ギー・ド・リュジニャン
| ギー・ド・リュジニャン | |
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キプロス王時代のギーの硬貨 | |
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在位期間 1186年 – 1192年 | |
| 共同統治者 | シビーユ(1186年–1190年) |
| 先代 | ボードゥアン5世 |
| 後継者 |
イザベル1世 コンラート |
| 王位請求者 |
イザベル1世 コンラート (1190年–1192年) |
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在位期間 1192年 – 1194年 | |
| 次代 | エメリー |
| 出生 |
1150年ごろ ポワトゥー、リュジニャン |
| 死亡 |
1194年 キプロス王国、ニコシア |
| 王室 | リュジニャン家 |
| 父親 | ユーグ8世・ド・リュジニャン |
| 母親 | ブルグンディア・ド・ランコン |
| 配偶者 | |
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子女 娘4人 | |
| 信仰 | ローマ・カトリック |
ギー・ド・リュジニャン(フランス語: Guy de Lusignan、1150年ごろ – 1194年)とは、12世紀のエルサレム国王である。まず1186年から1190年までシビーユ女王の夫兼共同統治者として、次いで1190年から1192年までは王位を巡る係争の中で国王として君臨した。また、1192年から1194年にかけてはキプロス王の地位にあった。国王としてのギーはエルサレム王国の貴族層の間で極めて不評であり、サラディンによる王国の喪失を招いた責任をしばしば問われている。
フランク人でポワトゥー出身の騎士であったギュイは、ユーグ8世・ド・リュジニャンの末息子として誕生した。アリエノール・ダキテーヌの誘拐を企てて失敗し、その際にソールズベリー伯パトリックを殺害したため、ポワトゥーから追放された。1173年から1180年の間のいずれかの時期に聖地へ到着。1180年、政変を阻止すべく、エルサレム王ボードゥアン4世の妹シビーユと急遽婚姻した。ボードゥアン4世がハンセン病により病状を悪化させると、1183年にギーを摂政に任命。しかし、ギーは指導者としての無能さと不人気を露呈し、同年のうちにボードゥアン4世が実権を掌握し直すに至った。王はギーから継承権を剥奪し、代わってシビーユと先夫ギヨーム長剣伯との間の息子であるボードゥアン5世を共同統治者、かつ最終的な後継者に指名した。1185年にボードゥアン4世が、翌1186年には病弱なボードゥアン5世が相次いで没し、シビーユが王位を継承。即位の際、シビーユは次なる夫を自ら選ぶことを条件にギーとの婚姻無効を命じられたが、彼女はギーを再び選び、戴冠させたことで宮廷を驚愕させた。ギーの治世はサラディン率いるアイユーブ朝との敵対関係の激化によって特徴づけられ、1187年7月のヒッティーンの戦い(ここでギュイは捕虜となった)と、その3ヶ月後のエルサレム陥落によってその対立は頂点に達した。
ダマスカスでの1年間の幽囚を経て、ギーはサラディンにより解放され、妻と再会した。十字軍最後の拠点の一つであったティルスへの入城をモンフェッラート侯コンラートに拒絶された後、1189年にギーはアッコを包囲を開始した。この包囲戦の最中、疫病によりギーの妻と子供たちは没したが、戦い自体はフランス王フィリップ2世とイングランド王リチャード1世が率いる第3回十字軍の結集点へと発展した。コンラートはシビーユの異母妹イザベル1世と結婚し、エルサレム王位を巡ってギーと激しく対立した。リチャード1世は配偶者を失ったギーを支持したが、王国の貴族層は1192年にコンラートを国王に選出した。リチャード1世は王位を失ったギーへの補償として、彼にキプロス島の領主権を譲渡した。選出から数日後、暗殺教団の手によりコンラートは殺害された。ギーは1194年に没するまでキプロス島を統治し、死後は兄のエメリーがその跡を継いだ。
