キング・クランシー
| キング・クランシー | |
|---|---|
|
オタワ・セネターズ時代 | |
| 本名 | フランシス・マイケル・クランシー |
| 原語名 | Francis Michael Clancy |
| 愛称 | キング |
| 生誕 |
1902年2月25日 オンタリオ州オタワ |
| 死没 |
1986年11月8日(84歳没) オンタリオ州トロント |
| 身長 | 5 ft 7 in (1.70 m) |
| 体重 | 155 lb (70 kg; 11 st 1 lb) |
| ポジション | ディフェンスマン |
| ショット | 左打ち |
| 所属したチーム |
オタワ・セネターズ トロント・メープルリーフス |
| プロ選手期間 | 1921年 – 1937年 |
| 1958年殿堂入り | |
キング・クランシー | |
|---|---|
|
King Clancy | |
| 職業 |
プロアイスホッケーコーチ プロアイスホッケー審判員 |
| 活動期間 | 1937-1956 |
| 雇用者 |
モントリオール・マルーンズ ナショナルホッケーリーグ シンシナティ・モホークス ピッツバーグ・ホーネッツ トロント・メープルリーフス |

キング・クランシー(英語: Francis Michael "King" Clancy, 1902年2月25日 - 1986年11月8日)は、カナダ連邦オンタリオ州オタワ生まれのプロアイスホッケー選手、コーチ、審判、経営幹部。ポジションはディフェンスマン。
クランシーのニックネーム「キング」は、初代「キング・クランシー」でありオタワ・ラフライダーズでカナディアンフットボールをプレーした父トムに由来する。「ヒーラーズの王」または略して「王 (King)」と呼ばれており、このニックネームは最終的に息子に引き継がれた。[1]
経歴
セントジョセフ高校やオタワのジュニアチームで優秀な活躍をし、1918-19シーズンには、オタワのシニアチームであるセント・ブリジッズで3年間のシーズンを始め、その後NHLのオタワ・セネターズとプロ契約を結んだ。
18歳のクランシーはリーグでプレーした最初の10代選手となり、1923年と1927年にセネターズのスタンレーカップ優勝に貢献し、NHLの最初の王朝の一員となった。[2]オタワ在籍中に4度の2桁得点を記録し、自陣のゾーンを守る際にはあらゆるトリックを駆使することで知られていた。
1930-31シーズンの大恐慌の真っただ中、悪化する一方であったセネターズの財政状況で、当時のホッケー史上最大の取引となる35,000ドル+2人の選手とのトレードでトロント・メープルリーフスと契約した。
カリスマ性のある闘志あふれるクランシーがブルーラインに加わりハップ・デイとの名コンビを形成し、リーフスは大きく改善された。クランシーはトロントに成功をもたらし、トロントでの2年目、メープルリーフ・ガーデンズでの初シーズンとなる1932年にメープルリーフスとしてのフランチャイズ初のスタンレーカップを手にした。彼はリーフスでの最初の4シーズンすべてにおいてNHLオールスターチームに選出されている。
1936年11月24日に現役を引退した時点で、592試合でNHLディフェンスマン史上最多の136ゴール283ポイントを記録した。当時のディフェンスマンとしては珍しい2桁ゴールを記録し、3シーズンでリーグのポイントトップ20に入った。
現役引退後、1937-38シーズン前半はモントリオール・マルーンズのコーチを務め、その後NHLの審判として11年間勤務した。

1949年にモントリオール・カナディアンズはクランシーをアメリカンホッケーリーグのファームチーム、シンシナティ・モホークスのコーチに迎え入れ、2シーズンの負け越しの後、メープルリーフスのAHL傘下チームであるピッツバーグ・ホーネッツのコーチとして復帰し、1951–52シーズンにカルダーカップ優勝を果たし、翌年は決勝7試合で敗れた。
1953年から1956年までリーフスのコーチを務め、その後チームの広報役としてアシスタントゼネラルマネージャーに昇進し、1960年代のリーフス王朝に関わった。1971-72シーズンには暫定コーチとして15試合に復帰した。メープルリーフガーデンズの副社長も務め、[3]1986年の死去までリーフスの親善大使を務めた。
プレーと影響
