230年代
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| 千年紀: | 1千年紀 |
|---|---|
| 世紀: | 2世紀 - 3世紀 - 4世紀 |
| 十年紀: | 200年代 210年代 220年代 - 230年代 - 240年代 250年代 260年代 |
| 年: | 230年 231年 232年 233年 234年 235年 236年 237年 238年 239年 |
できごと
[編集]中国
[編集]- 230年、魏の曹真が複数路を経由した大規模な蜀への侵攻を行ったが、本隊は大雨により漢中に到達できず、分散した諸軍は諸葛亮率いる蜀軍に局地的に敗北した(子午の役)。
- 231年、前年の勝利により勢いを得た蜀軍は、第四次北伐を祁山にて実施し、司馬懿の軍と対峙した。この戦いでは蜀軍がしばしば勝利を得るが、兵糧不足により撤退した。また、この戦いで魏軍の張郃を討ち取り[1]、曹真は戦前に病死した[2](祁山の戦い)。
- 233年、呉の皇帝である孫権が合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったので上陸しようとしなかった。魏の将満寵は孫権は魏が弱気になっているのではないかと決めつけ、必ず襲撃してくるに違いないと判断し、伏兵として歩騎兵を六千用意したところ孫権が上陸して攻めかかってきた。伏兵らは数百人の首を取った(合肥の戦い)[3]。
- 234年、蜀の諸葛亮は第五次北伐を五丈原にて実施したが、これが諸葛亮にとっての最後の北伐となった。諸葛亮は魏の司馬懿に対し五丈原付近で戦闘を繰り返し、挑発等の行動を続けたが、結局陣没し、蜀軍は策略にて撤退を成功させた(五丈原の戦い)。また、呉は諸葛亮の北伐に呼応し、合肥・襄陽・広陵・淮陰に侵攻したが、魏の皇帝曹叡が親征したため撤退・大敗した(合肥の戦い)。その頃、蜀では魏延という将が蜀に背き、反乱を起こしたが、馬岱に討たれた。
- 238年、遼東の公孫淵が魏に反乱を起こしたが、司馬懿に鎮圧され、公孫淵らは処刑された(遼隧の戦い)。
- 239年、魏の皇帝である曹叡が崩御し、養子の曹芳が皇帝となった[4]。
ヨーロッパ及びローマ帝国周辺
[編集]- 235年、ローマ帝国でマクシミヌス・トラクスが即位(-238年4月)。軍人皇帝時代の始まり[要出典]。
- 238年、ローマ内戦(6皇帝の年)が発生した。3月22日、ゴルディアヌス1世が皇帝に即位、息子のゴルディアヌス2世を共同皇帝に指名。4月12日、ゴルディアヌス2世が戦死、ゴルディアヌス1世が自死。4月22日、マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムスとデキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌスが共同で皇帝、ゴルディアヌス3世が副帝に即位。5月10日、マクシミヌス・トラクスがプラエトリアニ(近衛軍団)により殺害される。7月29日、プピエヌス・マクシムス、バルビヌスがプラエトリアニにより殺害される。ゴルディアヌス3世が単独皇帝となる。
脚注
[編集]注釈
出典
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]
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