メアリー・アニング

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メアリー・アニング
Mary Anning
生誕 (1799-05-21) 1799年5月21日
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国 イングランドの旗 イングランド ドーセット ライム・レジス(英語版)
死没 (1847-03-09) 1847年3月9日(47歳没)
イギリスの旗 イギリス イングランドの旗 イングランド ドーセット ライム・レジス
研究分野 古生物学
プロジェクト:人物伝
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メアリー・アニング(Mary Anning、1799年5月21日 - 1847年3月9日)は、イギリスの初期の化石採集者で古生物学者。イングランド南部ドーセットの海辺の町ライム・レジスで、海岸の崖から化石を掘り出して販売することを生業とし、魚竜、首長竜、翼竜などの重要な標本を発見して初期の古生物学の発展に寄与した。労働者階級の女性であったことなどから、生前・死後を通じてその功績は十分に記録されてこなかったが、20世紀末以降に史料に基づく再評価が進み、2010年には王立協会によってイギリスの科学史上で最も影響力のあった女性の一人に選ばれた。

人生

生い立ち

メアリー・アニングは1799年5月21日、イギリス南部沿岸ドーセット州のライム・レジス(英語版)で生まれた[1][2]。ライム・レジスは当時、海水浴の保養地として発展しつつあった小さな町である[2]。父リチャード・アニング(1766年頃 - 1810年)は非国教徒の家系の出身で、1793年頃までにライム・レジスに移り住んで家具職人・大工として働き、同年ドーセットのブランドフォードでメアリー・ムーア(1764年頃 - 1842年、通称モリー)と結婚した[2]。夫妻には最大で10人ほどの子供がいたとみられ、その一部の出生・洗礼はライム・レジスの会衆派の礼拝堂の記録に残っている。しかし成人したのは兄ジョセフ(1796年 - 1849年)とメアリーの2人だけであった[2][3]。メアリーという名は、1798年の暮れに家の火事で亡くなった同名の姉にちなんで付けられたものである[2]。

1800年8月19日、彼女が生後14か月のとき、町の上手の野原で騎馬隊の演技が催されていた。豪雨を避けてニレの木の下にいた4人に雷が落ち、メアリーの子守だったエリザベス・ハスキングズと子供2人が死亡したが、メアリーだけは温かい湯に入れられて息を吹き返した[2][4]。20年ほど後には、この時から「鈍い子」だった彼女が「とても利発に」なったと地元で語られており[2]、後年の彼女の才能を落雷に結びつける言い伝えが生まれた[1]。

化石採集の始まり

父リチャードは家具職人のかたわら、ライム・レジス沿岸の崖で化石を採集し、それを観光客に売って収入を補っていた[5][6][3]。ジュラシック・コーストの一地点であるライム・レジス沿岸は、前期ジュラ紀には赤道直下の熱帯の海の底だった地質で、現在でも豊富な化石を産出する地層が露出する。彼は子供達にも化石採集のノウハウを教えていたが、メアリーは特に強い興味を示し、幼い頃から化石採集に積極的であったという。メアリーは後に、化石採集の技術は父から学んだと語っている[3]。リチャードは1808年頃に夜道で崖から転落して働けなくなり、1810年11月、その後遺症と結核が重なって44歳で死去した[6][3]。一家には120ポンドの借金が残り、1811年から少なくとも1816年まで教区の救貧援助を受けていた[6]。アニング家の収入は途絶え、メアリーと兄のジョセフで化石を採集して生計を支えなければならなくなった[5]。メアリーは貧しい子供の多くと同じく、地元の礼拝堂の日曜学校で11歳頃まで基礎的な読み書きを学んだ[3]。崖は急斜面で海流の影響でがけ崩れをおこすこともあり、危険な仕事であったという[1]。

イクチオサウルスの発見

アニング家の名が科学界に知られるきっかけとなったのは、イクチオサウルス(魚竜)の化石の発見である。魚竜はもちろん恐竜の存在すら当時はまだそれほど世間に知られてはいなかった[1]。1811年の秋、兄ジョセフがライム・レジス東方の崖ブラック・ヴェンの下で、ワニのように見える長さ約1.2メートルの頭蓋骨を見つけた。骨格の残りの部分は始めは見つかっていなかったが、翌1812年にメアリーがその胴体部分を発見した[6][7]。このときメアリーは12歳から13歳であった。後世の伝記では発見の年が1809年から1811年まで、年齢も10歳から12歳までとまちまちに伝えられている[6]。

