センナケリブの年代記

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センナケリブの年代記
大英博物館
テイラーの角柱(Taylor Prism)、ロンドン
シカゴ大学東洋研究所博物館
東洋研究所の角柱、シカゴ
イスラエル博物館
イェルサレムの角柱、イスラエル
センナケリブの年代記(前704年-前681年)。ユダ王国への侵攻を含む彼の軍事遠征について記されている。
材質年度
寸法不定
文字アッカド語楔形文字
製作前690年頃
発見1830年以降
所蔵最終版が大英博物館、シカゴ大学東洋研究所博物館(英語版)、イスラエル博物館に収蔵。

センナケリブの年代記(Sennacherib's Annals)は、アッシリアの王センナケリブが残した年代記である。

概要

センナケリブの年代記が刻まれた考古学的遺物は複数発見されており、三つの粘土角柱に最終の版となる同一の文章が刻まれている。それぞれ、イギリス・ロンドンの大英博物館所蔵の「テイラーの角柱」(Taylor Prism)、シカゴ大学東洋研究所博物館(英語版)所蔵の「東洋研究所の角柱」(Oriental Institute Prism)、イェルサレムのイスラエル博物館所蔵の「イェルサレムの角柱」(Jerusalem Prism)である。この中、「テイラーの角柱」は楔形文字が解読される数年前に発見され、現代考古学によって分析された最初期の楔形文字文書の一つとなった。

この年代記はヒゼキヤ王時代のイェルサレム市に対するセンナケリブの包囲についての記述によって有名である。この出来事は『旧約聖書』の『イザヤ書』(第36章および第37章)、『列王記』(下、第18章17)、『歴代誌』(第32章9)など、複数の聖書史料に記録が残されている。またセンナケリブによる侵攻はヘロドトスによっても言及されている。ただし彼はユダヤには言及しておらず、この侵攻がナイルデルタの東端にあるペルシウムで終わったと述べている[1]。

形式

センナケリブの年代記の最終版は楔形文字(アッカド語)で記述されており、6つの段落から成る。年代記が記された角柱は六角形で、赤い焼成粘土で作られており、高さは38.0センチメートル、幅は14.0センチメートルで、制作されたのはセンナケリブ治世下の前689年(シカゴ)および前691年(ロンドン、イェルサレム)である。

発見

テイラーの角柱はロバート・テイラー大佐(Colonel Robert Taylor、1790年-1852年)によって1830年にニネヴェで発見されたと考えられている。ニネヴェはセンナケリブ王の時代、アッシリア帝国の首都であった。ニネヴェが初めてボッタ(Botta)とレヤード(Layard)によって発掘調査されるのはこの角柱の発見から10年以上後のことである[要説明]。角柱は1846年までイラクにあり、1835年に25歳のヘンリー・ローリンソンによってpaper squeeze(濡らした濾紙を碑文に圧しつけて作る反転コピー)が作られ、また1845年にピエール・ヴィクトリアン・ロッタン(英語版)によって石膏型が作成された[2]。オリジナルはその後失われたと考えられていたが、1855年にテイラー大佐の未亡人から大英博物館が購入した[3](テイラー大佐は恐らくジョン・ジョージ・テイラー(英語版)の父である。彼も著名なアッシリアに関する探検家、および考古学者となった[4]。)

テイラーの角柱の全体像ならびにクローズアップ。大英博物館。

センナケリブの角柱(Sennacherib Prism)として知られる角柱からこの文書の別バージョンが見つかっている。これは現在東洋研究所(Oriental Institute)にある。これはシカゴのシカゴ東洋研究所(英語版)のためにジェームズ・ヘンリー・ブレステッド(英語版)によって1919年、バグダードの古物商から購入された [5]。イェルサレムの角柱はイスラエル博物館が1970年にサザビーズオークションで取得した[6]。イェルサレムの角柱の碑文が公刊されたのは1990年になってからである[7]。

これら3つの完本の碑文はほぼ同一であるが僅かな違いがあり、角柱に残された日付から制作時期に16か月の間が空いていることがわかる(テイラーおよびイェルサレムの角柱は前691年、東洋研究所の角柱は前689年)。また、この文書の一部が残されている角柱断片が少なくとも8つあり、全て大英博物館に収蔵されている。これらの断片の大部分は数行程度しか残されていない。

東洋研究所の角柱はダニエル・デーヴィッド・ラッケンビル(英語版)によって翻訳された。アッカド語原文は英訳と共に彼の著作『The Annals of Sennacherib』(University of Chicago Press, 1924)に掲載されている[8]。

年代記の重要性

角柱上に記されたイェルサレムの文字。
角柱上に記されたユダ王ヒゼキヤの文字。

この年代記はセンナケリブが彼のイスラエル王国とユダ王国に対する遠征について残した記録のなかで、現在までに発見されている3点のうちの1つであり、この出来事について『旧約聖書』「列王記」とは異なる視点の情報を提供している。

