ジョージ・ピケット

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ジョージ・エドワード・ピケット
George Edward Pickett
1862年ごろ
生誕 1825年1月
バージニア州リッチモンド
死没 1875年7月30日(50歳没)
バージニア州ノーフォーク
所属組織 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国陸軍 (USA)
アメリカ連合国 アメリカ連合国陸軍 (CSA)
軍歴 1846年 - 1861年 (USA)
1861年 - 1865年 (CSA)
最終階級 少将 (CSA)
指揮 北バージニア軍第1軍団第1師団
戦闘
除隊後 保険代理業
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ジョージ・エドワード・ピケット(George Edward Pickett, 1825年1月 - 1875年7月30日)は、アメリカ合衆国の職業軍人である。南北戦争に際してアメリカ陸軍(北軍)からアメリカ連合国陸軍(南軍)に転じ、ゲティスバーグの戦いの時に、後にピケットの突撃と呼ばれる攻撃の主力を率いた。

初期の経歴

バージニア州リッチモンドの旧家に、ロバートとメアリー・ピケット夫妻の8人の子の1番目として生まれた[1]。後に南軍の将軍になったヘンリー・ヘスとは従兄弟だった[2]。ピケットは西のイリノイ州スプリングフィールドに行って法律を学んだが、17歳の時にニューヨーク州ウェストポイントにある陸軍士官学校へ推薦された。ピケットのウェストポイント推薦はエイブラハム・リンカーンによって確保されたという伝説があるが、これは概して彼の死後に未亡人によって流布された話だと信じられている。当時のリンカーンはイリノイ州議会議員であり、そもそも「候補者を推薦する権限」を有さなかった。実際にピケットを推薦したのはイリノイ州選出の連邦議会議員で、ピケットの叔父の友人かつリンカーンの法律に関する共同経営者だったジョン・T・スチュアートであった。もっともリンカーンも、ピケットの入学が認められた後で、ピケットに忠告を与えた[3]。

ピケットはウェストポイントで人気の士官候補生だったが、クラスのおどけ者でもあり、知的探求や勤勉さには嫌悪感を示し、1846年に卒業した59名の同期のうち成績は最下位だった(最下位は「ヤギ」という呼び名があった)。通常そのような成績ならば人目に付かない職について経歴も先が知れていたが、まさに後のジョージ・カスターがそうだったように、卒業直前に戦争が起こっていたので軍隊は急に士官を必要としていた。こうしてピケットはアメリカ第8歩兵連隊の名誉少尉に任官され、ほとんどすぐに米墨戦争に従軍した。チャプルテペクの戦いの時に胸壁に真っ先に上り、傷ついた仲間、後の南軍将軍ジェイムズ・ロングストリートから軍旗を回収し、炎上する要塞の上でその旗を振ったことで、全米に知られるようになった。この功績で大尉への名誉昇進を果たした。戦後、テキサスの辺境任務のときに、1849年に中尉、1855年3月にアメリカ第9歩兵連隊の大尉に昇進した。

1851年1月、ピケットはバージニアのジョン・ミンジの娘で、第9代大統領ウィリアム・ハリソンの4代後の玄姪孫、アメリカ独立宣言署名者ベンジャミン・ハリソンの来孫、サリー・ハリソン・スチュワード・ミンジと結婚した。しかし、サリーはその年の11月出産の時に亡くなった。それはテキサスのゲイツ砦をインディアンが襲った直後だった。

ピケットは次にワシントン準州で勤務した。1856年、今日ではワシントン州ベリンガム市となったベリンガム湾のベリンガム砦の建設を指揮した。この年に建てた木造家屋は現在も残っていて、ベリンガムで一番古い家となっている[4]。ベリンガム砦でピケットは先住民ハイダ族の女性モーニング・ミストと結婚し、息子ジェームズ・ティルトン・ピケット(1857年 - 1889年)が生まれたが、モーニング・ミストはその数年後に亡くなった[4]。ジェームズはその短い人生で新聞の画家として名をはせた。

