ジャン=バティスト・カリエ

ジャン=バティスト・カリエ (Jean-Baptiste Carrier、1756年3月16日 – 1794年12月16日)は、フランス革命期の政治家である。
略歴
オート=オーヴェルニュ(フランス語版)地方のオーリヤック近郊にあるヨレ(フランス語版)で生まれる[1]。六人兄弟のうちのひとりだった。
国民公会への選出
1790年には地方検事(オーリヤックの代官)を務め、1792年には国民公会の代議員に選出され[1]山岳派の一員となった[2]。この頃の彼はすでに、コルドリエ・クラブとジャコバン派の有力メンバーの一人として知られていた。1793年には革命裁判所の設立に携わる。ルイ16世の死刑に賛成票を投じ、オルレアン公の逮捕を最初に求めた一人であり、5月31日のジロンド派逮捕にも携わった[1]。
ナントへの派遣
ノルマンディーでの任務を終えたカリエは1793年10月初旬、国民公会の命令により、猛威を振るっていたヴァンデの反乱を鎮圧するため、ナントに派遣された[1]。10月22日に着任したカリエは、現地の複雑なネットワークを統御できず、結果的にいくつかのグループに弾圧を委ね、その過激さを競わせることとなった[3]。反革命容疑者・共和国軍の捕虜となった叛乱者で監獄が一杯になっていたため、カリエは在監者への食事の提供、裁判にかかる時間を考え、迅速な処理方法としてナントの溺死刑を容認したのだった[4]。革命への宣誓を拒否したカトリックの非宣誓司祭、反乱軍の捕虜、老人、妊婦、及びそのこどもたちを、乳児を問わずロワール川に穴を空けた廃船(小型ガレー船)を浮かべそこに詰め込んで溺死させた[5]。歴史学者ジャン=クレマン・マルタンは、犠牲者の総数は1800名から4000名としている。以上のように溺死刑については事実であるが[4]、「裸にされ男と女で縛られ、溺死させられる」とされる共和国の結婚[6]なる主張が初めて現れたのは、1794年の革命裁判所によってナントの革命委員会のメンバーが審判を受けている時のことであり、実際に目撃したとの証言はない[7]。にも関わらず共和国の結婚は後に、恐怖政治について著そうとする多くの作家たちによって、手の込んだ仕方で引用されるようになる[8][9][10]。
以上のように、ナントの人々は、カリエの全面的な同意を得てルワール川で大量溺死刑を実行した。それでもなお、弾圧は無差別的なものではなく、ローカル・レベルの行政機関を考慮に入れ、有罪とされた人々のために働きかけた証人の言い分を聞き入れる場面も見られた[11]。
パリへの召喚
12月に過激さは頂点に達し、ナントのサン=キュロットがカリエに反対し抗議する。公安委員会はロベスピエールから私的に信頼を受けていたジュリアンを派遣し、実情を調査・報告させた。それに基づき1794年2月、カリエはパリに召喚されている[3]。その二ヶ月後、カリエの腹心の部下2人が反革命分子として、ナント当局によりギロチンにかけられた[12]。一方、派遣議員として派遣先で過酷な弾圧を行った者や無神論的な非キリスト教化運動を主導した者のうち、1月23日にはマルセイユとトゥーロンに派遣されていたバラスとフロレンが、4月19日には一挙に21名の議員が呼び戻され、入れ替わりとして、地方には公安委員会とりわけロベスピエールとサン=ジュストに近い、従順な議員が送り込まれた。5月8日には、公安委員会によって県革命裁判所の廃止が再確認されるとともに、地方の革命委員会(革命裁判所に相当)が原則として廃止された[13]。
2月頃、国民公会は、パリに召喚されたカリエが行ったナントのサン=キュロットに対する乱暴な扱いについて非難した[14]。
溢れかえる出版物
やがて国民公会では、自らの保身のためロベスピエールを「打ち倒されるべき陰謀家」に仕立てる計画が進行し[15]、ジャン=ランベール・タリアンやルイ=マリ・スタニスラス・フレロンなどが中心となってテルミドール9日のクーデターが起きた[16][17]。9月8日、カリエが派遣先に着任してすぐ革命裁判所に告発となったナントの貴族に対する裁判が始まった[18]。クーデター後、必ずしも事実に則してはいないさまざまな回想録や解釈・風刺攻撃文書や誹謗文書が、報道の自由によって溢れかえり[19]、世の中の雰囲気をすっかり変えていた。裁判は被告が逆に告発する場となり、彼らは一週間後に釈放されている[20]。マリー・アントワネットの弁護士だったトロンソン・デュ・クードレー(英語版)の陳述もあって釈放されたこの人々は、膨大な数の作品・風刺攻撃文書・小冊子を作り出し、ヴァンデの反乱を国民的スキャンダルに変えた反ジャコバン・キャンペーンを再び活性化した[21]。
