サンテル事件

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サンテル事件(サンテルじけん)は1921年(大正10年)3月に靖国神社らで行われたプロレスラー・アド・サンテルらと日本人柔道家による柔道対プロレスの日米他流仕合(にちべいたりゅうしあい)・日米国際試合(にちべいこくさいしあい)および関わる一連の動きである[1]。講道館では当時、「サンテル事件」と呼んでいた[2]。

概要

アメリカで野口潜龍軒、伊藤徳五郎、三宅タロー、坂井大輔といった日本人柔道家、柔術家に勝利したプロレスラーのアド・サンテルは柔道の総本山たる講道館の猛者たちと戦いたいと思うようになる[3]。同じくプロレスラーである弟子のヘンリー・ウェーバーと柔道の有段者でプロレスラーに転向した日本人レスラーのマティ・マツダとチームを結成した[4] [5]。

1921年春、サンテルから講道館に挑戦状が届く。講道館は騒然となり、新聞は様々な憶測を書きたてた。館長の嘉納治五郎は初めは黙殺つもりだったが新聞社の追及に「挑戦に応じましょう」ときっぱりと答えた[6]。嘉納は明治期において国内の柔術諸流派を統合していった過程における出来事(他流試合)が、世界へ拡大された空間においても同様に起こり得ることを察していたのではないかとされる[7]。「講道館柔道の真価を世界に問う絶好の機会だ。 -中略- 講道館は他流試合をした苦心があったからこそ、ここまで広まったのだ。」と嘉納は岡部平太に真意を尋ねられた際に語っている[8]。嘉納はサンテル事件の前年の1920年アントワープオリンピック大会へ向かう途中、およびその帰途に立ち寄ったアメリカ西海岸で、サンテルと試合した経験のある伊藤徳五郎と会い同行している[9][10]。この時嘉納は伊藤と話し合い、すでにサンテル来日を承諾していたのではないかとの推測もあり、サンテル来日の1921年3月という時期は嘉納の帰国に合わせたのではないかという説もある[11]。岡部平太は、サンテルとの試合を仕組んだのは嘉納だったのではないかと語っている。

岡部は1917年(大正6年)のアメリカ留学に際し、嘉納の意図としての「柔道の国際化のためのレスリングの研究」[12]や「プロ・レスやプロ・ボクシングの研究や対戦」[13]を汲み、出来るだけの研究を行ったが、道場に通い続ける中でプロレス興行の“闇”を知ることとなり次のように書いている。「プロのアリーナの裏側には濁った空気が漂い、酒・女・ギャンブルが、若い自分の身を切るほどに痛く感ぜられた」「交渉の中で問題になったのがファイトマネー。岡部が受け取れば、アマチュア失格となる。逆に興行を生業とするレスラーが、収入のない試合に応じるはずもない」「柔道とプロレスラーの試合はルール上において成立はあり得ません。最終的には金銭で決めるしかなく、喜ぶのは興行師です」[14]。

1921年2月27日、『横浜貿易新報』紙(後の神奈川新聞)はサンテルとウェーバーが講道館柔道家と戦うべく横浜港に到着した、と報じた。山下義韶八段らが出迎えた。3月5日と6日、靖国神社において『武侠世界』誌の出版社主催で両名と講道館が選んだ柔道家の対戦が行われることが発表される。当初は対戦相手に徳三宝[注 1]や石田信三、二宮宗太郎、結城源心、石黒敬七などの名前が挙がる[15]。対戦を黙認黙許する姿勢であった嘉納だが、講道館はこの挑戦を無視することに転じる。講道館の決定に背いて、6人の柔道家が破門覚悟で挑戦の名乗りを上げ、庄司彦男三段、永田礼次郎三段、増田宗太郎二段、清水一[16](または清水肇[要出典])三段の4名の柔道家との対戦が決定した[17]。柔道史研究家の丸島隆雄によると、庄司を除いて、講道館柔道と天神真楊流の弘誠館の門人だった。一方、坂上康博、小島貞二によると、庄司も弘誠館の門人だった[18][19]。弘誠館は試合の推進者・兒玉光太郎の兒玉道場であった[20]。

ラウル・サンチェス・ガルシアによると、アメリカでサンテルのチームと講道館との一連の試合を主催する際に手伝ってくれた講道館のメンバーである岡部平太の尽力で日本渡航が可能となったとしている[21]。一方、藪耕太郎は、これは資料の偏りによる事実誤認と見られる、としている[22]。