この標本は「最初のイクチオサウルス」としばしば語られるが、魚竜(当時は「ワニ」の化石と呼ばれた)の化石はそれ以前にもライム・レジスやバース近郊、ウォリックシャーで見つかっており、ドイツでは18世紀半ばにすでに発見されていた。アニング家の標本は、ロンドンの学者たちの注目を集めた最初の魚竜化石であった[6]。標本は地元の地主ヘンリー・ホスト・ヘンリーに23ポンドで売られ、ロンドンのウィリアム・ブロックの博物館で展示された[8][7]。これを解剖学者エヴァラード・ホームが1814年に王立協会で報告し、『フィロソフィカル・トランザクションズ』に図版付きで記載したが、発見者であるアニング家の名前は記されなかった[6][7]。1817年にはこの標本をもとに属名イクチオサウルスが命名された[8]。標本は1819年に大英博物館が47ポンド5シリングで購入し、頭骨は現在ロンドン自然史博物館に所蔵されている[8]。この標本は現在ではテムノドントサウルスに分類されている[7]。メアリーはその後も複数のイクチオサウルスの化石を発見している[1][9]。

化石商としての成功

生家に掛けられている記念盾

1810年代のアニング家の活動についての記録は乏しいが、この時期に母モリーと2人の子供は化石採集の家業を築いていった[8]。やがてアニング家は、近衛騎兵連隊の将校で化石収集家のトーマス・ジェームズ・バーチ(Thomas James Birch、1768年 - 1829年)の目に留まった。バーチは1819年にライム・レジスを訪れた際、1年近く良い化石が見つからなかったアニング家が家賃を払うために家具を売ろうとしているのを見て、自身の収集品を売却し、その収益を一家に与えることにした。1820年5月にロンドンのブロックの店で行われた競売には欧州各地から入札者が集まり、売り上げは400ポンドを超えた[10]。この競売によって、父の死から約10年を経てようやく家計が安定したうえ、アニング家の名も広く宣伝されることになった[10]。同年10月には、メアリーがアダム・セジウィックに売った標本の領収書に署名しており、これが彼女が独立して商売に関わった最初の証拠とされる[10]。1821年にメアリーたちが発見した保存の良い小型のイクチオサウルスは、1823年にブリストルの有志9人が購入して新設のブリストル・インスティテューションに寄贈したが、この標本は第二次世界大戦で失われた[11]。1820年代前半に家業を切り盛りしていたのは母モリーであり、兄ジョセフも家具の張り替え職人の修業のかたわら化石採集に加わっていた。ジョセフが室内装飾業に専念した1825年頃以降、メアリーが家業の中心を担うようになった[12]。それまで一家は自宅の前で化石を売っていたが、メアリーは27歳のとき(1826年頃)に「アニングの化石店(Anning's Fossil Depot)」という店を構えた[13]。生家を離れて移ったこの店はライム・レジスのブロード・ストリートにあり[14]、地元史家で教師のジョージ・ロバーツが営んでいた学校の真向かいにあった[4]。

彼女の次の大発見は、1823年12月10日にブラック・ヴェンの崖下で見つけた、ほぼ完全なプレシオサウルスの骨格化石であった[15][16]。プレシオサウルスという属名自体は、1821年にウィリアム・ダニエル・コニベアとヘンリー・デ・ラ・ビーチが、バーチの収集品に含まれていた(おそらくアニング家が発見した)頭部のない骨格などの断片的な標本に基づいて命名していた[17]。1823年の標本はこの動物の全身像をほぼ完全に示すもので、1824年2月20日のロンドン地質学会の会合でコニベアにより報告された[15][16]。この標本は後に Plesiosaurus dolichodeirus のタイプ標本となり[18]、現在はロンドン自然史博物館に収蔵されている[19]。発見当初、フランスのジョルジュ・キュヴィエは送られてきた図をもとに、別々の動物の骨を組み合わせた偽物ではないかと疑ったが、のちに本物と認めた。この一件によって、化石商としてのアニング家の信用は確立した[20][16]。標本はバッキンガム公リチャード・グレンヴィルが購入したが、コニベアの論文では購入者の名が記される一方で、発見者のメアリーの名は記されなかった[21]。