1859年、ピケットはサンフアン島を占領し、このことがイギリスとの領土紛争に発展した。この紛争は、ハドソン湾会社の所有だった豚を殺したアメリカ人農夫に反応して起こったのでブタ戦争と呼ばれる。ピケットはわずか68名の守備隊を指揮して、イギリス軍の3隻の艦船と1,000名の兵士を前にすることになった。ピケットの存在と対決を求めないというイギリス軍の命令で上陸は阻まれた。ピケットは挑戦的に「我々はバンカーヒルの再現をやる」と言ったといわれ[3]、再度国民の注目をあびた。大統領のジェームズ・ブキャナンは事態を収束させるためにウィンフィールド・スコット中将を派遣した。

南北戦争

初期の任務

サムター要塞の戦いが起こった後、バージニア州は合衆国から脱退し、ピケットは個人的には奴隷制に嫌悪感を持っていたものの故郷のバージニア州に奉仕するためにオレゴンから故郷への旅を始めた。第一次ブルランの戦いが終わった後で到着し、1861年6月25日にアメリカ陸軍を辞めたが、それ以前の3月16日からすでに南軍砲兵隊の少佐に任官されていた[2]。1か月以内にセオフィラス・H・ホームズ少将の下で、フレデリックスバーグ方面軍のラッパハノック戦線を指揮する大佐に指名された。ホームズの影響力で、1862年1月14日には准将の位に昇進した[2]。

ピケットは華やかな将軍になった。艶のある黒い軍馬「オールドブラック」に騎り、小さな青の帽子を被り、袖の先には揉み皮の手袋、きちんと仕立てられた制服は上着に金ボタンが2列並び、良く磨かれた長靴には輝く金の拍車があった。馬に乗っていても歩いていても優美な乗馬鞭を持っていた。口ひげは口の両端で優雅に垂れその先は端に向かってまた上がっていた。髪は軍隊でも話の種になり「長い巻き毛が両肩に緩やかに流れ、切りそろえられ香りが高く、顎鬚も同じように巻いてアラブ人のような雰囲気があった」と伝わっている[5]。

南北戦争におけるピケットの最初の戦闘指揮は半島方面作戦のときであり、ゲイムコックス(闘鶏)と渾名された旅団を率いた(この旅団はピケットの突撃のときにはリチャード・B・ガーネットが率いることになった)。ウィリアムズバーグの戦い、セブンパインズの戦いおよびゲインズミルの戦いで実績を挙げた。ゲインズミルでは、肩に銃弾を受けて落馬し、瀕死の重傷だと大騒ぎをしたが、参謀の士官はその傷を調べて、「完全に自分で手当てできる」と言い残して馬で去った。しかし、ピケットは傷の手当てに3か月間任務を離れ、その腕は少なくとも1年間固定されたままだった[3]。

1862年9月に軍務に戻ったとき、メキシコ以来の古い仲間であるジェイムズ・ロングストリート少将が指揮する軍団で2個旅団からなる師団の指揮を任され、10月10日には少将に昇進した。その師団は翌年夏のゲティスバーグ方面作戦まで重大な戦闘に参加することはなかった。12月のフレデリックスバーグの戦いで、短時間参戦したが、損失はなかった。ロングストリートの全軍団は、1863年5月のチャンセラーズヴィルの戦いのとき、サフォーク方面作戦に派遣されていて参戦できなかった。

ゲティスバーグ方面作戦の前に、ピケットはバージニア州の10代の少女ラサール・"サリー"・コーベル(1843年 - 1931年)と恋に落ちて、サフォークの任務の間も行ったり来たりして彼女と時を過ごした。サリーは1852年の9歳のときにピケットに会ったと言っているが、彼女が38歳のやもめであったピケットと結婚したのは1863年11月13日になってからだった。

ゲティスバーグとピケットの突撃

ゲティスバーグの戦いでは、ピケットの師団はペンシルベニア州チェンバーズバーグを通る南軍の通信線を守っていたために到着が遅れ、1863年7月2日、戦闘が始まって2日目の夜に戦場に到着した。ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍は激しい2日間の戦闘の後で、北軍ポトマック軍をゲティスバーグの南にある高台に追い込んだが、退却させるまではできていなかった。リー将軍の7月3日の作戦はセメタリーリッジにいる北軍中央への大規模攻撃を求め、ロングストリート将軍に3個師団を集めて攻撃を掛けるよう命じた。2個師団はA・P・ヒル軍団の疲れきった部隊(ジョンストン・ペティグルー准将とアイザック・トリンブル少将指揮)、残り1個師団がロングストリート軍団のまだ新鮮なピケットのものだった。リーはピケットに突撃を先導するよう任せ、これが後にピケットの突撃と呼ばれる攻撃となる。