『旧約聖書』のいくつかの句(「列王記」18章-19章)の記録は、少なくともセンナケリブの年代記のいくつかの記録と一致している。『旧約聖書』にはアッシリアによるサマリア攻撃成功、その結果としての人々の追放が語られており、また後にはラキシュへの攻撃がヒゼキヤの和平の求めによって終わったこと、和平に際してセンナケリブが300タラントンの銀と30タラントンの金を要求し、ヒゼキヤが宮殿とイェルサレム神殿にある全ての銀と、金で覆われた神殿の扉と側柱(doorposts)をセンナケリブに引き渡したことが記録されている[9]。これに対して、テイラーの角柱では城壁で囲われた46の都市と数えきれないほどの小集落がアッシリア軍によって征服され、200,150人の人々と家畜がその土地を追われたこと、征服された土地は返還されることはなくペリシテ人の3人の王に分けられたことが宣言されている。加えて、センナケリブの年代記では、センナケリブの包囲によってヒゼキヤが「籠の鳥のように」イェルサレムに閉じ込められると、ヒゼキヤの傭兵たちと「アラブ人[注釈 1]」は彼を見捨て、ヒゼキヤは最終的にセンナケリブにアンチモン、宝石、象牙をはめ込んだ家具、自分の娘、ハレム、演奏家たちを引きわたさざるを得なくなったと述べられている。そしてヒゼキヤは属王となったとされている。


「我が権威の前に服従せざる者、ユダの王ヒゼキヤについて、余は我が破城槌をもって戦いに望み、多くの小都市と共に46の要塞化された彼の都市を包囲し占領した...余は200,150人の人々を老いも若きも、男も女も捕らえ、ウマ、ラバ、ロバ、ラクダ、ウシ、ヒツジなど大量の動物たちも捕らえた。ヒゼキヤについては、余は彼を、彼の王都イェルサレムに籠の鳥の如く閉じ込めた。それから余は彼の周囲に城塞群を築き、何者もイェルサレムの市門を出ることを許さなかった。余が占領した彼の町々は、アシュドドの王ミティンティ(英語版)、エクロンの支配者パディ(Padi)、ガザの王シリ・ベル(Silli-bel)に与えた[11]。」

その後、ヒゼキヤの貢納について言及されているが、センナケリブによるイェルサレム占領については何も言及がない。

注釈

  1. ↑ ここでいう「アラブ人」は現代のアラブ人と厳密に対応する存在ではない。「集団名としてのアラブは、早くも前9世紀の新アッシリアなどの碑文に登場する。ただし、そのアラブが、アラビア語を話す言語集団を指しているとは限らず、アラビア半島に暮らす遊牧民を指す概念であった可能性も否定できない。実際、セム語派の諸言語においてこの語は砂漠・遊牧民・渡り鳥などと関連しており、クルアーンでも『アラブ』ではなく、複数形の『アアラーブ』が遊牧民を指して用いられている」(赤堀[10])。

出典

  1. ↑ “ヘロドトス『歴史』第2巻第141章。” (英語). 2016年2月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年10月22日閲覧。
  2. ↑ Rawlinson & Layard 1852.
  3. ↑ British Museum nd.
  4. ↑ Sollberger 1972, pp. 129–139.
  5. ↑ Hanson 2002.
  6. ↑ COJS nd.
  7. ↑ Ling-Israel 1990, p. 213.
  8. ↑ Luckenbill 1924.
  9. ↑ 2 Kings 19:1–36
  10. ↑ 中東・オリエント文化事典 2020, p. 108 「3. 人と言語」(赤堀)
  11. ↑ 英訳からの重訳。

