、元香港総督サー・マレー・マクレホース、元駐中国大使パーシー・クラドック、元香港布政司デイヴィッド・エイカーズ=ジョーンズ(英語: David Akers-Jones、中国語: 鍾逸傑)は、公然とパッテンの改革案に反対する立場をとった。彼らは、北京側と対立することによってイギリスの商業上の利益を損なう危険を冒すことを望んでいなかった[12]。マクレホース卿は1994年3月11日、パッテンが香港問題をめぐる英中間の「協力関係」を損なっていると批判し、「このような思慮を欠いた政治的分極化が香港の利益になるはずがない」と述べた。同年5月18日の貴族院での討論では、ウィルソン卿もマクレホースに同調し、香港の政治制度改革をめぐって中国側に「意図的に欺かれた」と感じさせたことはパッテンの誤りであったと、改めて批判した[15]。
クラドックは一貫してパッテンに強く反対し、英中両政府が承認していた既定のロードマップを損なったとして、たびたびパッテンを批判した。1995年、クラドックはインタビューで公然と、「彼[パッテン]は中国人にとって非常に不快な人物となってしまった」と述べた[16]。また後には、パッテンを「縮みゆく総督(英語: the "incredible shrinking Governor")」と評した[17][18] 。しかしパッテンも沈黙せず、立法局の会議で反撃し、クラドックを「機嫌の悪い引退大使(英語: a "dyspeptic retired ambassador")」と公然と揶揄した[19]。1992年から1997年にかけて、クラドックとパッテンは互いを何度も批判し合い、両者の関係はきわめて険悪なものとなった。
香港世論
[編集]中国政府による威嚇が続くなか、パッテンの改革に対する市民の支持は時折低下し、世論は二極化した。世論調査によれば、市民の多数は改革そのものを支持していたものの、改革が実施された場合には1997年に香港の政治制度を解体すると中国政府が繰り返し警告したことにより、クリストファー・パッテンに対する市民の支持は抑え込まれた[8]。
英中関係
[編集]1993年2月、ダグラス・ハードは銭其琛に書簡を送り、「前提条件なし」での交渉を提案した。同年4月22日、双方は北京で交渉を開始することで合意した。中国側は外交部副部長の姜恩柱、イギリス側は駐中国大使ロビン・マクラーレンがそれぞれ代表を務めた。双方は1994年区議会選挙および1995年立法局選挙の選挙制度をめぐって17回にわたり協議を行ったが、合意には至らなかった[20]。
この交渉は、ハードが銭に書簡を送り、イギリス政府がパッテンの改革案を香港立法局に提出して審議に付すことを決定したと伝えたことで、事実上終結した。これに対して銭は、香港の立法機関の意見が両国政府間の協議に優先することはできないという点は、中国にとって原則にかかわる問題であり、イギリス側が実際にパッテンの改革案を立法局に提出するのであれば、それは二国間交渉の決裂を意味すると回答した[20]。
改革案の採決
[編集]前4項目の改革案を実施する『1993年選挙規定(雑項修訂)(第2号)条例草案(中国語: 1993年選舉規定(雜項修訂)(第2號)條例草案)』と、後3項目の改革案を実施する『1994年立法局(選挙規定)(修訂)条例草案(中国語: 1994年立法局(選舉規定)(修訂)條例草案)』は、それぞれ1994年2月24日と同年6月30日に立法局で可決された[20]。これは、港澳事務弁公室主任の魯平が立法局議員に繰り返し電話をかけ、クリストファー・パッテンが提出した政治制度改革案に反対票または棄権票を投じるよう働きかけていたにもかかわらずであった[21]。
パッテンが提出した政治制度改革案に対しては、14件の修正案が提出された[22]。李鵬飛率いる自由党とその盟友は、功能組別の利益を守るためにパッテン案を修正しようとし、魯も立法局内の協力者に李の修正案を支持するよう働きかけた。そのなかで、香港上海銀行の取締役を兼任していた立法局議員の鄭海泉は、同行取締役会会長のサー・ウィリアム・パーヴスから圧力を受け、自由党の修正案に賛成票を投じた[23]。しかし、自由党の修正案は1994年6月29日、政府側の3名の立法局官守議員が反対票を投じたことにより、28対29のわずか1票差で否決された[24]。