前半生
1150年ごろに生まれた[注釈 1]ギーは、リュジニャン家の一員であり[3]、ユーグ8世・ド・リュジニャンとその妻ブルグンディア・ド・ランコンの末息子であった[4]。一族の所領は、フランス王国内におけるイングランド王ヘンリー2世の領土の一部であったポワトゥーに存在した[5]。リュジニャン家とランコン家はともに十字軍と深く関わってきた長い歴史があり、それはギーの曾祖父であるユーグ6世・ド・リュジニャンが1102年のラムラの戦いに参戦したことに始まる。ギーの祖父であるユーグ7世・ド・リュジニャン[6]と、母方の叔父である「ポワトヴァン」のジョフロワは、いずれも第2回十字軍に参加した[4]。ギーの父もまた十字軍としてエルサレムを訪れたが、ハリムの戦いを経て1160年代にムスリムの捕虜のまま没した[3][6][7]。
1168年3月27日[8]、ギーとその兄弟たちは、アリエノール・ダキテーヌをポワティエまで護送していた、ポワトゥーの統治者にしてソールズベリー伯パトリックを待ち伏せして殺害した[9]。彼らは、当時叔父であるパトリックの家臣として仕えていた武者修行中の騎士、ウィリアム・マーシャルを捕らえたが、アリエノールが身代金を支払ったため彼の解放を認めた。兄弟たちはその後、ポワトゥーから追放された[2][10]。
ギーは1173年から1180年の間のいずれかの時期に、当初は巡礼者あるいは十字軍士として聖地へ向かった[2]。また、彼は1179年のフランス人十字軍とともに到着した可能性もある[2]。1174年、兄のエメリーが有力な貴族であるボードゥアン・ディブランの娘、エシーヴァと結婚し、宮廷社会に加わった[11]。エメリーはさらに、エルサレム王ボードゥアン4世および王母アニェス・ド・クルトネーからの支持を取り付け、アニェスの所領であるヤッファの、次いで王国の元帥に任命された[12]。エメリーの成功は、ギーがいつ到着したにせよ、彼の社会的・政治的な進出を容易にしたものと思われる。しかし、ボードゥアン王はハンセン病を患っており、余命は長くはないと目されていたため、王国の継承の先行きは不透明であった[13]。
結婚と伯領

1180年の聖週間の間、王国で最も有力な二人の諸侯であるトリポリ伯レーモン3世とアンティオキア公ボエモン3世が、エルサレムへの侵攻を準備していた[14]。歴史家のバーナード・ハミルトンは、彼らがボードゥアン王に対し、姉のシビーユを、エメリーの義父にあたるボードゥアン・ド・イブランと結婚させ、その上で彼の退位を強要しようと考えていたとされる。これにより、彼らは王母アニェスを権力の座から排除し、異国人の代わりに地元の貴族を王位に就かせようとしたのである[15]。この政変を阻止するため、ギーとシビーユは復活祭の時期に急遽結婚した[16]。この儀式は著しく急がれたものであり、教会法上は無効で、公的な告知もなされなかった[17]。
1180年から、ギーはシビーユとともにヤッファとアスカロンを保持し[18]、4人の娘をもうけた[19][20]。彼らの結婚により貴族は二つの派閥に分裂した。一方は、主にシビーユの母方の親族で構成されるギーを支持する派閥であり、もう一方は、主に彼女の父方の親族で構成される彼に反対する派閥であった[21]。反対派が対抗する王位請求者を立てるのを防ぐため、ボードゥアン王は母の助言に従い、1180年10月、ボードゥアン・ド・イブランの兄弟であるバリアン・ド・イブランの継娘にあたる異母妹のイザベル1世を、トロン領主オンフロワ4世と婚約させた[22]。1181年3月以降、ギーとシビーユの両名は、憲章などの公的な行為において、ボードゥアン4世と連名で記されるようになった[12]。
