トルコの歴史
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トルコの歴史(トルコのれきし)を記述する。現在のトルコ共和国はイスラム圏に属するが、その領土となっている地域の歴史を見ると、古代オリエント文明、古代ギリシャローマ文明、ビザンティン文化、イスラム文化などが栄え、多様である。また、同国最大の都市イスタンブールはローマ帝国、東ローマ帝国、オスマン帝国と3つの世界帝国の首都となった稀有の都市である。近代においてはイスラム圏でいち早く世俗主義の近代国家の建設を行ったことが注目される。本記事では、現在のトルコの領土のアナトリアにおける歴史と、現在のトルコ人の先祖であるテュルク系遊牧民族の王朝がトルコへと発展した様子を記載する。
先史時代

アナトリアには旧石器時代(1万1000年から60万年前)からの遺跡が存在する[1]。ネアンデルタール人も、アナトリアに居住していたと見られている[1]。紀元前2000年末ごろから鉄を作る技術が中近東世界に広がり、この地域が鉄器時代に入ったと考えられる[2]。
2019年時点で発掘中のギョベクリ・テペ遺跡は新石器時代の遺跡とされ、近隣のカラハン・テペ遺跡も未発掘だが同時期の遺跡である可能性がある[3][4]。
紀元前9500~紀元前9000年頃に営まれたとされウルス・ダムに水没しているハッサンケイフ・ホユック遺跡では、狩猟採集民が定住をしていたとみられる[5][6]。同時期のハラン・チェミ遺跡では魚介類・鳥類の骨の分析から年間を通じて定住していた可能性が高いことが示されている[5][6]。
紀元前8630年~紀元前6800年頃に営まれたとされる[7]チャヨニュ遺跡は、狩猟・採集から栽培・家畜化への移行を示している[8][9] 。またチャヨニュ遺跡が位置する現在のトルコ南東部(アナトリア東部)では、ブタが初めて家畜化された場所であると考えられる[10]。
紀元前8400年~紀元前8100年頃に営まれたとされる[11]ネヴァル・チョリ遺跡では紀元前8300年頃までに栽培・家畜への依存度が上がった[12]。
古代

紀元前20世紀初め、アナトリアにヒッタイト人が移動してきて、紀元前17世紀頃にヒッタイト王朝が成立する[14]。ヒッタイトは、紀元前14世紀頃に最盛期を迎えたものの、紀元前8世紀頃、アッシリアによって滅亡する[14]。アッシリアの方も間もなく分裂して、アナトリアにはリディア王国が成立する[14]。紀元前6世紀中頃、イランにアケメネス朝ペルシアが勃興し、領土をアナトリア、エジプト、シリア、メソポタミアにまで拡大するが、紀元前5世紀初めになると、リディア王国が支配していたアナトリア半島の西部を支配するようになる[14]。
その後、マケドニア王国のアレクサンダー大王が、アナトリアを含む広大な領土を支配し、彼の死去後は、後継王朝の一つであるセレウコス朝がアナトリアを支配するようになる[14]。だが、その後紀元前2世紀から紀元後2世紀にかけて、ローマ帝国がこれらの王朝を滅亡させたが、そのローマ帝国も4世紀末に東西に分裂し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が、アナトリアを支配するようになる[14]。

トルコ系民族の祖先はモンゴル高原を中心として、遊牧生活を営んでいた[15]。中国側の史料では彼らは、「丁零」、「丁霊」などと記され、紀元前3世紀には匈奴の支配下に入ったとされる[14]。この丁零の歴史についてはわかっていないことが多いが、1世紀に匈奴が分裂すると、丁零は各地への移動を開始したと見られている[14]。6世紀半ば、突厥が建国され、これがトルコ系最初の大帝国となる[16][15]。突厥と言うのは、テュルケの複数形「テュルキュト」の音を漢字で表し、碑文では古代テュルク語で記されていることから、突厥はトルコ系民族であると考えられている[17]。突厥はシルクロード北方を支配したが、8世紀にウイグルに滅ぼされた[16][18][15]。ウイグルは、安史の乱に介入するなどして唐を支援したものの、9世紀に内部対立とキルギスが勢力を拡大したため、南方へと移住し[注 1][16][15]、トルコ系民族は活動拠点をモンゴル高原から中央アジアへと活動拠点を移した[15]。
8世紀以降になると、イスラム勢力が中央アジアへと進出し、751年タラス河畔の戦いで唐を破ると、イスラム化の下地が形成された[19][15]。トルコ人は突厥時代から文字を持ち、イスラム受容後はアラビア文字を使用した[16]。遊牧民であったトルコ人は西方移動の過程で、それまで信仰していたシャーマニズムからゾロアスター教・仏教・イスラム教へと信仰を変化させた[20]。元々彼らはシャーマニズムを信仰していたため、スーフィズムのイスラム教は受容が容易であった[20]。

9~10世紀にはイラン系のサーマーン朝が中央アジアを支配し、戦争捕虜としてトルコ人奴隷(マムルーク)を獲得した[20][19]。彼らは軍事力として重用され、やがて、サーマーン朝は内部抗争によって弱体化し、トルコ系民族のカラハン朝によって滅ぼされる[21][20]。カラハン朝は最初のトルコ系イスラム王朝であり、アム・ダリヤ川、シルダリヤ川の上流域がトルキスタン(=トルコ人の地)と呼ばれる[21][20]。カラハン朝は後に東西に分裂し、東カラハン朝は1210年に、西カラハン朝は1212年に滅亡すると、トルコ史の舞台は西アジアへ移る[21]。
現代のトルコ人の主流のオグズ族は、突厥滅亡後に西方(アラル海北方部)へ移住し、彼らの部族は20の部族に分かれていた[22]。この内、クヌク氏族からセルジューク朝の血統が誕生し、カユグ氏族からオスマン帝国の血統が出たとされる[22]。10~11世紀に、オグズの一部はシル川流域でイスラムを受容し、北方の非イスラム教徒地帯において、ガーズィー(信仰戦士)として台頭した[23]。11世紀にはセルジュークの一族がホラーサーンへ進出し、1038年にセルジューク朝を建国し、1040年ダンダーナカーンの戦いでガズナ朝を破り勢力を拡大した[24]。
東ローマ帝国
ここでは、現在のトルコに相当する領土を支配した東ローマ帝国について記載する。
ローマ帝国から東西ローマ帝国誕生まで


ローマ帝国は紀元前3世紀前半頃にバルカン半島西部の国々と武力衝突するようになる[25]。第一次マケドニア戦争では、黒海沿岸にあったペルガモン王国と同盟を締結し、これがきっかけとなり、黒海沿岸の諸国はマケドニア王国やシリアに対抗すべく、武力衝突時はローマ帝国に救援を要請するようになる[25]。その後紀元前200年、ローマとマケドニアとの間で第二次マケドニア戦争が勃発し、紀元前197年ローマの勝利に終わる[25] [26]。その後、マケドニアは、ローマの同盟国であったペルガモン王国と衝突し、これによって第三次マケドニア戦争が勃発し、ローマはマケドニアを屈服させることに成功する[25]。ペルガモン王国は強大なローマ帝国から独立を維持することは難しくなり、紀元前133年ペルガモン王国アッタロス3世は、自身の死去と同時に、ペルガモン王国をローマ帝国に遺贈する[25] [27] [26]。これがアシア属州となり、現在のトルコへと領土を拡張する[27][26]。
ローマ帝国はその後、コンスタンティヌス1世が306年にローマ帝国皇帝になると、330年に自身の名前を冠したコンスタンティノープルを創建した[28]。諸説あるが330年が東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の始まりである[29] [30]。創建当時コンスタンティノープルは大都市ではなかったが、コンスタンティノス1世の息子、コンスタンティウス2世が聖ソフィア教会を建設し、都市整備を行った[31]。
その後、時代が下りテオドシウス1世が皇帝になり、テオドシウス朝の時代を迎える[32]。381年に開催された第1コンスタンティノポリス公会議では、アリウス派が異端とされ、コンスタンティノープルの主教の地位が確立された[33]。395年にテオドシウス1世が死去すると、彼はローマ帝国を自身の2人の息子に東西に分けて遺贈する[34]。これが東ローマ帝国と西ローマ帝国の誕生である[34][29]。ただ、同時代の人々は、ローマ帝国が明確に東西に分割されたと言うことは意識しておらず、国力が大きく劣る西ローマ帝国が476年に滅亡した際も、重大な出来事とは認識されていなかった[32] [29]。
東ローマ帝国では、テオドシウス1世の先々代皇帝ウァレンスの時代より西ゴート族の攻撃に悩まされ、彼は378年のハドリアノポリスの戦いで戦死し、テオドシウス1世は西ゴート族に貢納金を支払うことで、懐柔した[35]。だが、テオドシウス1世が死去すると、西ゴート人の首長アラリック1世は東ローマ帝国を略奪して回り、テオドシウス1世の次代の皇帝アルカディウスは西ゴート族と交渉して、彼らをより西方へと向かわせることに成功し、彼らは410年にローマを侵略した[35]。
西ゴート族による危難は去ったが、今度はフン族がドナウ川近辺にまで侵略し、皇帝テオドシウス2世は、これも貢納金を支払うことで一時的に衝突を回避した[35]。その後、フン族は貢納金を釣り上げ、447年にはドナウ川を越境してきたが、皇帝マルキアヌスは、貢納金の支払いを拒絶する[35]。だが、フン族はその後西方へと進軍し、首長の死去によって力が衰えたため、全面衝突は回避された[35]。
レオ朝時代を迎えると、今度は東ゴート族と衝突する[35]。レオ1世時代に領土と爵位を約束されていた東ゴート族であったが、東ゴート族のテオドリックはそれに満足せず、バルカン半島を攻撃する[35]。だが、皇帝のゼノンは、東ゴート族と交渉し、イタリアを攻撃させ、彼らはイタリアのラヴェンナを獲得し、危機を乗り切った[35]。その後アナスタシウス1世皇帝時代に、東ゴート族によるイタリア支配を承認した[35]。
レオ朝のアナスタシウス1世は、518年に後継者不在のまま死去し、その後元老院の指名により、ユスティヌス1世が皇帝となり、ユスティニアヌス王朝が樹立される[36][37]。527年に皇帝となったユスティニアヌス1世は、後にローマ法大全と呼ばれる各種法典を整備した[38][39]。ユスティニアヌス1世の治世は約40年にも及んだが、内政面では戦費負担を巡ってニカの乱という暴動が起き、暴動鎮圧のため、その人数3万人とも言われる反徒を虐殺したり、542年にはペストが襲来し多数の市民が犠牲となるなどした[37][39][40]。対外政策としては、ベリサリウス将軍による北アフリカのヴァンダル王国の征服や、東ゴート王国に対して壊滅的な打撃を与え、一時はイタリア半島を占領した[39] [41]。この頃サーサーン朝のホスロー1世とも戦争になり、532年に交渉を経て、ホスロー1世の軍を撤退させることに成功した[37][41][注 2]。
だが、565年にユスティニアヌス1世が死去すると、これら獲得した領土は一部失陥する[42]。イタリア半島については、568年にゲルマン系のランゴバルド人による侵略に遭い、東ローマ帝国にはシチリアとラヴェンナだけが残された[43][44]。
東方のサーサーン朝に対しては、内紛が起きたため一時小康状態を保ったが、北アフリカではムーア人による攻勢が激化し、現地のカルタゴ総督が大きな力を持つようになり、東ローマ帝国に対して反乱を起こすようになる[43]。バルカン半島には、ドナウ川国境にアヴァール人、ドナウ川下流域には中央アジアから騎馬遊牧民族が襲来し、東ローマ帝国はこれらの侵略に対応しなくてはならなかった[43][42]。そして、当時の皇帝マウリキウスはこれらに対応できず、相次ぐ戦争によって兵士の不満は鬱積し、602年、軍人のフォカスが反乱を起こし、マウリキウスを殺害し、ユスティニアヌス王朝は終焉を迎える[43]。だが、そのフォカスもコンスタンティノープルに入城後、民衆の反乱を鎮圧しきれず、608年、元老院は北アフリカのカルタゴ総督のヘラクレイオスに自体の鎮定を要請する[43]。610年、ヘラクレイオスはフォカスの殺害に成功し、ここにヘラクレイオス王朝が樹立された[43][45]。
ヘラクレイオス王朝は、同名の息子のヘラクレイオスが皇帝となるが、この頃サーサーン朝がシリア、エジプト、エルサレムを攻撃し、支配下に置いてしまう[42][46]。これを受けてヘラクレイオスは遠征に出るが、その間隙を縫って、626年、アヴァール人とサーサーン朝の連合軍がコンスタンティノープルを攻撃する[42][43][47]。だが、東ローマ帝国軍はこれを何とか防ぎ、一転627年にホスロー2世の軍を破り、サーサーン朝は占領した東ローマ帝国の領地から撤退した[47][46]。
アラブ勢力の台頭
だが、その後イスラム教を信仰するアラブ人が台頭し、アラビア半島を席巻する[47]。東ローマ帝国とアラブ勢力は、636年、ヤルムーク川において衝突し(ヤルムークの戦い)、東ローマ帝国が惨敗する[47]。これによって、シリア、パレスチナはアラブ勢力の手に落ち、エジプトも大部分を失陥する[47][48]。ヘラクレイオスは641年に死去し、後継者争いをへて、ヘラクレイオスの孫であるコンスタンス2世が皇帝となる[47]。