メアリーの化石発見が知られると、収集家や学者も標本を求めてライム・レジスを訪れるようになり[22]、この頃からはメアリーその人に会うために訪れる人も現れた[20]。1824年に訪れた鉱物学者トマス・アランは、彼女が扱う動物の解剖学に精通していることに驚いたと記している。同年に彼女を訪ねたハリエット・シルヴェスター夫人は日記に、彼女が骨を見つけるとすぐにどの仲間の動物のものかを判断できること、読書と努力によって大学教授らと手紙や会話で議論できるほどの知識を身につけたこと、学者たちが彼女の科学の理解を国内の誰よりも優れていると認めていることを書き残している[23]。1825年9月には地質学者ロデリック・マーチソンと妻シャーロットがライム・レジスを訪れ[24]、メアリーはこのとき知り合ったシャーロットと親しい友人となった[13][25]。

ライム・レジスには、19世紀初めの10年間に移り住んだフィルポット家の未婚の3姉妹も化石を収集しており、その収集品は現在オックスフォード大学自然史博物館に収められている[8]。姉妹の一人エリザベス・フィルポット(英語版)はメアリーの親しい友人であった[26]。メアリーが発見した翼竜の歯とされる部分やスクアロラジャの尾部など一部の標本は、フィルポット家の収集品を経てオックスフォードに伝わっている[27]。

1820年代後半から1830年代の発見

メアリーは化石採集を続け、その後も重要な発見を重ねた。1828年にはベレムナイトの仲間の化石に墨袋が保存されていることを発見し、ウィリアム・バックランドが1829年にこれを報告した[28]。同じ1828年12月には、ドイツ以外では初めてとなる翼竜の骨格化石を発見した[29][30]。この化石はバックランドが1829年に Pterodactylus macronyx として記載し、このときバックランドはメアリーを発見者として明記した[30]。この種は現在ではディモルフォドン属に分類されている[31]。1829年には2体目のほぼ完全なプレシオサウルスを発見し、大英博物館が100ギニーで購入した[30]。同年7月、メアリーはマーチソン夫妻の家に滞在して、生涯でおそらく唯一となるロンドン旅行をし、ロンドン地質学会や大英博物館を訪れた[25]。

1829年12月には、サメとエイの中間的な特徴をもつとされた魚類スクアロラジャ(英語版)の化石を発見した[25]。この標本は1834年にブリストルでルイ・アガシーが調べており[32]、アガシーはのちに彼女にちなむ学名の魚類を2種命名している(後述)。1830年頃には、デ・ラ・ビーチがメアリーの発見した生物をもとに、ジュラ紀のドーセットの海の生態を描いた復元画『ドゥリア・アンティクィオル』を制作した。この絵の最初の版の売り上げは、彼女の生活を助けるために彼女に渡されることになっていた[25][33]。1830年12月には小型のプレシオサウルス(のちにバックランドが Plesiosaurus macrocephalus と命名)を発見し、翌1831年に収集家のコール卿(のちの第3代エニスキレン伯爵)が200ギニーという高値で購入した[25][34]。

1832年にライム・レジスを訪れたギデオン・マンテルは、標本が無秩序に積み上げられた小さな店で彼女に会ったと記録している[35]。1833年には、化石採集に同行していた飼い犬「トレイ」が地滑りに巻き込まれて死んだ[1]。メアリーは友人のシャーロット・マーチソンに宛てた手紙でその死を伝えている[13]。

経済的困窮と支援

化石の価格は1820年代に頂点に達したが、1830年代から1840年代にかけて下落し、化石採集による生計は不安定であった[33]。さらに1830年代半ば、メアリーは詐欺に遭って蓄えを失った。失った額は200ポンド[36][37]または300ポンド[38]とされている。これを知ったバックランドやマーチソンら学者の友人たちは支援に動き、1835年にダブリンで開かれた英国学術協会(英語版)の年次大会で200ポンドの寄付が集められた[39][36]。また、首相メルバーン子爵の秘書は1835年12月、年金受給者名簿に空きがないため代わりに王室の下賜金から300ポンドを支給すると伝え[36]、この政府の援助は1836年に実施された[4]。これらの資金をもとに、年25ポンドの終身年金が彼女に支払われることになった[39][36]。年金の開始をトレンズは1838年としているが、テイラーとベントンは、1838年という年は地元史家ロバーツの誤記に由来するもので、政府の援助は1836年に行われたとしている[4]。