ボードゥアン4世のハンセン病は急速に悪化し、1183年までに彼は盲目となり、介添えなしでは歩くことも手を使うこともできなくなった[23]。致命的な熱病を発したボードゥアンは、6月に高等法院を枕元に召喚し、ギーを摂政に任命した[24][25]。ギーが王位継承順位の筆頭であったこと[26]、そしてボードゥアンの生存が絶望視されていたことから[24]、この摂政政治は恒久的なものとなるはずであった[27]。王は王の称号とエルサレム市に対する権限のみを手元に残したが、ボードゥアンが存命である限り、ギーが自ら王として戴冠したり、王領地の一部を譲渡したりしないことを誓わせた[25][27][28]
継承権のはく奪
エルサレム国王の有力な貴族たち、すなわちトリポリ伯レーモン3世、アンティオキア公ボエモン3世、および各騎士修道会の総長たちは、ギーへの協力を拒んだ[29]。彼らを刺激することを望まなかったボードゥアンは、ギーを摂政にする前に軍事的な指導力の訓練を全く施さなかった[27]。ボードゥアンは病から予期せぬ回復を遂げたが、今やギーを無能で愚かであると見なすようになり[30]、権力を再掌握するためにエルサレムへと戻った[31]。海岸沿いの気候が健康に適していると気づいたボードゥアンは、ティルスとエルサレムの領地交換をギーに持ち掛けた。しかしギーは、おそらくティルスの方がより豊かであったためにこれを拒否し、ボードゥアンを深く憤慨させた[28][31][32]。
シビーユの異母妹イザベルとトロン卿オンフロワ4世の結婚式が、1183年末にケラクで執り行われた。サラディンは式典の最中に攻撃を仕掛け、新婚夫婦を捕らえることを目論んで城を包囲した[31]。城の防衛、およびその中にいる王の異母妹の守護を、軍の指揮が下手なギーに託すことはできなかった。エラクリウス総大司教がテンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団の総長らとともにギーに有利なよう仲裁を試みたものの、功を奏さなかった。レイモンとボエモンが王を説得し、ギーを摂政から解任させたのである[33][34]。ギーの権力からの排除は本質的に継承権の剥奪であったため、貴族たちは王位継承について議論した。彼らは、シビーユと先夫ギヨーム長剣伯との間の5歳の息子であるボードゥアン5世を、共同王として戴冠させるというアニェスの提案を受け入れた。戴冠式は11月20日に行われ、少年は招かれなかったギーを除くすべての男爵から臣従礼を受けた[35][36]。
対立
ハンセン病にもかかわらず、ボードゥアンはケラクの包囲を解くために自ら軍を率いて赴いた[37]。失脚したとはいえ、ギーは依然としてヤッファとアスカロンの兵を率いていた[38]。戦いの後、彼は直接アスカロンへと向かい、シビーユに合流するよう求めた。王はギーと彼女の結婚を無効にすることを望んでいたが、夫婦が法廷への出頭を拒否すれば、それは実現し得なかった[39][40]。ギーとシビーユは王の召喚にもかかわらずアスカロンを離れることを拒み、婚姻を無効にしようとする王の計画を挫いた[40]。

1184年初頭、ボードゥアンはギーに対し、臣下としてエルサレムで拝謁するよう命じたが、ギーは体調不良を理由に拒否した[41]。ボードゥアンが再びギーに使者を送ると、ギーは王自らが自分に会い、自身の声で命令を下すべきだと主張した[42]。ボードゥアンは高等法院を伴って自らをアスカロンまで運ばせたが、そこでギーは彼が市内に入ることを拒んだ[41]。王はその後ヤッファで歓迎を受け、そこに代官を配置したことで、ギーから伯領の半分を奪い取った[41]。
1184年末[43]、ギーは王領の封土であるダルム[要リンク修正]のベドウィンの人々を虐殺した。彼らは王の保護下にあり、ボードゥアンにエジプト軍の動向に関する情報を提供していた[28][44]。しかし、特にこれらのベドウィンたちは、サラディンにも情報を流していた可能性があった[45]。王はこの事件にひどく苦悩したが[44]、すぐに再び熱病に倒れ、トリポリ伯レイモンに摂政権を授けた[33][46]。死の床で、王は甥のボードゥアン5世のために恒久的な摂政を任命すべく高等法院を召集し、レーモンが選出された[47]。ボードゥアン4世は1185年3月に崩御した[28][48]
即位