コンスタンス2世時代になると、アラブ勢力は642年のニハーヴァンドの戦いで、サーサーン朝に勝利し、640年代後半になるとアナトリアへの遠征を繰り返すようになる[47]。コンスタンス2世は、ムアーウィヤ率いるイスラム勢力と655年アナトリア南西部リキア沖での帆柱の戦いで衝突するが、敗北に終わり、東ローマ帝国はバルカン半島に転進する[47][48]。コンスタンス2世はその後戦争に明け暮れ、軍から反感を買い、暗殺されてしまう[47][48]。イスラム勢力はますます勢いを増し、とうとうコンスタンティノープルを攻撃してくる[49]。この状況に皇帝となったコンスタンティノス4世は、ギリシア火と言う兵器を駆使して、ムアーウィヤの軍を撃退することに成功する[48][42][49]。だがイスラム勢力は、アナトリアの一部、シリア、パレスチナ、エジプト、北アフリカの一部を手中に収めていた[49]。
イスラム勢力の伸長に対して、東ローマ帝国は文民と軍人の権力分離を見直し、軍管区(テマ)制度へと転換していった[49][42]。
バルカン半島では、660年頃からブルガリア人が台頭し、彼らはドナウ川河口地帯からバルカン半島東部にまで進出し、681年に第一次ブルガリア帝国を樹立し、東ローマ帝国と対立を深める[42][50][51]。第一次ブルガリア帝国に対して、コンスタンティノス4世自ら軍を指揮するが、病気によって撤退したため、軍は壊乱し、敗北する[50]。結局、コンスタンティノス4世は、ブルガリア人に対してドナウ川以南における定住を承認し、貢納金を支払うことで合意する[50]。
コンスタンティノス4世は685年に急死し、実子のユスティニアノス2世が皇帝となり、彼は対外遠征を積極的に行い、いくつかの戦争では勝利を収めたが、692年にアルメニアが支配するセヴァストポリを巡る戦いで敗北し、アルメニアはイスラム国家の支配下に入ってしまう[50][48]。ユスティニアノス2世の内政については、政敵に対する容赦のない粛清や重税を課したため、民衆の反感を買い、695年に彼は首都のコンスタンティノープルを追放される[50]。だが、ユスティニアノス2世はブルガリアの君主テルヴェルと結託し、705年に復位を果たす[50][48]。その後、ユスティニアノス2世はかつて自分を追放したクーデターの指導者達を次々に処刑し、その苛烈な措置に再び反感を買い、結局ユスティニアノス2世は711年に殺害された[50][48]。ユスティニアノス2世以降の皇帝もクーデターなどで短命に終わり、テオドシオス3世の時代、レオーン3世による反乱が起こり、ヘラクレイオス王朝は幕を閉じ、イサウリア朝が樹立される[52][53]。
イサウリア朝のレオーン3世は、717年にウマイヤ朝による首都攻囲戦の防衛に成功し、その後740年にアクロイノンの戦いでも勝利する[54][55]。これら一連の戦勝によって、勢いづく東ローマ帝国であったが、レオン3世時代よりイコノクラスム(聖像破壊運動)が行われる[54][56]。これは、726年に起きた火山の噴火を、民衆は神の怒りと考え、信仰の拠り所を聖像に求めたことに起因しているとされる[56][56]。このイコノクラスムは、後の皇帝コンスタンティノス5世時代に激化した[55][54]。
レオーン3世時代は、ブルガリアとは友好関係を保ったが、次代皇帝コンスタンティノス5世は、ブルガリアに対する対外遠征を繰り返し、バルカン半島情勢の鎮定に努めた[57][54][53]。
コンスタンティノス5世死去後、レオーン4世が皇帝となり、彼はシリアへの遠征を行ったとされる[57]。レオーン4世はエイレーネーと結婚し、彼女はレオーン4世死去後に、自身の息子であるコンスタンティノス6世の摂政(780年-797年)を務め、787年にイコノクラスムを禁止させた[55][53][注 3]。エイレーネーは、自身の息子であるコンスタンティノス6世が成人すると、彼の目を抉った上で追放し、自身が女帝となった[57][53]。
だが、エイレーネーの女帝即位については、ローマ教皇レオ3世は前例のないこととして問題視し、レオ3世はカール大帝をコンスタンティノス6世の後継者として戴冠した[58]。これに対して、エイレーネーはカール大帝との結婚を画策するが、宮廷から反発の声が上がり、802年に税務長官のニケフォロスがクーデターを起こし、エイレーネーは退位した[58][53]。
ニケフォロスはニケフォロス1世として即位するが、彼はブルガリアとの戦争によって811年に戦死する[59][55]。その後、レオーン5世の時代になると、ブルガリアとの間でトラキアをめぐる国境画定が行われるが、彼は820年に暗殺され、イサウリア朝は幕を閉じる[53]。
イサウリア朝の次のアモリア朝時代になると、アラブ人が827年にシチリアに上陸し、数十年をかけて同地を掌握することに成功する[55][60]。そして、クレタ島も別のアラブ人集団によって征服され、彼らアラブ人はその後2世紀ほどに渡り海賊行為を行った[55]。
アモリア王朝は867年に皇帝のミカエル3世が、部下のバシレイオスに殺害されたことによって終わるが、同王朝の末期には、ルーシ人がコンスタンティノープルを攻撃し、ルーシ人が歴史の表舞台に登場するようになる。
アナトリア支配からの離脱

ミカエル3世を暗殺したバシレイオスはバシレイオス1世として即位する[60]。バシレイオス1世は、マケドニアに定住していたためマケドニア王朝として知られるが、彼はマケドニア人ではなくアルメニア人であった[61][62]。このマケドニア王朝は、東ローマ帝国の黄金時代として知られ、外敵の侵略を防ぎ領土拡張に成功した[61]。大きな動きとしては、961年にクレタ島をアラブ人勢力からの奪回、965年にはキプロス島、969年にはシリア北部の要衝アンティオキアを掌握する[63][64][65][66]。ヨハネス1世の時代の971年には、バルカン半島のルーシを撃退した[63][64][65]。ただ、マケドニア王朝も例に漏れず、皇帝の位を巡る権力闘争や、簒奪が行われていた[63]。バシレイオス2世の時代の、1018年には第一次ブルガリア帝国の併合に成功し、東ローマ帝国の国境は久しぶりにドナウ川にまで到達した[66][64]。その後、東ローマ帝国は、セルビア、クロアチア、アルメニア、コーカサス地方の一部も属領とした[64][66]。バシレイオス2世は、イタリア半島南部からシチリア島への勢力拡大も検討していたようであるが、彼は1025年に死去し、それは達成されなかった[64]。
東ローマ帝国は領土を拡張しすぎたため、中央アジアと国境を面するようになり、1030年代頃より、騎馬遊牧民のペチェネグ人が東ローマ帝国に侵入する[67][68][69]。東ローマ帝国は彼らに降伏した場合、定住地を約束するとしたが、そもそも遊牧民族の彼らが定住することは難しく、彼らペチェネグ人を始めとする遊牧民族は度々東ローマ帝国を脅かした[67][68]。この頃(11世紀半ば以降)になると、セルジューク朝の軍隊がアルメニア東部に出没し、東ローマ帝国軍と衝突が起きていた[68]。バシレイオス2世死去後の東ローマ帝国では大土地所有政策や税負担を巡っての反乱や、皇帝位の簒奪も起きた[70]。また、バシレイオス2世死去後の東ローマ帝国は、財政難から自国兵士を削減し、外国人傭兵を盛んに雇用したため、従来の兵士による反乱が勃発するなどして、不安定な状況に陥った[68][69]。
その後、アナトリア北西部のパフラゴニアを本拠地としていたドゥーカス家のコンスタンティノス10世が1059年に皇帝となり、ドゥーカス王朝が樹立される[68]。コンスタンティノス10世は緊縮財政を取り、東ローマ帝国属州の駐屯軍を削減するなどした[68]。だが、これによって東ローマ帝国東方の国境地域にはセルジューク朝による侵略が増加する[68][67][69]。
そして、1071年、東ローマ帝国とセルジューク朝の間でマラズギルトの戦いが勃発し、当時の皇帝ロマノス4世が捕虜となってしまう[69][71]。以降、アナトリアはトルコが支配することとなる[69][71]。その後、東ローマ帝国はなおも緊縮財政を敷いたため、兵士に対する給料遅配が発生し、属州で軍事蜂起が発生する[71]。この中で台頭したのが、セルジューク朝の王族スレイマン・シャー (セルジューク朝)と同盟を締結したニケフォロスで、彼は1078年にコンスタンティノープルにまで進軍し、皇帝となった[71]。彼の在位期間はわずか3年であるが、この頃アナトリアでは反乱が続発し、反乱の指導者はトルコ人と結託していたという状況であった[72]。
1081年、トルコ人がマルマラ海沿岸地域を占領すると、将軍のアレクシオス・コムネノスは事態の鎮定を命じられるが、彼は逆にクーデターを起こし、皇帝位を簒奪し、これによってコムネノス王朝が樹立される[72]。
アレクシオス1世コムネノスは、その後西方領土の安定を確保するため、皇帝即位直後に領土を脅かしていたノルマン人に対抗するため、トルコ人と同盟し、これを撃退した[67]。その後、アレクシオス1世は、アナトリア奪回を目論み、ローマ教皇に支援を要請する[73]。そうして、1096年に第1回十字軍が結成されると、東ローマ帝国は十字軍のアナトリア進出に便乗し、ニカイアを始めとする諸領土を奪還することに成功する[67][73][74]。アレクシオス1世は遠征を繰り返し、1116年のバルカン半島遠征を最後に1118年に死去する[75]。アレクシオス1世の後継者となった皇帝のヨハネス2世は、かつて十字軍が征服したアンティオキアを掌握することに成功する[76]。
その後、アンドロニコス1世の時代になると、バルカン半島ではセルビア、ハンガリー、シチリアで反乱が相次ぐようになる[77][78]。アンドロニコス1世はこの状況を打開するため、東ローマ帝国内部の綱紀粛正に努めるが、政府高官を激しく弾圧したため、弾圧を逃れた者は外国人諸侯を頼って亡命したため、東ローマ帝国には外国の諸侯による干渉が行われるようになる[77][78]。そして、1185年にはブルガリア人が反乱を起こして、第二次ブルガリア帝国を樹立する[78]。
滅亡へ

ローマ教皇インノケンティウス3世によって第4回十字軍の結成が提起されるが、十字軍は輸送に際してヴェネツィアに対して支払う軍資金が不足していた[77]。そこで、ヴェネツィアは、ハンガリー領となっていたザラの奪還を十字軍に持ち掛け、十字軍は同地を占領し、ヴェネツィアに譲渡した[79]。その後、十字軍は当初目的地のエジプトを侵攻しようとしたが、ここで元皇帝のイサキオス2世の息子のアレクシオス4世アンゲロスが、十字軍にイサキオス2世復位の交渉を行い、十字軍はコンスタンティノープルを攻撃し、1204年、コンスタンティノープルは陥落した[79][77][80]。これによって東ローマ帝国は滅亡し、ニカイア帝国、アナトリア北東部のトレビゾンド帝国、バルカン半島南西部のエピロス専制侯国の3つの地方政権に分割された[77][81][79]。コンスタンティノープルには十字軍とヴェネツィアが主体となり、ラテン帝国が樹立されたが、これも1205年にブルガリアによる攻撃を受けて、同帝国の皇帝 ボードゥアン1世は行方不明となった[81]。
東ローマ帝国の地方政権であるトレビゾンド帝国については、ペルシア方面からの交易ルートを掌握していたため、そこから得られる関税収入によって250年間存続した[81]。エピロス専制侯国については、東ローマ帝国のバルカン半島の旧領土奪回に向けて遠征を行い、1224年にはテッサロニキを、1225年にはアドリアノープルを占領することに成功する[81]。だが、1230年ブルガリアに敗れてしまう[81]。ニカイア帝国は、初代皇帝テオドロス1世が、ラテン帝国に対して攻撃を仕掛ける[82]。その後、2代目皇帝ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスは、国内の産業振興に務めつつも、軍の増強を図った後、バルカン半島の征服に乗り出し、トラキア、マケドニアを征服した[82][79]。そして、1246年にはテッサロニキを掌握した[82][79]。その後、ミカエル8世が皇帝となり、1261年にコンスタンティノープルの奪回に成功するが、コンスタンティノープルは最早相次ぐ戦争により廃墟と化していた[80]。また、かつて東ローマ帝国が支配していた東地中海は、ヴェネツィアが掌握していた[80] [82]。
ミカエル8世死去後、長男のアンドロニコス2世が皇帝となるが、アナトリア側では、オスマン帝国軍によってプルサ(現在のブルサ)を占領され (1326年)、すっかり勢力は衰える [83]。治世末期の1328年になると、(アンドロニコス2世の)孫のアンドロニコス3世によって廃位されてしまう[83]。アンドロニコス3世は皇帝になって間もなく死去し、息子のヨハネス5世が9歳で皇帝に即位し、一度は退位させられたものの、その後復位を果たすと、オスマン帝国に対抗するため、ハンガリーやローマに助力を要請するが、最早ニカイア帝国周辺の諸国はオスマン帝国に臣従しており、ヨハネス5世はオスマン帝国のムラト1世に臣従することになる[83]。
1391年、ニカイア帝国は、オスマン帝国のバヤズィト1世のアナトリア遠征に従軍するということもあった[84]。1402年にアンカラの戦いでオスマン帝国が敗北し、東ローマ帝国再興の機会はあったが、それは果たされず、1430年にはオスマン帝国に敗北し、テッサロニキを失陥する[84]。その後、1444年に結成された十字軍もオスマン帝国の前に敗北する[84]。1453年4月、オスマン帝国はコンスタンティノープルを攻撃し、約1か月ほど持ちこたえたのち、コンスタンティノープルは陥落、最後の皇帝となったコンスタンティノス11世は行方不明となり、東ローマ帝国(ニカイア帝国)は滅亡した[84][85]。その後、東ローマ帝国の地方政権として存続していたモレアス専制公領が1460年に、トレビゾンド帝国も1461年にオスマン帝国によって滅亡させられ、東ローマ帝国の系統国家は滅亡した[84][85][86]。
ルーム・セルジューク朝

ルーム・セルジューク朝成立前のセルジューク朝が、アナトリアへと入植し始めたのは、1015年から1021年の事であったとされる[87]。奴隷ではない自由なトルコ人によって構成された本格的なトルコ人政権であった[22]。彼らはスンナ派を信仰していたため、イスラム世界においては平等に活動することができた[22]。トルコ系民族はアナトリアへの流入を続けた[24][88]。

建国初期



建国者のスライマーン1世・イブン=クタルミシュは、セルジューク家の祖セルジュークの玄孫にあたる[89]。スライマーンの父クタルミシュはアルプ・アルスラーンとセルジューク朝の王の地位を争うが、1063年のデヘ・ナマクの戦いで敗れ、敗走の途上で没した[90]。敵対者の子であるスライマーンは命こそ助けられたが、王族としての扱いは受けられなかった[91]。
1071年のマラズギルトの戦いにおけるセルジューク朝の勝利後、東ローマ帝国の軍事的影響力が弱まったアナトリアではトゥルクマーン系遊牧民の進出が始まる[92][93]。マラズギルトの戦勝者であるスルターン・アルプ・アルスラーンには積極的にアナトリアに進出する意図は無く[89]、アルプ・アルスラーンの跡を継いでスルターンに即位したマリク・シャーは、スライマーンとマンスールの兄弟に80,000戸のトゥルクマーンを与えてアナトリアの統治を命じた[94]。1074年から1075年の間にスライマーンはニカイアを占領[91]、東ローマ帝国皇帝と同盟してアナトリアの君主の地位をうかがうマンスールに勝利する[95]。そして1077年にスライマーンはセルジューク朝からアナトリアの支配権を認められ[95]、独立を宣言するが[96]、大セルジューク朝の君主と異なり「スルターン」の称号は名乗らなかった[97]。東ローマ帝国と協定を結んだスライマーンはアナトリア南部に進攻し、タルススなどの都市を獲得した[98]。さらにスライマーンは東方に進み、1084年12月(あるいは1085年[97])に小アルメニア領のアンティオキア(現在のアンタキヤ)を制圧するが、スライマーンがシリアへも進出したために、他のセルジューク朝の王族との間に対立が生まれる[91]。1086年6月にスライマーンはシリア・セルジューク朝の創始者トゥトゥシュとの戦いに敗れ、落命した[91]。成人していなかったスライマーンの子キリジ・アルスラーン1世はホラーサーン地方に召還され[99]、マリク・シャーの元に留められた[100][91]。指導者を欠いたアナトリア地方では領主たちが独立して互いに争い[99]、セルジューク朝の支配領域はアルメニアにまで後退した[100]。
マリク・シャーの没後、1092年にキリジ・アルスラーン1世は解放されてアナトリアの統治を命じられ、ニカイアに入城する[100][99]。1096年、アナトリアに上陸した十字軍(第1回十字軍)が、ニカイアを包囲する事件が起きる(ニカイア包囲戦)[100]。キリジ・アルスラーン1世はマラティヤ包囲中に十字軍の出現を知り、ニカイアに戻るが敗れ、翌1097年に首都を失った。ルーム・セルジュークはそれまで敵対関係にあったトゥルクマーン系の国家ダニシュメンド朝と同盟して十字軍と戦うが、ドリュラエウム(現在のエスキシェヒール)の戦いに敗れる(ドリュラエウムの戦い)[100][101]。1097年8月にコンヤ、ヘラクレア(現在のエレーリ)、カエサレア(現在のカイセリ)が十字軍に占領され、ルーム・セルジュークが制圧していたエーゲ海沿岸部の地域は東ローマ帝国によって奪い返された[100]。トゥルクマーン諸勢力は十字軍に対抗するために連合し、1101年8月のミラノ大司教アンセルモの撃破を皮切りにヌヴェール伯、アキテーヌ・バイエルン軍を破り(1101年の十字軍)、トゥルクマーンたちは勢力を回復した[102]。
首都の移転
ドリュラエウムの戦いの後、ルーム・セルジュークはアナトリア中央の高原地帯に後退するが、領地を接するダニシュメンド朝とマラティヤの帰属を巡って争うことになる[103]。ニカイアに代わる新たな首都に定められたコンヤは1101年から1102年にかけてダニシュメンド朝に包囲され、一時的に占領された[104]。
他方、マリク・シャー没後のイラン、イラクでは後継を巡る混乱が続いており、キリジ・アルスラーン1世はイラクへの進出を計画した[105]。1106年にマラティヤとマイヤーファーリキーン(現在のシルワーン)がルーム・セルジュークの支配下に入り、1107年にセルジューク朝のスルターン・ムハンマド・タパルに反抗するモースル(マウスィル)の住民に招聘されてキリジ・アルスラーン1世は同地に入城する[102]。入城後にキリジ・アルスラーン1世は金曜礼拝のフトバからムハンマド・タパルの名前を削り、代わりに自身の名前を入れて読み上げさせた[102]。同年7月にムハンマド・タパルが派遣したアミール・チャヴルとハーブール河畔で衝突するが[106]、戦闘はルーム・セルジューク側の敗戦に終わり、キリジ・アルスラーン1世は敗走中に溺死する[107]。
キリジ・アルスラーン1世の死後、彼の5人の子が王位を巡って争い、内訌に介入した東ローマ帝国とダニシュメンド朝によって領土の一部を奪われる[108]。キリジ・アルスラーン1世の子の一人マリク・シャーは東ローマ帝国を攻撃するが成果を挙げられず、1116年にダニシュメンド朝と同盟した弟のマスウード1世によって廃位された[108][109]。マスウード1世はダニシュメンド・ガーズィの没後混乱するダニシュメンド朝を攻撃し、アンカラ、チャンクルを占領した[109]。1147年に第2回十字軍がアナトリアに上陸した折、マスウード1世はフランスのルイ7世、神聖ローマ帝国のコンラート3世を破り、西欧諸国の計画を破綻させた[109]。1153年に小アルメニア王国のトロス2世、1154年に東ローマ帝国皇帝マヌエル1世コムネノスとルーム・セルジュークの間に盟約が結ばれ[109]、それから間も無くマスウードは没した。
マスウードの跡を子のキリジ・アルスラーン2世が継いで以降、西アジア史におけるルーム・セルジューク朝の重要性が増していく[107]。
ミュリオケファロンの戦い、国内の分裂


