201型潜水艦
| 201型潜水艦 | |
|---|---|
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| 基本情報 | |
| 艦種 | 潜水艦 |
| 就役期間 | 1962年~1967年 |
| 前級 | 240型, 241型 |
| 次級 | 205型 |
| 要目 | |
| 排水量 |
水上: 395 t 水中: 433 t |
| 全長 | 43.5 m |
| 最大幅 | 4.6 m |
| 機関 | ディーゼル・エレクトリック方式 |
| 主機 | 電動機×1基 |
| 推進 | スクリュープロペラ×1軸 |
| 出力 | 電動機: 1,700 hp |
| 電源 | メルセデス・ベンツ式ディーゼル発電機×2基 |
| 速力 |
水上: 10ノット 水中: 17ノット |
| 航続距離 |
水上: 2,750海里 水中: 270海里 |
| 潜航深度 | 159 m |
| 乗員 | 21名 |
| 兵装 |
533mm魚雷発射管×8門 (魚雷8本または機雷21基) |
201型潜水艦 (201がたせんすいかん、ドイツ語: U-Boot-Klasse 201) は、ドイツ連邦海軍(西ドイツ海軍)が運用していた通常動力型潜水艦の艦級。西ドイツ建国後に初めて新規に建造された艦級であり、第二次世界大戦中のUボートとは全く異なる要求事項に基づいて設計されたため、極めて小型の艦型である。
来歴
[編集]第二次世界大戦後、連合軍軍政期においてドイツは一旦は非武装化された。しかし冷戦構造の成立に伴い、1949年のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国後、1954年にパリ協定に調印して北大西洋条約機構(NATO)・西欧同盟(WEU)に加盟するとともに、再軍備が承認された[1][2][3]。ただしこの際、保有できる軍備については制限が付され[1]、潜水艦については、個艦の排水量を350トン以下とするように求められた[2][4]。
この制約の下、1955年3月8日からは潜水艦隊整備についての検討が着手された[2]。この検討の過程で、350トンという制約内で所定の要求を達成することは不可能であると判明、西ドイツは制約を緩和するよう運動し、1961年のベルリンの壁建設など緊張が高まっていたこともあり、1962年10月19日には個艦排水量の上限が450トンに引き上げられた[2][1][注 1]。
この間、1956年に発足した連邦海軍(Bundesmarine; 西ドイツ海軍)においては、ドイツ海軍の伝統的任務であるという他、NATOの海洋防衛戦略の面からもバルト海の安定が重視され、ここを西進してくるソ連海軍への対抗が求められた[3]。上記の排水量制限という事情もあり、西ドイツの潜水艦は、水深25メートルの浅海域でも高い隠密性を保ち、対潜戦部隊や機雷が密集している可能性が高い海域でも活動可能な小型潜水艦として開発されることになった[3]。
戦後初の国産潜水艦は、当初は55型、後には201型と称されるようになった[2]。設計作業はウルリッヒ・ガブラーを中核として進められ[5]、1957年にガブラー自身が創業者となってインジェニエーアコント・リューベック(Ingenieurkontor Lübeck: IKL)社が設立されると、こちらに移管された[2]。1958年末にほぼ設計は確定され、1959年3月には3隻の取得が承認された[2]。
設計
[編集]上記の経緯より、201型は、コンパクト化を重視した単殻構造の単軸推進艦となった[6]。艦型の小型化は、アクティブ・ソナーに対するターゲット・ストレングス(TS; レーダーでのRCSに相当する概念)低減とともに、磁気探知機(MAD)対策という点でも恩恵があった[6]。耐爆強度を得るため耐圧殻の板厚を増しており、重量軽減のため耐圧横隔壁はない[6]。浸水事故に備えて、バラスト・タンク内にはヒドラジンガスを急速に発生させる装置が設置された[6]。なおセイルは、この時期の潜水艦としては一般的な段付きの形態とされたが、201型では艦型の小ささもあり、下段の露天艦橋の高さが不足し、見張り能力の制約につながった[7]。
耐圧殻の材料としては、当初は大戦期にも用いられていた定評あるSt 52高張力鋼が予定されていたが、MADによる探知確率を低減できる非磁性鋼(AM10調質[5])が実用化されたことで、こちらに切り替えられた[2]。しかし1962年6月、就役直後の1番艦において、船殻の腐食の最初の徴候が認められ[8]、1年後の1963年夏には、1・2番艦において、内部結晶腐食による張力亀裂の発生が確認された[2]。その拡大を抑制できず、両艦は1963年に退役して[2]、後に船殻材料をSt 52高張力鋼に変更、設計も205型に準じて変更したうえで再建造された[8][9]。一方、3番艦は就役後にノルウェー海軍に貸し出されており、同国周辺海域が寒冷であるためにこの問題は発生しなかったものの、ドイツに返還された後にはやはり早期退役となった[2]。この問題は腐食試験に使われた鋼材のサンプルの取り違えが原因とされ、「鋼材危機」(Stahlkrise)として大きなスキャンダルとなった[5]。
