ヘレティ王国
ヘレティ王国
| |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 893年–1010年 | |||||||||||||
|
10世紀後半のヘレティ王国の地図 | |||||||||||||
| 地位 | 王国 | ||||||||||||
| 首都 | シャキ | ||||||||||||
| 共通語 | ジョージア語 | ||||||||||||
| 宗教 | キリスト教(正教会) | ||||||||||||
| 統治体制 | 君主制 | ||||||||||||
| メペ(王) | |||||||||||||
• 893年–897年 | グリゴル・ハマム | ||||||||||||
• 990年代–1010年 | ディナル | ||||||||||||
| 歴史 | |||||||||||||
• 確立 | 893年 | ||||||||||||
• 滅亡 | 1010年 | ||||||||||||
| |||||||||||||
ヘレティ王国(ヘレティおうこく、ジョージア語: ჰერეთის სამეფო、ジョージア語ラテン翻字: Heretis Samepo)は、9世紀末から11世紀初頭にかけて存在したジョージア系の封建国家である。建国者はグリゴル・ハマムであり、893年にメペ(王)の称号を得たとされる[注釈 1][2]。
国名
9–10世紀にカヘティ公国の隣に存在したヘレティ国家は、ジョージア語の史料や外国の史料で「シャキ」「カンベチャニ」と呼ばれた。また「ラニ」「アルバニア」の名でも言及される。中世ジョージアの史料では、アルバニア系諸部族の一つが「ラニ人」と呼ばれ、アルバニア系諸部族は「ヘレ人」とも呼ばれた。このため、これらの史料によれば「ラニ」と「ヘレティ」は同一の概念である。ジョージア語史料では、この国は「ヘレティ」とも「ラニ」とも呼ばれる。ジョージア語の「ヘレティ王国」は、アラビア語史料の「シャキ王国」、アルメニア語史料やビザンツ史料の「アルヴァン人の王国」(アルバニア王国)とも同一の国を指す。
国名の由来は、呼称ごとに異なる。ジョージア人は、最も近い隣人であった古代アルバニアの一部族「ヘレ人」にちなんで名付けた。アラブ人は、首都シャキにちなんで呼んだ。アルメニア人とビザンツ人は、旧アルバニア王国の領域に成立したことから「アルバニア」と呼んだ。
ジョージア語では、「アルバニア」という語は定着しなかった。この語は、アルメニア語から翻訳された文献に数回現れるが、そこではアルメニア語から機械的に借用されたものと見られる。9–11世紀のジョージア語史料(原典、アルメニア語からの翻訳の双方)では、アルヴァン(アルバニア)に当たる語として「ヘレティ」が用いられている。
9–10世紀には、ヘレティとアルバニアは実際にも一致していた。1–5世紀にはイベリア王国からカスピ海まで広がっていたアルバニアは、サーサーン朝とアラブの支配によって領域が縮小し、その存在の最末期にはヘレティの範囲に収まったためである。したがって、ジョージア語の文献史料は、事実上、アルバニアを指す語としてヘレティ以外の用語を持たない。このことから、「ヘレティ」は9–10世紀だけでなく当初から二重の意味、すなわち狭義(本来のヘレティ)と広義(アルバニア全体)の意味を持っていたと推測される[3]。
内政
グリゴル・ハマムの死後、ヘレティの王位にはその子アダルナセが就いた[4]。ジョージア語史料(『カルトリ年代記』、ヴァフシティ・バグラティオニ)では、このアダルナセはアダルナセ・パトリキとされる。マスウーディーは10世紀半ばの記述で、シャキの王を「アダル・ナルセ・イブン・ハンマーム」と記しており、これを同一人物とみる説がある。その統治期は、906年のエレドヴィの碑文への初出から943年頃までと推定されている[5][6]。
915年頃、カヘティのコレピスコポス・クヴィリケ1世(在位: 892年–918年)が、アブハジア王コンスタンティネ3世とともにヘレティに遠征した。同盟軍は、ヘレティの重要拠点であるアリシ(現在のムティスジリ)、ガヴァジ(現在のアハルソペリ)、オルチョビを占領し、分割した[7]。しばらくして、アダルナセ・パトリキは、カヘティ公国の対外情勢が複雑化したのに乗じて、失った領土を取り戻した[8]。
アダルナセ・パトリキの後、ヘレティ王となったのは、その子のイシュハニク(943年頃–960年代)である。イシュハニクとともに、母のディナルもヘレティを統治した。ディナルは、タオ・クラルジェティのバグラティオニ家の出身である。アダルナセ3世[注釈 2]の娘で、著名なグルゲン4世大王(エリスタヴト=エリスタヴィ、マギストロス)の姉妹であった[9]。