また、庄司の家族の証言では、サンテルを日本に呼んだのは講道館の石黒敬七ではないかという話が伝わっているという[23]。

丸島によると、試合前、八百長の提案があり、一本目だけ真剣に戦って勝敗を決し、勝ったものは二本目を負けてやり、三本目は引き分けにするというものであった。増田と庄司は承諾したが、永田によると永田は断り、また、庄司も打合せの散会後は「永田君、しっかりやりましょう。あんな約束したってしなくたって同じです。最後まで戦いますよ。」と永田に囁いた。一方、森武夫は、永田も八百長に加わっていた、と証言している。丸島は、この証言は1970年ごろのもので森の記憶も確かではなく、他の部分で誤りもあるので当てにならない、としている[24]。

試合はサンテル無敗で終わった。

丸島は靖国神社での試合について、八百長の提案通りに行われたのはウェーバー対増田だけで真剣勝負の部分では増田の勝ちと言える、としている。庄司の試合は三本とも引き分けなので真剣勝負の部分も引き分けだったとみられる、としている。そして、清水と永田は八百長提案をのまなかったと考えてよいだろう、としている[25]。一方、小島はこの大会は八百長なしの真剣勝負だったとしている[26]。

靖国神社での興行はかなり儲かったが、アメリカから来た日本人マネージャーが金を持って逃げてしまった。森武夫によると、それでサンテルと ウェーバーにもう一度、浅草で興行をやってもらった[27]。

試合後の4月23日、講道館は出場した4名と弘誠館=兒玉道場の兒玉光太郎四段、武侠世界社社員でレフェリーをした山田敏行三段、藤村兼吉二段を有段者としての待遇をしない処分をした。この処分の講道館の主張では清水と永田は二段となっている[28]。丸島は、処分の理由は他流試合をしたことでも、岡部が主張していたスポーツのアマチュアリズムに反したことでもなく、柔道を金儲けの道具として使ったことだ、と解説している[29]。

1923年2月ごろ、処分者一同が山下の先導で講道館の応接間に通された。嘉納が入ってきて、処分の解除が言い渡された。永田にとっては嘉納の言葉を直接聞くのは最初で最後であった[30]。

庄司はサンテルを敗るべくアメリカに旅立った[31]。

試合規定

柔道衣着用、投げ・抑え込み・フォールによる一本、スコアなしの一本20分[32][33][注 2]の三本勝負で行われた。

ネイト・ウィルコックスによると、関節技やあらゆる投げ技を含む寝技を認める中立的なルールの下で試合が行われることとなった[35]。一方、書籍『日本プロレス風雲録』(小島貞二)によると反則は首を絞めることだけだった。だが絞めで一本が取られている[36]。書籍『ザ・格闘技』(小島貞二)では反則はチョーク、柔道の当て身技、首関節技、ヘッドロックだとしている[37]。また、佐々木指月によると、首関節技、トウホールド、ヘッドロックなどは反則だった[38][39]。丸島によると、当て身技、首関節技、頭や不動関節を挫く技、トウホールド[40]が禁止だった[41]。

試合結果

リングは土俵の上にマット[42]。丸島によると、2本ロープ[43]、小島によると、3本ロープだった[42]。レフェリーは第1日目は山田四段とブラウン[44][43]。第2日目はレフリー間の言語の問題で[45]、ブラウンから後の日本ボクシングの父・渡辺勇次郎に代わった[46]。サンテルとウェーバーはシューズを履いていた[44]。

招待席には渋沢栄一、胡惟德中華民国公使、力士の元太刀山、鳳、国見山らがいた[47]。

小島によると、講道館も見物まではとめはせず、客席には柔道関係者の顔もちらほら見えた[48]。

入場料は1円。観衆は3000人近かった。陸軍戸山学校軍楽隊の奏でるマーチが鳴り響いた[49]。

試合結果は以下の様であった[50][51]。

  • 3月5日 靖国神社相撲場第1日目
    • △ウェーバー対増田△ 引き分け 一本対一本
      • 一本目 1分6秒 並十字絞で失神[52] 増田
      • ニ本目 2分18秒または2分25秒 襟をつかんで送り込んだ[53]絞め[54]で失神 ウェーバー[55]
      • 三本目 20分 引き分け
    • △サンテル対永田△ 一本対一本[37]
      • 一本目 20分 引き分け
      • ニ本目 3分35秒 首関節技の反則勝ち 永田[37]
      • 三本目 ニ本目の永田の負傷により試合放棄 サンテル
    • レスリング・エキシビション ○サンテル対ウェーバー×
      • 15分59秒 逆立ち状態のフォール サンテル[56]
  • 3月6日 靖国神社相撲場第2日目
    • ×ウェーバー対清水○ 零本対ニ本
    • △サンテル対庄司△ 引き分け 零本対零本
      • 一本目 20分 引き分け
      • ニ本目 20分 引き分け
      • 三本目 20分 引き分け
    • レスリング・エキシビション ○サンテル対ウェーバー×
  • 名古屋
    • △ウェーバー対増田△ 引き分け
    • ○サンテル対清水×
  • 大阪・千日前・相撲場
    • △ウェーバー対清水△ 引き分け
    • △サンテル対増田△ 引き分け