参考文献

  • 赤堀雅幸「3. 人と言語 アラビア語とアラブ」『中東・オリエント文化事典』丸善、2020年10月、106-109頁。ISBN 978-4-621-30553-9。 
  • Dewar, Ben (2017). “Rebellion, Sargon II's 'Punishment' and the Death of Aššur-Nādin-Šumi in the Inscriptions of Sennacherib”. Journal of Ancient Near Eastern History 3 (1): 25-38. 
    (『反乱、サルゴン2世の「罰」、そしてセンナケリブの碑文におけるアッシュル・ナディン・シュミの死』(著:ベン・デュワー、2017年、『古代近東史ジャーナル』第3巻第1号p25~38に収録、デ・グルイター出版(ドイツ))
  • Frame, Grant (2011-2014). Frame, Grant. ed. Royal Inscriptions of the Neo-Assyrian Period Project (RINAP). Winona Lake, IL: Eisenbrauns 
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  • Geyer, John B. (1971). “2 Kings XVIII 14-16 and the Annals of Sennacherib”. Vetus Testamentum 21 (5): 604-606. 
    (『列王記下18章14-16節とセンナケリブ年代記』(著:ジョン・B・ガイヤー、1971年、『ヴェトゥス・テスタメンタム』第21巻第5号604-606ページに収録、ブリル(オランダ))
  • Grabbe, Lester (2003). Like a Bird in a Cage: The Invasion of Sennacherib in 701 BCE. A&C Black. https://books.google.com/books?id=ln5NwF8L840C 
    (『かごの中の鳥のように:紀元前701年のセンナケリブの侵攻』(著:レスター・グラッブ、2003年、A&C ブラック社(英国)))
  • Ling-Israel, Pnina (1990). “The Sennacherib Prism in the Israel Museum-Jerusalem”. In Klein, J.; Skaist, A.. Bar-Ilan: Studies in Assyriology Dedicated to ★Pin?as Artzi. Ramat-Gan: Bar-Ilan University Press. pp. 213?47 
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  • Luckenbill, Daniel David (1924). The Annals of Sennacherib. Chicago: University of Chicago Press. OCLC 506728. https://oi.uchicago.edu/research/publications/oip/oip-2-annals-sennacherib 
    (『センナケリブの年代記』(著:ダニエル・デーヴィッド・ラッケンビル、1924年、シカゴ大学出版))
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    (『神のごとき王の姿:センナケリブの岩壁レリーフの事例』(著:タリー・オルナン、2007年、『文脈の中の古代近東美術――アイリーン・J・ウィンターを称えて、教え子たちによる研究論集』p161~178に収録、ブリル(オランダ)))
  • Rawlinson, Henry; Layard, Austen Henry (1852). Outline of the history of Assyria: as collected from the inscriptions discovered by Austin Henry Layard, Esq. in the ruins of Nineveh. London: John W. Parker and Son. https://archive.org/details/outlineofhistory00rawl/page/24/mode/2up 
    (『ニネヴェの遺跡においてオースティン・ヘンリー・レヤード氏により発見された碑文から収集されたアッシリア史の概要』(著:ヘンリー・ローリンソン、オースティン・ヘンリー・レヤード、1852年、ジョン・W・パーカー・アンド・サン出版(イギリス)))
  • Russell, John Malcolm (1991). Sennacherib's Palace Without Rival at Nineveh. Chicago: University of Chicago Press 
    (『ニネヴェにあるセンナケリブの「無比の宮殿」』(著:ジョン・マルコム・ラッセル、1991年、シカゴ大学出版局(アメリカ)))
  • Seitz, Christopher R. (1993). “Account A and the Annals of Sennacherib: A Reassessment”. Journal for the Study of the Old Testament (Sheffield Academic Press) 18 (58): 47-57. 
    (『記述Aとセンナケリブの年代記:再評価』(著:クリストファー・R・サイツ、1993年、『旧約聖書研究ジャーナル』第18巻第58号p47~57に収録、シェフィールド学術出版(イギリス)))
  • Sollberger, E. (1972). “Mr. Taylor in Chaldaea”. Anatolian Studies 22: 129-139. https://www.jstor.org/stable/3642557. 
    (『カルデアにおけるテイラー氏』(著:E・ソルバーガー、1972年、ケンブリッジ大学学術誌『アナトリア研究』第22号p.129~139に収録))
  • Ussishkin, David (1982). The Conquest of Lachish by Sennacherib. Tel Aviv: Tel Aviv University Institute of Archaeology 
    (『センナケリブによるラキシュ攻略』(著:ダヴィド・ウシシシュキン、1982年、テルアビブ大学考古学研究所(イスラエル)))
  • Ussishkin, David (2015). “Sennacherib's Campaign in Judah: The Conquest of Lachish”. Journal for Semitics (Unisa Press) 24 (2): 719-758. 
    (『ユダにおけるセンナケリブの遠征:ラキシュ攻略』(著:ダヴィド・ウシシュキン、2015年、『セム学ジャーナル』第24巻第2号p719~758に掲載、南アフリカ大学出版会))

参考ウェブサイト

  • British Museum (n.d.). “British Museum”. 2015年11月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年10月23日閲覧。
    (『テイラーの角柱』(大英博物館))
  • COJS (n.d.). “Hezekiah's Defeat: The Annals of Sennacherib on the Taylor, Jerusalem, and Oriental Institute Prisms, 700 BCE”. Center for Online Judaic Studies. 2026年10月25日閲覧。
    (『ヒゼキヤの敗北――テイラーの角柱、エルサレムの角柱および東洋研究所の角柱に記されたセンナケリブの年代記(紀元前700年)』、オンライン・ユダヤ学研究センター)
  • Hanson, K. C. (2002年). “Sennacherib Prism”. www.kchanson.com. 2026年10月25日閲覧。
    (『センナケリブの角柱』(著:K・C・ハンソン、2002年、『K・C・ハンソンのホームページ』))