イブン・ハウカルは、955年ごろのアッラーンの貢納者の一人として、シャキの統治者「イシュジャーニーク」を挙げている。このころのヘレティは、ダイラムの政権であるサッラール朝の属国であった。957年にマルズバーン・イブン・ムハンマドが没し、サッラール朝国内で封建諸侯間の内戦が起こると、イシュハニクはこれに乗じて貢納を停止した[10][6]。
『カルトリ年代記』は、イシュハニクの治世より前のヘレティは単性論を奉じており、母ディナルがこれをカルケドン派(正教)に改宗させたと伝える。ヴァフシティも同様に伝える。この文化的・歴史的に重要な出来事によって、ヘレ人は統一ジョージア(ムツヘタ)教会と最終的に統合された[11]。一方、アナニア・モクエリは、958年にイシュハニクが再びアルメニア教会の側に就いたと伝える。テンギズ・パプアシヴィリは、この記述を実際の状況というより、アナニア自身の信仰上の立場の反映とみて、信頼性に疑問を示している[12]。
イシュハニクの後について、史料の伝えは分かれる。ヴァフシティは、イシュハニクの死でヘレティの王統は絶え、残っていたのは王妃ディナルだけだったとする[13]。これに対し、モヴセス・カガンカトヴァツィの系譜に基づくパプアシヴィリは、イシュハニクが子を残さずに没したのではなく、イオアネ(セネケリム)、グリゴル、アダルネルセ、ピリピの4人の子がいたとする。そして、960年頃のイシュハニクの死後、長男のイオアネ・セネケリムがシャキ・ヘレティを継いだとする。イブン・ハウカルは、セネケリムを「ツァナル人(ツァナレティ)の王」と呼び、キリスト教徒であったと記している。セネケリムは、ツァナレティ(カヘティ)とシャキ・ヘレティを併せて治め、右岸アルバニアの一部も併合して、グリゴル・ハマムの時代(886年頃)の版図を回復した。モヴセス・カガンカトヴァツィは、グリゴル・ハマムと同様に、彼を「アルバニア王国の再建者」と呼んでいる[14]。モヴセスの『アルバニア史』は999年で終わる。セネケリム以降、ジョージア語史料にもアルメニア語史料にも、ヘレティの王は現れなくなる。このころ、ヘレティの支配王朝は断絶したと見られる[15]。
11世紀初頭、統一ジョージア王バグラト3世とカヘティのコレピスコポス・ダヴィト(在位: 976年–1010年)は、ヘレティの征服を目指して戦った[15]。『カルトリ年代記』によれば、バグラト3世は1008年にカヘティへ遠征し、ヘレティを占領してアブラルを長官に任じた。しかし、ヘレティの封建領主たちはこの長官を認めずにダヴィトに従い、ダヴィトがヘレティを併合した。このためバグラト3世は、1010年に再びヘレティを攻略した[16]。このときカヘティでは、ダヴィトに代わってクヴィリケ3世が統治しており、バグラト3世は彼を捕らえてカヘティも制圧した。『カルトリ年代記』は、この際に「ディナル王妃」も捕らえたと記す。しかし、1010年にディナルが存命であったかは疑わしいとして、別人とみる説(G・チュビナシヴィリ)や、聖遺骨を指すとみる説(M・ブロッセ、C・トゥマノフ)がある[17]。その後、ヘレティはバグラト3世の治世末期まで、アブハジア・ジョージア王国の一部となった[18]。
1014年にバグラト3世が没し、ギオルギ1世が即位すると、ヘレティとカヘティの封建領主たちはジョージアの政治的混乱に乗じ、クヴィリケ3世を呼び戻して、この地をジョージア王国から分離させた。これは11世紀の20年代の出来事とされる。カヘティ王クヴィリケ3世大王はヘレティを征服して「カヘティ人の王」を称し、これによってカヘティとヘレティの政治的合併の過程が完結した。これ以降、ヘレティ王国は独立した存在でなくなり、新たに成立した政治単位である「ラニ人とカヘティ人の王国」(カヘティ=ヘレティ王国)に組み込まれた。『カルトリ年代記』は、彼を「ラニ人とカヘティ人の王、大クヴィリケ」と呼んでいる。ヴァフシティはクヴィリケ3世の在位を1010年から1039年までとするが、ニコロズ・ベルゼニシヴィリの修正によれば、没年は1037年より前になる[19]。
12世紀初頭、建設王ダヴィト4世の時代に、ヘレティはカヘティとともに統一ジョージアの国家組織に最終的に組み込まれた。ヘレティは、国の社会経済・政治・文化の各分野に積極的に関わった[15]。9–10世紀のヘレティ王国の政治的・経済的な強勢と高い文化は、歴史的なヘレティの領域に数多く残る物質文化遺産によって裏付けられる。優れた建築遺産として、クミのバシリカ(8世紀)、レケティのテトラコンク(8–9世紀)、グルジャアニ(カフトゥバニ)の「クヴェラツミンダ」(8–9世紀[注釈 3])、ヒルサの「ステパンツミンダ」(9世紀)、オザアニの「昇天教会」(9世紀)などが残っている。クミとレケティは、現在はアゼルバイジャンのカフ地区に属する[21]。
