ラシードゥッディーン
ラシード・アッ=ディーン・ファドゥルッラーフ・アブル=ハイル・ハマダーニー(ペルシア語: رشیدالدین فضلالله ابوالخیر همدانی、Rashīd al-Dīn Faḍl Allāh Abū al-Khayr Hamadānī、1249年/1250年/1251年[注釈 1] - 1318年[2])はイルハン朝後期、第7代君主ガザンから次代オルジェイトゥ、アブー・サイード治世のもとで活躍した政治家。ガザンとオルジェイトゥの命によって編纂されたペルシア語による世界史『集史』の編纂責任者であったことでも知られている。また、ユネスコの「世界の記憶」に2007年登録された「ラシード区ワクフ文書補遺写本作成指示書」の大部分(382ページ中の最初の290ページ)を著作している[3]。イランの歴史上、「ハージャ・ラシードゥッディーン」خواجه رشیدالدین Khwāja Rashīd al-Dīn、「医師ラシードゥッディーン」رشیدالدین طبیب Rashīd al-Dīn Ṭabīb などと呼ばれた。
名前
全名はラシード・アッディーン・ファドゥルッラー・イブン・アブルハイル・ハマダーニー(رشیدالدین فضلالله ابن ابیالخیر همدانی)といい、またの名をラシード・タビーブ(ラシード医師)の自称も用いていた[4]。「ラシード・アッディーン」とは「正しく導かれた者」を意味するラカブ(尊称)で、「ファドゥルッラー」は「アッラーの恩寵」というイスム(名)で、「イブン・アブルハイル」は「アブルハイルの息子」というナサブ(父称)で、「ハマダーニー」は「ハマダーン出身」というニスバ(出自)である[4]。
生涯
生まれ
1249年、ラシードゥッディーンはハマダーン出身で、ユダヤ人医師のイマード・アッダウラ・アブルハイルの子として生まれる[5]。アラムートでフレグに随行したラシード一家はその後、学術都市マラーガで医者としての地位を築いていた[5]。ラシードがどこで幼年期を過ごしたのかは不明だが、父や叔父のもとで医学を学びつつ、マラーガやタブリーズの知的環境に触れていた可能性は高い[5]。
青年期
家族のもとで最初の教育を受けたラシードは、生涯深いつながりを持ち続けることになる古都ヤズドに遊学したのち、医師としてアバカ・ハン(在位:1265年 - 1282年)の宮廷に仕え始めた[6]。しかし、ガザン・ハン治世までのその経歴については極めて断片的な情報しか残っていない[6]。
イスラームに改宗する
ラシードのイスラーム改宗時期は30歳の1270年代末、アバカ・ハンの治世末期にあたる[注釈 2]。ラシードはオルドで典医としての地位を着実に築き、1282年にアバカの長男アルグンの任地ホラーサーンに赴き、その次男オルジェイ・ブカ(のちのオルジェイトゥ・ハン)の誕生に立ち会っている[8]。
ガイハトゥ治下
ガイハトゥ・ハン(在位:1291年 - 1295年)はラシードがオルドでアミールの信頼を得ていたため、彼をワズィール(宰相)に任命しようとしたが、ラシードは辞退した[9]。その後、ラシードは宮廷の食材の調達を担当していたが、国庫の枯渇のため自ら食材費を補填せねばならず、ついに私財を使い果たしてしまった[10]。
サドルッディーンに罪を擦り付けられる
ガザン・ハン(在位:1295年 - 1304年)の時代、ラシードは典医を続けていた。
1298年、アミール・ノウルーズの死後、左遷されていたサドルッディーン・ザンジャーニーはワズィールの地位に返り咲いたが、グルジアから帰った将軍クトルグシャーにグルジアの財務について追及されたため、ガザン・ハンにはクトルグシャーたちがグルジアを破壊したと嘘をついた[11]。それ以降ガザン・ハンがクトルグシャーに不満の態度をとるようになったので、クトルグシャーはサドルッディーンに「ハンにデマを流したのは誰か?」と聞いたところ、「医師のラシードゥッディーンだ」と答えた[11]。さらにクトルグシャーはラシードゥッディーンにそのことを問うと、ラシードは身に覚えがないとし、逆にラシードが「誰がそんなことを言ったのだ?」と言うと、クトルグシャーは答えなかった[11]。そのためラシードはガザン・ハンにそのことを告げるとガザンはクトルグシャーを呼びつけて問いただし、そこでようやくサドルッディーンが元凶だとわかり、サドルッディーンとその弟クトブッディーンを逮捕・処刑した[12]。ガザン・ハンはサアドゥッディーン・サーヴァジーを新たなワズィールに任命した[13]。