クランシーはアイスホッケーを「喜びに満ちたゲーム」と表現し、まさにその楽しみのためにプレーしていた。身長5フィート7インチ(170センチ)、体重150ポンド(約68キロ)という小柄なホッケー選手でありながら、クランシーは非常にタフで粘り強く、自分よりはるかに大きな相手に立ち向かうことを決して恐れなかった。ある時、手に負えないボストンのファンと試合後に決着をつけようと挑みかかった相手は、実はヘビー級ボクシング世界チャンピオンのジャック・シャーキーだったという逸話も残っているが、1対1のファイトではほとんどが上手くいかなかった。
NHLにおけるファイティングの伝統は、クランシーの時代に最も色濃く表れていたこともあり、毎晩のように乱闘騒ぎがあった。1932年2月に行われたモントリオール・マルーンズ対トロント・メープルリーフス戦の終盤に起きた激しい乱闘では、パンチが空振りして代わりにゴールポストを直撃してしまったネルス・ステュワートの腕を掴んで、彼の脱臼した親指を元の位置にはめ直すと、再びステュワートにパンチを見舞って乱闘を再開させたり、アウェイの試合で対戦相手にフェンス際へ押し付けられると、観客が身を乗り出してクランシーの口元を思い切り殴りつけ、時には殴った客を追ってスタンドに飛び込み、そこでもまた殴られるといった逸話はクランシーの本質の一部であり、彼の陽気な不屈の精神と勝利への意志を表すものであった。
試合中はチームメイトや審判、対戦相手と常に「対話」を続けていた。言葉で相手を翻弄する厄介な存在であり、エディ・ショアを激しくボードに叩きつけた際にショアの報復を言葉で茶化して丸め込んだり、ショアを激高させる言葉で審判へのミスコンダクトペナルティを引き出し、ショアがペナルティボックスに入っている間にリーフスが4得点を挙げ試合に勝利するなど、いわゆるペストプレーヤーの先駆け的存在であった。ある試合では、デトロイト・レッドウィングスのテッド・リンジーが「クランシー、お前は俺が見てきた中で一番理解できない野郎だ。」と言うと、クランシーは「テッド、お前だってゴールの位置がよく分かってないじゃないか。」と言い返した。
主にディフェンスマンであったが、すべてのポジションをこなした。1923年12月27日のスタンレーカップ決勝でのエドモントン・エスキモーズとの対戦で、セネターズのレギュラーの主力5人 (ジェラード、ブーシェ、ナイバー、デネニー、ブロードベント) が離脱した際に、クランシーがそれぞれの代わりを務めた。そしてゴールテンダーのクリント・ベネディクトがペナルティを科された際に、彼はスティックをクランシーに渡して「戻るまでこの場所を頼む」と言い(当時はゴーリーも退場だった)、クランシーは信じられないという表情で2分間を無失点に抑えた。これによりクランシーはスタンレーカッププレーオフですべてのポジションをこなした唯一の選手となった。1932年3月15日にもゴーリーとして1分間出場し、1失点を記録した。
氷上では素晴らしいスケーターでありスティックハンドラーでもあったクランシーは、ラッシュ(自らパックを運んで攻め上がる)を最初に始めたディフェンスマンの1人であり、守備では力強いボディチェックをプレーしていた。セネターズ1対0のリードで迎えた1923年のスタンレーカップ決勝第2戦の第3ピリオド、クランシーは持ち前のスピードとスティックさばきを活かし、可能な限り長くパックをキープするよう指示された。20分間のピリオドのうち15分間近くはパックを保持していたといい、オタワはリードを保った。クランシーはこの試合を「人生最高のプレー」と評し、セネターズはこの3回戦制のシリーズを制してカップを獲得した。翌1923-24シーズンの終盤にはディフェンスマンとしてハットトリックの快挙を達成し、1927年のスタンレーカップ優勝の頃には、ファンの絶大な人気を得ていた。
1934年3月17日、リーフスとそのファンはクランシーを称えて”キング・クランシー・ナイト”を開催した。彼は多くの贈り物を受け取り、大きな王冠と威厳ある衣装を着せられ、アイルランド人のクランシーは試合中シャムロックがあしらわれた「緑の」メープルリーフスのジャージーを着ることを許されたが、そのジャージーが混乱して気が散ると相手チームからクレームが届き、第2ピリオドまでには脱ぐことに同意した。
1988年にNHL理事会はクランシーのゲームへの愛情を称え、キング・クランシー記念賞の創設を発表した。これは「氷上の内外でリーダーシップを最も体現し、地域社会に顕著な人道的貢献をした選手」に毎年授与される。[4]
クランシーは65年間のプロホッケーキャリアを過ごし、1922-23年のスタンレーカップ優勝オタワ・セネターズの最後の生存メンバーでもあった。曾孫のローラ・ステイシーは2012年にプロホッケーキャリアを開始し、世界選手権と冬季オリンピックでカナダ代表としてプレーし、2022年冬季オリンピックで金メダルを獲得した。曾祖父を讃えるために可能な限り7番を身に着けている。