経済

ジョージアの他地域と同様に、ヘレティの経済は、アラブとビザンツの支配下にあって、停滞しながらも前進を続けた。征服者、とりわけアラブ人は、国の経済発展を妨げたが、止めることはできなかった。中世には封建関係が強化され、新たな土地の開発が進んだ。これが、農業の集約的部門の発展を促した。平野部ではブドウ栽培を含む園芸と耕作が、山岳部では主に牧畜が発展した。
イオリ川・アラザニ川流域の平野は、ジョージアのブドウ栽培の主要地域の一つであった。集約的な農業部門、とりわけブドウ栽培と園芸の発展、および都市生活の隆盛にとって、灌漑システムの存在は特に重要であった。その遺構は、ヘレティに数多く残っている。山岳地帯は、高山の豊かな牧草地に恵まれていた。これが、羊・馬・大型有角家畜の牧畜の発展を促した。
ヴァフシティ・バグラティオニの見解では、地域の一つカンベチョヴァニ(キジキ)の名は、カメチ(水牛)に由来する。この推測が正しければ、この地域には水牛が古くから分布していたことになる。すでにストラボン(紀元前後)が、この地方を「カンビセネ」と呼んでいるためである。
農業の発展は、農業と関連する手工業の発展も促した。考古学的発掘で得られた資料は、陶器・ガラスの製造所、クヴェヴリ(甕)の製作、耕作用・草刈り用・刈り取り用の道具の鍛造が存在したことを裏付けている。カンベチャニ地方では、ブドウの剪定具の一部とみられる鉄製品も出土している[22]。
ヘレティには、ジョージアと、南コーカサスにおけるアラブ最高官吏の居所とを結ぶ道が通っており、これがこの地域の発展を促した。ヘレティ王国は、カリフ国とかなり緊密な通商関係を持っていた。ヘレティで発見された当時の多数のアラブ貨幣が、それを物語っている。8–9世紀(王国の成立以前を含む)のヘレティで主要な貨幣単位だったのは、アラブの銀貨ディルハムである。チカアニ村(クヴァレリ地区)からは、850/51年を最新とするディルハムの埋蔵貨幣が出土している[23]。ヘレティ王国は、アラブの国際的な中継貿易に参加し、自国の手工業品や農産物も輸出していた。10世紀中頃、マスウーディーは、シャキの住民はキリスト教徒が中心で、商業と手工業に従事するムスリムも含まれると記している[6]。
歴代の王
歴代のヘレティの統治者は、次の通りである[24]。
| 名前 | 在位 | 称号 |
|---|---|---|
| スムバト | 787年?–815年? | シャキ・ヘレティ公 |
| サフル | 815年–854年(822年から) | シャキ・ヘレティ公、「ラニのエリスムタヴァリ」 |
| アダルネルセ | 856年–865年 | 上ハチェン公 |
| グリゴル・ハマム | 865年–897年(893年から)[注釈 4] | 上ハチェン公、「ラニ王」 |
| アダルナセ・パトリキ | 897年–943年[注釈 5] | ヘレティ王 |
| イシュハニク | 943年–960年代 | ヘレティ王 |
| イオアネ・セネケリム | 960年代–990年代(958年から)[注釈 6] | ヘレティ王、「ラニ王」[注釈 7] |
| ヘレティ女王 | 990年代–1010年[注釈 8] | ヘレティ王 |
| クヴィリケ3世 | 1014年–1037年[注釈 9] | カヘティ=ヘレティ王 |
脚注
注釈
- ↑ 歴史家モヴセス・カガンカトヴァツィの記述による[1]。
- ↑ テンギズ・パプアシヴィリは「アダルナセ2世」とする[8]。初期バグラティオニ家の同名君主の序数は、採用する系譜表や、君主・領主としての区分によって異なる。
- ↑ パプアシヴィリ(1970)は、この教会を9世紀のものとする[20]。
- ↑ パプアシヴィリは、ハマムが「アルバニア王国の再建者」と呼ばれることを、アルメニア王国の独立回復(875年)と結び付け、統治の開始を875年頃と推定している[25]。
- ↑ パプアシヴィリは、906年の碑文への初出から943年のマスウーディーの記述までとして、906年頃–943年と推定している。ただし、一人の王の治世としては長すぎる可能性も指摘している[7]。
- ↑ パプアシヴィリは、セネケリムが王位を継いだのを960年頃とする[14]。
- ↑ イブン・ハウカルは、セネケリムを「ツァナル人の王」と呼ぶ[14]。