即位後のキリジ・アルスラーン2世はダニシュメンド朝、東ローマ帝国以外に弟のシャーヒンシャーと敵対していた[110]。キリジ・アルスラーン2世は東ローマ帝国との関係を修復し[107]、1161年から1162年にかけて自らコンスタンティノープルを訪問して協約を締結する[107][111][112]。キリジ・アルスラーン2世はダニシュメンド朝と交戦した際、ダニシュメンド朝を支援するシリアのザンギー朝との関係を悪化させ、1172年(または1173年)にザンギー朝のヌールッディーンによって一時期スィヴァスを占領される[107]。ザンギー朝との和議が成立してザンギー軍が撤退するとキリジ・アルスラーン2世はダニシュメンド朝支配下の都市を再び攻撃し[112]、同時にザンギー朝との衝突を極力避ける方針を採った[107]。1176年に東方の失地回復を図るマヌエル1世コムネノスが親征を行うと、キリジ・アルスラーン2世もトゥルクマーンからなる軍隊を率いて迎撃に向かい、9月17日にミュリオケファロンで東ローマ帝国軍に勝利した(ミュリオケファロンの戦い)。ミュリオケファロンの勝利の後に両国の間に和平が結ばれ[113]、東ローマ帝国がルーム・セルジュークに対して大規模な軍事行動を行うことは無くなった[114]。1178年にルーム・セルジュークはダニシュメンド朝を滅ぼし、アナトリアに確固たる支配権を築いた[115]。1179年から1181年にかけて、シリア北部の都市の帰属を巡ってアイユーブ朝との関係が悪化するが、大規模な軍事衝突には発展しなかった[114]。
キリジ・アルスラーン2世は晩年に11人の王子と1人の王女に領土を分割して与えるが[116]、首都のコンヤを末子のカイホスロー(後のカイホスロー1世)に与えたために他の息子は不満を抱き、王子たちの間で争いが起きる[117]。王子たちの内訌に加えて、西欧では1189年に第3回十字軍が開始され、アナトリアは神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の攻撃を受ける。1190年5月にフリードリヒ1世はコンヤに到達、一時十字軍にコンヤを占領される[117]。1192年9月にキリジ・アルスラーン2世が没すると、王族間の争いはより激化する[注 4]。
一旦はカイホスロー1世が王位を継ぐが、最終的にトカトの統治者であるルクヌッディーン・スライマーン・シャー[118]が王位に就き、カイホスローはアナトリアを脱して東ローマ帝国に亡命した[119]。スライマーンは1204年にエルズルムを支配するアタベク政権のサルトゥク朝を滅ぼし、続いてグルジア王国への遠征を行うが敗戦に終わり、グルジア遠征の帰路でスライマーンは没した[119]。スライマーン没後、彼の子のキリジ・アルスラーン3世が王位に就く。キリジ・アルスラーン3世が短い在位期間を経て廃された後、コンスタンティノープルから帰国したカイホスローが即位する[119][120]。
最盛期

キリジ・アルスラーン2世時代以前のルーム・セルジューク朝は大セルジューク朝と同じ内陸国家であり、海洋への進出は計画されなかったが[122]、13世紀に入って内陸国家であるルーム・セルジューク朝に変化が起きる[117]。1207年に地中海に面する港湾都市アンタルヤがルーム・セルジュークの支配下に入り、ルーム・セルジュークは初めて海洋に進出する拠点を得[123]、ヴェネツィア共和国と通商関係を構築した[120]。1211年にカイホスロー1世はアラシェヒルの戦いでニカイア帝国に勝利するが、戦闘の前後に陣没した[120][123][注 5]。
カイホスロー1世の死後、2人の王子が後継者の地位を巡って争う。勝利したのは長子のカイカーウス1世であり、敗れた弟のカイクバード(後のカイクバード1世)はマラティヤ近郊の城砦に幽閉された[123]。1214年にカイカーウスはアナトリア東北部を支配するトレビゾンド帝国を攻撃してトレビゾンド皇帝アレクシオス1世を捕らえ、釈放の条件としてトレビゾンド帝国に毎年の貢納を科すとともに、黒海沿岸の港湾都市スィノプをトレビゾンドから獲得した[120]。スィノプの獲得によってルーム・セルジュークはアナトリア半島南北に海洋に面する都市を得、カイカーウスはコンヤに建立したモスクの碑文に自らを「二つの海のスルターン」と刻ませた[123]。1216年にカイカーウスはアンタルヤを占領した十字軍と小アルメニア王国を破って軍を進め、一時的にシリア北部のアレッポを占領する[120]。アレッポの永続的な占領には失敗し、カイカーウスはシリア遠征後に病死する[123]。 カイカーウスの没後、解放された弟のカイクバードが即位する[123]。
即位後、カイクバードは宮廷内で強い発言力を持つ有力者に代えて、グラーム(宮廷奴隷[124])出身の軍人や仕官歴の短い書記を抜擢する人事を行った[125]。1223年にアンタルヤ東方の港町カロノロスがルーム・セルジュークの支配下に入る[126]。征服後カロノロスはカイクバードのラカブ(尊称)である「アラー・アッディーン」にちなんでアラーイーヤと呼ばれるようになった[注 6][126]。アラーイーヤにはクズル・クレ(「赤い塔」という意味。見張り用の櫓)と造船所、宮殿が建設され、ルーム・セルジューク朝のスルターンの冬季の滞在地とされた[127]。1227年にはスィノプを発ったルーム・セルジュークの遠征軍がクリミア半島に上陸し、近隣のキプチャク族を従属させる[126]。1227年のクリミア遠征は、大セルジューク朝時代も含めて、セルジューク朝の軍隊が海を越えて軍事活動を行った最初の例である[126]。 [注 7]
1228年にアナトリア東部のエルズィンジャンを支配するメンギュジク朝を従属させ、東方に影響力を拡大した[126]。1229年5月にアゼルバイジャンを拠点に再興したホラズム・シャー朝から同盟を求める使節が到着する[128]。同盟の締結にあたってルーム・セルジューク側からカイクバードの王子カイホスロー(後のカイホスロー2世)とホラズム・シャー朝のスルターン・ジャラールッディーンの娘との婚姻が提案されたが、ホラズム側は提案を拒絶し、またアナトリア東部の都市エルゼルムの帰属を巡っても両国の間で対立が起きた[129]。カイクバードはジャラールッディーンと敵対していたダマスカスのアイユーブ朝の王族と同盟を結び、1230年8月にエルズィンジャン西部のヤッス・チメンの戦いでホラズム・シャー朝に勝利する[126]。1235年までにキャフタ、エデッサ、エルゼルムなどのアナトリア半島の都市がルーム・セルジュークの支配下に入り、カイクバードの時代に現在のトルコ共和国のおおよその国境が成立した[130]。
1237年5月にカイクバードは遠征の企画中にカイセリで病死[131]、跡をカイホスローが継いだ。このカイクバードの死について、カイホスローによる毒殺を推測する研究者も多い[127][131][132]。
キョセ・ダグの戦い

カイホスロー2世は即位後、宮廷内のホラズム人の有力者カユル・ハーンを殺害したため、ホラズム地方出身の廷臣は臣従を拒んで反乱を起こした[131][133]。
1240年から1241年にかけて、ユーフラテス川流域でバーバー・イスハークというダルヴィーシュ(スーフィーの修道僧)がトゥルクマーンを指揮して宗教反乱を起こした[131][134]。反乱は宗教面以外に反貴族政治的な性質も持ち[134]、ルーム・セルジューク軍は反乱軍に何度も敗れ、一時はカイホスローが首都コンヤから脱出する危機に陥った[131]。反乱はフランク人傭兵によって鎮圧され[131]、指導者のバーバー・イスハークは絞首刑に処せられたが[134]、この事件はルーム・セルジューク朝の軍事力の低下を明らかに示していた[135][136]。
1241年にカイホスローはアルトゥク朝が有するアーミド(現在のディヤルバクル)を占領し、東方に影響力を拡大する[136]。しかし、アーミドの占領直後にルーム・セルジューク朝は東方で勃興したモンゴル帝国からの攻撃に晒される。1232年頃からモンゴル軍はアナトリアで偵察を行っており、その時には大規模な戦闘は発生しなかったが、1240年代より本格的な攻撃が始まり[136]、1242年の秋にエルゼルムがモンゴルによって陥落させられる。カイホスローはエルズィンジャンに侵入したモンゴル軍を迎撃するために親征を行うが、1243年6月26日にルーム・セルジューク軍はキョセ・ダグでバイジュ・ノヤン率いるモンゴル軍に大敗した(キョセ・ダグの戦い)[137]。敗戦後、抵抗することなくモンゴルに降伏したスィヴァスは殺戮を免れたものの城壁と兵器を破壊され、トカト、カイセリは略奪を受けた[138]。モンゴル軍によるアナトリア遠征は(おそらくは略奪を目的として[139])バイジュの独断で行われたものであり、戦後すぐにモンゴル軍がアナトリアに駐屯することは無かったが、モンゴルに臣従を誓ったルーム・セルジュークには毎年のモンゴルへの貢納が課せられた[136]。臣従から間もなくアナトリアは飢饉に襲われ、危険を避けて黒海沿岸部や地中海沿岸部に逃れる者が多く現れる[140]。1245年にカイホスローはモンゴル軍に協力した小アルメニア王国に懲罰の親征を行う途上で没し[注 8]、跡をカイホスローの長子のカイカーウス2世が継いだ[141]。このカイホスローの死についても、毒殺を疑う研究者がいる[134][142]。
モンゴルへの服属

カイカーウスの擁立には、イラン系の官僚シャムス・アッディーン・ムハンマド・イスファハーニーが大きな役割を果たした[141]。1244年にイスファハーニーはヴォルガ川下流域に駐屯していたモンゴル帝国の重鎮バトゥの元を訪れた時、アナトリアにおけるバトゥの代官の地位を与えられており、この立場を元に国政の実権を掌握した[141]。カイカーウスの即位後、彼の弟のキリジ・アルスラーン(後のキリジ・アルスラーン4世)とカイクバード(対立王カイクバード2世、在位1249年 - 1257年)がカイカーウスの共同統治者となり、貨幣とフトバにはカイカーウスら三兄弟の名前が刻まれた[143]。領主の中にはキリジ・アルスラーンを単独の王に就けようと企む者もおり、イスファハーニーはキリジ・アルスラーンを支持する一派を粛清するとともにキリジ・アルスラーンの生母を妻とした[144]。イスファハーニーはキリジ・アルスラーンを国元から遠ざけるため、1246年のモンゴル帝国のカアンを選出するクリルタイに彼を出席させた[141][145][146]。クリルタイでオゴデイの皇子グユクがカアンに選出された後、彼の従者からイスファハーニーの行為を告発されたグユクはキリジ・アルスラーンをルーム・セルジュークの正式な支配者として承認する[146]。1249年に帰国したキリジ・アルスラーンの党派はイスファハーニーを処刑し、キリジ・アルスラーンの単独統治を要求した[141][147]。1249年から1256年までの間、カイカーウスとキリジ・アルスラーンは王位を巡って争い、互いにモンゴルの宮廷に働きかけを行うが、実質的にはカイカーウスが単独で王位に就いている状態にあった[141][148]。モンケ・カアンはカイカーウスとキリジ・アルスラーンの内争を調停するため、クズルウルマク川を境として、ルーム・セルジュークを東西に分けて分割統治するように命令した[149]。
モンケの裁定の後に、キリジ・アルスラーンの党派がカイカーウスに戦いを挑むが敗れ、敗れたキリジ・アルスラーンは投獄された[149]。1256年、後にイルハン朝の創始者となるフレグがイランに移動すると(フレグの西征)、アゼルバイジャンに駐屯していたバイジュがアナトリアへの移動を命じられ[150]、王位を巡る状況に変化が起こる。1256年10月にアナトリアに移動したバイジュはカイカーウスの軍を破り、敗れたカイカーウスは一時ニカイアに亡命した[151][152]。カイカーウスの帰国後、フレグはルーム・セルジュークの分割統治の継続を承認し[153]、首都コンヤをはじめとする西半分の地域をカイカーウスが、トカトを中心とする東半分の地域をキリジ・アルスラーンが支配した[150]。カイカーウスとキリジ・アルスラーンはシャムス・ウッディーン・マフムードという共通のパルヴァーナ(宰相)を介して共同統治を行っていたが、マフムードが没すると両者は別々にパルヴァーナを任命した[154]。キリジ・アルスラーンのパルヴァーナであるムイン・アッディーン・スライマーン(Muînüddin Süleyman)は自分の君主を単独のスルターンにするため、アナトリアに駐屯するモンゴルの将軍アリンジャクを通して、フレグにカイカーウスがエジプトのマムルーク朝と結託して反乱を企てているという讒言を行った[154]。事実カイカーウスはマムルーク朝と連絡を取り合っており[155]、1261年8月にフレグの命令を受けたキリジ・アルスラーンとモンゴル軍によってカイカーウスはコンヤを追放され、コンスタンティノープルに亡命した[150][156]。カイカーウスの追放後、キリジ・アルスラーンが単独のスルターンとして即位するが、彼の登位はモンゴル帝国の意向によるものであり、ルーム・セルジュークから独立した主権は既に失われていた[150]。
国家の形骸化、滅亡