ワズィールとなる
1300年、ガザン・ハンは第一次シリア遠征後、内政に努め、天文台、廟墓、礼拝堂、大学、修道院、病院、図書館、文書庫などを建造し、慈善事業にも取り組んだ[14]。また、ラシードゥッディーンをワズィールに昇格させ、大法院の文書庫の管理を任せた[15]。
『集史』の編纂

1300年、ガザン・ハンはモンゴル帝国に伝わる『黄金の秘冊(アルタン・デプテル)』をはじめ、モンゴル諸部族集団に保持されていた伝承・旧辞・系譜など、口承で語り継がれてきたものと文書化されたものを合わせ、ラシードゥッディーンを編集長官に任命して各分野の専門家とともに歴史書『モンゴル史』の編纂をおこなわせた。結局ガザン・ハンの死後の1307年に完成し、オルジェイトゥ・ハンに贈呈され、『ガザンの幸いなるモンゴル史』と名付けられた[16]。オルジェイトゥはその後も編纂を続けさせ、第2巻『世界史』、第3巻『地理誌』の三巻構成となり、『集史(ジャーミアッタワリーフ)』となった。
第三次シリア遠征に随行
1303年1月、3度目のシリア遠征が開始され、3月18日ガザン・ハンはラフバト城下に到着し、その守将アーラムッディーン・スィンジャール・アル=ガトミーは住民とともに籠城したため、アミール・スタイとワズィールのサアドゥッディーン、ラシードゥッディーンが降伏を勧告するために派遣された[17]。ラシードは降伏文をアラブ語で書いてアーラムッディーンに送ると、翌日アーラムッディーンは開城して降伏した[17]。
オルジェイトゥ・ハン政権下
1304年5月にガザン・ハンが崩御すると、その弟オルジェイトゥが第8代イルハンに即位した[18]。オルジェイトゥ・ハンは軍事の管轄を将軍クトルグ・シャーとチョバンに委ね、彼らをモンゴル・ウルスのアミール(首長)となし、財政の管轄をワズィールのラシードゥッディーンとサアドゥッディーンに委ねてタジク系臣民に対する権限も付与し、ワクフ監督総監としてクトルグ・カヤとバハーウッディーン・ヤークーブに委ねた。[19]
1305年3月、オルジェイトゥがイリンジンの娘クトルグシャー・ハトゥンと結婚したため、プーラード・チンサンとラシードゥッディーンはその調印をした[20]。
1305年7月、オルジェイトゥは父アルグン・ハンの計画を引き継ぎ、コンクル・ウラング平原に新都城の建設を始めた[21]。完成の後、この都城はスルターニーヤ(Sultāniyya سلطانیه)と名付けられた[21]。この都市には数か所のイスラム寺院があり、その最も大きなものはスルターンの費用で建てられたもので、大理石と染絵の陶磁器で華やかに飾られていた[21]。オルジェイトゥは薬房と必要なすべての家具を備えた病院を建て、数人の医師をここに配置して世話をさせ、さらにバグダードのムスタンスィル学院を模した学院を建てた[21]。貴族たちは競って豪壮な邸宅を建て、ラシードゥッディーンも一区画をまるまる建設し、1000軒の住宅、2つのミナレットのついた大きな建造物、学院、医院、修道院を建てた。王宮は1つの高楼と1つの大法官廷とその他いくつかの建物からなっていた[22]。高楼はある間隔に12か所の小殿で囲まれていて、各殿は大理石を敷いた中庭に向かって1つの窓を設けていた[22]。大法官廷は2000人を収容する広さであった[22]。オルジェイトゥは在位中、毎年維持費として50トゥメンを割り当てた[22]。