劉慧卿が提出した、1995年立法局選挙で全面的な直接選挙を実施する修正案は、香港民主同盟と香港民主民生協進会の支持を得た。しかし、匯点所属の立法局議員4名が棄権したため、20対21のわずか1票差で否決された。
自由党による修正案、劉慧卿による修正案、およびパッテンによる原案をめぐる立法局での採決結果の詳細は、以下の通りである:
| 議席
区分 |
組別 | 姓名 | 所属政党 | 自由党 修正案[25] | 劉慧卿 修正案[25] | パッテン
原案[25] | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 委任議員 | 主席 | 施偉賢 | 無所属 | 出席 | 出席 | 出席 | |
| 官守議員 | 布政司 | 陳方安生 | 無党籍 | ||||
| 官守議員 | 財政司 | ハーミッシュ・マクレオド | 無党籍 | ||||
| 官守議員 | 律政司 | ジェレミー・フェル・マシューズ | 無党籍 | ||||
| 委任議員 | 委任 | 李鵬飛 | |||||
| 委任議員 | 委任 | 周梁淑怡 | |||||
| 功能組別 | 社会服務界 | 許賢発 | 無所属 | ||||
| 地方選区 | 港島東 | 李柱銘 | |||||
| 功能組別 | 金融界 | 李国宝 | 無所属 | 欠席 | 欠席 | ||
| 功能組別 | 工業界(第二) | 倪少傑 | 欠席 | ||||
| 功能組別 | 労工界 | 彭震海 | 工団 | ||||
| 地方選区 | 九龍東 | 司徒華 | |||||
| 功能組別 | 労工界 | 譚耀宗 | 欠席 | ||||
| 地方選區 | 新界東 | 黃宏発 | 無所属 | ||||
| 功能組別 | 郷議局 | 劉皇発 | 欠席 | ||||
| 功能組別 | 建築、測量及都市規劃界 | 何承天 | |||||
| 功能組別 | 地産及建造界 | ロナルド・アルチュッリ | | ||||
| 委任議員 | 委任 | マーティン・ギルバート・バロウ | 早餐派 | 棄権 | 棄権 | 棄権 | |
| 委任議員 | 委任 | 林貝聿嘉 | 無所属 | | 欠席 | 棄権 | |
| 委任議員 | 委任 | 劉健儀 | | ||||
| 委任議員 | 委任 | 劉華森 | | ||||
| 功能組別 | 医学界 | 梁智鴻 | 棄権 | | |||
| 功能組別 | 商界(第一) | ジミー・マクレガー | 民主會 | | | ||
| 功能組別 | 市政局 | エルシー・トゥ | 無所属 | | |||
| 功能組別 | 会計界 | 黄匡源 | | ||||
| 地方選區 | 新界南 | 陳偉業 | | | |||
| 委任議員 | 委任 | 鄭海泉 | 無所属 | | | ||
| 委任議員 | 委任 | 鄭慕智 | | ||||
| 委任議員 | 委任 | 張建東 | 早餐派 | | |||
| 功能組別 | 教学界 | 張文光 | | | |||
| 功能組別 | 金融服務界 | 詹培忠 | 無所属 | | 欠席 | ||
| 地方選區 | 新界北 | 馮智活 | | | |||
| 地方選區 | 九龍西 | 馮検基 | | | |||
| 委任議員 | 委任 | 夏永豪 | 無所属 | 欠席 | | ||
| 功能組別 | 衛生界 | 何敏嘉 | | ||||
| 地方選區 | 港島西 | 黄震遐 | | ||||
| 功能組別 | 法律界 | 葉錫安 | 早餐派 | 棄権 | | ||
| 委任議員 | 委任 | 林鉅津 | | 欠席 | |||
| 地方選區 | 九龍中 | 林鉅成 | | | |||
| 地方選區 | 九龍中 | 劉千石 | | | |||
| 地方選區 | 新界東 | 劉慧卿 | 獨立 | | |||
| 地方選區 | 新界南 | 李永達 | | | |||
| 委任議員 | 委任 | 李家祥 | 早餐派 | | | ||
| 地方選區 | 九龍東 | 李華明 | 棄権 | | |||