9月28日にテュロが逮捕され、10月8日にはナント革命委員会メンバーが逮捕された。事実であるものから事実に基づかないものまで、大量の告発が法廷を前にして述べられたが、裁判所はこれらを処理しきれなかった。ジャコバン派に敵対的な新聞・雑誌編集者・風刺攻撃文書の作者が1793年から1794年冬の残虐行為を強調し、ナント特有のものと主張された大量溺死刑および「共和国の結婚」を強調した。これらの行為の責任は被告たちによってカリエに転嫁されたが、告発は9月、フロレンがカリエに対して行った告発に酷似していた[22]。
1794年末からフランスで溢れかえった出版物の中でも、バブーフの手による風刺攻撃文書『人口減少の体系について。あるいはカリエの人生と犯罪』(初版は1794年12月中旬以後)によって、カリエとロベスピエールがヴァンデの人口を減らすこと、そして革命家そのものに対しても『人民殺戮』を行うことを通じてフランスの人口をも減らそうとしたとの非難が行われた[23][24]。この文書は、同時代人よりも後世の歴史家たちの注目を引くことになるが、現実で起きたカリエとロベスピエールの激しい敵対関係とは食い違ったことを叙述し、2人を仲間と描写することに成功した、強力な告発の流れの一部だった。こうして1794年および後の時代にも、ヴァンデとナントはロベスピエールへの中傷を示す場となったのだった。この時、共和国を守ろうとして彼を取り巻く流れに飲まれていたバブーフは後に、自らが文筆活動を通じて協力したこの反動を拒否し、1795年1月、ロベスピエールに対して行った辱めを撤回するにいたった[25]。
また、クルトワ(英語版)によって作成された反ロベスピエール的なさまざまの誹謗中傷のリストの中で、ヴァンデの反乱は重要な位置を占めていた[26]。この頃には世論の中で、カリエはロベスピエールの仲間とされるようになっていたが、[27]ジュリアンがロベスピエールに宛てて送った報告からパリ召喚の流れなどを見ても、カリエは仲間どころかロベスピエールの個人的な敵であったことは明らかである[23]。
逮捕
ナントの貴族と入れ替わりに、同月28日にテュロ将軍が、10月8日にナントの革命委員会メンバーが、それぞれ逮捕され裁判にかけられた。カリエも弾圧の責任者として逮捕された[28]。なお、ナントでの虐殺を理由にカリエの仲間を弁護したレアール・ピエール=フランソワという革命裁判所の訴追官(革命前はシャトレ裁判所付き代訴人)は、後に「バブーフの陰謀」事件を裁くヴァンドーム高等法廷にて被告の弁護を引き受けている[20]。
10月30日に国民公会は21名からなる調査委員会を設置し[28]、パリの民衆たちはカリエの出頭を求めた。11月11日、大量虐殺の罪で告発されたカリエは、公会内で憲兵6人に取り押さえられて逮捕され、自宅に軟禁された[29]。11月21日に憲兵4人の監視下にあったカリエは公会へ連行され、告訴か条に対する申し開きの聴取を受けた[30]。2日間の討論の末、11月23日には賛成498票反対2票でカリエは革命裁判所に送られた。このような自分たちの同僚に対する裁判は1794年4月以降、危惧され、拒否されてきたことだったのだが、それを受け入れたことは、たとえ採決の際に260名の議員が欠席だったにせよ、ひとつの転換点となった[31]。

スケープゴート
カリエは真夜中にコンシェルジュリーへ連行され、11月27日に一度目の裁判に出廷した[30]。カリエは、自分は溺死刑を準備する命令書には署名しておらず、勾留されたナント市民をパリで庇護したと断言した。弾圧を否認することはしなかったが[32]、死刑が決定された際、「自分は国民公会の指令に従って行動した」のであり「ここではすべてが、議長の振鈴までも有罪である」と発言した[33]。
12月16日、午後4時に共犯者である元ナント革命裁判所判事のグランメゾンと溺死刑執行人だったピナールと共に、パリのグレーヴ広場でギロチン処刑された[34]。