ある時期からオルジェイトゥ・ハンのお気に入りとなったアリー・シャーに対し、サアドゥッディーンは嫉妬した[23]。サアドゥッディーンはこれを遠ざけるため、彼にバグダードの官営工匠府総管の職を授けた[23]。アリー・シャーはオルジェイトゥ・ハンに随行して新都スルターニーヤに赴き、かつて見たこともない壮麗なバザール、その他の建築物を建てさせた[24]。これにオルジェイトゥ・ハンを喜ばせ、アリー・シャーへの寵愛はさらに増大した[24]。これに対し、サアドゥッディーンはいかなる場合でもアリー・シャーを軽んじたが、一方で別のワズィールであるラシードゥッディーンはアリー・シャーに尊敬の念を示して常にへつらった[24]。
サアドゥッディーンの処刑
オルジェイトゥ・ハンはかつてサアドゥッディーンに諸州の収入に対して割付証書を発行することおよび年金と報酬を支払うことを禁止した[25]。オルジェイトゥ・ハンはサアドゥッディーンが徴収した資金を自分に手渡すように要求したが、入手できなかったため怒った[25]。このころ、サアドゥッディーンは使用人の数を増やしており、彼への請願書を提出する場合は35人の役人を通さねばならず、かつ賄賂を贈らねばならなかった[25]。そのためこれらの役人のために国家の歳入を使い込み、その額は3千ドラクマにも達していた[25]。
1312年、あるとき、両ワズィールの使用人が互いに国庫を食い物にしていると罵り合っていた[25]。これを見たサアドゥッディーンは二人に口止めし、スルターン(オルジェイトゥ)の歳入に関するどんな小さいことでも、これ以上口にしないことを誓わせた[25]。このことを聞いたラシードゥッディーンはすぐにオルジェイトゥ・ハンに報告し、サアドゥッディーンが国庫の着服をしていることを告発した[26]。2月19日、オルジェイトゥ・ハンはサアドゥッディーンを逮捕すると彼の使用人の罪状を調査するよう命じ、使用人の5名を死刑に処すとともにサアドゥッディーンをも処刑した[26]。彼らの財産はすべて没収され、属吏と手先は拷問を受けた結果、莫大な金額を奪い取られた[26]。
アリー・シャーとの争い
オルジェイトゥの子でホラーサーン総督であるアブー・サイードからしばしば資金が足りないと請求が来たため、オルジェイトゥ・ハンはラシードゥッディーンとアリー・シャーに財政状況を問いただした[27]。ラシードは財政担当ではないので責任はないと答え、アリー・シャーは一緒に国を運営しているのだから連帯責任であるとし、今後はラシードも割符証書に捺印すればよいと答えた[27]。これに対しラシードは「人々が金銭を求めているときに、貴殿は自分の使用人に大金を支払っているにもかかわらず、貧乏なふりをして金銭をやらない貴殿とは協力できない」と言い、言い争いになった[27]。オルジェイトゥはこれをしばらく聞いたのち、2人で行政を分担するように命じ、ラシードにはイラーク・アジャミー、フーズィスターン、大ルル、小ルル、ファールス、キルマーンを管轄させ、アリー・シャーにはアーザルバーイジャーン、イラーク・アラビー、ディヤールバクル、アッラーン、ルームを管轄させた[28]。しかし、それでもホラーサーンからの請求がくるので、オルジェイトゥはアリー・シャーに尋ねると、「ラシードの担当です」と言ったが、ラシードは痛風で4か月間休養中だったため、オルジェイトゥはアミール・チョバンに過去3か月の帳簿を検査させた。するとアリー・シャーの4人の代官のミスで300トゥメンの不正会計がみつかった[29]。これにアリー・シャーはオルジェイトゥに泣いて誤ったため、厳重注意でとどまった[29]。これにアミール・イリンジンとアミール・チョバンは怒ったが、アリー・シャーは莫大な贈り物で彼らをなだめた[30]。しかし、アリー・シャーのラシードに対する反感はおさまらず、ラシードの仮病を非難し、ラシードが国庫から搾取したという嘘の告発もした[30]。これに対し、ラシードはアミール・トクマクに黄金を払って助かったが、以後もふたりの不和は続いていったため、オルジェイトゥ・ハンは和解するよう勅命を下した[30]。