ボードゥアン5世は、伯父の死からわずか1年後の1186年に没した[49]。高等法院は、教皇、神聖ローマ皇帝、ならびにフランス王およびイングランド王の決定なしには、シビーユもその異母妹のイザベル1世も戴冠できないとの裁定を下した[50]。シビーユの叔父であり同盟者でもあったジョスラン・ド・クルトネーは、トリポリ伯レーモン3世に対し、ティベリアへ向かって総会の準備を進め、ボードゥアンの遺体はテンプル騎士団にエルサレムへと運ばせるよう説得した[51][52]。レーモン伯と貴族たちは、バリアンの領地であるナブルスへと赴いた[51]。年代記作者のリュベックのアルノルトやイブン・アスィールによれば、レーモンはこの集会で王位に就こうと試みたが、成功しなかった[52]。ジョスランはレーモンの不在に乗じ、アッコとベイルートに守備隊を配置した[49][53][54]。

一方、ギーとシビーユは息子の葬儀に参列するためエルサレムへと急いだ[49][52]。そこにはエラクリウス、テンプル騎士団およびホスピタル騎士団の総長、ならびにルノー・ド・シャティヨンも居合わせていた。彼らは西欧大陸側の君主たちの決定を待たずに、シビーユに王位を提示することを決議した[55]。シビーユは世襲権によって王国が自らに継承されたと宣言したが[49]、ナブルスに集まった貴族たちは、シビーユの戴冠はボードゥアン4世の臨終の際になされた誓約に違反するものであると主張し、彼女の女王としての地位を認めなかった[49]。彼らは戴冠式を禁じ、拒否権を伝えるために二人の修道院長をエルサレムへと派遣した[56][57]。その結果、レーモンの手下による妨害を防ぐため、儀式の前に市街の城門は閉ざされた。その後、ルノーの要請を受けたエルサレム市民による歓呼の中で、シビーユは女王として受け入れられた[49]。
しかし戴冠に先立ち、シビーユは反対派の廷臣たちを宥めるため、次なる夫を自由に選ぶことができ、かつギーとの間の子供たちが正嫡と認められることを条件に、ギーとの婚姻を無効にすることに同意した[57]。高等法院の指導者層はこれに同意し、シビーユは女王として戴冠した。戴冠の後、総主教はシビーユに二つ目の王冠を授け、新たな夫を選ぶよう求めた。彼女は、自らの支持者の間ですら不評であったギーを再選し[58][59]、彼を戴冠させるという挙に出ることで、出席者たちを驚愕させた[57]。もっとも、シビーユとギーが、当時当然行われるべきであった聖別(塗油)を受けたという記録は残っていない[60]。
ギーの反対派は、ルノーの継子であるオンフロワに対し、妻イザベル1世の名代として王位を請求させようと画策した。彼らは、シビーユの両親の婚姻が無効とされていたことから彼女の正統性は疑わしいと考え[61]、またイザベルが父の即位後に生まれた子であることを強調したのである[61]。しかし、オンフロワ自身は王となることを望まなかった[59][62]。彼は夜陰に乗じてナブルスを離れ、エルサレムへと馬を走らせてギーへの忠誠を誓った[62]。シビーユは最初彼を追い返したが、オンフロワがその意図を説明すると、彼を王のもとへと案内した[63]。オンフロワがギーに臣従を誓うと[64]、他の貴族の多くもすぐさまこれに続き、1187年までには臣従礼を立てた[65][66]。しかし、トリポリ伯レーモン3世だけは、ギーとシビーユに臣従を捧げることなくティベリアへと引き上げた[59][67]。
エルサレムの陥落
レーモンとサラディン
1186年10月、ギーはトリポリ伯レーモン3世による裏切りを糾弾し、ガリラヤへの侵攻を開始した[67][68]。ギーはレーモン伯の摂政時代の収支報告を命じたが、これに対しレーモン伯は王国の収入はすべて統治実務に費やしたと回答した[69]。レーモン伯はサラディンの支援を得て、ギーに対して抵抗する道を選んだ。サラディンの軍勢がティベリアに進出したことで、ギーの軍は撤退を余儀なくされた。リュベックのアルノルトの記述によれば、レーモン伯はサラディンの軍勢がガリラヤを越えて王国へ侵攻することを容認する代わりに、自身が王位に就くための支援をサラディンから受ける密約を交わしたという[70]。イブン・アスィールによれば、サラディンはレーモンに対し「全フランク人の独立した王」にするという提案を行っていた[71]。