キリジ・アルスラーンの政権では、イルハン朝の君主であるフレグとアバカの親子から信任を受けていたムイン・アッディーン・スライマーンが実権を有していた[157]。1266年にスライマーンはイルハン朝の許可を得てキリジ・アルスラーンを殺害し、代わりに幼年のカイホスロー3世を即位させた[158][159]。ルーム・セルジュークはイルハン朝に対して完全に臣従した状態にあり、イルハン朝からの過重な貢納の要求に対して国内では怨嗟の声が上がった[158]。1276年にスライマーンら有力者がイルハン朝の宮廷に伺候して国内を留守にすると、マムルーク朝と結託した廷臣たちによるクーデターが発生する[158]。
マムルーク朝のスルターン・バイバルスはアナトリア半島に遠征し、1277年4月15日にエルビスタンでモンゴル軍に勝利する[158][160](エルビスタンの戦い)。4月23日にカイセリに入城したバイバルスは歓迎を受けるが、ルーム・セルジュークの領主たちがモンゴルの報復を恐れて決起しない様子を見て、エジプトに帰国した[161]。
また、バイバルスのアナトリア遠征に呼応して、カラマン家(後のカラマン侯国の原型)のシャムス・ウッディーン・ムハンマド・ベグが、カイカーウス2世の王子と称するスィヤーヴシュを擁して反乱を起こした[162]。1277年5月15日に反乱軍はコンヤを占領し、スィヤーヴシュを君主、ムハンマド・ベグを宰相とした政権が成立するが[162]、アバカがアナトリアに進軍した報告を聞くとムハンマド・ベグはコンヤを放棄し、スィヤーヴシュとムハンマド・ベグの政権は37日間という短期に終わる[163]。翌1278年にルーム・セルジューク、モンゴル軍双方の攻撃を受けてスィヤーヴシュとムハンマド・ベグの両名は戦死した[164]。
エルビスタンの戦いで2人の将校を失ったアバカの怒りは大きく、自ら軍を率いてのアナトリアへの懲罰を企てた[158][165][166]。カイセリ、エルゼルム周辺の住民はモンゴル軍に殺害され、バイバルスに敗れて敗走するモンゴル兵を匿ったキリスト教徒であってもモンゴル軍の被害を受けた[167]。在地のシャイフ(長老)の説得を受けてアバカは破壊と略奪を止めるよう軍隊に命じ、イスラム教徒の捕虜を釈放し、宮殿に帰還した後スライマーンを処刑した[168]。
バイバルスの遠征はルーム・セルジュークを窮地から救うだけの成果は無く、イルハン朝の圧力がより増す結果に終わる[169]。イルハン朝から宰相シャムスッディーン・ジュヴァイニーが派遣され、ルーム・セルジュークへの経済的な圧力がより強化された[170]。1282年にカイホスロー3世はイルハン朝のハン・アフマドに廃されてエルズィンジャンに送られ、アフマドを討ってハンの地位に就いたアルグンからイルハン朝の王族コンクルタイ暗殺に関与した容疑をかけられて殺害された[171][注 9]。カイカーウス2世の子マスウード2世とマスウード2世の兄(もしくは従兄弟)のカイクバード3世が領地を二分するが、2人のスルターンは権力を有していない状態にあった[173][注 10]。
13世紀末になるとアナトリア半島の秩序は乱れ、領主は暴政を布き、官職の売買も行われるようになった[174]。中央の支配力が衰えると、ウジと呼ばれる辺境地帯では居住するトゥルクマーンの反乱がしばしば発生する(ルーム・セルジューク朝#軍事も参照)[175]。1288年に末期のルーム・セルジューク朝を支えた高官ファフル・アッディーン・アリーが没すると、官僚機構は機能を停止する[164]。1307年までマスウード2世とカイクバード3世が短い間隔を置いて交互にスルターンの地位に就く状態が続き[173]、1295年にマスウード2世は反乱への加担を疑われてガザン・ハンによって廃された時に、4人のルーム・セルジュークの高官が領内を分割して統治する状態になる[176]。
14世紀に入ると、史料に書かれるルーム・セルジューク朝の内情は不明瞭になる[177]。1308年にルーム・セルジュークのマスウード3世がカイセリで急死すると[164][178]、男子の後継者が断絶する[177]。1308年より後、アナトリアでセルジューク家の人間がスルターンに即位することは無く、ルーム・セルジューク朝は滅亡した[164]。
オスマン帝国時代
オスマン帝国という名称は同時代の歴史書では「オスマン王家」、「オスマン朝」などの表現があるが[179]、本記事では以降全てオスマン帝国で統一する。
オスマン帝国は約600年という長期間継続したため、節の見出しについては小笠原の封建的侯国時代(オスマン帝国成立~14世紀)、集権的帝国時代(メフメト2世によるコンスタンティノープル征服からスレイマン1世頃)、分権的帝国時代(ムラト3世頃から1808年まで在位したムスタファ4世)、近代帝国時代(1808年即位のマフムト2世から滅亡まで)に見出しを分割した[180]。
封建的侯国時代

イルハン朝の支配を受けたアナトリアでは、様々な侯国が乱立していたが、北西アナトリアの東ローマ帝国至近に位置していたのが、オスマン1世が君主を務めるオスマン帝国である[181][182]。オスマン帝国は、バフェウスで東ローマ帝国に勝利したとされ、勢力拡大のきっかけを作ったとされる[183]。バフェウスの場所は分かっておらず、コンスタンティノープルから近い場所にあったとされる[183]。
オスマン1世は1323年頃に死去し、彼の息子のオルハン(在位1324–1362)が後継者となる[184]。オルハンは、1326年に東ローマ帝国を攻撃し、同帝国の重要拠点のブルサを占領し、同都市を首都とした[184][181]。1331年にはイズニク、1337年にはイズミット (ニコメディア)を征服し、北西アナトリアの一帯をほぼ掌握することに成功する[181][185]。オルハン時代は東ローマ帝国と争っていたばかりではなく、1346年に、東ローマ帝国で王位継承争いが起こり、皇族の一人であるヨハネス(ヨハネス6世)は、オルハンに対して助力を要請し、オルハンはヨハネスの皇帝即位に貢献した[186][187]。1354年には、ダーダネルス海峡周辺の支配を確立し、バルカン半島へと進出を果たす[186][187][188][189]。1361年に、バルカン半島南東部のエディルネを陥落させた[189]。オルハンは1362年、ペストによって死去し、ムラト1世(在位1362-1389)が後継者となる[190]。
ムラト1世(在位1362–1389)は、アドリアノープル(後のエディルネ)を首都とし、バルカン征服を本格化させた[191][190]。ムラト1世時代はセルビア、ブルガリアなどの諸勢力を圧倒し、1389年のコソボの戦いで戦死するが、戦争そのものは勝利を収め、バルカン半島の南部がオスマン帝国の支配下となり、ハンガリーだけは支配されずに残った[191][192][193]。戦死したムラト1世の後継者となったのは、バヤズィト1世(在位1389–1402)で、彼はコソボの戦い後、東方のアナトリアの支配確立に向けて動き出す[193]。アナトリアでは多数の侯国が、反オスマンのために結集したが、それらを退け、アナトリアの主要な侯国を滅亡させた[191]。その後、再び西方へと転じ、1396年のニコポリスの戦いでハンガリー主体の十字軍に勝利する[193][191][194]。バヤズィト1世は、イラン全域を征服していたティムールとの間で行われたアンカラの戦い(1402年)で大敗を喫し、捕虜となり、そのまま死去した[191][195][196]。なお、この時ムスタファ王子も捕虜となり、そのまま行方不明となってしまう[197]。その後、オスマン帝国は後継者争いが繰り広げられ、約10年間の空位時代を迎えることになる[198][197]。
10年間の空位時代を経て、危機を収束させたのがメフメト1世(在位1413–1421)で、彼は内戦を終結させ国家を再統一した[199]。だが、10年に及ぶ空位時代によって、オスマン帝国の国力は衰え、アナトリアではカラマン侯国との戦争が勃発し、ダーダネルス海峡を巡ってヴェネツィア共和国と戦争になる[199]。また、1416年には、アンカラの戦いで行方不明となっていたはずのムスタファが、アナトリアに現れて争いが生じる(偽ムスタファ事件)[200][199]。結局ムスタファの方が敗北し、東ローマ帝国に亡命するが、メフメト1世は、東ローマ帝国に対して、ムスタファを解放させないようにするため、大金を払い続けることになった[199]。
この偽ムスタファ事件については、次のムラト2世(在位1421-1444,1446-1451)時代の1422年に、捕縛し処刑することに成功する[200]。
メフメト1世の後継者、ムラト2世は、アナトリアの数多くの侯国を滅亡させた[201][191]。そして、バルカン半島側では、ワラキア、セルビア、ボスニア、アルバニア方面で征服活動を進め、ハンガリーとも衝突する[202][200]。だがハンガリーとセルビアとの戦争で、ベオグラード包囲を行った際は、陥落させられなかったため反撃に遭う[203]。1442年には、敵勢力はエディルネにまで迫り、カラマン侯国の侵攻も危惧されたため、ムラト2世は1451年に、ハンガリー・セルビアとの間に10年間の和平条約を締結した[203][204]。そして、ムラト2世は、異例ともいえる生前退位を行い、君主の座をメフメト2世(在位1444-1446,1451-1481)に禅譲する[205][206]。だが、幼少のメフメト2世に対して、ハンガリー、ワラキア、カラマン侯国が侵攻を行い、当時の大宰相チャンダルル・ハリル・パシャが、ムラト2世の復位を要請、ムラト2世はそれを受諾し、撃退することに成功する[205][203]。1451年にムラト2世は死去し、メフメト2世が復位を果たす[205]。
イェニチェリについて

ムラト1世時代、軍の整備が進められた[193]。それまでは兵士は募兵に依存し、給料も支払われていなかったこともあり、侵略した領地での掠奪が認められていた[193][207]。また、領土を拡大するにつれ、兵士が不足していたため、イェニチェリ(新しい軍)制度を創設した[193][208][207]。
ムラト1世時代は、イェニチェリの構成人員は戦争捕虜から構成されていた[209]。後のメフメト1世時代からムラト2世時代になると変容し、デヴシルメ制度という制度を採用し、バルカン半島の農村に住む8歳から15歳くらいの少年を徴用し[注 11]、彼らをイスラムに改宗させて、奴隷身分とした(カプクルと言う)[209]。彼ら奴隷は、アナトリアやバルカン半島の農業労働に従事し、一部の優秀な者は宮廷に入った[209][211]。大多数はイェニチェリに編入された[209][211]。彼らは名称こそ「奴隷」ではあったが、大宰相に上り詰める者や、州総督に任命された者もいる[211]。ただし、奴隷身分からの解放はなされず、オスマン帝国の君主によって恣意的な処刑が合法とされた[211]。イェニチェリは、16世紀後半以降は、2万5千名を計上し、軍の主力を担った[208][210]。17世紀初頭以降は、デヴシルメ制度は行われなくなり、世襲制度が採用されるようになる[208]。
ティマール制について
その他、初期のオスマン帝国の軍事と行政の中核を担ったのが、ティマール制である[204][212]。ティマール制は、スィパーヒーと言う在郷騎士が徴税権の受給資格を得て、オスマン帝国が遠征を宣言すると、軍事奉仕を行うというものだった[213][214]。
集権的帝国時代


メフメト2世(在位1444-1446,1451–1481)は、即位して間もなく、生まれて間もない弟を殺害させた。これがオスマン帝国で有名な兄弟殺しの始まりである[204][215]。兄弟殺しは残酷とも言える仕打ちであるが、オスマン帝国が約600年も命脈を保つことができたのは、この兄弟殺しによる後継者争いの未然防止が功を奏したとも言える[204][216]。オスマン帝国では、長らく後継者のルールが定められず、17世紀に至るまで、男子兄弟の間で後継者争いと兄弟殺しが慣例化する[217]。後継者候補に対して領地の分割相続と言う概念は無く、君主となって全領土を継承するか、兄弟殺しによって殺害されるしか選択肢が無かった[217]。メフメト2世は征服王とも呼ばれ、1453年、コンスタンティノープルを陥落させて、東ローマ帝国は滅亡する[204]。コンスタンティノープルは以降イスタンブールと呼ばれるようになり、戦争で荒廃した同都市を職人や商人を強制移住させて復興させた[218][219]。その際、イスタンブールにはトプカプ宮殿が建設され、政治の中心となった[206][219]。この頃、イベリア半島ではレコンキスタが終盤に近づいており、オスマン帝国はイベリア半島から脱出したイスラム教徒を広く受け入れた[218]。イスタンブール征服後、メフメト2世は、1456年にベオグラード獲得を目指したが(ベオグラード包囲戦 (1456年))、ハンガリーの抵抗に遭い、撤退した[220]。これ以降、セルビア北部とハンガリー南部への攻撃は70年間行われることは無かった[220]。メフメト2世は、1460年にペロポネソス半島を征服し、1461年にはアナトリアに転進して、黒海沿岸を支配下に置いた[221]。その後バルカン半島に転じて、ワラキア(1462年)とモルドヴァ(前後すること1456年)の両公国をオスマン帝国の属国とした[222][221]。
続くバヤズィト2世(在位1481–1512)は、先王時代の相次ぐ遠征により財政難に見舞われていたという事情もあり、大規模な遠征を控え、内政安定を重視し、レコンキスタが終了したイベリア半島から多数のユダヤ人を受け入れた[223][224][225][226]。遠征が控えられたバヤズィト2世時代であるが、1487年にカラマン侯国を滅亡させることに成功したが、次第に求心力を失い、廃位される[227][228][229]。
セリム1世(在位1512–1520)は、バヤズィト2世とは異なり、積極的な外征を行った。1514年のチャルディラーンの戦いでサファヴィー朝に勝利し、1515年にはアナトリア南東部のラマザン侯国、ドゥルカドゥル侯国を滅亡させ、アナトリア全土を確保した[230][228][231][232]。さらに1516年から1517年のエジプト遠征によって、マムルーク朝を滅ぼし、シリア・パレスチナ・エジプトを併合し、メッカ・メディナを支配下に置いた[233][228][231]。エジプトについては、州総督を派遣したが、その統治力は弱く独自の政治風土が形成された[234]。前後するが、セリム1世は、イェニチェリが反乱を起こす気配を感じ取ったため、イェニチェリの将校と、大宰相を処刑又は粛清するなどしたため、彼には苛烈王と言うあだ名がついた[232]。セリム1世は、その後も外征を行おうとしたが、ペストによって死去してしまう[注 12][234]。セリム1世の統治時代を通じて、オスマン帝国の領土は、バヤズィト2世時代の2.5倍にまでに拡大された[234]。セリム1世の男子には、スレイマンしかおらず、彼は兄弟殺しとは無縁だった[217]。

スレイマン1世(在位1520–1566)は「壮麗者(カーヌーニー)」の名で知られ、即位後間もない1521年にベオグラードへの遠征を行って、同地を獲得した[233][217][236]。1522年には、聖ヨハネ騎士団が駐在していたロドス島を獲得し、1526年になると、モハーチの戦いでハンガリーに勝利する[233][217][237][238]。だが、ハンガリーの支配を巡り、オーストリア大公フェルディナンドと対立を深めると、1529年にウィーン包囲を行う(第一次ウィーン包囲)[237][238][239]。ウィーン包囲は失敗に終わったが、1533年に、オスマン帝国とオーストリアとの間に休戦条約が締結され、ハンガリーの領土は親オスマン帝国のサポヤイ・ヤーノシュとオーストリア大公フェルディナンドと分け合うこととなった[238]。1540年にサポヤイが死去すると、オスマン帝国はハンガリー南部を直轄支配とした[239]。地中海沿岸では、海賊のバルバロス・ハイレッディンを海軍提督に任命し、1538年のプレヴェザの海戦でヴェネツィア・スペインの連合軍を破って、地中海の制海権を掌握することに成功する[237][217][240]。オスマン帝国は、ヨーロッパ諸国とは全ての国と対立していたわけではなく、1536年にはフランスと同盟を締結している[241]。これは、当時フランスは、スペインのカルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)と対立を深め、対抗措置としてフランス側がオスマン帝国に同盟を求めたことによる[238][239]。フランスとは、その後1569年にオスマン帝国から通商特権(カピチュレーション)が認められ、商業活動の自由、免税特権など様々な特権が付与される[242][239]。フランスとの同盟はその後も250年以上続き、18世紀末にナポレオンがエジプト遠征を行ったことで破綻した[241]。
東方においては、サファヴィー朝に対して戦いを挑んだが、サファヴィー朝側は衝突を回避して退却を続けたため、1533年にバグダードを占領することに成功する[243]。その後、サファヴィー朝とは、1555年にアマスィヤの講和が締結され、イラクやアゼルバイジャン西部のオスマン帝国の領有が認められた[217][243]。スレイマン1世時代の治世後半は、相次ぐ遠征が財政悪化につながったこともあり、遠征は控えられ、内政に力が注がれた[244][245][246]。クルアーンで禁止されている利子の禁止に触れかねない現金の寄進(ワクフ)が取り入れられたのもこの時代であった[244]。
分権的帝国時代