晩年と死

1842年10月に母モリーが亡くなり、メアリーは一人で店を営むことになった[40][39]。1844年にはザクセン王の一行が彼女の店を訪れ、彼女は随行の医師の手帳に自分の名を書き、自分はヨーロッパ中に知られていると語ったという[39]。1845年頃までに乳がんを患い、化石採集も思うようにできなくなった[39][40]。1846年にはロンドン地質学会の会員らが彼女のために再び寄付を募り、同年7月には新設のドーセット州立博物館の最初の名誉会員に選ばれた[39]。メアリーは生涯を通じて信仰心の篤い人物であったが、後年には育った会衆派の教会を離れてイングランド国教会に移った[38]。1847年3月9日、メアリーは乳がんのため47歳で世を去った[5][39]。結婚はせず、生涯独身であった。遺体はライム・レジスの聖ミカエル教会の墓地に埋葬され[38][14]、墓は兄ジョセフと共同のものであり[41]、墓碑の銘文ではジョセフおよび幼くして亡くなったジョセフの3人の子どもの記載とともに、末尾に妹メアリーの名が刻まれている[42]。

なお、ヌルミネン(2016年)は死の数か月前にロンドン地質学会の名誉会員に選ばれたとしているが[5]、科学史家ヒュー・トレンズの研究では、1846年7月に選ばれたのはドーセット州立博物館の名誉会員であり、ロンドン地質学会は当時女性を会員として認めていなかったとされる[43][44]。

科学に与えた影響

プレシオサウルスの発見について図付きで報告されたアニングの手紙。その後この標本はロンドン自然史博物館に標本番号BMNH 22656 として収蔵される。

メアリー・アニングの発見した化石は、人々の知るどのような動物にも似ず、過去に絶滅があったことを示す証拠の一つとなった[1]。当時は、奇妙な化石が発見されても、地球上の未開の地に棲息している未発見の動物だと説明されることも多かった。化石は「蛇石」「悪魔の足の爪」などとも呼ばれていたとされる[1]。

なかでも、ある種の小石が化石化した糞であると結論付けるに至る発見は、古代の生き物の暮らしを知るうえできわめて重要な発見であったとされる[1]。ライム・レジスで「ベゾアール石」と呼ばれていたこの渦巻き状の小石について、メアリーは1824年までにこれが動物の糞の化石であると見抜いていた[45][30]。彼女は魚竜の骨格の腹部にこうした糞石が含まれている標本を見つけるなどして、糞石とそれを排出した動物との結びつきを示す重要な役割を果たし、バックランドは1829年にこれを「コプロライト」(糞石)として発表した[30][45]。糞石には未消化の魚の鱗や骨などが含まれ、絶滅した動物の食性や大きさを推定する手がかりとなる[45]。

女性であったことから、学界での彼女の活動には制約があった[1]。ロンドン地質学会では、女性が会合に出席できるようになったのは20世紀初めであり、女性が初めて会員(フェロー)に選ばれたのは1919年のことである[44]。彼女自身の名で公刊された文章は、1839年に『マガジン・オブ・ナチュラル・ヒストリー』誌に掲載された、ヒボドゥスの化石に関する手紙の抜粋だけである[46][47]。19世紀前半のイングランドにおいて、労働者階級の女性が教育を受けられる階級の男性と同じ仕事に携わっただけでも異例のこととされる[1]。

一方で、彼女の名前は同時代の学術文献にほとんど記録されなかった。当時は標本を発見・採集した者ではなく、それを購入して研究機関に寄贈した収集家の名が記録されるのが通例であり、大英博物館やロンドン地質学会などの寄贈記録にも彼女の名はほとんど現れない[48]。トレンズは、彼女が労働者階級で地方在住の未婚女性であり、非国教徒で、自ら著作を残さず、商売に携わっていたことなどが、記録が乏しく神話的な逸話ばかりが流布する原因になったと指摘している[49]。また、地元史家ジョージ・ロバーツが1834年に刊行した町の歴史書が、彼女の業績として1811〜1812年のイクチオサウルスの発見だけを取り上げたことが、後世の伝記が子供時代に偏る一因になったとしている[50]。ロバーツはメアリーの生前から彼女の伝記的な覚え書きを書いており、その未刊の原稿は2023年にテイラーとベントンによって翻刻・公表された[4]。