詳細情報
レギュラーシーズンとプレーオフの成績
| レギュラーシーズン | プレーオフ | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| シーズン | チーム | リーグ | GP | G | A | Pts | PIM | GP | G | A | Pts | PIM | ||
| 1916–17 | Ottawa Sandy Hill | OCJHL | 4 | 3 | 0 | 3 | — | — | — | — | — | — | ||
| 1916–17 | St-Joseph's | High-ON | — | — | — | — | — | 2 | 3 | 0 | 3 | — | ||
| 1917–18 | Ottawa Munitions | OCJHL | 4 | 2 | 0 | 2 | — | — | — | — | — | — | ||
| 1917–18 | Ottawa Collegiate | High-ON | — | — | — | — | — | 2 | 3 | 0 | 3 | — | ||
| 1918–19 | Ottawa St. Brigid's | OCHL | 8 | 0 | 1 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | ||
| 1919–20 | Ottawa St. Brigid's | OCHL | 8 | 1 | 0 | 1 | — | — | — | — | — | — | ||
| 1920–21 | Ottawa St. Brigid's | OCHL | 11 | 6 | 0 | 6 | — | 6 | 5 | 1 | 6 | 12 | ||
| 1921–22 | オタワ・セネターズ | NHL | 24 | 4 | 6 | 10 | 21 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | ||
| 1922–23 | オタワ・セネターズ | NHL | 24 | 3 | 2 | 5 | 20 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
| 1922–23 | オタワ・セネターズ | St-Cup | — | — | — | — | — | 6 | 1 | 0 | 1 | 4 | ||
| 1923–24 | オタワ・セネターズ | NHL | 24 | 8 | 8 | 16 | 26 | 2 | 0 | 0 | 0 | 6 | ||
| 1924–25 | オタワ・セネターズ | NHL | 29 | 14 | 7 | 21 | 61 | — | — | — | — | — | ||
| 1925–26 | オタワ・セネターズ | NHL | 35 | 8 | 4 | 12 | 80 | 2 | 1 | 0 | 1 | 8 | ||
| 1926–27 | オタワ・セネターズ | NHL | 43 | 9 | 10 | 19 | 78 | 6 | 1 | 1 | 2 | 14 | ||
| 1927–28 | オタワ・セネターズ | NHL | 39 | 8 | 7 | 15 | 73 | 2 | 0 | 0 | 0 | 6 | ||
| 1928–29 | オタワ・セネターズ | NHL | 44 | 13 | 2 | 15 | 89 | — | — | — | — | — | ||
| 1929–30 | オタワ・セネターズ | NHL | 44 | 17 | 23 | 40 | 83 | 2 | 0 | 1 | 1 | 2 | ||
| 1930–31 | トロント・メープルリーフス | NHL | 44 | 7 | 14 | 21 | 63 | 2 | 1 | 0 | 1 | 0 | ||
| 1931–32 | トロント・メープルリーフス | NHL | 48 | 10 | 9 | 19 | 61 | 7 | 2 | 1 | 3 | 14 | ||
| 1932–33 | トロント・メープルリーフス | NHL | 48 | 13 | 12 | 25 | 79 | 9 | 0 | 3 | 3 | 14 | ||
| 1933–34 | トロント・メープルリーフス | NHL | 46 | 11 | 17 | 28 | 62 | 3 | 0 | 0 | 0 | 8 | ||