スレイマン1世が死去すると、セリム2世が君主となる[247]。セリム2世(在位1566-1574)は、親征を控えて、政治的実権は大宰相のソコルル・メフメト・パシャが握っていた[248]。この時代になると、オスマン帝国の中央政府の官僚機構が政治を担うようになる[248]。セリム2世時代は、戦争が行われなかったわけではなく、1568年には、モスクワ大公国との間でカスピ海沿岸のアストラハン・ハン国救援のための戦争(露土戦争 (1568年-1570年))が行われ、1571年には、オスマン帝国はキプロス島をヴェネツィアから奪い、ヴェネツィアはキプロス島奪還のため、ローマ教皇庁やスペインと神聖同盟を締結し、レパントの海戦が勃発する[248][247][249][250]。レパントの海戦はオスマン帝国の敗北に終わるが、敗戦の翌年にはオスマン帝国の艦隊は再建され、オスマン帝国の威信が揺るいだわけではなかった[251][250]。露土戦争については数多く発生しているため、一覧については露土戦争を参照のこと。
セリム3世が1574年に死去すると、ムラト3世(在位1574-1595)が君主となる[248][252]。3代の君主に仕えたソコルル・メフメト・パシャは、ムラト3世に疎まれ、1579年に暗殺される[注 13][248][253]。ムラト3世は、1590年までの12年間、サファヴィー朝への遠征を行ったが、これと言う成果を挙げられなかった[253][252]。西方では1593年まではオーストリアとの戦争が行われたが、ヨーロッパ側の築城技術が向上していたため、これも戦果を挙げられなかった[253][252]。ムラト3世時代、官僚や常備軍の兵員の増加によってオスマン帝国政府の財政は悪化し、1581年には財政赤字に転落する[254]。そして、新大陸の銀が大量に流入したため、1589年には、政府は銀の含有率を減らした貨幣を発行したため、インフレが発生し、軍が反乱を起こしてしまう[255][254]。貨幣改鋳では、財政問題を解決できないことを悟ったオスマン帝国政府は、税制度の改革を行い、ティマール制から徴税請負制へとシフトする[256][254][212]。これは所定の土地の徴税請負権を競売にかけ、落札した者は任地の徴税権を獲得して、徴収した税の一定割合を政府に納付し、残分を利益とすることで、安定的に税収を獲得することができた[256][212][254]。だが、この徴税請負制度は当初は有期だったため、任期内に過度な徴税が行われたため、やがて終身となり、競売も多額の前払い金が必要となった[254]。徴税請負制度によって、ティマール制は衰退する[257]。徴税請負制度が拡大すると、地方ではアーヤーンと言う有力者層が台頭するようになる[256][254]。
メフメト3世(在位1595-1603)が即位すると、オスマン帝国の兄弟殺しに転機が訪れる[258]。これは彼が兄弟殺しをしなかったと言う訳ではなく、彼には19名の弟がいたが、皆処刑してしまった[212][258]。これが悲劇とみられ、メフメト3世の後継君主アフメト1世(在位1603-1617)が即位すると、彼の弟のムスタファは殺害されずに済み、以降原則としてオスマン帝国の君主は男系男子の長男が継承することが慣行となった[258]。処刑されなかった後継者候補の兄弟は、外界との接触を断たれ、子を成すことが原則として禁止された[259]。これを鳥籠(カフェス)制度と言う[259]。
メフメト3世(在位1595-1603)時代は、16世紀初頭に起きた反乱の指導者ジェラールの名称に由来するジェラーリーによる反乱が多発した[255][260][252]。彼ら反乱分子は没落した騎士、農民、遊牧民が主体となった[260]。また、1590年代にはセルビアで反乱が起きて、これを奇貨として教皇クレメンス8世は、反オスマン同盟を結成し、ローマ教皇庁、オーストリア大公国、ナポリ王国、シチリア王国、トランシルヴァニア、ワラキア、モルダヴィアが参加し、オスマン帝国はベオグラードを失陥、エディルネにまで敵が進軍してくるが、何とか押し戻すことに成功する[252][247]。そして、オスマン帝国とオーストリア両国の間にジトヴァトロク条約が締結されて、国境線は戦前の状態が維持された[252][247][259]。
オスマン2世(在位1618-1622)の時代になると、彼はイェニチェリの綱紀粛正を行った[261][262]。この時代になると、イェニチェリはデヴシルメ制度によって兵員が供給されていたが、17世紀に入るとそれがほとんど行われなくなり、人員は増加する[261][262]。だが、これはイェニチェリの待遇が当時としては破格の待遇であり、軍務に従事しない者も多数いたため、オスマン2世はそのような者を厳格に処罰した[261][262]。だが、これはイェニチェリ達の反感を煽り、1622年、オスマン2世はイェニチェリによって暗殺されてしまう[260][261]。以降、17世紀のオスマン帝国の君主は廃位や殺害が頻繁に行われ、9名の君主の内、延べ6度の廃位と2名の君主が殺害される[263]。
オスマン2世の次の君主は、ムスタファ1世が復位したが、すぐに退位し、ムラト4世(在位1623-1640)が君主となる[255]。ムラト4世とその次のイブラヒム1世(在位1640-1648)、メフメト4世(在位1648-1687)の統治初期まで、ムラト4世の母親であるキョセム后が権勢を奮った[255]。だが、メフメト4世の母后トゥルハン・スルタンは、キョセムを殺害させた[255][264][263]。この頃になると、占い師も政治に介入するなど、オスマン帝国の君主には政治的権力が有名無実なものとなった[255]。対外情勢としては、イブラヒム1世(在位1640-1648)の時代の1645年に、オスマン帝国はクレタ島の遠征を行うが、ヴェネツィア共和国はダーダネルス海峡の封鎖を行ったため、イスタンブールにも混乱が及んだ[265][255]。

1656年にキョプリュリュ・メフメト・パシャが大宰相に任命されると、彼はダーダネルス海峡の封鎖を解放することに成功し、政情不安は落ち着くようになる[260][266]。ただ、彼の政治手腕は、反対勢力への容赦のない粛清が伴った[260][266]。キキョプリュリュ・メフメト・パシャの娘婿のカラ・ムスタファ・パシャが1676年に大宰相になると、ロシア・ツァーリ国との間に、露土戦争が勃発し、勝利を収める[267][268][269]。このメフメト4世(在位1648-1687)の時代に、オスマン帝国は最大版図となった[268][270]。
大宰相のカラ・ムスタファは1683年に第二次ウィーン包囲を行い、当初は戦況を優位に進めるが、ポーランドが参戦したことによって敗北した[269][271][272]。カラ・ムスタファを含むキョプリュリュ家の強権政治は、戦勝によって黙認されていたため、戦争で敗北した大宰相のカラ・ムスタファは処刑されてしまう[272][269]。その後、オーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアが神聖同盟を結成して、16年間戦争状態となり、1699年にカルロヴィッツ条約が締結されて終戦を迎える[273][274]。このカルロヴィッツ条約によって、ハンガリー全域、トランシルヴァニア、クロアチア、スロベニアをオーストリアが獲得、ダルマチアとペロポネソス半島及びエーゲ海の諸拠点をヴェネツィアが獲得、ポドリアとウクライナ南部をポーランドが獲得し、アゾフ海からドニエストル川までの領土がロシアが獲得することになった[275][271]。このカルロヴィッツ条約は、オスマン帝国としては初ともいえる大規模な領土の喪失であった[274][273]。以降、オスマン帝国側から戦争を仕掛けることは基本的に無くなる[273]。
前後するが、オスマン帝国の君主メフメト4世は、在位時代からイスタンブールを離れて、エディルネに長期間滞在するようになり、ムスタファ2世(在位1695-1703)も同様であった[276][277]。君主がエディルネに長期間滞在した弊害として、イスタンブールでは経済が停滞、市民の不満も鬱積し、1703年には兵士への給料未払いが引き金となり、反乱が起こる[276][273][278]。これがエディルネ事件であり、ムスタファ2世は退位する[278][276][279]。ムスタファ2世退位後、君主となったアフメト3世(在位1703-1730)は、君主の拠点をイスタンブールへと戻した[273][278]。アフメト3世は、大宰相を頻繁に交代させて、君主の権威を高めようとした[278]。

1709年、大北方戦争によって、スウェーデンが敗北し、スウェーデン王カール12世がオスマン帝国に亡命してくる[276][280]。ロシア・ツァーリ国のピョートル大帝は、カール12世の身柄引き渡しを要求してくるが、オスマン帝国はこれを拒否したためロシアと戦争になる[281][276]。オスマン帝国は1711年のプルート川の戦いでロシアを破り、カルロヴィッツ条約で失陥していたアゾフの奪還に成功する[281][277][280]。その後、1715年には、ヴェネツィアに奪われていたペロポネソス半島の奪還を目指して戦争になり、これも奪還に成功した[276]。だが、これはオーストリアを刺激してしまい、同国と戦争に突入し、これは敗戦する[276]。1718年に締結されたパッサロヴィッツ条約で、オーストリアに対して、ワラキア、セルビア、ボスニアの一部を割譲することとなった[276]。バッサロヴィッツ条約締結後、オスマン帝国はパリやウィーンに対して使節団を派遣するなどして、ヨーロッパに倣う姿勢がとられるようになる[278]。
17世紀にヨーロッパでブームとなっていたチューリップが、オスマン帝国に逆輸入され、ブームとなる[278][282]。これがチューリップ時代と呼ばれ、バッサロヴィッツ条約締結後の1718年から1730年まで続き、オスマン帝国の富裕層は繁栄を謳歌していた[283][278]。だが、チューリップ時代は物価が急上昇し、一般庶民は生活に困窮したこと、イランではサファヴィー朝からアフシャール朝へと王朝が変わり、アフシャール朝の前に、オスマン帝国は敗北を続けたため、業を煮やした元水兵のパトロナ・ハリルが主体となって反乱を起こした[281][284]。これが1730年の事で、反乱によって大宰相は処刑、アフメト3世は廃位され、マフムト1世(在位1730-1754)が即位する[276][284]。

マフムト1世の時代にはオーストリアとロシアと戦争が起こり(オーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年))、1739年のベオグラード条約によって、ベオグラード、ボスニア、セルビアの奪還に成功した[285][284]。ベオグラード条約はオスマン帝国にとっては有利な条約ではあったが、最早オスマン帝国の軍事力はヨーロッパ諸国と比べて劣勢になっていたため、対外戦争を回避するように努め、その後約30年間は平和を享受することができた[282]。マフムト1世と以降の君主は、西欧の進んだ技術を採用する必要性を認識し始める[282]。
ロシアでは、エカチェリーナ2世が黒海方面へ食指を伸ばし、ポーランドで起きた王位継承問題に対して、オスマン帝国の介入を防ぐため、黒海西岸からドナウ川にまで軍を進めた[281]。これに対して、オスマン帝国は反発し、1768年に戦争が勃発する(露土戦争 (1768年-1774年) )[281]。兵力だけを見れば、オスマン帝国軍が有利であったが、30年間の平和の代償は大きく、軍はすっかり弱体化し、イェニチェリも名簿にのみ登録する者が数多くいたため、常備軍としての機能性が乏しくなっていた[286][287]。軍隊の主体は地方名士のアーヤーンの傭兵部隊が戦争に参加したが、傭兵と言うこともあり、規律や統制が取れず、露土戦争は敗北に終わった[288][286]。

戦後の1774年にキュチュク・カイナルジ条約を締結するが、これはオスマン帝国にとってかなり不利な条約であり、賠償金支払いに加えて、ウクライナ南部をロシアに譲渡し、(ロシア船の)ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡の自由航行権とオスマン帝国の港湾への入港の認可、15世紀以来支配していたクリミア・ハン国の独立を認めるというものだった[281][286][289]。
1774年のキュチュク・カイナルジ条約締結後、オスマン帝国は、軍事改革に着手し、海軍技術学校の設置や、砲兵隊の創設を行った[290]。その後、クリミア・ハン国で、政変が起きて、親ロシア派が失脚したため、オスマン帝国はこれを好機とみて、1787年にロシアを攻撃するが、敗戦する(露土戦争 (1787年-1791年))[290][281][287]。この時に締結されたのが、1792年に締結されたヤッシー条約で、クリミア半島のロシア併合が承認され、オスマン帝国はウクライナの権益を完全に喪失し、国境線もモルダヴィア公国の境界であるドニエストル川にまで後退することとなった[281][287][291]。
君主のセリム3世(在位1789-1807)は、最早オスマン帝国の軍事力では諸外国に太刀打ちできないことが分かったため、本格的な軍事改革に着手する[292]。フランスの軍事顧問を招聘して、1792年に西洋式の歩兵軍団が創設された[290]。これはニザーム・ジェディード(新秩序)軍団と呼ばれ、陸軍技術学校も創設した[292][290]。その他、西欧諸国に大使を駐在させ、各国から情報収集を行い、外交交渉も行わせた[293][290]。

1798年、フランスのナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を行い、ニザーム・ジェディードは一定の戦果を挙げる[294]。なお、この時オスマン帝国は、ムハンマド・アリーをエジプト州総督に就任させる[292]。セリム3世は、長らく友好国と位置付けていたフランスが反乱を起こしたことで、君主としての基盤が緩むことになる[295]。1806年には、ニザーム・ジェディードの兵力は約2万4千人を擁するようになったものの、旧来のイェニチェリと対立を深め、1807年には、反ニザーム・ジェディードの暴動が起き、セリム3世はニザーム・ジェディードを解散してしまい、自身も退位する[294][290][295]。また、この頃、露土戦争が勃発し、ニザーム・ジェディード軍はロシアに対してこれという戦果を挙げられなかったという事情もあった[295]。
近代帝国時代