評価と顕彰

メアリーの死後、1848年2月のロンドン地質学会の年次総会で、会長となっていたデ・ラ・ビーチが会員ではない彼女の死を悼む追悼の辞を述べ、学会誌に掲載された[51][40]。会員以外の人物がこのように追悼されるのは異例のことであった[52][4]。唯一の例と説明されることもあるが、地層学者ウィリアム・スミスも、会員ではないにもかかわらずそれ以前に追悼されている[4]。

1850年2月には、ロンドン地質学会の会員有志などの寄付により、教区教会の聖ミカエル教会に、6つの慈悲の行いを描いたステンドグラスの記念窓が設けられた[53][40]。窓の下の銘文は、地質学という学問の発展に役立った彼女の働きと、その心の博愛と生涯の高潔さを記念するもので[54]、寄贈者としてロンドン地質学会の会員の一団と教区司祭フレデリック・パリー・ホッジズの名を記している。ただし、学会としての公式な寄贈ではない[4]。2008年に教会への侵入事件で窓が損傷した際には、ロンドン地質学会が修理費として1000ポンドを寄付した[4]。

1857年には『チェンバーズ・ジャーナル』に彼女についての無署名の記事が掲載された。この記事の稿料は博物学者フランク・バックランドに支払われていたが、内容にはロバーツの著作や、ウィリアム・バックランドの手記とみられる資料が取り入れられている[55]。1865年2月11日には、チャールズ・ディケンズが編集する週刊誌『オール・ザ・イヤー・ラウンド(英語版)』に、彼女の生涯を紹介する無署名の記事「メアリー・アニング、化石発見者」が掲載された[54][53]。記事は、大工の娘であった彼女が名を成し、それにふさわしい人物であったと結んでいる[54]。1901年には『英国人名事典』の補遺に項目が設けられたが、そこでも「イクチオサウルスの発見者」と単純化して記述された[53]。このように19世紀の紹介は限られたものにとどまったが、20世紀には大英博物館(自然史部門)の地質学部長を務めたW・D・ラングが1935年から1963年にかけて彼女に関する論文を発表し、資料の収集と記録を進めた[56]。トレンズは1995年に『英国科学史ジャーナル』に発表した論文で、彼女に関する史料を再検討し、多くの伝記が子供時代の発見に偏って神話化してきたことを批判した。この論文の題名に用いられた「世界がこれまでに知る最も偉大な化石採集者(the greatest fossilist the world ever knew)」という言葉は、アメリカ哲学協会が所蔵する、彼女がフィルポット姉妹の一人に宛てた書簡に書き込まれた注記から取られたものである[57]。

彼女の生家と最初の店の跡地には、エリザベス・フィルポットの甥トマス・フィルポットが1902年に建てた博物館があり、現在のライム・レジス博物館となっている。同館には2017年に「メアリー・アニング棟」が増設された[26]。

2010年、王立協会は創立350周年にあたり、イギリスの科学史上で最も影響力のあった女性10人の一人に彼女を選んだ[29]。

2018年に選考が始まったイングランド銀行の新50ポンド紙幣の科学者選定では、メアリーも候補者リストに含まれた[58]。翌2019年に発表された最終候補12案の一つに残ったが、最終的に選ばれたのはアラン・チューリングだった[59][60]。

2022年5月21日には、地元の少女イーヴィー・スワイヤーが始めた4年間の募金活動の末、ライム・レジスの海岸沿いに彫刻家デニス・ダットンによる彼女の銅像が建てられ、人類学者のアリス・ロバーツ(英語版)が除幕した[61]。