| 地方選區 | 港島東 | 文世昌 | | | |||
| 委任議員 | 委任 | 潘国濂 | | ||||
| 委任議員 | 委任 | 唐英年 | | 欠席 | |||
| 地方選區 | 新界北 | 狄志遠 | 棄権 | | |||
| 地方選區 | 九龍西 | 涂謹申 | | | |||
| 功能組別 | 工程界 | 黃秉槐 | 早餐派 | | 欠席 | | |
| 功能組別 | 商界(第二) | 黄宜弘 | 新 新香港聯盟 | | |||
| 地方選區 | 港島西 | 楊森 | | | |||
| 功能組別 | 旅遊界 | 楊孝華 | |||||
| 地方選區 | 新界西 | 黄偉賢 | 棄権 | | |||
| 地方選區 | 新界西 | 鄧兆棠 | 無所属 | | 欠席 | ||
| 委任議員 | 委任 | 陸恭蕙 | 無所属 | | | ||
| 委任議員 | 委任 | 陸観豪 | 無所属 | 欠席 | |||
| 委任議員 | 委任 | 胡紅玉 | 無所属 | | | ||
| 功能組別 | 工業界(第一) | 田北俊 | | 欠席 | |||
| 功能組別 | 区域市政局 | 曹紹偉 | 自 香港自由民主聯会 | | 欠席 | ||
| 結果 | |||||||
結果
[編集]「新九組」と従来の功能組別との最大の違いは、その選挙方式にあった。1991年の人口センサスで、9つの業種のいずれかに従事していると申告した就業者は、自動的に新九組のいずれかの有権者となった。当時の選挙事務委員会は、「在職者にはもう一票(中国語: 在職人士多一票)」という宣伝スローガンも採用した。新九組はいずれも一人一票で選出され、有権者数は106万人に達したため、この9議席は事実上、直接選挙による議席となった。
パッテンの改革後に実施された選挙では、民主派が過去最大規模の勝利を収めた。1994年9月18日には、パッテンの改革による新たな選挙制度のもとで区議会選挙が実施された。新たに結成された民主党は、18の区議会で75議席を獲得し、最大勢力となった。1995年3月9日の市政局・区域市政局選挙では、民主党が59議席中23議席を獲得し、他の民主派政党と合わせて市政局と区域市政局の双方で多数を占めた。さらに同年9月17日、全議席が選挙によって選出された立法局選挙において、民主派は再び地滑り的な勝利を収めた。
「新九組」から立法局に当選した議員のうち、5名は民主派、1名は伝統親中派(工聯会)、残る3名は工商界の建制派(自由党)であった。内訳は以下の通り:
- 漁農、鉱産、能源及建造界:
曾健成 - 紡織及製衣界:
梁耀忠 - 製造界:
李卓人 - 進出口界:
唐英年 - 批發及零售界:
周梁淑怡 - 酒店及飲食界:
陳栄燦 - 運輸及通訊界:
劉健儀 - 金融、保険、地産及商業服務界:
鄭家富 - 公共、社会及個人服務界:黄銭其濂
当時の北京政府は、パッテンが『基本法』の抜け穴を利用したものとみなし、強い不満を示した。このためパッテンは、当時港澳事務弁公室主任を務めていた魯平から「千古罪人」と非難された。最終的に北京政府は、「直通列車」、すなわち中英両政府の従来の合意に基づき、イギリス時代最後の立法局がそのまま香港特別行政区の第1期立法会へ移行するという取り決めを無効と宣言した。さらに、1993年7月16日には「另起爐灶(別の枠組みを新たに設ける)」ことを決定し、香港特別行政区籌備委員会預備工作委員会および臨時立法会を設置した。預備工作委員会が実際に設置されると、これはイギリス側の対決姿勢が生み出した不幸な産物であるとした[26]。
予備工作委員会は1995年12月に解散し、1996年には香港特別行政区籌備委員会がこれを引き継いだ。籌備委員会は香港特別行政区の成立に関する準備作業を担当し、その一環として香港特別行政区第一期政府推選委員会を設置した。推選委員会は初代行政長官を選出するとともに、1995年に選出された立法局に代わる臨時立法会の議員を選出する役割を担った[27]。臨時立法会は、パッテン改革の大部分を元に戻した。区議会、市政局および区域市政局に任命議席を復活させ、一部の功能界別選挙区では法人投票を再導入した。また、「新九組」の有権者を約2万人にまで縮小し、立法会の地区直選については「一人一区」の小選挙区制を比例代表制へと変更した[28]。