セリム3世の改革には反対の声も大きかったが、支持者も多数おり、ブルガリア領のアーヤーンであったアレムダル・アファは、セリム3世の後継者であるムスタファ4世の弟マフムト2世(在位1809-1839)を擁立し、ニザーム・ジェディード再興を目指した[294][296][290]。こうして、アーヤーンが大宰相となる時代が到来した[290][296]。だが、アレムダルは間もなく、イェニチェリが起こした反乱によって自殺する[290][296][297]。マフムト2世は、自身の権力基盤を高めるため、先王のムスタファ4世を処刑し、自身が改革に乗り出した[298][297][299]。マフムト2世は、改革の障壁となるアーヤーンとイェニチェリを排除した上で、改革を推進する[298]。アーヤーンについては、有力なアーヤーンについては世襲を認めて、彼らに小規模なアーヤーンを討伐させ、任地替えや当主死亡後に財産没収を行うなどして力を削いだ[298]。イェニチェリについては、自身の支持者をイェニチェリの要職に就かせた[298]。そして、1826年にマフムト2世は、新軍団の創設を宣言する[298][300]。反改革派のイェニチェリが反乱を起こすが、イェニチェリを自身の支持者で抱き込んでいたため、反乱も容易に鎮圧し、イェニチェリの廃止に成功する[298][300]。
イェニチェリ軍団廃止後の新しい軍団はムハンマド常勝軍と呼ばれ、マフムト2世は陸軍学校と海軍学校を充実させ、ヨーロッパへの留学生派遣や、自身の改革の必要性を訴えた官報を発行するなどした[298][300][299]。前後するが、この頃の対外情勢としては、1814年から1815年にかけて開催されたウィーン会議によって、各国にナショナリズムが萌芽し、オスマン帝国の支配を受けていた諸国は、オスマン帝国に反発するようになる[294][301]。セルビアでは1804年に反乱が起こり、一度は抑え込んだものの、1815年に再び反乱が起こり、オスマン帝国はセルビアに対して自治権を認めることになる(セルビア蜂起)[301][302]。1821年にはギリシャがオスマン帝国からの独立を試みる(ギリシャ独立戦争)[294][301]。この時、オスマン帝国は、ギリシャの住民を虐殺したため、国際社会はギリシャ支持に傾き、オスマン帝国はエジプト総督のムハンマド・アリーに対して鎮圧を命じたが、1829年にアドリアノープル条約によって、ギリシャは独立を果たした[301][294][302]。なお、このギリシャ独立戦争時、ロシアとの戦争が予見されたため、マフムト2世は軍をロシア方面へと移動させたため、1828年にロシアとの戦争も起こる(露土戦争 (1828年-1829年) )[303]。ギリシャ独立戦争によって、オスマン帝国のために多大な犠牲を払ったムハンマド・アリーであったが、見返りは乏しく、オスマン帝国に対して不満を抱くようになる[301][302]。
ムハンマド・アリーは、シリアをオスマン帝国に要求し、オスマン帝国のムハンマド常勝軍を次々に撃破し、1832年11月には、中央アナトリアの要衝コンヤにまで迫る(エジプト・トルコ戦争)[304][302][305]。オスマン帝国は、エジプトに対抗するため、イギリスと1838年にバリタ・リマヌ条約を締結し、イギリスに対して最恵国待遇を与えた[306]。1839年になると、ロシアがオスマン帝国に内政干渉することが危惧されたため、イギリスは、ロンドン会議を提唱する[307]。その結果、1840年ロンドン四国条約が締結されて、停戦する[304][302][305]。ロンドン四国条約によって、ムハンマド・アリーはオスマン帝国支配下にありながらも、エジプトの世襲支配が認められることになる[304][307][305]。
ギュルハネ勅令

1839年、アブデュルメジト1世が君主となると、ムスタファ・レシト・パシャが大宰相となり、彼はギュルハネ勅令を発布した[308][309]。これは、徴税請負制度廃止と新税制度の確立、徴兵制度の確立、新しい法律の制定、教育制度の整備を謳ったものである[309][308][304]。徴税請負制度の廃止によって、政府が徴税官を派遣して、税を徴集することになった[310]。だが、徴税請負制度廃止については、従来の特権層からの反発が大きく、農民の方は税負担が軽減されると考えていたため、農民も反対し、反乱も起きた[311]。そのため、結局1842年に徴税請負制度が小規模ながら復活した[311]。ギュルハネ勅令をはじめとする一連の改革をタンジマートと言い、約40年間続いた[312][313]。
1838年にイギリスと締結されたバリタ・リマヌ条約以外に、オスマン帝国はほぼ同内容の条約をフランス、オランダと締結したため、ヨーロッパ諸国とオスマン帝国との交易は拡大したが、安価で良質な外国製品が輸入されたため、自国製品の産業は大打撃を受けることになる[314]。
クリミア戦争

オスマン帝国はエルサレムを支配しており、同地はイスラム教、ユダヤ教、キリスト教の聖地であった[315]。元々オスマン帝国は、フランスに対して、聖墳墓教会などのある地域の管理権を認めていた[316]。だが、19世紀初頭になると、フランスはフランス革命によって混乱し、ロシアのギリシャ正教徒に管理権を認めていた[315]。だが、1850年になると、今度はフランスがキリスト教聖地の管理権を要求し、ギリシャ正教徒の庇護者であるロシアはこれに反発した[316]。オスマン帝国はどちらつかずの態度をとることにしたが、ロシアはついにエルサレムだけでなく、オスマン帝国全土のギリシャ正教徒に対する庇護権を要求するようになる[316][317]。オスマン帝国は英仏を味方につけたうえで、1853年にロシアの要求を拒否するが、戦争に突入する[316][315][317]。これがクリミア戦争である[316][315]。オスマン帝国は、クリミア戦争では何とかロシアに勝利したものの、被害は大きく、戦費負担も莫大なものとなった[315][318][319]。クリミア戦争後の1856年に締結されたパリ条約では、オスマン帝国は条約を主導することはできず、領土の保全と外国による政治不干渉は約束されたが、非イスラム教徒とイスラム教徒に同等の権利を認めることが明記された[317][320]。クリミア戦争遂行のため、オスマン帝国はヨーロッパ諸国からの借款に大きく依存し、1875年には、借款の利子支払いが不可能となったため、事実上破産した[319][321]。この頃、アナトリアでは大飢饉に見舞われ、農村では15万人以上も餓死したとされ、それによって税収が大きく下落したという事情もあった[318]。経済的には行き詰まったオスマン帝国であるが、インフラの整備は進み、1850年代終わり頃より、電信制度、郵便制度が整備され、1860年には、イギリス資本によって鉄道が敷設された[318]。
新オスマン人運動と立憲制
1860年代のオスマン帝国では、タンジマート改革による新しい教育を受けた者達や、外国への留学を通じて、先進的な制度を学んだ者達が、オスマン帝国の君主政治に反発するようになる[322][323][324]。彼らは新オスマン人を自称した[322][324][323]。新オスマン人の中心となったのが、ナームク・ケマルとアリ・スアーヴィーで、彼らはオスマン帝国政府から弾圧を受けたため、1867年に活動拠点をパリに移した[324][323][321]。1870年代になると、専制政治を強めるアブデュルアズィズ(在位1861-1876)に対して、保守派の官僚も反発を強めたため、1876年5月30日に、官僚と軍が主体となり、クーデターを起こして、アブデュルアズィズを退位させ、ムラト5世を君主に即位させるが、すぐに退位し、アブデュルハミト2世が君主となる[322][324][321][325]。アブデュルアズィズは退位して数日後に自殺したが、後の調査で暗殺とされた[321]。


アブデュルハミト2世(在位1876-1909)時代、ミドハト・パシャが中心となり、憲法が起草された[322][324]。アブデュルハミト2世は憲法に注文を付け、国家を脅かすと判断した人物については、君主は国外追放とする権限を有すという大権に関する文言を第113条に追加させた[322][323][324][326]。ミドハトが起草したオスマン帝国憲法は1876年12月に公布され、オスマン帝国の国籍を持つ人々は全てオスマン人と呼ぶことが定められ、イスラム教が国教となり、非ムスリムの宗教の保障、二院制が規定された[324][323][327]。1877年3月、新憲法に基づき議会が召集されたが、バルカン半島では農民による反乱が勃発し、1877年4月、ロシアがスラブ民族の保護を名目として、オスマン帝国に宣戦布告する(露土戦争 (1877年-1878年))[322][328]。ロシアはオスマン帝国領内に侵入し、ロシアはエディルネを占領、1878年2月になるとイスタンブール至近にまで進軍してくる[328][326][327]。これによって、アブデュルハミト2世は憲法第113条に基づいて、大権を発動させて憲法の停止と議会の解散を命じた[328][327][326]。
その後、ロシアとはサン・ステファノ条約を締結したが、これによって現在のブルガリア、北マケドニア及び、ギリシャ北東部などにブルガリア公国が成立し、同公国はロシアが2年間占領することとなった[329][328]。余りにもロシアに有利な条約であり、ロシアの増長を警戒したヨーロッパ列強諸国は、ドイツの宰相オットー・フォン・ビスマルクの仲介によって、ベルリン条約が締結された[329]。ベルリン条約で、ブルガリア公国の領土は、ブルガリアの北半分ほどにまで縮小され、モンテネグロ、セルビア、ルーマニアの独立が承認、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアの占領下におかれた[329](共同統治国ボスニア・ヘルツェゴビナ)。マケドニア地方は、オスマン帝国に返還された[329]。ロシアの権益は制限されたものの、このベルリン条約によって、オスマン帝国はバルカン半島の大半を喪失し、以降領土を次々に失うことになる[329]。1881年に、フランスがチュニジアを保護国化、ギリシャがテッサリア地方を獲得、1882年、イギリスがエジプトを占領した[329]。前後するが、露土戦争でオスマン帝国を支援したイギリスは、キプロスを獲得した[329][328]。1880年から1900年になるまで、イギリスとフランスが主体となり、オスマン帝国の領地を割譲し、これらの割譲によって、オスマン帝国は領土の5分の2と人口を550万人も失った[328][326]。
オスマン帝国は一連の領土失陥によって、イギリスとフランスに対して不信感を抱き、ドイツに接近するようになる[329]。オスマン帝国は、陸軍の軍事改革をドイツに要請し、それが功を奏し1897年のオスマン・ギリシャ戦争で勝利した[329]。だが、戦争に勝利したオスマン帝国であったが、結局戦後処理は列強諸国に委ねられ、クレタ島は、事実上の自治国家となってしまう[329]。一連の戦争や領土の失陥によって、オスマン帝国の財政は破綻し、1881年に、列強諸国[注 14]が中心となって、1881年債務管理局が設立され、オスマン帝国の税源の5分の1から4分の1を支配するようになる[330][331]。
専制政治を敷くアブデュルハミト2世に対しては、不満を抱く者が多く、19世紀終わり頃、学生が中心となり、統一と進歩委員会と言う秘密結社が組織され、専制政治反対運動を展開する[332]。彼らは青年トルコ人と総称され、1896年にはクーデターを企図したが、失敗に終わる[332][333][334]。だが、1908年になると、アブデュルハミト2世が、統一と進歩委員会の壊滅を目論んでいるという情報と、イギリスとロシアとの間でバルカン半島の分割に同意したという噂がかけ巡り、統一進歩委員会は決起し、アブデュルハミト2世は、憲政の復活を宣言した(青年トルコ人革命)[335][336][333]。その後、議会が開催され、統一と進歩委員会の議員(統一派)が多数の議席を獲得するが、反統一派の学生や軍の将校が、1909年4月13日(ルーミー暦3月31日) 、クーデターを起こし、統一派の議員はイスタンブールから退避する[337][338][335]。しかし、統一派は親統一派の軍に事態の収拾を要請し、反統一派と関与を疑われたアブデュルハミト2世は廃位された[337][338][335]。これが3月31日事件である[338]。
3月31日事件以降、憲法改正に向けた議論が行われ、君主の権限を大幅に制限し、議会の権限を強化した憲法が成立する[339]。
対外情勢では、1911年9月にイタリアがアフリカ進出のため、オスマン帝国領リビアを侵略し、1912年10月にリビアはイタリアの支配下に置かれた(伊土戦争)[339][340][341]。同年には、モンテネグロがオスマン帝国に対して宣戦布告し、これにセルビア、ブルガリア、ギリシャも加わり第一次バルカン戦争が勃発する[339][340][341]。同年12月からロンドンで、終戦に向けた会議が行われたが、そうこうしている内に、エディルネは陥落してしまい、オスマン帝国はバルカン領のほとんどを失陥した[339][340]。アルバニアも反乱を起こし、1913年に独立が国際的に承認された[339][340]。また、ブルガリアはバルカン諸国との対立を深め、1913年6月に第二次バルカン戦争が勃発し、オスマン帝国はエディルネを奪還し、ブカレスト条約を締結して終戦に至った[339][340][341]。

1914年7月、第一次世界大戦が勃発したが、オスマン帝国は最早戦争どころではなく、参戦回避に努めた[342]。だが、友好国のドイツからロシア攻撃を強く求められたため、1914年10月28日、オスマン帝国は黒海のロシア軍の要塞を攻撃し、第一次世界大戦に参戦する(中東戦域 (第一次世界大戦) )[342][343]。戦争は局地的な勝利はあれど、全体としては苦戦を強いられ、1918年10月30日、ムドロス休戦協定を締結して降伏する[343][344][345]。与党政権であった統一派政府は瓦解して、閣僚はドイツへと亡命した[343][344]。この第一次世界大戦中、ムスタファ・ケマルが戦果を挙げ、彼は国民的英雄となる[345][346]。なお、第一次世界大戦中、アラビアのロレンスとして知られるイギリス人情報将校トーマス・エドワード・ロレンスが、アラブ人の反乱を助言し、オスマン帝国に対する反乱が起きる[342][344]。軍事的には影響力は小さい反乱ではあったが、オスマン帝国にとっては衝撃を持って受け止められる[345]。
なお、この第一次世界大戦中の1915年4月、政府はアルメニア人が敵と密通すると考えたため、アナトリアの全域からアルメニア人を強制移送した[343]。その過程で、落伍する者や虐殺される者が相次ぎ、多数のアルメニア人が犠牲となった(アルメニア人虐殺)[343][347]。この時の犠牲者の人数については、諸説あるが60万人から80万人が死亡したとされる[347]。
オスマン帝国の滅亡


戦後、ムドロス休戦協定によって、第一次世界大戦によって英雄となったムスタファ・ケマルは、独立運動を組織する[348]。これに対して、ソ連はケマルを支持したが、連合国側は1920年3月、イスタンブールに軍を派遣してケマル派の議員を追放し、ケマルを反乱軍として扱った[349]。同年8月、連合国はセーヴル条約をオスマン帝国と締結した[350]。このセーヴル条約は、サイクス・ピコ協定に基づきオスマン帝国の領土は、アナトリア中部と黒海沿岸に限定されるというもので、オスマン帝国の解体を意味していた[351][349]。具体的にはトルコ北西部とイズミル周辺がギリシャ領土に、トルコ南西部とエーゲ海諸島はイタリア領土に、レバノン、シリアはフランスが委任統治し、トルコ南東部はフランス領土に、モースルを含めた現在のイラク、パレスチナ、シリア南部はイギリスの委任統治として、キプロスはイギリス領土、トルコ東部にはアルメニア国家が建設され、モースルから北のクルド人地域にクルド人に自治が付与されるという過酷なものだった[351]。
ケマルは、アンカラにおいて大国民議会を結成し、アンカラの大国民議会こそがトルコにおける唯一の合法政府と宣言し、セーヴル条約に反対し、独立戦争を展開した[349]。ここに、オスマン帝国の君主を戴くイスタンブール政府と、ケマルのアンカラ政府の二重政府が存立することになる[352]。ケマルは、アナトリア半島西部で主にイギリスの支援を受けたギリシャとの戦争を行い、1921年8月、サカリヤ川の戦いに勝利する[353][348][349]。この戦勝で、イタリア、フランスがアナトリア南部から撤退し、最終的に1922年8月、ギリシャはアナトリアから撤退する[353]。1922年10月、イギリス、フランス、イタリア、ギリシャとの間でムダニヤ休戦協定が締結され、独立戦争は終結する[353][349]。セーヴル条約見直しのため、1922年10月下旬、連合国はアンカラ政府とイスタンブール政府に対して招待状を送付した[350][354]。イスタンブール政府は、アンカラ政府と協議をする旨を打診したが、ケマルはイスタンブール政府が正統政府であることを宣言すると見抜いたため、ケマルはスルタン制度の廃止を大国民議会で可決させ、スルタン制度とカリフ制度の分離が採択された[354]。これによって、最後の君主であったメフメト6世は、1922年11月、イギリスの手引きによって亡命し、オスマン帝国は滅亡した[354][355][356]。カリフについては、メフメト6世の従弟アブデュルメジドが議会によってカリフに選出された[354]。オスマン帝国が滅亡したことで、イスタンブール政府は内閣が総辞職し、アンカラがトルコを代表する政府となった[357]。