設計にあたり、大戦期の多くの経験、特に水上でのUボートの機能などが見直された結果、推進装置については根本的に考え方が改められた[6]。大戦世代のUボートでは、ディーゼル直結推進方式による2軸推進が採用されていたのに対し、技術発展を踏まえて、本型ではディーゼル直流発電機2基と二重電機子式の電動機によるディーゼル・エレクトリック方式で1軸を駆動する構成が採用された[6]。電池は3群構成とされた[6]。なお、水中放射雑音低減のため、艦内の機器類は全て緩衝装置を介して取り付けられている[6]。また燃料タンクは全て耐圧殻内に配置され、爆雷攻撃による漏油を防いでいる[6]。
装備
[編集]201型では、攻撃力と艦内容積確保を両立しつつ、排水量を制限内に抑えるため、発射管は船型に比して圧倒的に多い8門とされ、代わりに予備魚雷は廃止された[2]。これにより発射管室の長さを抑えたほか、次発装填に必要な補水・補重タンクも不要となり、船体の小型化を達成した[9]。
一方、艦型に対してソナー装備は充実しており、船体にはWSU型ソナー、艦橋には大戦期のペリフォンから発達したM1H射撃指揮用ソナーを備えた[7]。
同型艦一覧
[編集]| # | 艦名 | 造船所 | 起工 | 就役 | 退役 |
|---|---|---|---|---|---|
| S180 | U1 | HDW | 1960年 6月8日 |
1962年 3月20日 |
1963年 6月22日 |
| S181 | U2 | 1960年 9月1日 |
1962年 5月3日 |
1963年 8月15日 | |
| S182 | U3 | 1960年 10月12日 |
1964年 6月20日 |
1967年 9月15日 | |
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- 1 2 3 4 Broszka, Hauswedell & Weiner 1989.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 大塚 2020, pp. 154–155.
- 1 2 3 宮永 2025.
- ↑ Submarines (Hansard, 1 February 1960). House of Commons of the United Kingdom. UK Parliament. 1960年2月1日.
- 1 2 3 野木 2020.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 水上 1998.
- 1 2 大塚 2020, p. 132.
- 1 2 Gardiner 1996, pp. 146–147.
- 1 2 大塚 2020, pp. 134–137.
参考文献
[編集]- 大塚好古「ドイツ潜水艦史」『世界の艦船』第926号、海人社、9-155頁、2020年6月。 NAID 40022254010。
- 野木恵一「輸出市場を席巻したドイツ潜水艦」『世界の艦船』第926号、海人社、172-175頁、2020年6月。 NAID 40022254010。
- 水上芳弘「潜水艦 (第2次大戦後のドイツ軍艦)」『世界の艦船』第542号、海人社、76-79頁、1998年9月。doi:10.11501/3292326。
- 宮永忠将「ドイツ(特集 進化する通常動力潜水艦)」『世界の艦船』第1042号、海人社、86-89頁、2025年7月。CRID 1520867454582987520。
- Broszka, Martin; Hauswedell, Corinna; Weiner, Klaus Peter (1989), “(West-)Europäisierung der Sicherheitspolitik oder neue Friedenspolitik in Europa”, Dossier (Wissenschaft und Frieden) (4)
- Gardiner, Robert (1996), Conway's All the World's Fighting Ships 1947-1995, Naval Institute Press, ISBN 978-1557501325
外部リンク
[編集]- Taucher.net (ドイツ語)
- 1954 - Protocol No. III (and annexes) on the control of armaments, October 23 - 軍備制限に関する議定書III (1954年10月23日)