要するに、カリエはスケープゴートにされたのだった。ひとりひとりの責任を厳密に問うていったら、クーデターを起こしたテルミドール派の主流はもちろん、平原派の目立たなかった議員であっても「事態を傍観していた」という批判は免れない。議員の大多数は無罪となるかたちで「恐怖政治の責任者」とされる人間との線を引かなければならない。彼らは恐怖政治の責任者はロベスピエールだったという論調で、基本的にはロベスピエール一人に恐怖政治の責任を負わせたのと同じやり方で、カリエ一人と自分たちの間に線を引き、カリエを一種の代表として処刑台に登らせたのだった[35]。
脚注
- 1 2 3 4 https://en.wikisource.org/wiki/1911_Encyclop%C3%A6dia_Britannica/Carrier,_Jean_Baptiste
- ↑ マルタン2024、P.347
- 1 2 山崎2018、P.190
- 1 2 マルタン2024、P.348
- ↑ セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵監訳『フランス革命下の一市民の日記』中央公論社、昭和55年2月15日、p.270.
- ↑ Ruth Scurr, Fatal Purity: Robespierre And the French Revolution (2006) p. 305.
- ↑ L'intermediaire des chercheurs et curieux, 1866. P.244
- ↑ Bertrand, Ernest. 1868. La justice révolutionnaire en France du 17 août 1792 au 12 prairial an III (31 mai 1793), 17:e article, Annuaire de la Société philotechnique, 1868, tome 30, p. 7-92.
- ↑ Alain Gérard (1993). La Vendée: 1789–1793. p.265-266
- ↑ Brégeon, Jean-Joël. 1987. Carrier et la Terreur nantaise, p.169-171
- ↑ マルタン2026、P.556
- ↑ マルタン2026、P.579
- ↑ 山崎2018、P.208
- ↑ マルタン2026、P.587
- ↑ 山崎(2018)、P.220
- ↑ 山崎2018、P.222
- ↑ 山崎2018、P.224
- ↑ 山崎2018、P.228
- ↑ マルタン2026、P.656-657
- 1 2 マルタン2024、P.222
- ↑ マルタン2026、P.661
- ↑ マルタン2026、P.661
- 1 2 マルタン2024、P.411
- ↑ マルタン2026,P.662
- ↑ マルタン2026、P.662
- ↑ マルタン2024、P.420
- ↑ マルタン2024、P.410
- 1 2 山崎2018、P.229
- ↑ セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵監訳『フランス革命下の一市民の日記』中央公論社、昭和55年2月15日、p.265、267.
- 1 2 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵監訳『フランス革命下の一市民の日記』中央公論社、昭和55年2月15日、pp.267-268.
- ↑ マルタンP.663
- ↑ マルタン2024、P.411
- ↑ マルタン2024、P.433
- ↑ セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵監訳『フランス革命下の一市民の日記』中央公論社、昭和55年2月15日、p.270.
- ↑ 山崎2018、P.229
文献リスト
- 山﨑耕一『フランス革命「共和国」の誕生』(刀水書房、2018)、ISBN 4887084439
- ジャン=クレマン・マルタン(フランス語版)『ロベスピエール 創られた怪物』法政大学出版局、2024年8月、ISBN 4588011731
- ジャン=クレマン・マルタン、「新フランス革命史」法政大学出版、2026年7月。ISBN 978-4588012068。
- セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵監訳『フランス革命下の一市民の日記』中央公論社、昭和55年2月15日