北軍の防御を弱体化させる意図で砲撃が2時間にわたって行われた後、この3個師団はセメタリーリッジから約1マイル (1.6 km) 続く開けた戦場を進み始めた。ピケットは「兵士たちよ、持ち場に着け、今日お前たちは古いバージニアから来ていることを忘れるな」と言って兵士達を鼓舞した[6]。ピケットの師団はルイス・アーミステッド、リチャード・B・ガーネットおよびジェイムズ・L・ケンパー各准将の旅団で構成されており、攻撃隊の右翼だった。目標に近づいて行くと、過酷な砲撃をその側面に浴び、歩兵のライフル銃から一斉射撃もあった。アーミステッドの旅団は北軍の前線に最も接近した所まで進んだ。アーミステッドが致命傷を負い、「ジ・アングル」近くで倒れた。そこは今日、「南軍の最高水位線」と考えられている。しかし、他の2個師団はどちらも思ったほど戦場を進めず、アーミステッドの成功は補強されなかった。

ピケットの突撃は血の海だった。北軍は約1,500名が戦死または負傷したが、南軍の損失率は50 %以上だった。ピケットの3人の旅団指揮官と13人の連隊指揮官のすべてが損失の中に入った。ケンパーは負傷し、アーミステッドとガーネットは生き残れなかった。トリンブルとペティグルーは最も上級の損失者であり、トリンブルは足を失い、ペティグルーは手を負傷し、バージニアに撤退する時に死亡した。ピケット自身は無傷で戦闘を生き残ったことで歴史的な批判を受けたが、その部隊の後方にいたピケットの陣取りは(恐らくエミッツバーグ道路沿いのコードリ農園)、当時の師団指揮官として指揮の原則を守っていた。

セミナリーリッジに沿って兵士たちがなんとか南軍の前線に戻ってくると、リーは北軍の反撃を恐れてその中央に兵士たちを集合させるように務め、帰ってきた兵士たちには「この失敗は全て私の落ち度だ」と告げた。ピケットはその日の残りを失望感に取り付かれ、突撃を命じたリーを決して許さなかった。リーがピケットに防御のためにその師団を集合させるよう命じたとき、ピケットは「リー将軍、私には今師団はない」と答えたと伝えられている[7]。この戦闘に関するピケットの公式報告書は見つかっていない。噂では、その厳しい否定的表現の故にリー将軍が受け取りを拒否し、書き直しを要求したが、書き直された版が保管されなかった。

ピケットは後に死の床で、失われた多くの部下たちのことを悼んでいた。ピケットは戦後に一度だけリー将軍に会ったが、その時同席していたジョン・モスビーは、「氷のような」会見だったと伝えている。モスビーはリーとピケットの間の冷たさを支持する唯一の証人であり、他に同席していた者たちはそのようなやり取りを否定し、ピケットはあくまで紳士的に対応していたと述べている。モスビーは、後でピケットが苦々しく「あの男(リー)が私の師団を破壊した」と語ったと述べた[7]。一方、多くの歴史家はモスビーが伝えたような状況はありそうにないこととしている。ピケット自身、なぜ突撃が失敗したかと聞かれるたび、「私は常にヤンキー(北軍)たちのせいだと考えてきた」とたびたび答えている[8]。

ファイブフォークス

ゲティスバーグの後で、ピケットはリーやロングストリートから非難を受けることはなかったが、その経歴は下降線を辿った。冬のあいだ、ピケットはバージニア南部およびサウスカロライナ方面軍の指揮を執り、続いてリッチモンド防衛軍の師団指揮官を務めた。バミューダ・ハンドレッド方面作戦でP・G・T・ボーリガードが北軍のベンジャミン・バトラーを動けなくした後で、ピケットの師団はオーバーランド方面作戦を遂行するリーの支援に派遣された。それはコールドハーバーの戦いの直前だったが、この戦いではピケットの師団が防御線の中央を守り、北軍主力の攻撃は来なかった[9]。その師団はピーターズバーグ包囲戦に参加するために戻った。1865年4月1日、ファイブフォークスの戦いにおけるピケットの敗北が転回点となって、脆弱な南軍の防衛線が明らかになり、リーはリッチモンドを明け渡してアポマトックス・コートハウス方面への撤退を命じた。これはピケットにとって屈辱となった。というのも攻撃された時には軍隊から2マイル (3 km) 離れた場所で仲間の士官とシャッド(魚)を焼いて食べていたからだった。ピケットは戦場に駆けつけたが時すでに遅く、セイラーズクリークの戦いの後で指揮官を解任された。4月9日、アポマトックス・コートハウスの戦いで最後の戦闘に臨み、リーとともに降伏することとなった。4月12日、仮釈放された。