このように選挙制度は最終的に大幅に変更されたものの、パッテンの改革は香港政治の二極化を促し、香港の政治状況に大きな影響を与えた。
影響
[編集]1997年7月に香港特別行政区政府が成立した後、『香港基本法』第68条は、「立法会の選出方法は、香港特別行政区の実情および漸進的かつ秩序ある進展の原則に基づいて定め、最終的に全議員を普通選挙によって選出することを目標とする[29]」と規定していた。しかし、北京の中央政府および香港特別行政区政府はいずれも、立法会の全面的な普通選挙を実現するための具体的な日程や実施案を策定することを拒んだ。特区政府が第1期立法会の功能界別選挙について検討した際には、少数ながら「新九組」を新たな功能界別として採用するよう提案する意見もあったが、政府はこれを採用せず、最終的には当時の28の功能界別(この時新設された体育、演芸、文化及出版界、資訊科技界、および1議席増となった労工界を含む)から議員を選出する方式とした。2000年には、『提供市政服務(重組)条例草案(中国語: 提供市政服務(重組)條例草案)』によって市政局と区域市政局が解散されたことに伴い、飲食界および区議会(第一)が、両市政局に代わる立法会の機能別選挙区となった。
2000年代初頭、香港の政治制度改革をめぐる議論の初期段階においても、立法会の功能界別に「新九組」と同様の方式を導入することで、普通選挙に近い効果を実現できるとの提案が一部からなされた。しかし、民主派は功能界別選挙そのものを廃止し、すべての議席を直接選挙によって選出するよう要求した。その一方、一部の建制派は功能界別選挙を存続させるため、その民主的要素を拡大することを支持しており、梁愛詩もその一人であった[30]。
2011年、功能界別選挙を廃止して全面的な直接選挙を実施することを拒んでいた特区政府と北京政府は、政治制度改革案をめぐる論争の後、全面的な直接選挙を主張する公民党を排除するため、比較的穏健な民主党の提案を受け入れ、区議会(第二)功能界別を導入した。これは、従来の功能界別に属さないすべての有権者をこの選挙区に組み入れ、比例代表制によって5名の議員を選出する制度であった。このため同選挙区は「スーパー区議会(中国語: 超級區議會)」とも呼ばれ、「新九組」と同様に、功能界別の有権者を大幅に増加させ、事実上の直接選挙による議席となった。
その後、民主派が区議会民選議席の多数を占めるようになったことから、区議会(第二)功能界別は2021年の政治制度改革によって廃止された。同改革では同時に、地区直選議席が35議席から20議席へと大幅に削減される一方、40議席が1,488人からなる選挙委員会の内部推薦によって選出される制度へと変更された。
脚注
[編集]出典
[編集]- 1 2 Jonathan Dimbleby (director and presenter) (2007年6月24日). The Last Governor. Episodes 1-5. BBC Parliament (TV documentary). Later the documentary is compiled into a book, Dimbleby, Jonathan (2018). The Last Governor: Chris Patten and the Handover of Hong Kong. Pen and Sword History
- 1 2 Gittings, Danny (1994年10月30日). “I've trodden on a lot of toes”. South China Morning Post.
- 1 2 Patten, Chris (1998). East and West. Macmillan. p. 65. "The seven Hurd-Qian letters, in telegram form, principally concerned the number of directly elected seats in the legislature."