1316年12月にオルジェイトゥ・ハンが崩御すると[31]、1317年4月、モンゴルの諸王侯、ハトゥンおよびイルハン朝の貴族たちは首都スルターニーヤにおいてクリルタイを開催し、アブー・サイードを第9代のイルハンに推戴した[32]。アブー・サイードは12歳であったため[33]、オルジェイトゥの遺言に従ってアミール・チョバンをスルターン代理官に指名し、二人のワズィールの地位を追認、ルームの長官をチョバンの子ティムール・タシュに、ディヤールバクルの長官をアミール・イリンジンに、アルメニアの長官をスナタイに、ホラーサーンの長官をアミール・エセン・クトルグに任命した[34]。
ラシードの処刑
2人のワズィールであるラシードゥッディーンとアリー・シャーは常に対立していた[35]。アリー・シャーはラシードが大元帥チョバンの信頼が厚いことに不安になり、ありとあらゆる手段を使ってラシードを陥れようとした[35]。この二人の争いはディーワーン(財務省)の役人にも迷惑であったため、3人の主要な役人はアリー・シャーの汚職を立証できるから告発するようラシードに促したが、ラシードが応じなかったため、逆にアリー・シャーにラシードを陥れることを提案した[36]。そこでアリー・シャーはアブー・バクル・アカらと結託して讒言し、10月にラシードを罷免することに成功した[36]。アミール・セヴィンジはラシードの罷免に反対していたが、1318年1月に病没した[36]。
1318年春、大元帥チョバンがラシードを復職させようとしたところ、それに不安になったアリー・シャーとディーワーンの役人たちは故オルジェイトゥ・ハンがラシード父子によって毒殺されたという嘘の告発をした[37]。これによってラシードッディーンとその子スルターン・イブラーヒームは7月に処刑された[2]。ラシードの邸宅は略奪を受け、その諸子の財産は没収され、ラシードの首は数日間タブリースの市中を引き回された[2]。
『集史』と著作活動
1301年に、ガザンの特命によってモンゴル史の編纂を命じられた。これはガザン在世中に完成せず、次代のオルジェイトゥの時に『幸福なるガザンの歴史』として献呈され、オルジェイトゥの命によってさらにこの「モンゴル史」の部分を第1巻とし、古代やアラブ、中国、インド、ヨーロッパ(フランク)などの「世界史」の部分を第2巻として集成した、増補改定版を新たに編纂するよう命じられ、1314年に完成した。これが歴史書『集史』である。この歴史編纂事業は、ガザンの改革の大きな柱のひとつであり、アバカの没後長らく続いた内紛によって解体し掛かっていたイルハン朝領内のモンゴル王族とモンゴル諸部族の系譜の再認識と、内戦に打ち勝った自政権の正統性の主張を志向したものであったと現在考えられている。ラシードが『集史』で述べるところによると、ガザン自身から直接チンギス・カン家の王統について口述し、大元朝からの使者として派遣されガイハトゥ以来イルハン朝に仕えるようになったプーラード・チンサンから東方の諸王家の動静について、モンゴル諸部族の伝承については古老などから、インドなどについてはカシュミール出身の仏教僧などから、また王家の宝庫に秘蔵されていたチンギス・カン家の歴史書「アルタン・デプテル(黄金の秘冊)」の閲覧を許可されて編集に用いたという。
ラシードは上記のプーラード・チンサンらによってもたらされた、13世紀前半にモンゴル帝国治下の華北で編纂された『王叔和脈訣』や『銅人』などの中国医学書を研究し、『タンスーク・ナーマ』(珍宝の書)としてまとめた他、同じくクビライの治世に編纂された『農桑輯要』にもとづいて農書なども著している。さらにユダヤ系の家系出身であったために政敵アリー・シャーらからの「偽ムスリム」などの中傷に対抗して、自身の専門では無かったものの、アシュアリー神学派やシャーフィイー法学派の見解に基づいた神学書を著し、後援していたタブリーズの高位ウラマーたちから連署して認可(イジャーザ)を取り付けるなど、政争に対抗するための著作も出している。
『集史』の編纂の傍ら、ラシードはガザンがタブリーズの郊外に建設した広大な地区ガーザーニーヤにならって、自らの名を冠した「ラシード区」の建設を進め、その維持と運営のために大規模なワクフ財産の寄進を行った。ラシード区では『集史』や『タンスーク・ナーマ』をはじめ神学書など一連の著作を『ラシード著作集』としてまとめ、これらをワクフ対象物件として設定し、これの計画的な写本製作をラシード区で行わせモンゴル帝国各地へ送付するなど実施していた。特に『集史』はアラビア語版も作成されたため、マムルーク朝など非ペルシア語圏でも広く読まれることとなった。