ピケットの死去後に未亡人のサリーが語った話によれば、北軍がリッチモンドに入ったとき、随行していたリンカーンがピケットの自宅を訪問した。リンカーンは戦争前からの古い知己であるピケットの運命を決めるために自らやって来たもので、サリーは驚かされ、自分がピケットの妻であることを認め、乳児だった子どもをリンカーンがあやすのをそのままにしていた[10]。しかし、リンカーンの歴史家ジェラルド・J・プロコポウィッツはこの話を「空想」と片付けている[11]。

戦後

ピケットは仮釈放の身だったが、北軍の追及を恐れてカナダに妻子を連れて逃亡した。1866年、北軍の捜査が終了したことを知り、バージニア州ノーフォークに戻り、保険の代理人として働くかたわら農業に従事していた。

ピケットは南北戦争後に恩赦を求めることが難しかった。これはウェストポイントを卒業した元士官で、戦争の開始とともにアメリカ陸軍を辞任し南軍に転じた者に共通の問題だった。ユリシーズ・グラントを含め、元北軍の士官たちはピケットの恩赦を支持したが、連邦議会の法律によって完全な恩赦を受けたのは、ピケットの死の1年前である1874年6月23日になってからだった[12]。

ピケットはノーフォークで死去し、リッチモンドのハリウッド墓地に埋葬されている。

顕彰

ピケットの死後数十年経って、未亡人のサリーはピケットに関するよく知られた著作家および話し手になり、ピケットが完全な南部の紳士で軍人であると理想化されたイメージを形成することになった。その一方、ピケットに対するサリーの持てはやしぶりにかなり多くの議論が起こっている。サリーは『Pickett and His Men』(「ピケットおよびその部下」)と題した本を1899年に出版した。サリーはまた、ピケットの名義で死後出版された2冊の本『The Heart of a Soldier, As Revealed in the Intimate Letters of Gen'l George E. Pickett』(「軍人の心、ジョージ・E・ピケット将軍の親密な手紙に表されたこと」、1913年出版)と『Soldier of the South: General Pickett's War Letters to His Wife』(「南部の軍人:ピケット将軍からその妻に当てた戦時の手紙」、1928年出版)にも関わっているが、これらはピケットの妻によって作られた信用できない作品とされてきた[13]。その結果ピケットは「南部の失われた大義」神話で一部曖昧にされた人物となってきた。

アメリカ南部においては、ピケットは「栄光の戦闘で部隊を率いたいと思ってきた華々しい士官ながら、ゲティスバーグにおける悲劇の突撃までいつもその機会を見失っていた悲劇のヒーロー」と認識されてきた[14]。歴史家のジョン・C・ワフはピケットについて「旅団の指揮官としては優れていたが、師団の指揮も執れることを証明することはできなかった」と評した。ワフは北軍の将軍ジョージ・マクレランがピケットの葬儀に際して述べた「南北両軍を通じて、彼が最も優れた歩兵であったことに疑いはない」という発言も引用している[15]。

ハリウッド墓地にあるピケットの墓には1888年に記念碑が設置された。ピケットの師団にいた古参兵集団、ピケット師団協会によって1875年に起案され、当初はゲティスバーグ国立軍事公園内のピケットの突撃があった「最高水位線」に置かれる計画だったが、アメリカ合衆国陸軍省が戦場跡に置くことを許可せず、リッチモンドに建立された。ワシントン州サンフアン島のアメリカ軍キャンプにもピケットの記念碑が建てられている。これはワシントン大学歴史協会が1904年10月21日に建てたものである。

バージニア州ブラックストーンのピケット砦はピケットにちなんで名付けられた。元々は市民保全部隊のための場所だったが、第二次世界大戦のときにアメリカ陸軍の訓練施設として使われ、現在はバージニア州兵が利用している。