- ↑ Summers, Tim (2021-10-02). “Economic Statecraft in Anglo-Chinese Relations: Recalling the Hong Kong Airport Negotiations”. Diplomacy & Statecraft 32 (4): 792. doi:10.1080/09592296.2021.1996722. ISSN 0959-2296.
- 1 2 Sing 2004, p. 123.
- ↑ Loh 2010, p. 180.
- 1 2 Loh 2010, p. 181.
- 1 2 3 Sing 2004, p. 124.
- ↑ “彭定康:寬宏對待中國罵名”. BBC News. 4 April 2002. 2013年4月25日閲覧.
- ↑ Loh 2010, p. 181-182.
- ↑ Loh 2010, p. 182.
- 1 2 3 Kwok, R. Yin-Wang; So, Alvin Y. (1995). The Hong Kong-Guangdong Link: Partnership in Flux. Hong Kong University Press. p. 262
- 1 2 Sing 2004, p. 145.
- ↑ Chiu, Stephen Wing-Kai; Lü, Dale; Lui, Tai-Lok (2000). The Dynamics of Social Movement in Hong Kong. Hong Kong University Press. p. 43
- ↑ McMillen, Donald Hugh; Man, Si-wai. The Other Hong Kong Report, 1994. p. xxiii
- ↑ "Sir Percy Cradock dies", RTHK English News, 29 January 2010.
- ↑ "Sir Percy Cradock", Telegraph, 28 January 2010.
- ↑ 〈英前駐華大使柯利達病逝〉,《蘋果日報》,2010年1月30日。
- ↑ OFFICIAL RECORD OF PROCEEDINGS, Hong Kong Legislative Council, 13 July 1995.
- 1 2 3 Loh 2010, p. 183.
- ↑ Dimbleby 1997, p. 258-260.
- ↑ Dimbleby 1997, p. 254.
- ↑ Dimbleby 1997, p. 258-259.
- ↑ Chung, Sze Yuen (2001). Hong Kong's Journey to Reunification: Memoirs of Sze-yuen Chung. Chinese University Press. p. 210
- 1 2 3 “Hansard”. Legislative Council of Hong Kong (1994年6月29日). 2016年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年4月27日閲覧。
- ↑ Loh 2010, p. 187.
- ↑ Loh 2010, p. 188.
- ↑ Sing 2004, p. 158.
- ↑ “落實《基本法》第68條:落實普選立法會全部議席”. 2025年10月9日閲覧。
- ↑ 梁愛詩倡功能組別撤公司票 撐議席值得保留 建議調整界別增選民 アーカイブ 2008年1月13日 - ウェイバックマシン,《明報》,2008年1月5日
参考文献
[編集]- Dimbleby, Jonathan (1997). The last governor: Chris Patten & the handover of Hong Kong. London: Little, Brown and Company. ISBN 0316640182
- Loh, Christine (2010). Underground front. Hong Kong University Press. ISBN 9789622099968
- Sing, Ming (2004). Hong Kong's Tortuous Democratization: A Comparative Analysis. Routledge. ISBN 0203180402
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Green Paper: The further development of representative government in Hong Kong., Hong Kong, China : Government Printer, 1984.
- 立法局新九組-各行有代表 在職多一票 30秒廣告 アーカイブ 2021年8月11日 - ウェイバックマシン
- 立法局新九組-各行有代表 在職多一票 一分鐘廣告 アーカイブ 2021年8月11日 - ウェイバックマシン
- "Hong Kong Constitutional Reform", 3 March 1994, C-SPAN
- The Last Governor of Hong Kong 1 - A Democratic Time-Bomb – YouTube: BBC documentary series of the last governor of Hong Kong
- The Last Governor of Hong Kong 2 - Restraint in Difficult Circumstances – YouTube: BBC documentary series of the last governor of Hong Kong
- The Last Governor of Hong Kong 3 - Lewis Carroll Country – YouTube: BBC documentary series of the last governor of Hong Kong
- The Last Governor of Hong Kong 4 - Loosening the Screws – YouTube: BBC documentary series of the last governor of Hong Kong
- The Last Governor of Hong Kong 5 - Another Balls-Aching Week – YouTube: BBC documentary series of the last governor of Hong Kong