| 1934–35 | トロント・メープルリーフス | NHL | 47 | 5 | 16 | 21 | 53 | 7 | 1 | 0 | 1 | 8 | ||
| 1935–36 | トロント・メープルリーフス | NHL | 47 | 5 | 10 | 15 | 61 | 9 | 2 | 2 | 4 | 10 | ||
| 1936–37 | トロント・メープルリーフス | NHL | 6 | 1 | 0 | 1 | 4 | — | — | — | — | — | ||
| NHL 合計 | 592 | 136 | 147 | 283 | 914 | 55 | 8 | 8 | 16 | 88 | ||||
ヘッドコーチ歴
| チーム | 年度 | レギュラーシーズン | ポストシーズン | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試合 | 勝 | 敗 | 引分 | ポイント | 順位 | 結果 | ||
| MTM | 1937–38 | 18 | 6 | 11 | 1 | (30) | カナディアン4位 | (解雇) |
| TOR | 1953–54 | 70 | 32 | 24 | 14 | 78 | NHL3位 | 準決勝敗退 (1-4 vs. DET) |
| TOR | 1954–55 | 70 | 24 | 24 | 22 | 70 | NHL3位 | 準決勝敗退 (0-4 vs. DET) |
| TOR | 1955–56 | 70 | 24 | 33 | 13 | 61 | NHL4位 | 準決勝敗退 (1-4 vs. DET) |
| MTM 計 | 18 | 6 | 11 | 1 | 13 | 0-0 (0.00) | ||
| TOR 計 | 210 | 80 | 81 | 49 | 209 | 2-12 (0.143) | ||
| 合計 | 228 | 86 | 92 | 50 | 222 | 2-12 (0.143) | ||
賞歴

- スタンレーカップ優勝:選手として3回(1923, 1927, 1932年)、アシスタントゼネラルマネージャーとして4回(1962, 1963, 1964, 1967年)
- NHLオールスターチーム
- 1stチーム:2回(1931, 1934年)
- 2ndチーム:2回(1932, 1933年)
- カルダーカップ優勝:コーチとして1952年
- ホッケーの殿堂:1958年
- カナダスポーツ殿堂:1975年
- オンタリオスポーツ殿堂:1998年
- 最高のNHLプレーヤー100人選出:2017年
背番号
- 7(2016年10月15日 トロント・メープルリーフスの永久欠番)
外部リンク
- “Player Inductees King Clancy” (英語). ホッケーの殿堂公式サイト. Hockey Hall of Fame. 2026年8月20日閲覧。
- Stu Hackel. “King Clancy: 100 Greatest NHL Players” (英語). NHL公式サイト. NHL.com. 2026年8月20日閲覧。
- NHL.com, or Eliteprospects.com, or Hockey-Reference.com, or The Internet Hockey Database
- Joe Pelletier. “King Clancy” (英語). GreatestHockeyLegends.com. 2026年8月20日閲覧。
- “King Clancy” (英語). Ice Hockey Wiki. Fandom. 2026年8月20日閲覧。
- Craig Baird (2021年1月30日). “King Clancy” (英語). Canadian History Ehx. 2026年8月20日閲覧。
出典
- ↑ 「King Clancy」The Hockey Writers 2026年8月20日閲覧
- ↑ 「NHL Dynasties Ottawa Senators 1919‐20 to 1926‐27」Hockey Hall of Fame 2026年8月20日閲覧
- ↑ 「King Clancy」James H. Marsh March 4, 2015 2026年8月20日閲覧
- ↑ 「King Clancy Memorial Trophy」NHL.com Records 2026年8月20日閲覧