ジャン・コロンブによる縮尺画。『ウトラメールの事績』(1474年ごろ)所収
1187年初頭、サラディンは全領土から兵を徴集し、エルサレム王国への全面攻勢の準備を整えた。これを受けて貴族たちは、ギーに対しレーモンとの和解を求めた。ティルス大司教ジョシュアス、シドンのルノー、バリアン・ド・イブラン、および二つの騎士修道会の総長であるジェラール・ド・リドフォールとロジェ・ド・ムーランが、ティベリアにてレーモンとの交渉にあたる使節に任命された。サラディンの息子アル・アフダルが、ハレンク・エデッサの領主ムザッファル・アッディーン(Muzaffar al-Din)を王国の攻撃に差し向けると、レーモンはサラディンとの条約に基づき、サラディン軍がガリラヤを自由に通過することを許可した[72][73]。アル=アフダルがナザレへの攻撃を開始すると、二つの騎士修道会の総長らは圧倒的な劣勢にありながら侵略軍を迎え撃った[74]。5月1日のクレッソン泉の戦いにおいて、ムスリム側はほぼすべての十字軍兵士を殺害し[75]、生き残ったのはリドフォールと一握りの騎士のみであった[75]。ムスリム軍は戦死した十字軍戦士の首を槍の先に掲げ、ガリラヤを通ってシリアへと帰還した[74]。
翌日、バリアン・ド_イブランがティベリアに到着した[74][76]。バリアンの従騎士であったエルヌールの記述によれば、レーモンは十字軍の壊滅的敗北という報に衝撃を受け、ギーへの臣従に同意したという[77]。しかしイブン・アスィールは、レーモンが同意したのは、彼の家臣たちが不服従をちらつかせ、高位聖職者たちが彼を破門してエシーヴァ・ド・ブュールとの婚姻を無効にし、ガリラヤの領地を剥奪すると脅したためであるとしている[74][78]。レーモンはサラディンとの同盟以来ティベリアに駐留していたムスリムの守備隊を王国外へと退去させた[79]。その後、ギーはエルサレム近郊のサン・ジョブ砦にてレーモンと面会した。レーモンはギーの前に跪き、臣従を誓った。エルヌールによれば、ギーはレーモンを立ち上がらせ、自身の即位にまつわる不自然な経緯について謝罪したという[77][80]。
ヒッティーン
ギーはセフォリスにキリスト教軍の集結を命じた[79][81]。レーモンはガリラヤとトリポリからの騎士を引き連れて王軍に合流したが、妻をわずかな守備隊とともにティベリアに残した。1187年7月2日、サラディンはガリラヤに侵攻してティベリアを包囲した。これを受け、レーモンとジェラール・ド・リドフォールが真っ向から対立する戦略を打ち出したことで、十字軍内部に亀裂が生じた。レーモンは、町は包囲に持ちこたえることができると主張し、サラディンとの決戦を避けるべきであると説き[82]、さらにアンティオキアのボエモン3世へ援軍を求める使節を送るようギーに提言した[83]。しかし、ジェラールとルノーは、何もしないことは十字軍がエルサレムを失うことに直結すると述べ、レーモンを臆病者だと非難した。ギーは当初レーモンの提言に傾いていたが、ルノーは彼に対し、レーモンがかつてサラディンと同盟を結んでいた事実を突きつけた[84]。最終的にギーはサラディンと戦う決断を下し、軍勢にティベリアへの進軍を命じた[83][85]。
サラディンの軍勢がテンプル騎士団の守る後方に攻撃を仕掛けると、十字軍はマスカナ(Maskana)にて足を止めたが、現地の井戸は大軍を満たすに足る水を提供できなかった[86][87]。この遠征に参加していた、著者不明の年代記『サラディンによる聖地征服記』によれば、ギーはレーモンの忠告を無視してその場に留まる決断をしたという[88]。サラディンの軍は十字軍の宿営地を包囲し、水を求めて外へ出た兵士をことごとく殺害した。翌日、十字軍はティベリアに向けて進軍を再開したが、レーモンが率いる前衛をサラディンの軍が急襲した[89][90]。レーモンが力ずくで包囲網の一角を突破すると、彼と同行していた者たち(シドンのルノー、バリアン・ド・イブラン、エデッサのジョスラン3世ら)はサフェド経由でティルスまで撤退した[91][92]。