その後、1923年7月、セーヴル条約を見直したローザンヌ条約が締結された[358]。連合国によるアナトリアの分割支配は放棄され、現在のトルコ共和国とほぼ同じ領土となり、1923年10月29日、人民党(後の共和人民党)のケマルは大統領となり、共和制が宣言された[358][351]。そして、1924年3月、カリフ制廃止の法案も可決され、オスマン帝国君主の血統者の国外追放が決定した[359]。
第一共和政
ケマルは、1927年の党大会で、「共和主義」、「国民主義」、「人民主義」、「世俗主義」を打ち出し、1931年の党大会で「国家資本主義」と「革命主義」を採用し、これを6本の矢として、国民国家樹立に向けて改革を行った[360][361]。1928年、世俗主義実現に向けて政府はイスラム暦を廃止し、伝統的なトルコ帽の着用禁止、文字もアラビア文字からアルファベットに改められ、憲法に記載していたトルコの国教はイスラムであるという文言を削除した[359][362][363]。1929年に起きた世界恐慌の影響もあり、経済はなかなか上向くことが無く、国家資本主義を採用し、国営銀行を設立して、外資系企業の国有化や、専売制を導入した[364][360]。これによって一部の資本家は潤ったものの、農民の生活は貧しいままだった[360]。 ケマルは、戦争回避に努め、1934年にギリシャ、ユーゴスラビア、ルーマニアとバルカン協商を締結、1937年、イラク、イラン、アフガニスタンとサーダーバード条約を締結した[360][365]。1936年には、モントルー条約締結によって、ダーダネルス海峡、ボスポラス海峡の主権を取り戻すことに成功した[360]。

ケマルは、1938年に病死し、軍隊時代の腹心のイスメト・イノニュが大統領となる[366]。1939年9月、第二次世界大戦が勃発し、トルコは枢軸国、連合国両国から参戦を打診されるが、中立を維持した[366]。1945年2月に開催されたヤルタ会談において、トルコが連合国として参戦した場合、国際連合の原加盟国とするという条件を提示され、トルコは第二次世界大戦終戦間近の1945年2月23日、ドイツへ宣戦布告する[366][364]。だが、トルコは戦争で戦うことは無いまま終戦を迎えた[366][364]。第二次世界大戦で、長らく中立を維持していたため、自国防衛のため軍事予算が増大し、国民生活は窮乏していた[366]。政府も無策ではなく、物価の統制や富裕税を課したが、実効性に乏しかった[366]。第二次世界大戦終戦後、ソ連からボスフォラス・ダーダネルス海峡を軍事基地に設定を要求すると言う出来事があり、アメリカのトルーマン大統領は、これに危機感を持ち、1947年にトルーマン・ドクトリンを提唱、その後のマーシャル・プランによってトルコは総額1億ドルもの支援が得られた[366][364][367][368]。
トルコでは建国以来長らく共和人民党の一党政党政治が行われていたため、1945年11月、共和人民党党首で大統領のイノニュは、一党政党政治制度の弊害を述べ、複数政党による総選挙を実施させた[369]。この時、共和人民党の内部から民主党が樹立され、民主党は1946年7月に行われた総選挙では敗北したものの、1950年5月の総選挙では487議席中420議席を獲得し、共和人民党は下野し、民主党が与党となり、アドナン・メンデレスが首相となった[369][370]。民主党は農民からの支持基盤が厚く、マーシャル・プランで得た資金を元手に、地方の経済状況の改善、道路建設、電化、トラクターなどの農業機械の導入を行う[371][372][373]。この内、トラクターの導入は西アナトリア沿岸部に限定され、内陸部と東部山岳部は開発が進まず格差が広がる[372]。農業トラクターが導入されたことによって、農村で余剰労働力となった農民は都市部へと流入したが、都市部でも仕事は無く、社会の軋轢は高まる[374]。

トルコは、1950年に起きた朝鮮戦争に参戦し、トルコは西側諸国の一員となる[364]。そして、1952年2月NATOへの加盟を果たす[364]。
1950年代後半になると、トルコは輸入超過となり、市民の不満が高まる[373]。民主党は共和人民党と非難合戦を繰り広げ、共和人民党党首のイノニュに対する個人批判も行う[373]。民主党のメンデレスも独裁色を強め、民主党内でも離党する者が発生する[371]。イノニュとケマルは、軍では英雄として扱われていたこともあり、共和人民党には軍の支持が厚く、民主党の共和人民党に対する批判は軍としては我慢ならないものだった[375]。そして、国民の不満が溜まっていたこともあり、1960年5月、軍によるクーデターが行われる[375][371][376]。
第二共和政

クーデターによって、元陸軍司令官ジェマル・ギュルセルが、国民統一委員会の委員長となり、同委員会が新憲法の草案作りと、民主党議員の裁判を行った[376]。1961年5月27日、新憲法が議会で承認された[376]。憲法には二院制が設置され、憲法裁判所も設置された[376]。選挙は比例代表制となった[376]。クーデターによって失脚した民主党議員に対する裁判の結果、メンデレスをはじめとして15名に死刑判決が下り、メンデレスは間もなく死刑が執行された[377]。1961年10月に新憲法に基づく総選挙が実施され、軍政から民政へと移管された[376]。選挙の結果は、下院では旧民主党の流れをくむ公正党が450議席中158議席を獲得し、イノニュが党首を務める共和人民党は173議席と振るわなかったが、イノニュが首相となった(大統領はギュルセル)[376][377]。なお、上院では公正党が71議席、共和人民党は36議席と言う結果だった[377]。
1965年10月の総選挙では、公正党が大勝し、単独過半数の議席を獲得、元官僚のスレイマン・デミレルが首相となる[378][374][379]。1960年代のトルコ経済は概ね好調で、一般家庭に冷蔵庫などの電化製品が普及したのもこの頃であるが、農民に対する土地改革は遅々として進まず、化学肥料の導入などは行われたが、アナトリア東部はこれらの改革が行われなかったために、発展から取り残された[371][374]。農村から都市部へと人口が大量に流入し、都市部ではゲジェコンドゥ(一夜建て)と言う不法建築街が形成されるようになる[374]。1960年代後半にもなると、トルコでは大学生が増え、社会主義思想に傾倒し学生運動を起こす者や、イスラム神権政治の復活を提唱する者もあらわれるなど、不安定な時代を迎えた[380][379][381]。トルコは1960年に起きたU-2撃墜事件事件では、領内の基地をアメリカ軍に供与していたことや、1962年に起きたキューバ危機では、トルコに配備されていたアメリカの中距離弾道ミサイルの撤去など、ソ連からの報復の危険性に晒されていた[382]。その他、西側諸国との関係を再考する出来事がキプロス紛争である。
キプロス紛争
キプロス島は、1878年露土戦争後に締結されたベルリン条約によって、イギリスの統治下におかれた[383]。キプロスの住民構成は、ギリシャ人が80%、トルコ人が20%だった[383]。1950年代になると、キプロスのギリシャ系住民の間で、キプロスをイギリスから独立させて、ギリシャに統合するという考え(エノシス)が起こり、トルコとギリシャの関係を悪化する[383][367][381]。1959年になって、イギリスがキプロスの統治から撤退すると、ギリシャはキプロスの独立と、ギリシャ系住民とトルコ系住民を、住民比率に応じて統治することを宣言する[383]。1960年8月、キプロスはイギリスから独立し、キプロス共和国として建国された[383]。キプロス独立後もギリシャ系住民とトルコ系住民の対立が続き、とうとう首相のイノニュは、1964年6月2日、在キプロスのトルコ系住民の保護という名目で、キプロス介入を決定する[383]。トルコは限定的な空爆を行ったが、アメリカのリンドン・ジョンソン大統領から非難された[383]。国連が仲介したため、キプロス紛争は停戦が成立したが、トルコは西側諸国との同盟を再考させざるを得なくなった[383]。
書簡クーデター
国民から人気の高かったスレイマン・デミレルへの求心力は1970年代に入ると翳りが見え始め、この頃になると、高いインフレ率、労働運動、高い失業率、学生運動の活発化により、不安定な状況になっていた[378][381]。1969年の総選挙では、公正党は第一党となったものの、デミレルに汚職疑惑が起こったこと、新税制度の導入を図ったため、公正党の支持基盤であった、中間所得者層や地方の支持を失ってしまう[379]。1971年になると、トルコ解放人民軍というテロ組織が結成され、銀行襲撃や、米兵の誘拐事件を起こした[注 15][380][379]。このような状況から、軍はデミレルでは統治ができないと判断し、1971年3月12日、軍が大統領並びに上下院両議長に対して、トルコの現状が危機的状況にあり、社会不安の安定化を講じること、それができない場合は軍が行動を起こす用意があるという内容であった[378][381][379]。これは書簡クーデターと言い、デミレル内閣は総辞職、公正党、共和人民党、無所属議員からなる超党派内閣(首相は元大学教授のニハト・エリム)が樹立された[381][379][378]。その後、テロを行っていたトルコ解放人民軍のメンバーは政府によって射殺された[379]。
1973年10月の総選挙で、共和人民党が第一党となり、ビュレント・エジェヴィトが首相となる[384][381][385]。

1974年7月、キプロスでギリシャへの併合を求めたクーデターが勃発し、キプロスの大統領マカリオス3世が追放され、マカリオスは国連でギリシャ政府を非難した[384]。キプロスではトルコ系住民がトルコに対して軍の派遣を要請し、エジェヴィトはこの要請に応じ、キプロス北部を制圧し、エジェヴィトの人気は高まった(トルコのキプロス侵攻)[384][380][381]。だが、キプロス北部占領の代償は大きく、アメリカはトルコへの武器輸出を禁止してしまう[380][384]。トルコは、これによってソ連[注 16]、東欧、アラブ諸国との関係を構築するようになる[386][383][380][383]。アメリカとの関係悪化はその後、1979年のイラン革命と、ソ連によるアフガニスタン紛争によって改善へと向かった[386][380]。1973年に起きた石油危機によって、トルコの経済は落ち込み、対外債務が膨らみ、インフレは1977年から急伸し、1979年末には100%にまで拡大する[387][388]。民衆たちは反政府運動によって抗議するが、政府はこれを力で抑え込み、1977年に230人が犠牲になり、1978年には1000人が、1979年には1500人、1980年は8月までに1800人が犠牲となってしまう[387][384][388]。元首相のニハト・エリムもテロによって殺害されるという不安定な状況だった[387][384][388]。1980年には、単独過半数を獲得する政党が無かったため、大統領選出のための選挙が100回行っても決まらないという惨状だった[389]。
最早政府では状況を打開できないことは明らかだったため、1980年9月12日、軍がクーデターを決行して、第二共和政は終焉を迎えた(9月12日クーデター)[388][390]。
第三共和政

1980年9月のクーデターによって、憲法は停止され、議会は解散された[391]。第二共和政時代、少数政党が乱立したために安定的な政治運営ができなかった反省から、新憲法では得票率が10%に満たなかった政党は議席を獲得できない足切り条項が設けられた[390][391]。その他新憲法では、一院制の採用と大統領の権限が強化され、1982年11月の国民投票によって成立した[389][390]。その後、1983年の選挙によって、中道右派のトゥルグト・オザルの祖国党が勝利し、首相となる[391]。オザルは、新自由主義政策を採用し、規制緩和の促進、民営化の促進、変動相場制への移行、外資の積極導入を行った[389][392]。これによって経済は栄えたが、財閥が形成されるなど貧富の差が拡大した[391][393][389][394]。また、オザルの経済政策は、海外からの負債を基調としていたため、国家の債務が膨れ上がることとなった[392]。これについては、1990年代半ばから2000年代初頭にかけて、経済危機として表層化する[392]。オザルは1989年大統領選挙に出馬し、大統領となる[394][395]。
1990年8月、イラクのサッダーム・フセインがクウェートを侵攻したことで湾岸戦争が起こり、オザルは独断によってフセインを非難、トルコ政府はイラクからの石油輸入停止を行い、トルコは多額の損失を被る[396]。オザルは1993年急死し、正道党のスュレイマン・デミレルが大統領となり、首相には正道党と共和人民党の連立政権で、トルコで初の女性首相タンス・チルレルが就任する[397][398][399][394]。だが、タンスには汚職疑惑が持ち上がり、正道党は国民からの支持を得られなくなった[397][398]。1995年の総選挙では福祉党が勝利し、1996年6月、ネジメッティン・エルバカンが首相を務める福祉党、正道党、祖国党の連立内閣が成立した[397][398][400]。福祉党は、イスラム色の強い政策を打ち出したため、軍部は、ムスタファ・ケマルの建国理念である世俗主義に違反していると指摘し、1997年に軍が主催する国家保安評議会の圧力によってエルバカンは首相を辞任する[401][397][402]。福祉党は憲法裁判所によって1998年1月16日に解党されたが、解党直前に美徳党が設立された[403][404]。
1999年4月、総選挙が実施され、トルコ共和国建国以来議席を獲得していた共和人民党はとうとう議席を失い、民主左派党が第一党となり、ビュレント・エジェヴィトが首相となる[405]。エジェヴィト首相時代の1999年2月、クルディスタン労働者党(PPK)のオジャラン拘束に成功したことから民衆の支持を集める(詳細は後述)[405]。
1990年代後半からトルコは激しいインフレに見舞われるようになる[406]。1989年のオザル政権時代に行なわれた資本取引の自由化が尾を引き、政府は国債発行額を大幅に増やしていたため、1994年にはアメリカの格付機関によって、トルコの国債は格付を大幅に引き下げられていた[407]。国債の格付を引き下げられた1994年にイスタンブールの市長に就任し、その後着々と実績を上げていた人物がいた[401]。それが当時福祉党に所属していたレジェップ・タイイップ・エルドアンであった[401]。
エルドアンの台頭

トルコは経済政策の失策によって、1990年代後半から激しいインフレに見舞われており、1994年には2000万トルコリラが発行された[399]。2000万トルコリラの発行時点の価値を日本円にすると、2000円程度の価値しかなかった[399]。 2001年にはIMFが追加融資を行うなどして、かろうじて財政破綻を免れていた[406]。1990年代は、政府並びに公的機関は、マフィアとのつながりによる汚職、先述したがイスタンブールやアンカラでは、農村から移住してきた者達がゲジェコンドゥという違法建築物を形成するなど国内の政治状況は良くなかった[399][408]。そして、1999年8月にマルマラ大地震、同年11月にボル大地震がおき、1万8千人の死者を出し、様々な危難に見舞われた[403]。
一方、イスタンブール市長のエルドアンは、市長として都市整備に取り組み、結果を出していた[409]。2001年、福祉党所属のエルドアンらが中心となって、公正発展党を結成する[401]。そして、2002年の総選挙で与党となり、2003年エルドアンが首相となる[410][411]。エルドアンは2005年、ハイパーインフレに見舞われていた状況の中、デノミネーションの実施を始めとして様々な経済改革を行った[411]。IMFの指導の下であるが、公費削減、国債削減、金融制度改革、民営化促進を目指した結果、2002年から2007年にかけてトルコの経済成長率は年平均7%程度で伸長する[411][412]。2008年に起きたリーマン・ショックによって、一時経済が落ち込んだものの、ダメージは比較的少なく、2011年から再びトルコのGDPは増加基調となる[412]。
2003年に起きたイラク戦争では、派兵に向けた投票が行われたものの、僅差で派兵が見送られたが、アメリカ軍のトルコ領空の通過と、米軍兵士のトルコ滞在が認められることとなった[413]。トルコの外交関係については、ゼロプロブレム外交と言われ、様々な国と外交関係を構築している[401][414][415]。
政治・経済で実績を上げた公正発展党のエルドアン政権であるが、順風満帆であるわけではなく、2013年5月には、ゲズィ公園の再開発計画をめぐる反対運動が、反政府運動へと発展するということも起きた(2013年トルコ反政府運動)[416]。当時大統領のアブドゥラー・ギュル大統領が、市民活動家達の立場を尊重したことから事態はいったん落ち着いたが、首相のエルドアンが、抗議者に対する反発を行ったため、火に油を注いでしまう[416]。最終的にはゲズィ公園の再開発中止が裁判所で決定され、事態は収拾された[416]。
エルドアンは2014年の大統領選挙に出馬し、当選する[411][417]。大統領に選出されたエルドアンは、大統領の権限強化を望み、議院内閣制から行政権を行使できる大統領制度への移行を望んだ[390][417]。エルドアンがより強い大統領制への移行が提起されたのは、2016年7月15日に起きたクーデター未遂事件が原因である[418][411][419]。このクーデターは、ギュレン派が起こしたクーデター未遂事件で、政府はクーデターの鎮圧に成功した(251名の犠牲者が生じた)[418][420][421]。その後、2017年4月、議院内閣制から大統領制への移行を明記した憲法改正が国民投票で可決され、2019年11月、大統領制での初の選挙が行われ、エルドアンが大統領に選出された[422][411]。
EU加盟に向けた動き
トルコでは、EU加盟に向けた動きは有るが、2026年時点でも実現していない。本節ではEU加盟に向けた経緯や動向、そして大きな障壁となっている内容を本節で解説する。
トルコでは、EUの前身組織であるEECへの加盟を1959年7月より進めていたが、クーデターの発生やキプロス紛争で対立するギリシャが1981年に、EECに加盟を果たしたことによって頓挫する[423]。その後もEEC加盟に向けて動き出していたが、1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、EC側がそれどころではなくなり、またもや加盟交渉は凍結された[424][425]。だが、1995年に関税同盟に加盟を果たした[424][426]。その後2000年代になってもEUの加盟交渉は続いているが、その交渉は遅々として進んでいない[426][427][428]。
クルド人問題