生前、イギリスの古生物学者が彼女にちなんで種を命名することはなかったが、スイス出身のアガシーが魚類 Acrodus anningiae(1841年)と Belenostomus anningiae(1844年)を彼女に献名した[62]。その後も、南アフリカの単弓類の属 Anningia(1927年)、二枚貝の属 Anningella、貝形虫 Cytherelloidea anningi などが彼女にちなんで命名され[62]、2015年にはドーセット産の魚竜 Ichthyosaurus anningae が新種として記載された[63]。

大衆文化への影響

メアリーは、「She sells sea shells by the sea shore.(彼女は海岸で貝殻を売った)」という早口言葉のモデルになった人物であるとしばしば言われる[1]。ただし、この早口言葉は1855年の文献にすでに現れ、「海岸で」を含む形も1908年にテリー・サリヴァンがこれを歌にする以前から知られていた。サリヴァンの歌詞にも彼女への言及はなく、彼女との結びつきを裏付ける証拠は見つかっていない[64]。この早口言葉は、19世紀半ばに話術を教える教師たちが発声練習用に考案したものとされる[65]。

その人生はフィクション作品など、文学にも多くの影響を与えた[1](関連作品を参照)。音楽では「アーティチョーク」というグループの歌「Anning, Mary」の題材になっている[66]。

2020年の映画『アンモナイトの目覚め』は、晩年のメアリーとシャーロット・マーチソンの恋愛を描いたが、メアリーが誰かと恋愛関係にあったことを示す証拠はなく、史実にない創作だと批判する報道もあった[67]。2019年には親族のバーバラ・アニングが、同性愛者として描く根拠はないと異を唱え、監督のフランシス・リー(英語版)は、クィアの歴史が異性愛的に塗り替えられがちであることを挙げて反論した[68]。二人は頻繁に手紙を交わした友人であったが、書簡に友情を超える関係をうかがわせるものはない[68]。実際のシャーロットはメアリーより年上で、自身も地質学に取り組み、夫とともに野外調査を行っていた[13]。

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 レイチェル・イグノトフスキー『世界を変えた50人の女性科学者』創元社、2018年、15頁。
  2. 1 2 3 4 5 6 7 Torrens 1995, p. 258.
  3. 1 2 3 4 5 “Early years and first discoveries, 1799-1819”. Mary Anning and the Geological Society. The Geological Society of London. 2026年10月26日閲覧。
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 Taylor & Benton 2023.
  5. 1 2 3 4 ヌルミネン 2016, p. 462.
  6. 1 2 3 4 5 6 7 Torrens 1995, p. 259.
  7. 1 2 3 4 “Temnodontosaurus platyodon, found 1811-1812”. Mary Anning and the Geological Society. The Geological Society of London. 2026年10月26日閲覧。
  8. 1 2 3 4 5 Torrens 1995, p. 260.
  9. ↑ Torrens 1995, pp. 262, 267.
  10. 1 2 3 Torrens 1995, p. 261.
  11. ↑ Torrens 1995, pp. 262–263.
  12. ↑ Torrens 1995, pp. 260, 262.
  13. 1 2 3 4 Syme, Caitlin (2021年1月15日). “Ammonite: the remarkable real science of Mary Anning and her fossils”. The Conversation. 2026年10月26日閲覧。
  14. 1 2 “The Mary Anning Experts”. Lyme Regis Museum. 2026年10月26日閲覧。
  15. 1 2 Torrens 1995, p. 263.
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  20. 1 2 Torrens 1995, p. 264.
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  24. ↑ “Geologising with Mary Anning, 1825-1829”. Mary Anning and the Geological Society. The Geological Society of London. 2026年10月26日閲覧。
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参考文献

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  • Taylor, Michael A.; Benton, Michael J. (2023). “The Life of Mary Anning, Fossil Collector of Lyme Regis: a Contemporary Biographical Memoir by George Roberts”. Journal of the Geological Society 180 (2). doi:10.1144/jgs2022-053. jgs2022-053. 
  • Taylor, Michael A.; Torrens, Hugh S. (2014). “An anonymous account of Mary Anning (1799–1847), fossil collector of Lyme Regis, England, published in Chambers's journal in 1857, and its attribution to Frank Buckland (1826–1880), George Roberts (c.1804–1860) and William Buckland (1784–1856)”. Archives of Natural History 41 (2): 309–325. doi:10.3366/anh.2014.0250. 

関連作品

関連項目

外部リンク