子
- サアドゥッディーン
- ジャラールッディーン
- マジュドゥッディーン
- アブドゥルラティーフ
- スルターン・イブラーヒーム
- ギヤースッディーン・ムハンマド
- アフマド
- アリー
- シャイヒー
- ピール・スルターン
- マフムード
- フンマーム
- シハーブッディーン
- アリー・シャー
- アブドゥル=ムウミン
脚注
注釈
出典
- ↑ 渡部 2024, p. 6.
- 1 2 3 佐口 1979, p. 273.
- ↑ Unesco (2011年5月). “The Deed For Endowment: Rab’ I-Rashidi (Rab I-Rashidi Endowment)(英語)”. 2011年6月5日閲覧。
- 1 2 渡部 2024, p. 7.
- 1 2 3 渡部 2024, p. 24.
- 1 2 渡部 2024, p. 25.
- 1 2 渡部 2024, p. 2.
- ↑ 渡部 2024, p. 31.
- ↑ 渡部 2024, p. 36.
- ↑ 渡部 2024, p. 37.
- 1 2 3 佐口 1976, p. 363.
- ↑ 佐口 1976, p. 364.
- ↑ 佐口 1976, p. 365.
- ↑ 佐口 1979, p. 5-8.
- ↑ 佐口 1979, p. 9.
- ↑ 杉山 2016, p. 74.
- 1 2 佐口 1979, p. 50.
- ↑ 佐口 1979, p. 68.
- ↑ 佐口 1979, p. 167.
- ↑ 佐口 1979, p. 169.
- 1 2 3 4 佐口 1979, p. 170.
- 1 2 3 4 佐口 1979, p. 171.
- 1 2 3 佐口 1979, p. 220.
- 1 2 3 佐口 1979, p. 221.
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1979, p. 218.
- 1 2 3 佐口 1979, p. 219.
- 1 2 3 佐口 1979, p. 248.
- ↑ 佐口 1979, p. 249.
- 1 2 佐口 1979, p. 250.
- 1 2 3 佐口 1979, p. 251.
- ↑ 佐口 1979, p. 254.
- ↑ 佐口 1979, p. 266-267.
- ↑ 佐口 1979, p. 267.
- ↑ 佐口 1979, p. 268.
- 1 2 佐口 1979, p. 271.
- 1 2 3 佐口 1979, p. 272.
- ↑ 佐口 1979, p. 272-273.
参考資料
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 5巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫298〉、1976年12月。ISBN 4582802982。
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 6巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫365〉、1979年11月。ISBN 4582803652。
- 杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』講談社〈講談社学術文庫. 興亡の世界史〉、2016年4月12日。ISBN 978-4-06-292352-1。
- 渡部 良子『ラシード・アッディーン: モンゴル帝国期イランの「名宰相」』山川出版社〈世界史リブレット人 023〉、2024年10月23日。ISBN 978-4634350236。