誕生日の論争

ピケットの誕生日は資料によって異なっており、確定していない。ピケットの軍歴は1825年1月16日としている[16][17]。ハリウッド墓地にある墓碑には同1月25日と刻まれている。ピケットの孫であるジョージ3世が書いた伝記では同1月18日となっている。ピケット協会(The Pickett Society)はバージニア歴史協会(英語版)が保存しているピケットの洗礼記録を調べた結果として、1826年3月10日の洗礼式の際、両親がピケットの誕生日を1825年1月16日としていたと主張する[18]。

一方、1842年7月1日の陸軍士官学校入学にあたって提出された書類では、当時のピケットの年齢を17歳4か月としており、逆算すると1825年3月生まれということになる。さらに、1863年9月14日のサリー・コーベルとの結婚の際、ピケット自身は年齢を37歳と申告したが、これも逆算すると1826年生まれとなる[18]。

陸軍士官学校によれば、19世紀当時のアメリカ人は正確な誕生日について現代の人間ほど重要視していなかった。ピケットもおそらく同様であったのだろうとピケット協会は推測している[18]。

ピケットを演じた人物

俳優のスティーヴン・ラングは1993年の映画『ゲティスバーグの戦い 南北戦争運命の三日間(英語版)』でピケットを演じ、これで重要な賞賛を得た。この前日譚である2003年の『ゴッド&ジェネラル/伝説の猛将』ではビリー・キャンベルがピケットを演じた。

脚注

  1. ↑ Pickett Society
  2. 1 2 3 Eicher, p. 428.
  3. 1 2 3 Tagg, p. 237.
  4. 1 2 “George E. Pickett House”. City of Bellingham. 2007年11月10日閲覧。
  5. ↑ Tagg, pp. 236-237.
  6. ↑ Inscription on the monument for Pickett's Charge at Gettysburg National Park; Tagg, p. 239.
  7. 1 2 Tagg, p. 240.
  8. ↑ Boritt, p. 19.
  9. ↑ Rhea, p. 111.
  10. ↑ Lankford, p. 242.
  11. ↑ Prokopowicz, p. 132.
  12. ↑ “Advise and Consent” (英語). The Pickett Society (2010年2月5日). 2020年2月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年6月14日閲覧。
  13. ↑ Eicher, p. 429.
  14. ↑ “The Fame of Pickett's Charge”. Science Views. 2016年6月23日閲覧。
  15. ↑ Waugh, p. 507
  16. ↑ Eicher, p. 428
  17. ↑ Warner, p. 239
  18. 1 2 3 “The Great Birth Date Controversy” (英語). The Pickett Society (2010年2月5日). 2019年4月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年6月14日閲覧。

参考文献

  • Boritt, Gabor S., ed., Why the Confederacy Lost (Gettysburg Civil War Instutute Books), Oxford University Press, 1992, ISBN 0-19-508549-3.
  • Eicher, John H., and Eicher, David J., Civil War High Commands, Stanford University Press, 2001, ISBN 0-8047-3641-3.
  • Lankford, Nelson, Richmond Burning: The Last Days of the Confederate Capital, Viking, 2002, ISBN 0-670-03117-8.
  • Prokopowicz, Gerald J., Did Lincoln Own Slaves? And Other Frequently Asked Questions about Abraham Lincoln, Pantheon Books, 2008, ISBN 978-0-375-42541-7.
  • Rhea, Gordon C., Cold Harbor: Grant and Lee, May 26 – June 3, 1864, Louisiana State University Press, 2002, ISBN 0-8071-2803-1.
  • Tagg, Larry, The Generals of Gettysburg, Savas Publishing, 1998, ISBN 1-882810-30-9.
  • Vouri, Mike, George Pickett and the "Pig War" Crisis, essay by San Juan Island National Historical Park interpreter at the Pickett Society web site.
  • Warner, Ezra J., Generals in Gray: Lives of the Confederate Commanders, Louisiana State University Press, 1959, ISBN 0-8071-0823-5.
  • Pickett Society biography
  • Reardon, Carol, Pickett's Charge in History and Memory, University of North Carolina Press, 1997, ISBN 0-8078-2379-1.
  • Waugh, John C., The Class of 1846: From West Point to Appomattox: Stonewall Jackson, George McClellan, and Their Brothers, New York: Warner Books, 1994. ISBN 978-0-446-51594-8.

外部リンク