残された十字軍兵士は全滅し[93]、サラディンは続く1ヶ月のうちに王国のほぼすべての町を占領した[94]。エシーヴァ・ド・ブュールはティベリアをサラディンに明け渡し、ティルスにいる夫のもとへ向かった。ギーやルノーを含むキリスト教軍の指揮官のほとんどは、戦場で捕虜となった[95]。
捕虜

(15世紀、ギヨーム・ド・ティルス著『歴史』とその続編の写本より)
疲弊した十字軍の捕虜たちはサラディンの天幕へと連行された。そこでギーには、サラディンの寛大さを示す兆しとして、氷で冷やされたローズウォーターの杯が与えられた。捕虜に飲食物を与えることは、その者を殺さないことを意味していたためである[96]。イマードゥッディーン・アル=イスファハーニーの記録によれば、ギーが差し出した杯からルノーが一口飲んだ際[97]、サラディンはルノーに杯を差し出したのはギーであって自分ではないことを念押ししたという[96]。しかし、エルヌールによれば、ルノーはギーが手渡した杯を飲むことを拒んだとされる[97]。
サラディンはルノーを天幕に呼び寄せたのち、山賊行為(en: brigandage)や冒涜を含む数々の罪で彼を糾弾した。イマード・アッディーンとイブン・アスィールによれば、サラディンはルノーにイスラム教への改宗か死かの選択を迫ったが[96][98]、ルノーは改宗を断固として拒否した。その結果、サラディンは自ら剣を振るい、その場で彼の首を撥ねた[96][98]。バハ・アッディーンの記述では、ルノーの末路を見たギーは驚愕し震え上がったが、サラディンは彼を「王が王を殺すことはない。しかし、あの男の不誠実さと不遜さは度を越していた」と言って慰めたという[99]。
ヒッティーンの戦いの後の数ヶ月間で、ティルスを除く王国の全土がサラディンの手に落ちた[100]。また、トリポリ伯レイモン3世はその年の9月に没した[101]。シビーユはアスカロンへと赴き、ギーの釈放と引き換えに町をサラディンに開城したが、サラディンは依然として彼を幽閉し続けた。なお、これらの要請がシビーユの名で出された記録はない[102]。ギーがようやく解放されたのは1188年のことであり、彼とシビーユはトルトーザ近郊のアルワード島で再会を果たした[103]。夫婦はその後アンティオキアへ、次いでトリポリへと向かい、移動しながら軍勢を集めた[104]。
ギーとコンラート
アッコ包囲戦

シビーユの先夫ギヨーム長剣伯の弟であり、ティルスの守備に当たっていたコンラートは、ギーとシビーユへの庇護を拒絶した[105]。そのため、二人は数ヶ月にわたって城壁の外で宿営を余儀なくされた[20]。その後、ギーは自ら攻勢に転じ、第3回十字軍の前衛部隊の到着を予期してアッコの包囲を開始したが、ジェームズ・オブ・アヴェーヌやテューリンゲン方伯ルートヴィヒ3世を始めとする、エルサレムに参陣した様々な十字軍士たちはギーの王位継承権に疑義を呈した[106]。1190年、十字軍の宿営地を疫病が襲い、7月25日にシビーユ女王が病没した[20]。そのわずか数日後には、彼女の娘たちも相次いで世を去った[107]。シビーユの死後、直ちにコンラートはギーに対して王位を主張した[108]。コンラートは、シビーユの異母妹であるイザベル1世との結婚を決定し[109]、両名はティルスへと戻った[110]。しかしながら、ギーは依然として国王としての承認を求め続けた[111][112]。
1191年4月20日、アッコに上陸したフランス王フィリップ2世がコンラートによるエルサレム王位の請求を支持した。これに対し、トロン卿オンフロワ4世やアンティオキア公ボエモン3世たちから成る反コンラート派と合流していたギーは、イングランド王リチャード1世の支援を必要とした。リチャード1世はギーの支持に回った[113]。同年5月、ギーは「エルサレムの次期国王(king-elect)」の称号を名乗った[114]。またギーは同年、小規模な艦隊を率い、弟のジョフロワ、オンフロワ4世、ボエモン3世ら諸貴族を伴ってアッコを発った。彼はかつてポワトゥーにおいて主君と仰いでいたリチャード1世の助力を得るべく、キプロス島に上陸した[115]。1191年6月8日、リチャード1世がアッコに到着すると、同族のフィリップ2世やオーストリア公レオポルト5世の支持を受けるコンラートに対し、王はギーを支持した[115]。

