オリエンタル・バンク

オリエンタル・バンク(英語: Oriental Bank Corporation)または英国東洋銀行(えいこくとうようぎんこう)は、19世紀のイギリス領インド帝国にあった銀行(植民地銀行)である。アジア・オセアニア地域で営業した。香港と日本では造幣局を設立した。1842年から1892年まで営業した。
概要
1842年、インドのボンベイで設立された。当時は「バンク・オブ・ウェスタン・インディア」という名称だった。中国は広東貿易を行っていたが、南京条約(1842年)によって新たに開港した都市群[1]への進出を準備した。1845年に本社をロンドンへ移転する際に「オリエンタル・バンク・コーポレーション」に改称した。
1851年、イギリス東インド会社に続いてアヘン貿易の特許状を得た。支店はカルカッタ、コロンボ、シンガポール、香港、上海、シドニー、オークランド、ダーバン、モーリシャス、横浜[2]などへ展開した。
1860年代、オリエンタル・バンクの活動はインド・中国を軸にしていた。スリランカのプランテーションへ資本を集中投下したが、そこにはずっと以前から手ごわい先客がいた。英領セイロン総督のはじまる前から、スリランカにはバークレイズのデイビッド・バークレイがプランテーションをもっていた。そしてオリエンタル・バンクの来たときにはマイアー・アムシェル・ロートシルトの孫モーリス・ベネディクト・ド・ウォルムズの所有地であった。ウォルムズ家は200家族の一つであり、モーリスが1867年に死んでも農園の継承者はソロモンなどいくらでもいた。この頃からオリエンタル・バンクは投下資本の回収が滞り、貸し渋りをするようになった。
1866年の恐慌を乗り切るも、会長のハリー・ゴードンがオーバーレンド・ガーニー商会取締役兼任であったのをとがめられて辞任。
1873年と1875年に不安定なチリ政府公債の発行に関与し、これがもとで1878年に9万ポンドの損失を計上。
1877年末、「諸支店での損失」補填のため準備金を17万5000ポンド取り崩し。翌年末、チリでの損失以外で、オーストラリアを含む諸地域の支店で発生した焦げ付きなどの損失補填に24万ポンド、銀価格下落に伴う損失補填に18万ポンドを充当した。
1884年、特許状の禁じる半額減資を断行した。取り付け騒ぎが起きて、預金者をなだめるためリストラをした。各支店から株式を発行、「ニュー・オリエンタル・バンク・コーポレーション」として再出発した。セイロンで100万ポンド焦げつかせた過去に懲りず経営を拡大させていった。1884年の前後でウォルムズ家のヘンリーが政界に頭角を現した。1888年、彼は国際砂糖会議の議長を務め初代ピアブリッジ男爵となった。それから1892年まで植民省副大臣の地位にあった。英領セイロンの仕組みを確認する。牧村慶治の著した『「セイロン」島攻略資料 其ノ二 1』[3] によると、その政体はインドから完全に独立しており、植民大臣の直轄とされていた。総督は大臣から命を受けて任期6年を務めるにすぎない。そして植民大臣は南アフリカ情勢に釘付けである。そこで、副大臣のピアブリッジ男爵ヘンリー・ドゥ・ウォルムズが一族の利益でセイロンを支配した。オリエンタル・バンクは追い出された。
オリエンタル・バンクは世界中に支店を展開したが、それらをベアリング恐慌が直撃した。香港上海銀行やインド・オーストラリア・中国チャータード銀行に競り負けて、1892年6月8日に清算された。オリエンタル・バンクは純利益のほとんど全てを配当していた。準備金積み立ては主として増資のプレミアムで行われていた。株主の構成に大変興味が持たれる。債権者は対照的に、倍額責任条項がなかったため重い損害を被った。
日本との関係
幕末の1864年に横浜支店を開設した。幕末から明治維新にかけて一般にオリエンタル・バンクと呼ばれたが、明治期の文献にはしばしば英国東洋銀行と書かれた。
江戸幕府は第二次長州征討の費用を借り入れた。明治政府が幕府から引き継いだ対外債務は600万両に達した。このうち450万両がオリエンタル・バンクやオランダ商館からの借入金で、利率は15から18.2%であった。残り150万両は下関戦争の賠償金であった。