- ↑ この項の在位年は、hereti.orgによる。1010年にディナルが存命であったかには異論がある(「内政」の節を参照)。
- ↑ ヴァフシティはクヴィリケ3世の在位を1010年–1039年とするが、ニコロズ・ベルゼニシヴィリは没年を1037年より前に修正している[26]。
出典
- ↑ Papuashvili 1970, p. 193.
- ↑ Papuashvili 1987, p. 629.
- ↑ Papuashvili 1970, pp. 193–195.
- ↑ Papuashvili 1970, p. 196.
- ↑ Papuashvili 1970, pp. 197–198.
- 1 2 3 Bosworth 2000.
- 1 2 Papuashvili 1970, p. 198.
- 1 2 Papuashvili 1970, p. 200.
- ↑ Papuashvili 1970, pp. 200–201.
- ↑ Papuashvili 1970, pp. 201–202.
- ↑ Papuashvili 1970, p. 202.
- ↑ Papuashvili 1970, p. 208.
- ↑ Papuashvili 1970, pp. 211, 215.
- 1 2 3 Papuashvili 1970, p. 212.
- 1 2 3 Papuashvili 1970, p. 213.
- ↑ Papuashvili 1970, p. 214.
- ↑ Papuashvili 1970, pp. 214–215.
- ↑ Papuashvili 1970, p. 216.
- ↑ Papuashvili 1970, pp. 221–222.
- ↑ Papuashvili 1970, p. 195.
- ↑ Papuashvili 1970, pp. 195–196.
- ↑ Papuashvili 1970, p. 290.
- ↑ Papuashvili 1970, pp. 364, 368.
- ↑ hereti.org 2016.
- ↑ Papuashvili 1970, pp. 192–193.
- ↑ Papuashvili 1970, p. 222.
参考文献
- Bosworth, Clifford Edmund (2000年1月1日). “Šakki”. Encyclopaedia Iranica. doi:10.1163/2330-4804_EIRO_COM_11227. 2026年10月24日閲覧.
- Lortkipanidze, Mariam; Muskhelishvili, David; Metreveli, Roin (2012). საქართველოს ისტორია : 4 ტომად : ტომი II. თბილისი: პალიტრა L. ISBN 978-9941-19-406-1. 2026年10月24日閲覧.
- Papuashvili, Tengiz (1970). ჰერეთის ისტორიის საკითხები : ნარკვევები სოციალურ-ეკონომიური და პოლიტიკური ისტორიიდან. უძველესი დროიდან XII ს. I მეოთხედამდე. თბილისი: მეცნიერება. 2026年10月24日閲覧.
- Papuashvili, Tengiz (1982). რანთა და კახთა სამეფო (VIII-XI სს.). თბილისი: მეცნიერება. 2026年10月24日閲覧.
- Papuashvili, Tengiz (1987). “ჰერეთის სამეფო”. ქართული საბჭოთა ენციკლოპედია. Vol. 11. თბილისი: ბეჭდვითი სიტყვის კომბინატი. 2026年10月24日閲覧.
- “ყველაფერი ჰერეთის (საინგილო) შესახებ”. hereti.org. 2015年9月26日. 2015年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2026年10月24日閲覧.
- “კახეთის სამთავრო”. hereti.org. 2016年5月2日. 2016年5月2日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2017年12月26日閲覧.