1191年7月11日、十字軍はアッコを奪還した[116]。その後、一時的な合意が形成され、ギーは終身国王として留まる一方で、コンラートがティルス、ベイルート、シドンを統治することとなった。そしてギーの死後は、コンラートとイザベル1世、あるいはその継承者が王位を継ぎ、王国を統一する手はずとなった[117]。その3日後、フィリップ2世はフランスへと帰国し、リチャード1世が十字軍の最高指揮官となった[118]。しかし、王国の貴族たちは依然としてギーに極めて批判的であり、多くが代わりにコンラートを支持していた[119]。
1192年4月16日、リチャード王は集会を招集した[120]。参集した高位聖職者および貴族たちは、コンラートのエルサレム王即位に満場一致で賛成した[120]。リチャード1世はこの選択を受け入れたが、ギーへの義理立てから、第3回十字軍の最中に自らが奪取したキプロス島の領有権を彼に与えた[121]。リチャード1世は甥のシャンパーニュ伯アンリ2世を派遣し、集会の決定をコンラートに伝えさせた[120][122]。約4日後にアンリ2世がティルスに到着し、イザベル1世とコンラートはアッコで戴冠することが決定した[122]。ところが1192年4月28日、暗殺教団がコンラートを暗殺した[120]。コンラートの死から2日後、未亡人となったイザベルとアンリ2世の婚約が発表され[123][124]、1192年5月10日にアッコで結婚式が執り行われた[123]。
キプロス王と死

合意に基づき、ギーは1192年5月初頭までにキプロス島へと居を移した[123]。エルサレムでの不遇な経歴とは対照的に、彼はキプロス島をよく統治し、1194年に没するまで同地を治めた[121]。エルヌールの記述によれば、ギーの治世の終わりまでにキプロスの国庫は底を突いていた。というのも、ギーは島内の不動産の大部分を自らの支持者たちに分け与えていたからである[125]。
1194年末ごろ、ギーは没した[126]。彼の生存を裏付ける現存する最後の文書は、8月18日付の勅許状である[125]。この頃のギーには跡を継げる子がいなかったため、彼はキプロス島を弟のジョフロワに遺贈した。しかし、ジョフロワは既にポワトゥーへと帰還していたため、ギーの家臣たちは代わりに別の兄弟であるエメリーを新たな領主として選出した[126]。
後世の文化

ヤン・リーフェンス画
ギーは、ジョヴァンニ・ボッカッチョの『デカメロン』の一篇に主要な登場人物として登場する。その物語では、ガスコーニュの婦人による非難が、無気力に陥っていたキプロス王を目覚めさせ、自らの領国に対して責任を負わせるという内容が描かれている[127]。
2005年の映画『キングダム・オブ・ヘブン』では、マートン・チョーカシュがギーを演じ、傲慢で陰険な悪役(かつテンプル騎士団員)として描かれている[128]。
注釈
- ↑ ギーの正確な生年は分かっていないが、彼の兄であるエメリーは1155年以前に生まれている[1]。ギーは1168年にアリエノール・ダキテーヌを捕らえようとした際、おそらく成人していたと推測されるため[2]、1150年代の生まれとなる。
脚注
- ↑ Runciman 1989b, p. 103.
- 1 2 3 4 Hamilton 2000, p. 157.
- 1 2 Edbury 1994, p. 25.
- 1 2 Bennett 2021, p. 106.
- ↑ Hamilton 2000, p. 156.
- 1 2 Hamilton 2000, p. 97.
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