脚注

出典

  1. ↑ 丸島隆雄『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、26-27頁。ISBN 4-88218-119-3。
  2. ↑ 丸島隆雄「はじめに」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、8頁。ISBN 4-88218-119-3。
  3. ↑ 丸島隆雄「サンテル、講道館に挑戦す」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、33頁。ISBN 4-88218-119-3。
  4. ↑ Hayward Nishioka, Judo's Forgotten Pioneer, Black belt magazine, May 1971
  5. ↑ John S. Nash, The Forgotten Golden Age of MMA – Part IV: Ultimate Fighting of the Belle Époque
  6. ↑ 小島貞二「格闘ニッポン アド・サンテルの「脳天落とし」」『ザ・格闘技 最強をめざす男たちの世界』(初版)朝日ソノラマ〈Key books〉、1976年12月15日、120-121頁。
  7. ↑ 「“柔道”と“スポーツ”の相克 -嘉納が求めた武術性という課題-」永木耕介 P.60
  8. ↑ 「レスラーからの挑戦状、一大事件に 平和台を創った男・岡部平太の波瀾万丈な生涯」(西日本新聞)
  9. ↑ 『嘉納治五郎大系』9巻 P252-253「米国ロッキー山中の人となって」
  10. ↑ 『嘉納治五郎大系』8巻 P349「国際オリンピックを終えて」
  11. ↑ 『講道館柔道対プロレス初対決―大正十年・サンテル事件』丸島隆雄 P.143
  12. ↑ 「レスラーからの挑戦状、一大事件に 平和台を創った男・岡部平太の波瀾万丈な生涯(西日本新聞)」
  13. ↑ 「“柔道”と“スポーツ”の相克 -嘉納が求めた武術性という課題-」永木耕介
  14. ↑ 「レスラーからの挑戦状、一大事件に 平和台を創った男・岡部平太の波瀾万丈な生涯(西日本新聞)
  15. ↑ 小島貞二「格闘ニッポン アド・サンテルの「脳天落とし」」『ザ・格闘技 最強をめざす男たちの世界』(初版)朝日ソノラマ〈Key books〉、1976年12月15日、121-122頁。
  16. ↑ 丸島隆雄「サンテルの挑戦に対して」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、120頁。ISBN 4-88218-119-3。
  17. ↑ 丸島隆雄「サンテルの挑戦に対して 児玉道場、挑戦を受ける」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、122頁。ISBN 4-88218-119-3。
  18. ↑ 坂上康博『海を渡った柔術と柔道』13頁。
  19. ↑ 小島貞二「格闘ニッポン」『ザ・格闘技 最強をめざす男たちの世界』(初版)朝日ソノラマ〈Key books〉、1976年12月15日、122-123頁。
  20. ↑ 丸島隆雄「サンテルの挑戦に対して 児玉道場、挑戦を受ける」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、117頁。ISBN 4-88218-119-3。
  21. ↑ Raul Sanchez Garcia, The Historical Sociology of Japanese Martial Arts
  22. ↑ 『アメリカのプロレスラーはなぜ講道館柔道に戦いを挑んだのか 大正十年「サンテル事件」を読み解く』(集英社新書)藪耕太郎 あとがき「武道研究の洋書の専門書を読むと、〈岡部平太がサンテルの来日を手引きした〉という類いの記述も散見された。こうした事実誤認の多くは史料の偏り、特に邦字史料の量と質の不足に基づく。〜中略〜「サンテル事件」はトランスナショナルな出来事であり、国外と国内の双方の史料を精査しなければ全貌は見えない。」
  23. ↑ 「家族の目から見た柔道家・庄司彦男とは?(インタビュー)」
  24. ↑ 丸島隆雄「決戦前夜 八百長提案」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、152-154頁。ISBN 4-88218-119-3。
  25. ↑ 丸島隆雄「日米国際試合」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、173-174頁。ISBN 4-88218-119-3。
  26. ↑ 小島貞二「力道山以前 強豪レスラー、サンテル来襲」『日本プロレス風雲録』ベースボール・マガジン社、日本〈スポーツ新書〉、1957年7月15日、28頁。31巻。
  27. ↑ 丸島隆雄「闘いのあと その後」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、188-189頁。ISBN 4-88218-119-3。
  28. ↑ 嘉納治五郎「主張 サンテル事件の結末」『有効の活動』第7巻第5号、講道館、1921年5月1日、2-4頁。
  29. ↑ 丸島隆雄「闘いのあと 講道館の処分」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、180頁。ISBN 4-88218-119-3。
  30. ↑ 丸島隆雄「闘いのあと その後」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、189頁。ISBN 4-88218-119-3。