EU加盟の障壁のひとつともなっているのが、クルド人問題である。クルド人は、紀元前からトルコ東部にあるシリア、イラクとの国境を跨いだ地域に居住していた[391]。現在は、トルコ、イラン、イラクにまたがる地域のクルディスタンと呼ばれる地域と、旧ソ連、シリアに居住しており、トルコにおいては1000万人以上が居住しているとされる[429]。彼らの多くは南東部のクルディスタン地域に居住し、国家を持たない最大民族と言われている[429]。
彼らクルド人が国家樹立に向けて動き出したのは、第一次世界大戦後のことで、クルド人のシェリーフ・パシャが主体となり、1920年オスマン帝国が締結したセーヴル条約でクルド人国家が設立間近であったが、その後1923年に締結されたローザンヌ条約では反故にされてしまう[430]。1923年のローザンヌ条約では、例えば非ムスリムのギリシャ正教徒、アルメニア人、ユダヤ教徒がマイノリティと規定されたが、クルド人は無視され、トルコ人とされ、彼らの言語クルド語もトルコ語の方言の一つとされた[431][432]。彼らクルド人も「山岳トルコ人」と総称された[431][411]。
1925年2月、シェイフ・サイードの反乱が起こり、この反乱ではクルド人の自治の要求が掲げられていた[430]。トルコ政府はこの反乱を鎮圧し、クルド人の同化に向けて動き出したが、1920年から1938年までで、彼らクルド人による反乱が17回も起きた[433][432]。1938年に、トゥンジェリ県でクルド民族主義を掲げた反乱は、同じクルドによる反乱でも、1925年のシェイフ・サイードの反乱の支持者のクルド人とは距離を置いており、彼らクルド人も一枚岩ではなかった[434]。
その後、1940年代から1950年代はクルド人問題は表層化しなかった[434]。これは彼らクルド人の間でこれという指導者がいなかったという事情にある[434]。だが、1960年になると、大学教育を受けたクルド人の学生たちが、クルド民族主義運動を展開し、これがマルクス主義の階級闘争へと発展する[434]。彼らクルド人は、左派のトルコ労働者党を支持し、同政党が1970年にクルド人問題を党大会で取り上げたために、1971年に解党させられる[434]。
その後、クルド人問題については、アブドゥッラー・オジャランが党首を務めるクルディスタン労働者党(以降PKK)が1984年にトルコに対する武力闘争を開始すると、クルド人問題が顕在化する[411]。PKKは、建前は民族解放を掲げて闘争を行い、これによってトルコ国家に迫害されるクルド人という演出がヨーロッパで流布する[435][435]。PKKによるテロ活動は数多くあるため、内容は省略するが、トルコ政府とPKKの抗争によって、2017年時点までで約4万人が死亡した[436][437]。
トルコ政府は1999年にPKKの指導者であるオジャランの逮捕に成功する[438][411]。オジャランは死刑になる可能性が極めて高かったが、トルコ政府はEUが死刑を廃止しており、EU加盟交渉に向けては人権状況の改善が求められていたため、オジャランの死刑は行わなかった[437][405]。エルドアン政権は、獄中のアブドゥッラー・オジャランと対話し、2013年3月にオジャランはPKKに対して武装解除と投降を呼びかける文書を提出した[439]。だが、PKKには様々な組織が枝分かれして存在し、オジャランの呼びかけの効果は得られず、PKKとその姉妹組織の闘争は終わっていない[440]。
時代は前後するが、トルコはEU加盟を目指すため、クルド人問題に対しては、次第に人権的配慮を見せるようになる[429]。1980年に起きたクーデター時点では、言語はトルコ語が公用語であり、クルド系の名前の制限があった[429]。だが、トルコ国内におけるクルド人問題は、トゥルグト・オザルが首相になると変化する[441]。オザルは自身の祖母がクルド人であり、トルコの政治ではタブーとされていたクルド人問題を初めて議題にする[441]。そして、オザルの後継者と言えるスュレイマン・デミレル首相は、クルド人問題の存在を認め、解決に向けて動き出した[411]。1990年代になると、トルコではEU加盟に向けた動きもあり、クルド人に対する制限が緩和されるようになる[429]。そして、2002年に公正発展党が政権を握るようになると、彼らクルド人に対する人権状況は改善され、クルド人を敵視するような政策は廃止され、クルド人の存在を認め、クルド語の使用を認めるようになった[435]。これらにより、EUは(トルコの)人権状況が改善されたと考え、加盟交渉を行うということがあった[注 17][435]。
年表
- 紀元前20世紀 - ヒッタイト人がアナトリアにやってきて、紀元前17世紀にヒッタイト王朝が成立[14]。
- 紀元前8世紀 - ヒッタイトが滅亡する[14]。
- 紀元前5世紀 - アケメネス朝がアナトリア半島西部を支配する[14]。
- 紀元前3世紀 - トルコ系民族の丁零が匈奴の支配を受ける[14]。
- 紀元後4世紀 - 東ローマ帝国がアナトリア半島を支配する[14]。
- 紀元後6世紀半ば - トルコ系民族の突厥が建国される[16][15]。
- 1038年 - セルジューク朝が建国される[24]。
- 1071年 - マラズ・ギルドの戦いでセルジューク朝が東ローマ帝国に勝利する[24][88]。
- 1077年 - ルーム・セルジューク朝が建国される[87]。
- 1243年 - ルーム・セルジューク朝がキョセ・ダグの戦いでモンゴルに敗れ、貢納する[442][87]。
- 1299年又は1302年 - オスマン侯国(帝国)が建国される[185]。
- 1308年 - ルーム・セルジューク朝滅亡[443]。
- 1362年 - ムラト1世がオスマン帝国の君主となり、バルカン半島の征服活動を本格化させるが、1389年コソボの戦いで戦死[201]。以降オスマン帝国は約10年間の空位時代を迎える[190]。
- 1453年 - メフメト2世時代、コンスタンティノープルを征服し、東ローマ帝国滅亡[204]。
- 1517年 - セリム1世時代、エジプト遠征によりマムルーク朝滅亡[240]。
- 1526年 - スレイマン1世時代、モハーチの戦いでハンガリーに勝利[240]。
- 1538年 - スレイマン1世時代、プレヴェザの海戦に勝利し、地中海の制海権掌握[444]。
- 1566年 - セリム2世が君主となるが、以降政治的実権は大宰相や官僚機構が政治の中心となる[445][248]。
- 1595年 - メフメト3世が即位し、19人もの弟を処刑したため兄弟殺しに転機が訪れ、後継のアフメト1世で兄弟殺しが原則行われなくなる[258]。
- 1622年 - イェニチェリに対して厳格であったオスマン2世が、イェニチェリによって殺害される[445]。以降、オスマン帝国君主の廃位や殺害が行われる[263]。
- 1623年 - ムラト4世が君主となるが、自身の母親であるキョセム后が政治的実権を掌握、権力闘争に敗れる1651年まで権勢を奮う[255]。
- 1676年 - 露土戦争の勃発、以降幾度となく露土戦争が勃発する[275]。
- 1718年 - 相次ぐ戦争が一応の終結を見て、1738年までチューリップ時代を迎える[283]。
- 1787年 - 露土戦争 (1787年-1791年)の敗北により、ウクライナの権益を完全に喪失[290][287]。
- 1792年 - 君主のセリム3世が軍事改革を行い、西洋式の歩兵軍団創設、ニザーム・ジェディードと呼ばれる[290]。
- 1807年 - ニザーム・ジェディードに反対するイェニチェリによって、セリム3世は退位。ニザーム・ジェディードも解散する[446]。
- 1814年 - ウィーン会議開催[294]。これによってオスマン帝国の支配を受ける諸国がオスマン帝国支配に反発し、独立運動が展開される[294][300]。
- 1826年 - 君主のマフムト2世、地道な工作活動が功を奏し、イェニチェリを廃止に成功し、ムハンマド常勝軍創設[447][300]。
- 1839年 - ギュルハネ勅令公布、一連の改革はタンジマートと呼ばれる[312]。
- 1840年 - ロンドン四国条約によってエジプト州総督ムハンマド・アリーがエジプトを事実上支配する[448][304]。
- 1876年 - オスマン帝国憲法公布[323]。だが、1877年に起きた露土戦争の戦況悪化によって、1878年にアブデュルハミト2世が憲法停止[327][326]。
- 1880年から1900年 - イギリスとフランスが主体となり、オスマン帝国領土を次々に割譲、オスマン帝国は領土と人口を大量に喪失[328][326]。
- 1909年 - 3月31日事件によって、専制政治を敷いていたアブデュルハミト2世廃位[338]。
- 1914年 - 第一次世界大戦が勃発し、トルコも参戦する[342]。1918年10月30日、ムドロス休戦協定を締結し、敗戦に終わる[351]。軍人のムスタファ・ケマルが台頭する[346]。
- 1920年 - セーヴル条約締結、アンカラに政府を樹立したムスタファ・ケマルがセーヴル条約締結に反対し、独立戦争を展開[449]。その後、ローザンヌ条約が締結される[358]。
- 1922年 - ムスタファ・ケマル、オスマン帝国のスルタン制度を廃止しオスマン帝国滅亡[354]。
- 1939年 - 同年9月1日、第二次世界大戦勃発[450]。トルコは参戦を控え、1945年2月23日に連合国として参戦[366]。
- 1959年 - EEC加盟交渉が開始されるようになる[423]。断続的に幾度も加盟交渉が行われるが、EU加盟に至っていない[427]。
- 1960年 - 政情不安のため、軍部がクーデターを起こし、第二共和政へ[376]。
- 1961年 - 軍政から民政へと政権移管完了[376]。
- 1964年 - キプロス紛争勃発[383]。
- 1971年 - 軍による書簡クーデター勃発、デミレル内閣総辞職[379]。
- 1974年 - キプロスの南北分断が確定する[386]。
- 1978年 - クルディスタン労働党結成、1984年より武力闘争を開始する[451]。
- 1980年 - 政治経済の不安定な状況により軍によるクーデター勃発、第三共和政へ[388]。
- 1983年 - オザルが首相となり、経済改革実施。1990年代半ばに経済危機につながる[391][390]。
- 2003年 - 元イスタンブール市長のエルドアンが首相となる[411]。慢性化していたインフレを沈静化に成功[411]。
- 2014年 - エルドアンが大統領に当選[411]。
- 2016年 - クーデター未遂事件が勃発するが、政府はこれを鎮圧[411]。
脚注
注釈
- ↑ 現在の新疆ウイグル自治区[16]
- ↑ 最終的に和平条約を締結したのは562年のことである[41]
- ↑ ただし、エイレーネー死去後イコノクラスムは再燃し、法律上廃止されたのはその後の842年のことである[56]。
- ↑ キリジ・アルスラーン2世の子の数は井谷 (2002, p. 156)とN.アクシト & 永田雄三 編訳 (1981, p. 21)では11人、マントラン&小山 改訳(1982, p.26)では12人。
- ↑ 井谷 (2002, p. 158)では「1211年に戦闘後自らの不注意で死亡」、マントラン&小山 改訳(1982, p.27)では「1210年に戦闘中に陣没」。
- ↑ 現在では「アラーイーヤ」が転訛してアランヤと呼ばれている。
- ↑ マントラン&小山 改訳(1982, p.28)では1220年にカロノロス占領。
- ↑ マントラン&小山 改訳(1982, p.28)では1246年にカイホスロー没。
- ↑ フレグの子。アバカの弟にあたる。カイホスロー3世没時にイルハン朝のハンの地位にあったアルグンはコンクルタイと親しい間柄であり、アルグンと対立していたアフマドによって処刑された[172]。
- ↑ 井谷 (2002, p. 167)では、カイホスロー3世はイルハン朝訪問の帰路にエルゼルムで没。
- ↑ 後に対象をアナトリアにまで拡大される[210]
- ↑ 外征先はサファヴィー朝ともロードス島とも言われているが、詳しくはわかっていない[234][235]。
- ↑ 暗殺がムラト3世の指示であったか否かについては諸説ある[253]
- ↑ イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア[330]
- ↑ 米兵は殺害されずにすんだ[379]
- ↑ ソ連とは1964年のキプロス紛争によるアメリカとの関係悪化時から人的交流が構築され、1976年にはソ連領内で軍事演習を行うこともあった[383]
- ↑ ただし先述の通りトルコのEU加盟は実現していない
出典
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- ↑ 大村, 永田 & 内藤 2012, pp. 51–59.
- ↑ 三宅 裕 2019 「定住狩猟採集民」の世界-西アジアの新石器時代から見えてくるもの- 長野県埋蔵文化財センター
- ↑ 大村, 永田 & 内藤 2012, pp. 30–36.
- 1 2 三宅 裕 2020 初期定住集落の姿を探る─トルコ、ハッサンケイフ・ホユックにおける発掘調査─ 第28回西アジア発掘調査報告会
- 1 2 三宅 裕 2021 ティグリス川上流域の新石器時代─ハッサンケイフ・ホユック遺跡とウルス・ダム水没地域の調査─ 第29回西アジア発掘調査報告会
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- 1 2 3 4 5 6 7 永田 2023, pp. 3–8.
- 1 2 3 4 5 6 関 2021, pp. 21–25.
- ↑ 永田_上 2023, pp. 11–14.
- ↑ 永田_上 2023, pp. 15–16.
- 1 2 永田_上 2023, pp. 22–25.
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- 1 2 3 永田_上 2023, pp. 25–28.
- 1 2 3 4 関 2021, pp. 31–33.
- ↑ 永田_上 2023, pp. 34–35.
- 1 2 3 4 永田_上 2023, pp. 36–40.
- 1 2 3 4 5 宮嵜 2024, 位置No.1990-2027/3745.
- 1 2 3 弓削 2020, 位置No.1235-1255/2399.
- 1 2 宮嵜 2024, 位置No.2314/3745.
- ↑ ジャン 2024, p. 10.
- 1 2 3 根津 2008, pp. 1–6.
- ↑ ポール 2003, pp. 5–7.
- ↑ 根津 2008, pp. 6–11.
- 1 2 ポール 2003, pp. 41–47.
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関連項目