アイカズ・コスタニャン

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アイカズ・アルシャコヴィチ・コスタニャン
Айказ Аршакович Костанян
Հայկազ Արշակի Կոստանյան
生年月日 1897年(または1898年)
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国チフリス県(ロシア語版)チフリス郡チフリス
没年月日 1938年2月13日
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の国旗 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ、コムナルカ射撃場
出身校 ネルシシアン学校(英語版)卒業
赤色教授学院(ロシア語版)歴史学部
サラトフ大学(ロシア語版)医学部(中退)
ゲヴォルギアン神学校(中退)
所属政党 ボリシェヴィキ
称号 レーニン勲章(1936年)

アルメニア共産党(英語版)(ボ)中央委員会
第一書記
在任期間 1928年4月5日 - 1930年5月7日

全連邦共産党(ボ)クリミア州委員会
責任書記
在任期間 1930年5月12日 - 12月

アルメニア社会主義ソビエト共和国
労働・社会保障人民委員
在任期間 1920年12月12日 - 1921年5月21日
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アイカズ・アルシャコヴィチ・コスタニャン(ロシア語: Айказ Аршакович Костанян、1897年〈または1898年〉 - 1938年9月21日)、民族名ハイカズ・アルシャキ・コスタニアン(アルメニア語: Հայկազ Արշակի Կոստանյան)[1]は、アルメニア人のボリシェヴィキ。ロシア語で名はガイカズ (Гайказ)、ガカズ (Гаказ)、父称はアルカジエヴィチ (Аркадьевич)、姓はコスタニヤン (Костаньян)、カスタニヤン (Кастаньян) とも[2]。

生涯

前半生

1897年(または翌年[3])、ロシア帝国チフリス県(ロシア語版)チフリスの貧しいアルメニア人の[4]馬具職人の家庭に生まれた[2]。1905年にチフリスのネルシシアン学校(英語版)に入学し、1916年に卒業[2]。1915年から1916年まではヴァガルシャパトのボリシェヴィキ党組織で活動し、同年9月から党員となった[2]。同地では1917年3月に閉校されるまでゲヴォルギアン神学校 (en) で学び、アナスタス・ミコヤン、アルタク・スタンボリツャン (hy) らとともにマルクス主義サークルを組織した[2]。その後はバクーに移り、3月から10月までバラハヌィのアルメニア人地区で宣伝活動に従事し、同時にステパン・リアノゾフ(アルメニア語版)所有のロシア石油産業連合の石油部門でも働いた[2]。

革命期

その後サラトフへ移ってサラトフ大学(ロシア語版)医学部で1年間学び、現地では党サラトフ委員会附属アルメニア人共産主義局書記、サラトフ民族問題部書記および公教育部副部長を1918年から翌1919年8月まで務めた[3]。同月から11月までは党カフカース地方委の指令によりバクーとチフリスの党組織を監査し、翌1920年1月にはエレヴァンでボリシェヴィキの地下組織に参加[2]。同月から11月までチフリスで[2]アルメニア共産党(英語版)国外局議長を務めた[3]。グルジア民主共和国政権に弾圧されてアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国のバクーに逃れたが、同年のアルメニア第一共和国政権に対する五月蜂起(英語版)に参加するためエレヴァンに移り、蜂起の失敗後は再びチフリスへ逃れた[2]。その後当局に逮捕されてメテヒ(英語版)刑務所に収監されたが、同志が看守に賄賂を送ったことにより7月にはバクーへ脱走した[2]。

バクーでは赤軍第11軍革命軍事会議議長を務め、またミコヤン、アヴィス・ヌリジャニャン (hy) とともに「ダシュナク党員」の無差別な弾圧に加担した[2]。9月の東方諸民族大会開催にも関わり、同月10日にはロシア共産党中央委カフカース局 (en) の指令によってヌリジャニャン、イサーク・ドヴラチャン (hy)、アガシ・ハンジャン(英語版)、サアク・テル=ガブリエリャンらとともに[2]、1922年1月26日までアルメニア共産党中央委員に就いた[3]。アルメニア社会主義ソビエト共和国の成立後は1920年12月12日から翌1921年5月21日まで労働・社会保障人民委員に就き、翌1922年からはグルジア共産党(英語版)中央委組織部部長、同年から1925年までは全グルジア中央執行委幹部会メンバー[2]、1922年10月から1925年11月30日までは党中央委書記に就いた[3]。

後半生

1925年から1928年4月[3]まではプロフィンテルン組織部部長および書記を務め、エルンスト・テールマン、モーリス・トレーズ、クン・ベーラ、パルミーロ・トリアッティらと親交を持った[2]。また1926年から1928年までは赤色教授学院(ロシア語版)歴史学部で学んだ[2]。同年4月5日からはアルメニア共産党中央委第一書記に就き[3]、1930年4月には当時アルメニアで行われていた急進的な農業集団化に対し、現地の農業事情を考慮してないとの批判を加えた[2]。しかし、直後の翌5月7日には第一書記を解任され、その後同月12日から12月までは全連邦共産党クリミア州委責任書記を務めた[3]。

同年7月30日から1934年1月26日までは党中央統制委(ロシア語版)メンバー、1931年から1934年8月までは再度プロフィンテルン書記を務め、同月からはジェルジンスキー (ru) 政治部部長を、1936年1月からはソビエト連邦鉄道人民委員部 (ru) 附属ソビエトメンバーを1937年7月まで務めた[3]。1936年4月には鉄道輸送のノルマ超過と輸送技術の発達への貢献を賞してレーニン勲章を授与された[3]。

しかし、1937年7月10日夜にモスクワの自宅で逮捕され、翌1938年4月20日に連邦最高裁軍事参議会(ロシア語版)によって反革命的テロ組織への参加を理由に死刑判決を下され、同21日朝にコムナルカ射撃場で銃殺された[4][2]。その後、1956年5月に名誉回復(ロシア語版)がなされた[4]。

脚注

  1. ↑ Մ. Հովհաննիսյան (1979). ԿՈՍՏԱՆՅԱՆ. Հայկական Սովետական Հանրագիտարան. Vol. 5. Երևան: Հայ սովետական հանրագիտարան հրատարակչություն. ヴィクトル・アンバルツミャン. pp. 620–621.
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 Мирзоян Г. СОВЕТСКИЕ ПРАВИТЕЛИ АРМЕНИИ // Ноев Ковчег : газета. — М., декабрь 2008. — № 12 (135).
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 Костанян Айказ Аркадьевич. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年5月24日閲覧。
  4. 1 2 3 Костанян Айказ Аркадьевич. Сахаровский центр. 2018年5月25日閲覧。
党職
先代
ガイク・オセピャン
アルメニア共産党(ボ)中央委員会第一書記
1928年4月5日 - 1930年5月7日
次代
アガシ・ハンジャン(英語版)
先代
ニコライ・コズロフ(ロシア語版)
全連邦共産党(ボ)クリミア州委員会責任書記
1930年5月12日 - 12月
次代
エヴゲニー・ヴェゲル
公職
先代
なし
アルメニア社会主義ソビエト共和国労働・社会保障人民委員
1920年12月12日 - 1921年5月21日
次代
ドラスタマット・テル=シモニャン