  31. ↑ 丸島隆雄「闘いのあと その後」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、190頁。ISBN 4-88218-119-3。
  32. ↑ 丸島隆雄「日米国際試合」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、164頁。ISBN 4-88218-119-3。「既定の二〇分となり引き分けとなった」
  33. ↑ 丸島隆雄「日米国際試合」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、170頁。ISBN 4-88218-119-3。「二〇分フルタイム闘って勝負は決まらなかった」
  34. ↑ 丸島隆雄「決戦前夜」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、152頁。ISBN 4-88218-119-3。「一回二十五分」
  35. ↑ Nate Wilcox, Really Old School: Catch Wrestling vs Judo 1921, Bloodyelbow.com
  36. ↑ 小島貞二「力道山以前 強豪レスラー、サンテル来襲」『日本プロレス風雲録』日本〈スポーツ新書〉、1957年7月15日、28-29頁。31巻。
  37. 1 2 3 小島貞二「格闘ニッポン サンテル、講道館に挑戦状」『ザ・格闘技 最強をめざす男たちの世界』(初版)朝日ソノラマ〈Key books〉、1976年12月15日、126-127頁。
  38. ↑ 佐々木指月「日米他流仕合を観て」『亜米利加夜話』日本評論社出版部、1922年1月10日、186頁。
  39. ↑ 佐々木指月「日米他流仕合を観て」『亜米利加夜話』日本評論社出版部、1922年1月10日、197頁。
  40. ↑ 丸島隆雄「日米国際試合」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、172頁。ISBN 4-88218-119-3。「トーホールドにもっていきたいところだが、ルールの制約があってできない」
  41. ↑ 丸島隆雄「決戦前夜 八百長提案」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、152頁。ISBN 4-88218-119-3。
  42. 1 2 小島貞二「格闘ニッポン サンテル、講道館に挑戦状」『ザ・格闘技 最強をめざす男たちの世界』(初版)朝日ソノラマ〈Key books〉、1976年12月15日、123頁。「ロープが三条」
  43. 1 2 丸島隆雄「日米国際試合」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、162頁。ISBN 4-88218-119-3。
  44. 1 2 佐々木指月「日米他流仕合を観て」『亜米利加夜話』日本評論社出版部、1922年1月10日、172頁。
  45. ↑ 小島貞二「格闘ニッポン サンテル、講道館に挑戦状」『ザ・格闘技 最強をめざす男たちの世界』(初版)朝日ソノラマ〈Key books〉、1976年12月15日、127頁。
  46. ↑ 丸島隆雄「日米国際試合」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、168頁。ISBN 4-88218-119-3。
  47. ↑ 丸島隆雄「日米国際試合」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、159頁。ISBN 4-88218-119-3。
  48. ↑ 小島貞二「サンテル、講道館に挑戦状」『ザ・格闘技 最強をめざす男たちの世界』(初版)朝日ソノラマ〈Key books〉、1976年12月15日、124頁。
  49. ↑ 小島貞二「格闘ニッポン サンテル、講道館に挑戦状」『ザ・格闘技 最強をめざす男たちの世界』(初版)朝日ソノラマ〈Key books〉、1976年12月15日、124頁。
  50. ↑ 丸島隆雄「日米国際試合」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、161-174頁。ISBN 4-88218-119-3。
  51. ↑ 丸島隆雄「闘いのあと その後」『講道館柔道対プロレス初対決 大正十年・サンテル事件』島津書房、2006年2月15日、39頁。ISBN 4-88218-119-3。
  52. ↑ 佐々木指月「日米他流仕合を観て」『亜米利加夜話』日本評論社出版部、1922年1月10日、175-176頁。
  53. ↑ 佐々木指月「日米他流仕合を観て」『亜米利加夜話』日本評論社出版部、1922年1月10日、178頁。
  54. ↑ 小島貞二「力道山以前 強豪レスラー、サンテル来襲」『日本プロレス風雲録』ベースボール・マガジン社、日本〈スポーツ新書〉、1957年7月15日、28頁。31巻。「逆にウェーバーが締めて勝って」
  55. ↑ 小島貞二「格闘ニッポン サンテル、講道館に挑戦状」『ザ・格闘技 最強をめざす男たちの世界』(初版)朝日ソノラマ〈Key books〉、1976年12月15日、124頁。
  56. ↑ 佐々木指月「日米他流仕合を観て」『亜米利加夜話』日本評論社出版部、1922年1月10日、189頁。
  57. ↑ 佐々木指月「日米他流仕合を観て」『亜米利加夜話』日本評論社出版部、1922年1月10日、202頁。

注釈

  1. ↑ 実際にサンテルと対戦した庄司彦男がのちによく「姿三四郎のモデルでもあり別格の強さだった徳三宝ならサンテルに勝てた」と語っていたことを家族が証言している。
  2. ↑ 丸島は25分とも記載している[34]