1868年、ハリー・パークスの紹介で訪れた大隈重信に50万ドルの貸付を承諾。この資金で政府は横須賀製鉄所を接収した。かつてフランスの抵当に入っていたものがイギリスのものとなった。オリエンタル・バンクはロンドンで外債を発行し、日本最初の鉄道の建設資金を調達した[4]。明治政府は地租改正(1873年)で税収が安定するまで外債だけが頼りだった。
オリエンタル・バンクは「円 (通貨)」の創設にも関与した[5]。1869年、明治政府と貨幣鋳造条約を結んだ。造幣局の設立と運営に関する基本契約である。契約により同行のトーマス・ウィリアム・キンダーが造幣局長に就任した。キンダーは香港での経験をふまえた具体的かつ詳細な提言をした。
新貨条例(1871年)の原案は基本的に政府案だったが、オリエンタル・バンクのロバートソンが若干の変更を提案した。伊藤博文が金本位制を主張していたが、世界ではグレシャムの法則から銀本位制の方が有利だという考え方が根強く、元頭取のWilliam Cargill の意見も入れて金銀複本位制に落ち着いた。
1870年、パークスの紹介で政府と接触したホレーショ・ネルソン・レイが、政府から12%の利子をとり公債所持人に9%払うというレイ借款を公募した[6]。隠密行動を買われての裁量であったのに、独断による公募でしかも利ざやをとった。政府はオリエンタル・バンクに仲介してもらい、レイとの契約を破棄した。もっとも、レイの行動は契約書の範囲であった[7]。
同じく1870年の7月、オリエンタル・バンクはパーキンス・ベーコン社へ取次ぎ、政府のために新洋銀券を発行させた[8]。横浜為替会社の旧洋銀券は粗悪であった。新洋銀券は造幣の外注として明治通宝に先駆けた。横浜為替会社は第二国立銀行となってから、新規に洋銀券を発行こそしなかったが、すでに流通しているものは回収しなかった。むしろ流通を促進するため、オリエンタル・バンク及び香港上海銀行と契約して洋銀を預託した。オリエンタル・バンクに対しては常時5万ドルを無利息で預け、手形が5万ドルを越えたときのみ決済に用いるようにした。香港上海銀行に対しては毎日決算し、銀行間決済において第二国立銀行が貸しになるときは年利2%の利子を受けて、逆に借りとなったときは年利5%の利子を支払うこととしていた。準備銀が残っていた第二国立銀行は、神戸でも30万ドル分の洋銀券を発行した。
1873年には吉田清成との交渉で外債を引受。翌年から三井財閥にも融資を行った[9]。
オリエンタル・バンクが引き受けていた外債元利支払事務は横浜正金銀行(1880年設立)が引き継いだ。
脚注
- ↑ 中国では東藩滙理銀行と書かれた
- ↑ 1864年8月開店。資本金126万ポンド、準備金25万2000ポンド
- ↑ 昭和18年4月作成。3コマ目。アジア歴史資料センターから閲覧可能
- ↑ “ジャパン・アーカイブズ”. 2026年8月27日閲覧。
- ↑ “早稲田ウィークリー”. 2026年8月29日閲覧。
- ↑ パリのエルランジェ商会が引き受けてシュローダー商会を窓口に公募した。エルランジェ商会はそれまでにアメリカ連合国のコットン・ボンドを引受けた後、ロンドンにやってきてチュニジアやギリシャなどの国債を引受けていた。レイ借款のあとは、1875年に4.5%利付きスウェーデン国債2700万マルクを引受けた。
- ↑ "Loan" という文言は私募債以外に公債をも指した。
- ↑ オリエンタル・バンク自らは洋銀券を発行しなかったので、他の外銀と違い政府は信頼していた。
- ↑ “三井の苦難”. 2026年10月19日閲覧。
参考文献
- 『オリエンタル・バンクより50万ドルを租借す』、神長倉真民『明治維新財政経済史考』。東邦社、1943年。
- 『英国東洋銀行と我国との関係』、関山直太郎『日本貨幣金融史研究』。新経済社、1943年。
- 立脇和夫 『明治政府と英国東洋銀行』 中央公論社 1992年
外部リンク
- 立脇和夫 大阪造幣局の建設とオリエンタル・バンク 長崎大学 東南アジア研究所 1986年